兎波さんは匂いを嗅ぎたい
灯色ひろ
第1話 兎波さんは匂いを嗅ぎたい(1)
毎朝うちのパン屋に来てくれる人を好きになった。
「こちらをください」
パンが一つ載ったトレイが差し出される。
綺麗な声色と、ウサギマークの電子マネーカードを用意する細い指先。
指通りの良さそうな髪はツヤツヤしていて、よく整った顔立ちやスラッと伸びた背筋からは育ちの良さがうかがえる。身長はあまり高くはないだろうけど、制服を押し上げる胸元は見事な成長ぶりだった。それから、いつも頭にウサギの耳みたいに見えるリボンを付けていて、歩くたびにぴょこぴょこ揺れるのが可愛い。だから俺は、この人をウサギ先輩と勝手に(自分の中で)呼称していた。
「はい」
俺は返事をしてレジを打つ。税込み170円。
もう見慣れた制服姿のその人が決まって買うのは『レモンメロンパン』。うちのメロンパンは生地に地元の新鮮なレモン果汁を練り込んでいるから、良い香りがするし甘すぎずサッパリしていて美味しい。たまに雑誌など紹介されることもあり、一番の人気商品だ。唯一気になるのは、レモンなのかメロンなのかハッキリしろということくらいだ。
このパンの入った小袋を手渡すときはいつも緊張するが、それが一番幸せな時間だったりもする。
「ありがとうございます。んん……今日も美味しそうな匂いですね」
彼女がいつもパンの匂いをくんくんと嗅ぎ、幸せそうに笑ってくれるからだ。初めてその笑顔を見たときから、俺はウサギ先輩に一目惚れしている。こんなに綺麗で可愛い笑顔をする人は他にいない。
「ありがとうございました」と頭を下げる。彼女は会釈をして店から出て行った。
俺と彼女が接する時間は、毎朝これだけ。この一年間、これだけだった。
でも、今日からは前進したい!
俺は頭巾を取りながら裏に戻る。早々とエプロンも外し、学生鞄を手に持った。最後に洗面所の鏡で髪型を整え、準備完了だ。
「んじゃあ行ってきます!」
「はいはぁーい、気をつけるのよー
「定期忘れないでね純ちゃんっ、お手伝いありがとう! 入学式行けなくてごめんね~~~!」
「わかってるって! 気にしないでいいから店しっかりね!」
二人の母に返事をして、急いでパン屋兼自宅を飛び出した。
空は快晴。ポカポカした陽気は気持ちがいいし、わずかに潮の香りがする朝の匂いはなんだか元気が出てくる。多少汗ばむかもしれないが、まさに新学期の朝にふさわしい日だ。
「ええと、先輩はもう行っちゃったかな」
大通りからあの人の姿を捜す。特徴がわかりやすいし、どうせ目的地は同じだからすぐに見つかるはずだ。
そう、目的地は同じ学校。今日から俺が通うことになる高校だ。母さんたちからウサギ先輩の制服がその高校のものだということを聞いた一年前の俺は、同じ高校に通うため必死に勉強を頑張り、進路を勝ち取ったのである。この日をずっと待ちわびていたのだ。
「――あ、いたっ!」
駅までの一本道を小走りで進むと、すぐに彼女のチャームポイントであるウサギの耳っぽいリボンが見えた。歩く姿も様になっていて綺麗である。
出来ることなら声を掛けてみたいけど……、まさか先輩を追って同じ高校に入ったなんて知られたら、さすがに引かれてしまうと思う。こういうのはじっくり距離を詰めていくべきだ。
とかヘタレなことを考えていたら、先輩が突然脇道に入っていった。
「あれ?」
どうしたのかと思って後を追う。
脇道の入り口から覗くと、そこではしゃがみ込んだ先輩が一匹の白黒模様な猫を可愛がっていた。いわゆる地域猫というやつだ。たまにうちの店の前にもやってくるからすぐにわかった。
「今日も可愛いね。よしよし。ああ、このパンはあげられないの。ごめんね。今度、また何か健康的なおやつを持ってくるにゃ~」
猫の頭を撫でながら猫なで声で話しかけている先輩。おまかわ。動物を愛でる優しさまで併せ持っていたのか。俺の見立てでは先輩は間違いなく勉強も出来る。もう最強じゃないか。
「あ……なんか、めっちゃくんくんしてる……?」
俺が先輩の可愛さに見惚れていると、今度は先輩が猫を“くんくん”し始めた。すごいしてる。めっちゃ匂い嗅いでる。そして幸せそうに笑ってる。羨ましい猫だ……。
さらに先輩は何かに気付いて立ち上がり、そちらへタタッと駆けだした。
今度は何かと思ったら、先輩はなぜかエンジンが掛かったままの大型トラックの後ろでぴたりと立ち止まった。たぶんどっかに荷物を運ぶ長距離トラックだと思うが、なにゆえそこに?
「ん……? ハッ!? ま、まさか……っ!?」
俺は気付いてしまった。
――排気ガスだ。
先輩はトラックの排気ガスの臭いを嗅いでいるのだ!
その証拠に鼻をくんくんさせている! そしてまた幸せそうな顔をしている!
いやわかるけど! なんとなくその臭いに惹かれるのわからんでもないけど! しかしスーパー美少女な女子高生がガスまみれになって恍惚の表情を浮かべる図はどうなんだ!? ニオイフェチなのか!? 先輩って実はめっちゃ変な人なのか!?
「おーいお嬢ちゃん、そこに立ってるとあぶねーぞぉ」
「あ、ごめんなさいっ。すぐに退きます!」
トラックの運転手に声を掛けられた先輩はペコリと頭を下げ、猫に手を振ってからこちらへ駆けだしてくる。俺は慌ててどこかの物陰に隠れようとしたが、なにぶん驚いてしまっていたので初動が遅れ、その場で先輩に見つかってしまった。
「――あれ?」
「やばっ」
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