第3話 私-序
周の生まれるちょうど3ヶ月前に私は生まれた。周を一人にさせないようにと、周より少し早く生まれてきた。私は、「矢嶋 楓」と名付けられた。色彩豊かな人生を送ってほしい、という願望から「楓 かえで」と名付けたそうだ。
私が3歳の頃に父が交通事故で他界し、それから母が女手ひとつで育てくれた。小学5年生の時に、学校の作文課題で、「父に会ってみたい」と書いたものを見せてから、母は豹変した。私は母から虐待を受けた。おそらく、昼夜働き続けて忙しさから頭の中から消えていた、先立ってしまった父への怒りや悲しみが爆発してしまったのだろう。その日から、母は私に暴力を振るうようになる。次第に仕事にも行かないようになり、食事も日々質素になっていく。質素といっても、お金を渡され、買いに行かされる日々になってしまったのだが、渡される金額が最終的には100円になった。それから、母の機嫌を伺う日々が続いた。母に酒を買うことを頼まれる毎日だった。私ではコンビニでお酒を買うことができないので、万引きした。一時的には母の機嫌は好転するが、悪酔したのちにまた、暴力を振るわれる。学校でも、あざを隠すので必死だった。体育も、体操服を着ると痣が見えてしまうので参加できなかった。欠席連絡の手紙をあたかも母が書いたかのようにするために、たくさん字を練習した。
そんなある日のこと、母から連絡がこなくなった母方の祖父母が心配になって駆けつけてくれた。母親は、精神病棟に連れて行かれた。その後、中学2年生の夏に病室内で自分の着ていた衣服を使って首を吊った。今度は祖母が、「楓のせいで幸美(母)が壊れた。お前が幸美を殺したんだ!」と毎日のように罵声を浴びせるようになった。私は辛いと思えなかった。真っ先に出た感情は、またこれか、と言ったような、どこかノスタルジックなものだった。母が首を吊った1週間後、祖母も後を追った。自宅の風呂場で手首を切ったのだ。だが、祖父だけはずっと私の味方でいてくれた。いつでも私をそっと抱きしめてくれた。優しい言葉をかけてくれた。年金をもらっているが決して裕福ではないのに、私の作文で母を殺してしまったのに、長年連れ添った祖母も殺してしまったのに、それでも優しく私の味方でいてくれた。私ははじめは不審に思っていたが、次第に心を許せるようになった。そして、祖父以外に心を許せる相手はいなくなった。いるはずもなかった。私が信用できるかもと思い、相談すると、みんな私から離れていった。
そんな私に、初恋の相手ができた。高校2年生の春だ。「赤羽 徹」君だ。徹はとても責任感の強いテニス部のキャプテンだった。中学2年生からテニスを始めたのに、それを思わせない強さなのだ。人望も厚く、大手スポーツメーカーと契約しており、将来は日本人初のウィンブルドン優勝者となるのではないか、とまで囁かれていた。それでいて、ピアノに関しても才能を開花させていた。クラスどころか学校全体の人気者だった。私は徹と同じ目線で同じ世界を見たいと思うようになった。いつだってポジティブで、私のネガティブで小さな呟きも一つずつ拾い上げて、私を慰めてくれる。私は祖父以外の人間を初めて信用した。家族以外の人にこんなにも優しくしてもらったことがなかったので、とても嬉しかった。人はだれかに生きていいんだと言われないと生きていけないのだ。それをつくづく実感した。私の心に春雷が鳴り響いた。恋に落ちたのだ。
高校2年生の7月3日、2人で一緒に帰宅しているとき、一緒に行きたい場所があると言われた。ついていくと、地元の山の展望台だった。少し遠く、山を登るので運動不足の私はヘロヘロになりながら登っていったが、徹は私のペースに合わせてくれる。なんていい人なんだろう。なんて優しい人なんだろう。徹はそこで少し休憩した後、静かに語り始める。
「今から僕が話すことを黙って聞いていて欲しい。僕はテニスなんか好きじゃないんだ。お父さんがテニス選手をしていたんだ。けど、僕が中学2年生の時、怪我のせいでその夢を諦めざるを得なくなったんだ。そのせいで、お父さんの夢を押し付けられている。僕はピアニストになりたかった。幼い頃に見たジブリ映画「もののけ姫」の「アシタカ聶記」に魅了されて、お父さんがテニスを諦めるまではずっとピアノを弾いていた。気がついたら鍵盤じゃなくてボールを打っていた。なぜだろうか、その価値観の押し付けに抵抗できずに、それが自己だと受け入れてしまっている自分がいた。テニスをしている時、自分を遠目から侮蔑の目で見ている自分が見えるんだ。幻覚なんだろうか。多分、自分の心にいる本当の自分が、お父さんの傀儡に成り下がってしまった僕を軽蔑しているんだね。僕が何を言ってるのかわからないかな。僕が何を言いたいのかわからないかな。でも僕は、君ならきっとわかってくれると思ったんだ。もし、テニスをしている僕を好いてくれるなら、僕はこれからもやっていけるんだ。楓は僕の何を見ているんだ?」
私は何も、テニスをしている徹が好きなわけじゃなかった。確かに部活動や試合でテニスをしている徹はカッコ良かったし、私は彼が好きだ。何もテニスを続けて欲しいわけじゃない。テニスが嫌なら辞めてしまえばいい。テニス選手になることを押し付ける父親が嫌いなら、絶縁してしまえばいい。テニスをやめて文句を言う奴なんて人間じゃない。徹の意思を汲まない奴なんて消えて無くなってしまえばいい。徹が好きなことをやって欲しい。ピアノを弾いて欲しい。ただ私の前からいなくならなければいい。私の視界に、私が徹を感じられるところにいればいい。それ以外はなんでもいい。徹、徹、徹………
「私は徹がいたらなんでもいいよ。徹がテニスをやめても私の前から消えないのなら、それでいいよ。」
「わかった。僕は今日、家に帰ってお父さんと戦うよ。どうかその話がどうなったとしても、僕の横でその先を一緒に進んで欲しい。僕の彼女になって欲しい。」
彼女…?私は今、何を言われたのかわからなかった。ただ一つ、私が徹に依存しているように、徹も矢島楓と言う私に、依存しているのだと言うことはわかった。
「はい。」
孤毒 班目凛海 @RinkaiM0717
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