第2話 兎波さんは匂いを嗅ぎたい(2)
先輩と目が合う。合ってしまった!
先輩がゆっくり俺の方へと歩み寄ってくる。俺は緊張のあまり動けなくなり、シャツが汗でジットリしてくるのがわかった。
俺の前に立った先輩はなぜか俺に顔を近づけてきて――くんくんと鼻を動かした!
ええええ嗅がれてる!? やめて汗掻いてますから! ていうか近い近い近い! なんかめっちゃイイ匂いするぅ!
「やっぱり。あちらのパン屋さんの方ですよね」
「――ほぁっ?」
間抜けが声が出てしまう。思いも寄らぬ言葉だった。
「あ、ああああのっ。お、覚えていてくれたんですかっ?」
つい声がうわずる俺。
マジか!? 先輩が俺を覚えてくれていたのか!?
すると先輩は嬉しそうな笑顔でうなずき、
「君の匂い、大好きなんです」
そう言った。
俺は心臓が止まるかと思った。
先輩は自分の鼻先を指で示し、続けて話した。
「パン屋さんの匂いも、このメロンパンの匂いも、私、大好きなんです。君からはパン屋さんの素敵な匂いがしたから、すぐわかっちゃいました。いつも、美味しいパンをありがとうございます。お昼に学校でいただくのですが、友達にも好評なんですよ♪」
満面の笑みでそう語る先輩。
あ、好きだ。
変な人でも好きだわ。俺の方が大好きです。
俺が感動していると、先輩は俺の制服を見て言った。
「あれ……? ひょっとして、うちの新入生の方……かな?」
「……えっ!? あ、はははははい! あれ? でもどうして新入生だと……」
これから俺が通う高校は、女子の制服だけは胸元のリボンの色で学年を判別出来るが、男子にはそういうものはない。そこまで童顔なわけでもないだろうし、新学期ならみんなクリーニングで制服も綺麗だろうし、どうしてだろうと思っていたら、先輩はこう答えた。
「下ろしたての匂いがしますから。新しい制服って、良いですよね」
ニコニコと微笑む先輩。
匂い? 匂いか。なるほど。また匂いなのか。やっぱり変な先輩なのか!?
「あ、あまりお話していると電車に遅れちゃいますね。入学式に遅刻したら大変です。学校までの道に不安はないですか? よかったらご案内します。ご一緒に、どうですか」
はい、やっぱり変でも好きです。
すぐにでもOKを出したかった俺だが、テンパっていたのか、なぜか口からは真逆の回答が発せられた。
「いいいいいやお気になさらず! あっ、わ、忘れ物したのでいったん帰ります! それじゃあ!」
「え? あっ……」
先輩を残して、来た道を全力で戻る俺。
自宅であるパン屋の前で止まり、ぜぇはぁと息を整える。
俺は胸を押さえながら思った。
「ヤバイ……先輩ヤバイ可愛い……そして変な人だ……」
そう。先輩はなんだか変な人だった。
そしてめちゃくちゃイイ匂いがした。
普段はパン屋で会うからよくわからなかったけど、近くで嗅いだらめっちゃ素敵な匂いがした。うちのパン屋なんかより二千倍くらいイイ匂いだと思う。
とにかく話せた。
店員と客としてではなく、先輩と後輩として話が出来た。
確実に一歩前進した。その事実が嬉しくて、俺は先輩がニオイフェチであろうことなどどうでもよくなった。ていうか俺の匂いを嗅いで笑ってくれた。これはもう十歩くらい前進したと言っても過言ではないのでは?
「さっきはつい逃げちゃったけど、今度こそもっとちゃんと話をして……って、名前すら訊いてないじゃん!? ああああせっかくのチャンスに何やってんだ俺!」
「ホントに何やってんのよ! さっさと行きなさいっての遅刻するわよ!?」
「ほげぶっ!?」
後ろから何かで頭をぶっ叩かれた。見れば二人の母が店先に出てきている。うるさい方の母がトレイを持って睨んでいた。これが母親のすることか!
「叩くなよもう! わ、わかってるっての! 行ってきます!」
「行け行けさっさといけー!」
「純ちゃん、大丈夫かなぁ……」
母たちの声を背に、俺は駅に向かってひた走る。
こうして、“ニオイフェチ”な先輩と俺との高校生活が始まったのだった。
兎波さんは匂いを嗅ぎたい 灯色ひろ @hiro_hiiro
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