【短編】胎児の夢

カブ

第1話 胎児の夢

 1、


 廃校になった中学校の解体をしていたら、体育館のステージの床下から、巨大な胎児がみつかった。

 はじめはそれがなにかわからなかった。ステージの床を剥がしていたら、半透明な膜に包まれたものが現れ、床板を一枚ずつはがしていくうちに全体像をみるまでもなく、それが羊膜に包まれた赤ん坊だということがわかった。

 真夏の猛暑日で、日焼けした肌に滝のような汗を流していた屈強な肉体の男たちも目を丸くして言葉を失っていた。羊膜の内側で眠っている胎児に、みんな思考を停止させられたのだ。

「やめだやめだ、作業は中止。こんなの出てきたら作業どころじゃねえや」

 と現場監督が言って、各々、無言のうちに了解をし、不吉なものから離れるようにその場から去った。広い体育館に散り散りになり、携帯をいじったり三々五々にグループを作って、パチンコや競馬のことについて話したりしていた。

 現場監督と副監督が、こういう時はどこに電話するんだ、市役所か、いいえ、病院じゃないですか、あんなでけえ赤ん坊を持って行ってくれる病院なんかいんのかよ、と今後の対応について話し合っているのを尻目に、この学校の卒業生である草山浩平は、ひとり胎児に近づいて行った。

 まだ剥がれていない床板があるにしても、それでもこのステージいっぱいに胎児が横たわっていると、頭部から胴体にかけて露わになっている姿をみて推量することができた。

 それにしても解体作業員として十年ぶりにこの学校にやってきたと思ったら、まさかこんなものを目にするとは思ってもみなかった。中学生の時に当たり前のようにここで運動をしていた自分を重ね合わせながら作業をしていたが、いつからこの胎児はいたのだろうか。

 他の作業員がその胎児に対して明らかに不気味がっている様相をみせているのに対して、浩平だけは違う感情でその胎児のことをみていた。

「コウヘイ、コウヘイ。コレハナニカ。モンスター? 呪イヨ、コレハ、コウヘイ」

 いつの間にか隣には、出稼ぎのためにインドネシアからやってきたスルヤがいた。2か月前に入社をしたばかりで、年齢が近い浩平に親し気に話しかけてくることが多かった。

「違うと思うよ。俺にもなにかはわからないけど。確かにこの子は生きてるし、なにか悪いもののようには思えないんだよな」

「違ウヨ、コウヘイ。コレハ呪イヨ。殺サナイトアブナイ」

 他の作業員よりも一段と肌黒い顔に浮かんでいるまん丸い目が、じっと浩平をみた。なにか無言の訴えを感じた。それが、この胎児に危害を与えるようなもののような気がして、浩平はスルヤのことをにらみ返した。スルヤは、オウ、といってその場から去っていった。

 離れていくスルヤを確かめてから、もう一度、胎児を見下ろしてみた。微かだが息をしているようで胸のあたりが上下していているようにみえた。

 浩平はその姿をみながら、中学時代の苦い思い出を脳裏に浮かべていた。


 中学一年生のとき、浩平には間宮理沙という彼女がいた。

 勉強ができるわけでもないが運動だけが得意の浩平に対し、理沙は学業優秀で学校の演奏会ではピアノを勤めるという相反する二人だった。家が近所ということもあって、小学校には同じ班で登下校をしているうちに仲良くなり、家を行き来するような関係だったが、中学校に上がったことで理沙を女としてみるようになった。普段から明るい理沙は屈託のない笑顔でよく笑った。小学生のころから見慣れている表情のはずなのに、いつしか浩平はその笑顔を見ると胸が高鳴る自分がいることに気が付き、ふと、理沙のことばかり考えているようになった。

 戸惑いもあったけれど、相変わらず通学路は一緒だったので、告白をすることに決めた。

 心臓が口から出そうなほど高鳴った。

 いつもと違う様子に理沙も気づいたのか、沈黙の時間が出来て、

「俺さ」

 と浩平がいった。理沙はきょとんとした表情で浩平をみた。

「理沙のこと好きみたいなんだ。付き合ってくれないかな」

 声が震えていることが自分でもわかった。不安な表情をしているかもしれない。

 理沙は目を丸くして浩平をみていたが、やがて穏やかな笑顔になり、

「いいよ、付き合おうよ。私も浩平のこと好きだったから」

 と返事をした。卒倒しそうなほど嬉しかった。叫びだしたくて走り出したかった。でも理沙の手前そんなことはできなくて体だけがうずうずとした。

 やった! やった! やった! と心の中では何度も何度も叫んでいた。


 それから何度かデートを重ねた。デートといっても近くのアミューズメント施設に行って、カラオケやボーリングをしたり、お金が続かないときは理沙の希望で図書館に行って一緒に勉強をしたりした。図書館ではいつも理沙に勉強のことを教えてもらっていた。その吐息や香りが近くにあると思うだけで、幸福感で胸が震えていた。

 聞いてるの? と時々理沙に怒られたがあまり内容は頭に入っていなかった。だけど理沙の声だけはずっと聞いていたかった。

 理沙の家庭が共働きということもあって、放課後、理沙の家に遊びに行くことが何度かあった。自分の部屋とは違い、理沙の部屋は掃除が行き届いていていい匂いがした。勉強机とベッド、テーブルにテレビまであった。

 ベッドに腰かけて、学校のことや家庭のことをお互い話し合った。改めて、理沙の家庭の厳格さを知った。父親は外務省に勤めるエリートで、母親も企業に勤めるキャリアウーマンのようだった。町工場を経営する浩平の両親とは格差があるのを感じていたが、理沙とは不思議と距離感を感じることはなかった。むしろ共感できるところが多かった。

 理沙の父親は理沙に完璧を求めるところがあった。ピアノや塾など、習い事を多くさせて、躾も厳しかった。自分の型にはまらないと理沙の父親はよく怒るみたいだった。それが理沙を窮屈な思いに陥らせることがよくある、と理沙はいった。

「大人はいつもそう。自分たちのルールを押し付けてきてしたくもないことをさせて、勝手に喜んでる。私が私である必要なんてどこにもないみたい」

 不服そうな表情で、理沙は俯いてそう話していた。

 浩平は浩平で、一人っ子の理沙と違って兄弟が多かった。浩平が長男で、下には弟が3人、妹が一人いる大所帯だったが一家を養うべく両親は共働きで家のことは浩平に任せっきりだった。そのお陰で自分の時間があまりなかったのだが、弟たちの世話ができていないと当てつけのように両親は浩平をなじった。それに反発するように最近は家のことを一つ下の弟に任せて、自分は理沙と遊んだりしていた。といっても、理沙は理沙で習い事などが忙しかったから会える日は週に2日ほどしかなかったのだ。

「俺もさ、弟たちはかわいいけど、世話すんのは大変だよ。一番下の妹なんてまだ1歳だからオムツも代えないといけないしさ。でもこんな状況にしたのは勝手に弟たち作った両親だし、父ちゃんや母ちゃんは俺ができてないことをなにかと取り上げては馬鹿にすんだよ。お前は勉強ができないんだから家のことぐらいちゃんとやれ、なんて言われちゃって」

「浩平も大変そうだね。でも家族が多いってなんだか賑やかで楽しそう」

「そんなことねぇよ、ちっちゃい子なんてびーびー泣いてばっかりで頭いっちゃいそうだよ。でも、可愛いところもたくさんあるけどな」

 理沙は含み笑いをしながら浩平をみた。その理沙の目にどこか妖艶さを感じてどきりとした。

「でも何人も子供を作るなんて、浩平のご両親は仲がいいよね。私の親なんて、仲が悪くて最近では口もきかないのよ」

 そういって、理沙の方から浩平の手を握ってきた。やわらかい感触だった。肌身で感じている理沙の手を誰にも渡したくなくて、その手を握り返した。

 手から視線を外して、理沙の顔をみると、理沙は浩平の顔をじっとみていた。

「ねぇ、子供作るのってどんな感覚なんだろうね」

 といって、理沙は距離を詰めてきた。間近に理沙の顔をみると愛おしさがわっとわいてきて気が抜けそうだった。理沙の吐息と鼓動が近かった。理沙の肩をつかんだ。見た目以上にきゃしゃな体つきだった。目をつぶる理沙の唇にそっと口づけた。唇と唇が重なったとき、お互いの体中の血液が行きかうような疾走感と熱情が込み上げた。浩平の体は爆発しそうだった。そのまま理沙の体をたおして、欲望に任せて情事にふけった。


 2、


 日中になり、体育館は蒸し暑さでいっぱいになった。

 誰かが気晴らしにかけた携帯電話のラジオアプリから荒井由実の「やさしさに包まれたなら」が、響き渡るセミの声にかき消されながらも流れていた。相変わらずこの胎児の処理を決めかねているらしく、作業は中断されたままだった。浩平より若い作業員が集まって、携帯電話で胎児の写真をとってキャッキャと騒いでいた。恐らくSNSにでも流すのだろう。やべえやべえ、とそればかりいっていた。

 浩平はその姿を見て気を悪くした。なにか自分の大切なものを汚されたような気がして、

「おい、やめろよ」

 と若い作業員たちをたしなめたが、

「なんすか、浩平さん。パねえっす」

 といってその場を去ってしまった。

 浩平は舌打ちをしたくなったが、怒る理由も特にないし、なぜ自分がこの胎児に対して特別な感情を抱いているのか、まったくわからなかった。

 改めて羊膜に包まれた胎児をみてみると、異変があることに気が付いた。

 羊膜に小さな穴があいて、そこから液体が漏れていた。

(これが本当に胎児だとしたら、これは羊水なのかな)

 床板を剥がしているときに破片かなにかがささって穴が開いてしまったのだろう。

 穴をふさごうと思い、ステージから離れた。ガムテープを探すつもりだった。

 工具箱を物色していたときだった。

 それまで膝を抱えて座り、睨むようにステージをみていたインドネシア人のスルヤが駆け出して、ステージの上に勢いよく上ったかと思うと、彼は胎児のもとにおり、なにかを叫んでいた。母国語らしくなにをいっているかはわからなかったけれど、嫌な予感がして駆け付けた。ステージの上から見てみると、スルヤは穴の開いた個所を破いて羊膜を破壊していた。

 浩平は急いで床下に降りて、スルヤを羽交い絞めにすると、バランスを崩して二人とも一緒に後ろに倒れた。床下一面が羊水で浸水しており、尻のあたりがぬれそぼった。

 生臭さがあたり一面を満たしていた。吐き気を催すような強烈な臭いに反応するように、スルヤは発狂するように暴れだした。

「どうした、スルヤ! スルヤ! やめろよ!」

「コウヘイ、オカシイヨ! コンナ化ケ物ズットミテ、トリツカレテルミタイダッタヨ! コンナ化ケ物殺シタ方ガイイヨ!」

 化け物、という言葉に激昂して気が付いたら浩平はスルヤの頬を殴っていた。

 ハァ! と甲高い声でスルヤは息をもらした。

「ドウシテ、ワタシ殴ラレタ? コウヘイノタメニヤッタヨ」

 改めて聞かれると、殴った理由が浩平にもわからなかった。確かに、この胎児を取りつかれるように見ていた姿は周りから見たら異様だったのかもしれない。

 ごめん、と浩平はつぶやいた。スルヤは半べそをかきながら、床下から這い上がって逃げ出すように走り出してしまった。

 取り残された浩平は、尻もちをつきながら破られた羊膜からのぞく胎児の顔と向かい合った。くしゃくしゃの猿のような胎児独特の顔つきだったが、肌がきめ細やかで、大きな双眸が特徴的だった。

(そういえば、理沙のやつも目が大きかったなぁ)

 と胎児の顔を見ながら思った。

 立ち上がって、胎児に近づいた。改めて大きな胎児だと思った。浩平の身長の半分ほどの顔の大きさだったが、羊水がなくなったせいか、眉間にしわをよせて息苦しそうだった。


 交際を始めてから半年がたって、理沙の妊娠が発覚した。いつもははしゃぐように話す理沙だったのに、最近、晴れない顔をしていたので心配になって尋ねてみた。

「わたし、赤ちゃんできたみたい」

 下校のときに俯きながら話す顔は不安でいっぱいだった。

 浩平も動揺してしまって、なんと声をかけていいかわからなくて、

「マジか」

 とだけ声がでた。理沙の不安を取り除くようなことまで気が回らないぐらい動揺していた。

「つわり? っていうのかな。急に吐き気がして、トイレで吐いちゃったんだ。それで、気になって妊娠検査薬で調べたら陽性だったの」

 つわり? 妊娠検査薬? 聞きなれない言葉に黙ってしまった。

「なんかいってよ」

 と理沙がたたみかけた。

 すぐには浩平も言葉が出なくて、少しの間頭を抱えて、

「親にいってみよう。産ませてもらうように、俺お願いしてみる。俺働くし、子供の面倒だったら得意だから。俺がんばるよ」

 といった。理沙は確かめるように浩平の顔をじっとみた。浩平は不安だった。不安だったが、それを悟られないように理沙の目から視線を外さなかった。

「わかった」

 とだけ理沙はいった。

 次の日の夜に、理沙の両親に話すことになった。

 その日の夜は眠ることが出来なかった。理沙の両親にどう話そうか、そればかりが頭を巡って、次の日の授業はすべて上の空だった。授業中に理沙をみると、いつも通り集中した面持ちで授業に臨んでいた。理沙とそういう行為をしたことを後悔してしまうほどだった。

 学校が終わってから下校中に、

「今日の9時にお父さんとお母さんがそろうから、時間になったら家のインターフォンを押して。わたしが開けるからそしたら入ってきてね。お父さんとお母さんにはあらかじめ話しがあることは伝えておくから」

 と理沙から言い含められ、わかった、とだけ答えた。理沙を不安にさせないように、できるだけ精悍に伝えたつもりだった。

 理沙の家の前で別れて、自分の家に戻った。

「おかえりー」

 と弟たちから出迎えられ、お腹が空いた、だの、オムツの交換、だのと様々な要望があったけれど浩平は無言でそれらを通り過ぎて、自分の部屋へと入ってしまった。自分の部屋といっても、次男と三男と同じ部屋だった。次男は勉強机に向かって宿題をしていた。

 浩平は窓辺の床にあぐらをかいて、外の景色をじっとみていた。

「兄ちゃん、今日ぐらいは弟たちの面倒みてくれよな。最近、ずっと俺ばっかり見てたから勉強が全然できなかったんだから」

 と次男が声をかけてきた。

 ごめんな、とだけ目も合わせずにいった。

 今日もお願いしていいか、というと、弟は駄々をこねながらも兄の異様さに不承不承にも動き出してくれた。頼りになる弟で本当に良かった。そう思うと同時に、頼られる存在として理沙の前でこれからもいられるのか、自信がなくて不安になった。自分自身に嫌気がさした。


 夜になった。8時ぐらいには浩平の両親も戻ってきていた。ご飯も食べずに、浩平はじっと勉強机に向かって、ただじっと机の木目をみつめたりしていた。なにかをする気力などわかなかった。

 8時50分になり、出かけてくる、といって外へ出た。

 どこへ出かけんだ、と母親の声が聞こえたので、コンビニ、とだけいった。

 歩いて5分のところに理沙の家がある。夜でよかった。暗くて見えないほうがなにも考えなくていい。

 家の前について、勇気をふりしぼってインターフォンを押した。はい、と理沙の声が聞こえた。少し安心した。俺、とだけいった。しばらくして理沙が玄関のドアを開けた。黒い、豪壮なドアから顔を覗かせた理沙は緊張した面持ちのように感じた。

「入って」

 促されるままに外玄関を開けて中に入り、内玄関へ続く小さな階段を上がった。

 導かれるように中に入った。何度かみているはずなのに、自分が受け入れられていない存在のようで少し怖かったが、促されるがまま、浩平は理沙と一緒にリビングルームへと入っていった。

 ダイニングキッチンになっていて、テーブルにはイスが4つあった。向かい側に、理沙の両親が並んで座っていた。こんばんは、といって、その向かいに理沙と並んで座った。理沙の父親は聞いた通りの厳格な父親だった。白髪交じりの頭に、太い黒ぶち眼鏡、不機嫌そうに眉間にはしわが寄っていた。初老の印象があった。

「それで、話しっていうのはいったいなんなんだ。この子は誰だ?」

 と父親が切り出した。浩平は背筋を伸ばして、

「理沙さんと同じ学校の草山浩平というものです。夜分遅くにすみません。今日は大事な話しがあってきました」

 父親の視線が理沙から浩平に移った。射貫くような視線が浩平を貫いた。

「話しというのは? こんな遅い時間に来るのだからよっぽどのことなんだろうね」

「はい。実は、理沙さんと半年前から交際をさせていただいていまして。それで……」

「交際だと? そんな話しは全く聞いてないぞ」

「実は、理沙さんのお腹に子供ができてしまいました」

 といって頭を下げた。

 姿は見えないが、両親のうろたえている様子が目に浮かんだ。

「なにを言ってるんだ。君たちはまだ子供じゃないか。それはなにかの勘違いだろう」

 と父親がいった。真に受けていないようで、意外と声は冷静だった。

「本当なの、お父さん」

 と理沙がいった。みると、真剣なまなざしで理沙が話していた。

「最近、体調が変だなと思ってたんだけど、この前突然気持ち悪くなって吐いたの。なんだろうと思って調べたんだけど、匂いにも敏感になっているみたいで、これがつわりなんだってわかったの」

 自分の女性としての体のことを父親に話すことが恥ずかしいのか、理沙は少し顔を赤らめていたが、わかってもらおうと必死だった。

「なんだそのぐらい。吐くなんて、ただ体調が悪かっただけだろう。それだけで妊娠をしたなんて早まった判断だよ」

「私もそう思ったんだけど、ちゃんと確認しようと思って妊娠検査薬を買って確かめたの。そしたら……これ」

 といって、スカートのポケットから妊娠検査薬を取り出してテーブルの真ん中に置いた。浩平も実物をみるのは初めてだった。

「ここに線がついているでしょう? 陽性みたいなの」

 体温計のような長細い器具の真ん中に、確かにピンク色の縦線がしっかり入っていた。理沙の母親が口を手でふさいで、小さく悲鳴をあげた。

「馬鹿馬鹿しい。大人を馬鹿にするのもいい加減にしなさい。こんなイタズラをしてなにが面白いんだ。母さんも真に受けるのはよしなさい。たんなるイタズラだよ。草山君といったね。君もなにを思いあまってこんな手の込んだイタズラをしたんだ」

「イタズラじゃありません。理沙は……理沙さんは本当に妊娠をしてるみたいなんです。だから、子供を産むのを許可してもらおうと思って、お願いに上がりました」

 浩平は立ち上がってから、父親の元へ回り込んで土下座をして、

「お願いします! 子供を産ませてください! 俺、一生懸命働きますから! 学校もやめて一生懸命働いて、理沙と子供のために働きますからお願いします!」

 と懇願した。体が熱くなるのを感じていた。

「馬鹿野郎!」

 と父親の怒鳴り声が聞こえた。血の気がひいていくのがわかった。

「今、突然現れたばかりの子供がなにをいっているんだ! 一生懸命働いて理沙と子供を育てるだと? ふざけるのもいい加減にしろ! そんなこと無理に決まってるだろ!」

「いえ、やります! 僕、一生懸命働きます! だからお願いします!」

 ふざけるな、と父親は一括すると、浩平の胸倉をつかんで立たせ、拳骨でその頬を殴った。どっと倒れた。口の中に血の味が広がった。理沙と母親が短く叫んだ。

「今度、こんなふざけた真似をしたらタダじゃおかないからな。

 母さん、俺は二階に行ってもう休む。こんな茶番に付き合ってられん」

 そうして部屋を出ていった。後に残った母親は顔を赤くして、震えるようにこちらを見ていた。怒っているようだった。母親は理沙のもとにいき、その頭を抱えるように抱きしめると、

「あの検査薬は本当にあなたがしたものなの?」

 と尋ねた。理沙は泣いていた。泣きじゃくりながら、うん、と答えた。

 それから、母親はにらむように浩平をみつめ、

「明日、理沙と一緒に病院に検査に行くわ。結果がでたらもう一度話し合いましょう。だから今日はもう帰りなさい」

 といった。声が少し震えていた。

 浩平は泣きじゃくる理沙の声を聴いていると本当に帰っていいのかわからず、ただ尻もちをついたまま、二人を眺めていた。

「帰りなさい!」と母親が叫んだ。その形相に圧倒されて、ようやく浩平は立ち上がり玄関へと向かった。

 泣きじゃくる理沙の声が、家を出てからもずっと頭から離れなかった。自分はなんて無力でちっぽけな存在なんだと思った。同時に、好きな人も守れない情けないやつだと思った。家では泣けないから、少し遠い公園にいって夜のブランコに座って一人でずっと泣いていた。

 

翌日、学校に理沙の姿はなかった。担任の教師が、体調を崩したから、といっていたが病院に検査にいったんだと浩平は思った。あの結果が嘘でありますように、と口には出せないが思っていた。

その日の体育の時間はバスケットボールだった。浩平とは別のグループが対戦をしているときに、壁際に座ってその様子を眺めていた。クラスメイトは、みんな悩みなんかないみたいにゲームに熱中していた。

隣に座っていたクラスメイトの二人の話し声が聞こえてきた。

「おい、知ってるか、この後ろ側の窓の鍵、これ、壊れてるみたいだぜ」

 みると、背面には換気用の小窓があって、そこの鍵の話しをしているようだった。

「昔から壊れてるみたいなんだけど、なぜかずっと直さないんだよな。不良の先輩が教えてくれてさ、夜になるとここに女連れ込んでエッチなことするんだってよ」

 本当かよ、それ! と中学生男子らしく盛り上がっている。そのエッチなことをして大変なことになっていることなど周りの人間は知らないから、みんながみんな呑気に生きているように感じた。

夕方になって、理沙からメールが届いた。緊張しながら開いてみた。

「やっぱり赤ちゃんできてたよ。今日、またお父さんに話してみる」

と書いてあった。浩平はまた焦燥感にかられたけれどそれを悟られないように、

「また行こうか? 一緒に話すよ」

 と送ったが、「いいよ、今度は殺されるかもしれないし(笑)」と返ってきた。

 正直、ほっとした部分もあるけれどそんな自分がなんだか情けなかった。

 

 翌日になって理沙は学校に姿を現した。体調を心配して声をかけてくるクラスメイトに、いつもの屈託ない笑顔で返答をする理沙はまるで別の生き物のようだった。

(俺はこんなに苦しいのに理沙のやつ……)

 という思いが去来したが、当事者の理沙が一番つらいに決まっていた。

 その日の帰り道、理沙から昨日の報告があった。

「病院にいったらさ、エコー検査っていうのさせられて、お腹に器具いれられてなんだか恥ずかしかった」

 理沙は浩平の顔をみなかった。

「2ヶ月だって。鼓動もしてるんだって。写真も見せてもらったんだけど、親指の第一関節ぐらいの小さな点だったんだけど、そんな小さいのにわたしのお腹の中で生きてるんだって思うとなんだか不思議だよね」

 さすりながらお腹をみている表情をみると、自分だけ当事者から外されていくような疎外感も感じるのだった。同時に、好きな人との間に子供ができているということに現状とは不釣り合いの幸福感もあった。

「でね、昨日お父さんにそのことを伝えたの。どうしたいんだ? って聞かれたから産みたい、って答えたんだけど、そしたらお父さんね、絶対にダメだ、って怒鳴りだしちゃってもう話し合いにならなかった。子供に子供が育てられるわけないだろ、ってそういうの。

 でも、わたしも自分のお腹の写真をお昼にみたばかりだったからその言葉に反応しちゃって、でも生きてるんだよ? それを殺せってお父さんはいうの? 子供ができるんなら、もう親だよ、大人だよ! って大きい声で言っちゃった。そんなふうに反抗するの初めてだったからお父さんとお母さんびっくりしてた。そしたらお父さん、ふざけるな、って。子供ができるから親じゃない、大人じゃない。子供を育てられるから親なんだ。お前に親としてなにができるんだ、っていわれちゃって、すごい悔しかった」

 夕暮れの土手で、理沙の顔が赤く染まっていた。

 突然、立ち止まって理沙は声を殺すようにして泣きじゃくった。涙が溢れ出てくるのを抑えきれないようだった。

「わたし、お母さんなのに、なにもできなくて赤ちゃん守れないなんて。どうしよう、浩平。このままだとわたし、赤ちゃん殺しちゃう」

 感情的になっている理沙をみていて胸に込み上げるものがあった。無力な自分が許せなかった。

 浩平は理沙の手を両手で握って、引き寄せて、抱きしめた。

 きゃしゃな体が悲しみで震えていた。

 感情をせき止めることができなくて、理沙はついに声を上げて泣き出した。

「ごめんな、ごめんな」

 と耳元で浩平はささやいた。

「俺、絶対守るから、許してくれ」

 理沙は浩平の肩に顔をうずめて、わんわん泣いた。制服とワイシャツを理沙の涙がつらぬいて、肌が温かかった。理沙の体温を通して、胎児の温もりが伝わってくるようだった。


 その日の夜、浩平は自分の両親に理沙とのことを話した。

 普段、仕事に多忙を極めて浩平のことに関心がないような両親だったが、驚いた様子だった。浩平を責め立てる言葉が多く飛び交った。

 子供は産みたいのか、産んだら生活はどうするんだ、お金は? 生活は? 学校はどうする? 相手の親御さんはなんていってるんだ。男のお前がしっかりしないからこうなるんだ。相手の親御さんと娘さんに申し訳がたたない。猿みたいに欲情しやがって。

 浩平はただ謝るだけで、今度の日曜日、相手の親御さんも交えて二家族で話しがしたいと両親に伝えた。少しの沈黙の後、父親が、わかった、といった。責められたのは事実だが、両親に話すことで少し気持ちが落ち着いたのも確かだった。


 日曜日になって、二家族は話し合いの場を設けた。場所は理沙の家で行われた。

 まず、浩平の両親が謝罪をした。それに対し理沙の父親は、子供がしたことですからまずは大人である私たちが冷静に話し合いましょう、といやに紳士のようにふるまった。

 体面を気にしているのだと浩平は気が付いた。大人と子供では態度を変える人なのだとそのとき初めて思った。

 二つイスが追加され、両家族と当事者の6名が席に着くと、まず、理沙の母親が現状について話し出した。病院にいって妊娠して2ヶ月が経過したことを確認したこと、理沙と浩平が肉体関係を認めていること、間宮家としては出産をするべきではないという結論に至ったこと。

 それに対し浩平の両親は相槌をうつだけで特に意見はしなかったが、理沙の父親から意見を求められて、浩平の父親が少しの沈黙の後、

「浩平や理沙さんはどうしたいと思っているの?」

 と当事者二人の要望を聞いた。

 親側から意見を求められることが意外で、ふいを付かれた形になったが、

「俺は理沙と子供と二人とも守っていきたいです。確かにまだ俺も中学生で大人たちからしたら子供かもしれませんけど、新聞配達とかできないわけじゃないし、お金を稼ぐことはできると思っています。子供は責任をもって俺が育てます」

 と自分の両親ではなく、理沙の両親に向けて胸の内を話した。

「わたしもせっかくできた命だし、自分の子供であることは間違いがないから産みたいと思ってる。お父さんとお母さんには迷惑をかけるかもしれないけど、でもこの子は守りたい」

 理沙も真剣な眼差しで語った。

 理沙の父親は急に不機嫌になり、

「子供だから、自分たちだけで生活をするっていうことがどれだけ大変かわからないんだ。ましてや子供がいて、自分たちの生活も守るなんて一筋縄でいくものじゃない。中学生ならなおのことだ。

 草山さんもそうお思いになりませんか?」

 と理沙の父親は同意を求めた。

「私はね、間宮さん」

 と浩平の父親は、静かに、だがある種の熱をもって話し始めた。

「浩平と理沙さんが本当に産みたいと思うならそれもいいんじゃないかと思うんですよ。浩平が覚悟をもって子供を育てるというなら、高校に行かせるのを諦めてうちの工場で働かせます。確かに二人は未熟だ。生活基盤なんてなにも持っていない。最初はわたしたち親が援助することだってあるでしょう。でもそれは、子供だからではなくどの親でも少なからず必要なときもあるのではないでしょうか?

 それに、子供を堕ろすとなると理沙さんの身体的負担もあるでしょう。それこそ娘さんの体に傷をつけることになる。もしかしたらそれがもとで、もう子供を産むこともできなくなるかもしれない。子供は天からの授かりものです。もし間宮さんたちに異論がなければ子供をうちで預かってもかまいません。幸い、うちは子供が5人もいます。一人増えたところでたいした負担にはなりません。それにその子供は浩平が責任をもって育てるといってるんです。息子がいうことをわたしは信じたい」

 父親の言葉に不意をつかれた。絶対に反対されると思っていたから、余計に父親が頼もしく思えた。

「わたしはね草山さん、絶対に反対です。娘には多大なお金と時間を使っているんだ。それは愛情ともいいかえられるものだ。娘の人生のためにわたしは多大な犠牲をはらってきた。子供を産むことで娘の人生に傷をつけるわけにはいかないんですよ」

 浩平の父親による意外な異論によって、話しは平行線に持ち込まれた。


 それから1時間ほど話し合いは続けられたが、結論はでなかった。また一週間後に話し合いの場を設けることになった。

 その晩、週に一度の家族が夕食に揃う日だというのに両親たちはやけに静かだった。弟たちだけが、おかずを取り合ったり、おかわりといったり、いつも通りの騒がしさだった。浩平は夕食を早々にすませ、自分の洗い物をして部屋に戻ってしまった。

 今日の話し合いでの熱が冷めきらなかった。理沙の父親がいった子供は子供を育てられない、という言葉と、父親の、私は息子を信じたい、という言葉と両ばさみになっている自分がいた。子供と理沙を守りたい、という気持ちは嘘ではなかった。

 理沙からメールが来た。

「明日の夜の8時って外に出られる?」

 不審に思いながらも、出られるよ、どうして? と返した。

「明日、塾が終わった後に会いたいんだ。学校の校門前で待ち合わせしない?」

 わかった、8時に待ってるよ、と返して浩平は床にごろ寝をした。天井をながめながら、メールの意味を考えた。あまりいい予感はしなかった。


 3、


 約束の時間の30分前に家を出た。ゆっくり歩いても学校までは15分ほどで着く。ぎりぎりになってしまうと、心の準備ができないまま理沙と会うことになる。

 途中、コンビニに寄って、缶コーヒーを二つ買った。理沙にもあげようと思った。

 星がきれいな夜だった。見上げながら歩いていると、夏の大三角形がはっきりとみえた。

(この世界を赤ちゃんにもみせることはできないのかな)

 理沙と三人で、この世界で生きることを想像してみたが、その三人の表情をうまく想像することができなかった。

 校門の前に着いて、ぼんやりと夜空を見上げていた。坂の上の住宅街に学校は存在した。夜で、人は外に出ていなかった。一つ一つ明かりがついた家々をみていると、その明かりの元に、平穏で、和やかな一つ一つの家族が住んでいるんだと感じた。

 横から理沙の声が聞こえた。

「お待たせ」

 理沙の顔は笑っていた。

 ビニール袋から缶コーヒーを一つ取り出して差し出した。

「飲むか?」

 と聞いたら、理沙は少しとまどったように、

「妊婦はカフェインとったらいけないんだよ、知らないの?」

 と少し責めるような口調でいった。

「……そうなのか、知らなかった。ごめんな」

 缶コーヒーをしまいかけたとき、理沙は浩平の手を包み込むように、缶コーヒーを握った。

「いいの、ありがとう。1日2杯くらいだったら妊婦でも飲んでいいんだってさ。わたし、ちゃんと調べてんだよ」

「そっか、でも勉強不足だったな。俺もちゃんと赤ちゃんのこと調べないといけねぇよな」

「ほんとだよ」

その間、理沙はずっと浩平の手を離さなかった。初めて理沙の手を握った日のことを思い出していた。今も温かくて柔らかかった、缶コーヒーの冷たさが一層それを引き立てるようだった。

 理沙は、視線を下に落として握った手をみつめながら、

「ねぇ、浩平」

 と呼びかけた。

 なに? と問いかけると、理沙はやっと目線を持ち上げて、

「家出しよう?」

 と持ち掛けた。突然の申し出にどきりとした。

「え?」

 とだけ声が出た。

「私、今の家にいるの耐えられない。赤ちゃんのことがわかってからお父さんはいつもピリピリしてるし、お母さんもいつも疲れてるし。それに、浩平のお父さんが産んでもいいっていってくれたけど、わたしのお父さんは絶対に産むことを許さないだろうから、きっと赤ちゃん堕ろされちゃう。そんなの耐えられない。ここじゃないどこかに行って、三人で暮らそうよ? 浩平、赤ちゃんとわたしのこと守ってくれるんでしょう?」

 突然、岐路に立たされて浩平はどう答えてよいかわからなかった。家出といっても行く場所も決まっていないし、準備もない。生活もどうしてよいのか検討もつかなかった。

「そんな……突然」

 と答えに詰まった。視線が宙をさ迷っているのが自分でもわかった。

 そんな浩平の様子を、手を握りながら、理沙はじっと眺めていたがその手は離された。不意に放たれた缶コーヒーが浩平の太ももに当たって痛みを与えた。

「嘘だよ、浩平」

 と相好を崩して理沙はいった。

 浩平はきょとんとした。どういうつもりなんだ? と思った。

 せっかく作っていた笑顔を歯がゆそうに崩して、フェンス越しにある夜の体育館に理沙は視線を移した。

「なんか、夜の学校って怖いね。闇の中に黒い建物が浮かんでいるみたい。昼間は人がたくさんいるから、余計にそうみえるのかな」

 浩平も夜の学校を眺めてみた。夜の闇に、より一層の黒い影を落として建物があった。

「暗闇のなかに浮かんでるのって、私のお腹の中も一緒なのかな。赤ちゃん、怖くないのかな」

 夜の学校から目を外さないでそう話す理沙はまるでとりつかれているみたいだった。ナイーブになっていて、そんな言葉が出てきたのかとも思った。

 浩平は、ふと体育の時間にクラスメイトが話していたことを思い出して、

「夜の体育館行ってみないか?」

 と理沙にもちかけた。

 理沙は驚いたような顔をして、

「そんなことできるの? どうやって中に入るの?」

 と尋ねた。浩平は、背中を向けてしゃがみ、

「門を越えるからおぶるよ」

 といった。理沙は戸惑っているようだったが、早くしろよ、と浩平がいうと意を決したのか勢いよく背中に乗ってきた。きゃはは、とすぐ耳元で理沙の笑い声が聞こえた。はしゃいでいるみたいだった。

 しっかりつかまってろよ、といって、校門に腕をかけて力いっぱい体を持ち上げると足をかけた。筋力には自信があった。一挙手一投足を確実に、しっかりと登った。ときどき、耳元でくすくすと笑い声が聞こえる。理沙の笑い声が久しぶりに聞けて、浩平も胸が躍るようだった。

 学校の敷地に足をおろすと、ゆっくりとしゃがんで理沙を下ろした。

 そこは、それまで立っていた場所とは異世界のようだった。フェンスを1枚越えただけなのに、夜の闇より一層濃い建物の影が不気味に並んでいた。

 浩平は周りを気にしながら、理沙の手をつかんで、目の前にある体育館へと進んでいった。夜の学校に忍び込むことが初めということもあって、胸が高鳴った。初めて手をつないだ時のようだった。

 体育館の近くまで来ると、しゃがみこんで、換気用の小窓をあけた。ちょうど、人間が一人通れるほどの広さがあった。

「すごいだろ、ここの窓だけ昔から鍵が壊れてるんだってさ。この前聞いたんだ」

浩平は四つん這いで中に入った。

手招きをすると導かれるように理沙も四つん這いで入ってきた。

 暗闇に目が慣れてきたのか、体育館の中は月光で微かに明るく感じた。

「すごいね、いつもの体育館じゃないみたい」

 と理沙が破顔して話しかけてきた。

 ホントだな、といって浩平は立ち上がって改めて見渡してみた。

 とりあえず、誰もいない気配を確かめて胸をなでおろした。理沙も立ち上がって、また手を今度は強く握ってきた。微かに震えているのが伝わってきた。

 怖いのかもしれない、と思い、「戻ろうか?」と問いかけると、

「ううん、いいの。なんか、怖いんだけど、すごい落ち着く。ここにいると周りの人間は誰もいなくて、私と浩平だけがいるみたい」

 ちょっと歩いてみようか、というと、理沙は小さくうなずいた。転ばないようにゆっくりと月光の中を歩いた。足音がやけに響いた。自分たちだけのはずなのに、足音が警戒心を起こさせた。

「あのステージに座ろうよ」

 と今度は理沙が呼びかけた。うん、と返事をして二人はステージへ上るための脇の小さな階段へと向かった。

 ステージの真ん中に並んで腰かけると、体育館の全体がよくみえた。

 広い窓から射す青白い空気に、沈黙が流れた。

「ねぇ、浩平」

 と理沙が呼んだ。顔をみると、窓から差し込んでくる光で、半分が陰で半分が青白かった。

「わたし、子供産まなくてもいいよ」

 胸を刺されたような気持ちがした。急に無力感が覆いかぶさってきた。

「……どうした? なんでそんなこというんだ?」

 理沙は濡れて光った瞳で、真っすぐ前をみながら、

「本当は浩平だって子供なんて欲しくないんでしょ? すごく不安そうなのが伝わってくるもん」

 と呟くように答えた。

 浩平はうろたえるように、

「そんなことない! 俺は、理沙と子供の3人で暮らしたいと思ってる! そんなこというな、理沙!」

 と反論したが、理沙は顔をうつむかせたままで、

「わたしたち、中途半端に大人になっちゃったよね。この前まで小学生だったのに気が付いたら、体だけ大人になって、恋人を欲しがったりして、浩平と付き合って、エッチなこともしちゃって。なのに、どうせ育てられないのに子供だけ出来ちゃってさ。

 でも、子供を育てられない親なんて親じゃないよ。お父さんやお母さんがいうことがやっぱり正しいよ。私たちは、子供を産むべきじゃない、って今日の浩平をみて踏ん切りがついたんだ」

「理沙……」

 名前を呼ぶだけが精いっぱいだった。理沙が吐露したことは、自分も言葉にしなかっただけで心の底では思っていた。

「大人になんかならないで、ずっと子供のままならいいのに。そしたらこんなに苦しむこともないのに」

 その通りかもしれない。大人になりきっていないのに大人のようなことをして、こんな末路になってしまった。

「月の光がきれいだね。白い光が、まるで羊水の中みたい。この暗闇の中で、わたしたち浮かぶ赤ちゃんみたいだね」

 理沙は、お腹の中の子供と自分を重ねているようだった。青白い半分の顔から、そっと涙がこぼれているのがみえた。

「ね、だからもうお家に帰ろう。私たちも、もう会えないね。元気でね、浩平」


 それから数日の間、いつものように二人は登校したけれど、学校の内でも外でも、会話を交わすことはなかった。

 一週間がたったころ、理沙から短い文章で、

「赤ちゃん、おろしたよ」

 とだけ送られてきた。浩平は、わかった、と送った。白々しいので、謝罪の言葉は書きたくはなかった。

 それから、1年がたち2年生の半ばになって、理沙は引っ越しをした。理沙と浩平のことがどこから漏れたのか、クラス中の噂になっていたのだ。みんな、二人の前でそのことについて話すわけではなかったけれど、それでも裏で話していることは雰囲気でわかるのだった。それがやがて学年中へと広がることになる。

 理沙の父親はその状況に我慢ならず、転校することに決めたようだった。

 ちなみに、堕胎の費用についても、浩平の父親から理沙の父親へ、折半にしましょう、と打診をしたのだが断られたらしい。プライドの高い、理沙の父親らしかった。

 浩平の初めての恋人は、こうして別れを告げて知らない街へ行ってしまった。

 今、どうしているのか浩平は知らなかったし、メールを送ることも理沙の友達に聞くこともしなかった。ただ、自分の中で想い出として風化させていくために時間がたつことを待つだけだった。

 

4、


 目の前の胎児は、だんだんと息苦しくなっているように感じた。眉間にシワを寄せて、息遣いも荒々しくなっていることに気が付いた。耳が割れんばかりのセミの声や、容赦ない熱気といった夏の雰囲気に追い立てられているようにもみえた。

 胎児をずっと眺めていると、浩平にはその胎児が、胎児に戻ってしまった理沙にもみえたし、中学時代に堕ろされてしまった子供のようにも思えるのだった。見れば見るほど、その顔かたちが理沙に似ていると思った。もちろん本当の正体は浩平にもわからなかった。

(きっと、この赤ん坊は大人になることがないまま、ずっとこうして眠っていたんだろうな。赤ちゃんの姿のまま、体だけが大きくなってしまったんだ)

 外からは、先輩の作業員たちが卑猥な話しで盛り上がっている声が聞こえてきた。

 胎児はいよいよ、息を荒らげて、肩で息をしているようになった。

 浩平になす術はなく、いたたまれない気持ちになった。まるで中学生のときの自分に戻ってしまったかのような無力感に襲われたのだ。

 吸い込まれるように、破れた箇所から羊膜の中へと足を踏み入れた。しゃがみこんで、羊水に膝をつけるとその頬を手で撫でた。すべすべとした本当にきれいな肌だった。

 急に愛おしくなって、その大きな唇にそっと唇を重ねてから、手をいっぱいに広げて、顔を押し付けながら抱きしめるようにした。

「本当はこんな風に愛したかったんだ」

 と思わず口から言葉がこぼれ出た。中学時代から、自分にも秘密にしていた言葉だと気が付くと、驚きと同時に怒涛のように涙がこぼれて声をあげて泣いてしまった。

「ごめんな、本当にごめん」

 すると胎児の大きな双眸から、大きな涙の粒が一筋こぼれ出た。

 胎児は、ついにこと切れたようになって動かなくなってしまった。胸のあたりをみると、鼓動が止まっていることに気が付いた。

 この体育館のステージの床下に隠れながら、この胎児はいったいどんな夢を今まで見ながら過ごしてきたんだろう、とふと考えた。学生たちの喧騒を耳にしながら、外の世界をどう思い描きながら、夢をみていたのだろう。


 胎児と浩平は、ある夏の一日に、同じ羊膜に包まれながら同じ時を過ごしたのだった。


 了

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【短編】胎児の夢 カブ @kabu0210

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