第6話

         六


 五月になると、山の樹々は緑色になった。七月ほど濃い緑色ではないが、それでも土屋理沙が好む色ではある。

 彼女は数年振りに、秩父の山奥に行くことにした。

 自分はなんの損傷も受けていない代わりに、なにも得ていない。それほどの切実さもなくそんな気持ちを弄んでいると、どういうわけか中学校時代の秩父の山歩きが思い出された。

「どこか行くの?」

 理沙の母親は、娘が普段ならはかないジーンズをはいているのを見て言った。

「うん、ちょっとね。帰りは夕方以降になると思う。夕飯はいらない」

 それだけ言うと、理沙はハンドバッグも持たずにポケットに財布を入れて外に出た。陽は出ているが、それほど暑くはない。

 電車に乗っている間、理沙は心の中でぼんやりと自分を振り返ろうとしていた。しかし、上手くいかない。

 江藤恵はキャバレークラブで働き、再びインドへ向かった。理沙も誘われたが、彼女はやはり断った。

 自分は変わりたくないのかもしれない。彼女は思う。だが、どんな自分を守っているのかは自分でもわからない。

ただ本を読み、化粧にもファッションにもそれほど興味を示さない自分。それは守るほどのものでもない。

 秩父に近づくと、いよいよ彼女は自分のその空っぽさに虚しさを感じ始めた。

 「人間が動く動機、それは虚しさ以外にない」と、マリア・ララァ・ラタコウスキーは言っていた。理沙もまた、なんらかの虚しさを感じて大学を休学した。しかし、彼女にはどうしても埋めたい虚しさもなかった。ほどほどで満足してしまう。不満もまたほどほどでしかない。

 恵から絵葉書が届くと、彼女には破らなければいけなかった殻のようなものがあったんだろうと思う。どんなに人から「今時、インドに行って啓示を受けるなんて」と言われても、彼女にはそれが必要だったのだ。理沙はそう考える。

 西武池袋線で小手指駅まで行くと、理沙は中年男性とぶつかった。

「すみません」

「気をつけてね」

 佑樹ならばぶつからなかっただろう。自分はつくづく人に興味がない。彼女はそう思いながら飯能駅行きの電車に乗った。

 土曜日ということもあり、車内には秩父へ向かっていると思われる人が乗っている。しかし一人で秩父に向かうであろう人はいない。理沙はそれを特別に寂しいことだとは思わなかった。

 西武池袋線飯能駅に着くと、彼女は西武秩父線に乗り換えた。ここでも彼女は子供にぶつかった。

 自分は秩父の山になにをしに行くんだろう。理沙は考える。答えは出ない。

 秩父駅に着くと、理沙は手打ち蕎麦屋に入って昼食のざるそばを食べた。彼女は麺汁に蕎麦をつけ、薬味を大量に入れる。その結果、どこにでもある蕎麦と変わらない味がした。

 蕎麦屋を出ると、理沙はとにかく山奥を目指すことにした。緑の山を見ながら、とにかく自分の心を形にしようと思ったのだ。いつか自分で呟いた心の仕事というものをやってみようとした。


 秩父駅を離れると、すぐに山道になった。理沙はそんな山の緑を眺めながら、ひとまず上へ上へと登ることに決め、歩き出した。

 新緑に陽が差し、樹々の葉は光って見える。周囲には誰もいない。辺りはすべて山だ。

 中学生の頃は、ここを歩いてなにを考えていたのか。彼女はそれを思い出そうとした。

 山道に生い茂る草花の名前を、理沙は知らない。今まで野に咲く花の名前を知ろうとも思ったことがない。

 澄んだ空気の中、彼女はスニーカーをはいた足で一歩一歩歩く。土は柔らかく、コンクリートとは明らかに違う温もりがある。

 彼女はただ歩いた。一つの山を越すと次の山へ。帰り道のことは考えなかった。

 途中、佑樹のことを考えた。彼は、理沙の乾いた心を見透かして彼女から去った。それは正しいことだと彼女も思う。

 自分にはなにがあるんだろうか。あるいは、なにがないのだろうか。そんなことをとりとめなく考えながら、上り坂を登った。

 上り坂はやがて下り坂になり、また再び上り坂になる。理沙は次第に五月の山に慣れてきた。最初は見落としていたアリやチョウが目につき、スズメでもカラスでもハトでもない野鳥の声が聞こえはじめる。

「こんにちは」

 途中、ハイキングをしている老夫婦に声をかけられた。理沙は笑顔で「こんにちは」と返す。悪い気はしない。むしろ気持ちがいい。

 秩父の山を歩くのに、地図は必要なかった。中学生時代に歩いた道を、彼女は自分でも驚くほど覚えていた。

 下り坂が多くなり木陰も増えてきた頃、水の流れる音が近づいてきた。しばらく歩くと、川が見えた。

 理沙は川辺の砂利の上を歩き、岩に腰をおろした。

 川の水は空気と同じように澄んでいる。彼女は水面を眺めている内に、マスが大量に泳いでいるのに気づいた。

 マスは流れに逆らって尾を動かし水中でとどまっているかと思うと、急に進行方向を変えて泳ぎだす。

「あそこにカワセミがいますね」

 気づくと、ナップザックを背負って釣竿を持った中年男性が川の反対側の樹を指した。

 そこには、黄色い胸と青い羽と嘴を持った鳥がとまっている。大きさは十五センチほどだ。

「あれはカワセミなんですか」

「そうですよ。獲物を狙っているね」

 中年男性がそう言うと、カワセミは枝から飛び立ち、川面からなにかを捕って飛び去った。

「カエルでした」

 理沙はそう言って靴を脱ぎ、ジーンズの裾をまくり上げて川に足をつけた。水は冷たく、硬質だった。

「魂の旅ですか」

 中年男性が笑いかける。

「そうかもしれません」

 空を見上げると、カワセミよりも大きな鳥が旋回している。

 理沙は脛まで水に浸かり川の流れを受けながら、周囲を見回した。空の青色、葉の緑色、幹の茶色、岩の灰色。そのどれもに力強さを感じ、彼女は深呼吸をする。

「それじゃあ、釣り頑張ってください」

 理沙はそう言ってまた山を登り始めた。


 秩父の山々が見渡せるベンチに座ると、理沙は風に揺れる一面緑の風景を眺めた。

 風の音、そして山の音が聞こえる。彼女は足元の土をつま先で掘りながら、これまでの数ヵ月を振り返った。

 祖母の葬式、恵のインド行き、休学、五大長編、佑樹とのデート。

 自分はなににも熱中しなかったなと、彼女は思う。ガンジス川に行っていればなにかが変わっただろうか。今、秩父の山を歩いてなにか変わるのだろうか。そんなことを考えていると、彼女の目から自然と涙が溢れた。

 恐らく、自分はガンジス川には行かない。そして五大長編も読み通せないだろう。そう思うと無念だった。五大長編を読めないことがではなく、それほど真剣に五大長編を読もうと思えないことが無念だった。

 涙は次々と流れ、山の風が涙の筋に当たる。彼女は涙を流し続け、腕でその涙を拭った。


 西武秩父線秩父駅まで帰ると、時刻は十八時半になっていた。辺りは薄暗くなっている。

 理沙は行きに入ったのと同じ手打ち蕎麦屋に入ると、再びざるそばを注文した。

 今度は、薬味を控えて蕎麦を少しだけ麺汁に漬けるとすぐに蕎麦をすすった。蕎麦そのものの味が口の中に広がる。そうして彼女は、昼に食べた時よりも丁寧に蕎麦を食べた。

 漫然と食べずに味わった蕎麦は美味しく、理沙自身が驚くほどだった。

「ごちそうさまでした」

 自然とそんな言葉が彼女の口から出てきた。


 西武秩父線秩父駅から飯能駅に着くと、理沙は行き交う人々を観察しながら西武池袋線急行池袋行に乗った。

 夜の山々が遠ざかっていき、住宅街の灯が見え始めた。彼女はそんな人の暮らしの灯を見ながら、佑樹のことを思い出していた。

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