第5話

         五


 窪田佑樹のピアノは土屋理沙が想像していたような、やかましいアドリブの応酬のようなピアノではなく、落ち着いた、古本屋で流れているようなクラシックピアノの流れを汲んだもので、彼女はその演奏にただ感心して拍手をした。大学の音楽室でのことだ。

 理沙は五曲を演奏し終えた佑樹に拍手を送った。

「休学中に校内に入ってもよかったなんて知らなかったです」

 演奏を聴き終えると理沙は言った。三月の夕方はいくらか陽が落ちるのが遅くなっており、まだ明るい。

「どこか近所の喫茶店に寄って行く?」

「地元の居酒屋にしませんか?」

 理沙はこの二ヵ月、酒を覚えた。毎週金曜日には、恵と石神井公園駅の居酒屋で午前三時まで話している。

 電車に乗るまでの間、理沙は佑樹の歩く姿を数歩後ろから眺めた。

佑樹は道行く人々に優しい歩き方をする。理沙はそう思った。一方、彼女は人混みでよく人とぶつかる。人に対する思いやりがないのだろう。彼女自身はそう考えていた。

「この二ヵ月、なにしてた?」

「インドに行った友達の話はしましたよね」

「うん」

「その子とお酒飲んました」

「五大長編は?」

「……まだです」

 勢いに任せて購入した五大長編だったが、彼女はまだそのどれも読めていなかった。

 電車の中でも、佑樹は品が良かった。誰の前に立ちふさがるでもなく、ドアの近くに立つ人の邪魔もせず、空いた隙間に立っている。そうして電車に十五分揺られ乗り換えると、今度は理沙に空いてる席を譲って自分は彼女の前に立った。

「店長から土屋さんはマリア・ララァ・ラタコウスキーが好きだって聞いて、『洗練された二重放射線』を買ってみた」

「そうですか」

「正直、よくわかんなかったよ」

「窪田さんはきっと、本も音楽的に捉えるんですよ。あの本は翻訳が悪すぎます」

「かもしれない」

 二人の会話は長く続くことがない。常にぶつ切りで、切るのはいつでも理沙の方だった。

「土屋さん」

「なんですか?」

「いや」

 佑樹は言葉を濁して陽の落ちた街を眺めていた。

 二十分すると、電車は石神井公園駅に停まった。

「夜中の三時までやってるし、安いんですよ、二人で行く居酒屋」

 理沙はそう言って駅のトイレに入ると、ハンドバッグからティッシュを出し、桜色のリップを拭き取った。

「それじゃあ行きましょう」

「今日こそ御馳走するよ」

「いえ、いいです」

 理沙は笑って駅の南口に出ると、居酒屋まで真っ直ぐ歩いた。時刻は十八時過ぎ。日中は春の予兆があったが、陽が沈むと一気に冬になった。


「ただいま」

 二十四時近くに帰ると、理沙の父親はあまりいい顔をしない。

「どこ行ってたんだ」

「お酒飲んでた」

 佑樹とは、とりとめもない話をしただけで終わった。彼がなんらかの話題を振り、理沙が話を続ける気もなくその話題に言葉を挟むというだけのものだ。

 それでも佑樹とは、公園に行く約束をした。ちょうど桜が咲く時期だ。理沙はその約束も特に嫌だとは思わなかった。


「ピアノを弾くっていうのは、技術的なことなんですか?」

 桜並木のある大きな公園を歩きながら、理沙は尋ねた。

「最低限必要な技術はあるけど、そこからは感性なんじゃないかと思ってる」

 佑樹が答える。

「感性っていうのは具体的にどんなものなんですか?」

 理沙の質問に、佑樹は黙って唸った。

「なんだろうね。心を無にして、気持ちのいい方向に従うってことじゃないかな」

 理沙は、多分そんなことは自分にはできないだろうなと思った。もしも自分がピアノを弾くようになれば、和音はなぜこの音でなければならないのか、この和音にこの音階が合うのはなぜなのか、そんなことばかり考えてしまうだろう。

「土屋さんは人と距離を置きたがっているね」

 桜吹雪を見上げながら佑樹は言った。その言葉には非難が込められている。

「去年の夏、祖母のお通夜とお葬式があったんです」

 佑樹とは反対に、地面を見ながら理沙は言った。

「そこでわたし、泣けなかったんですよ」

「親しかったの?」

「いえ、ほとんど会ったことがありません」

「それなら仕方ないよ」

 そう言って佑樹は桜並木のベンチに座った。

「綺麗だね」

「サクラやイチョウは夏も綺麗ですよね」

「わかる。緑色がうねっていてね」

「そうです」

 理沙は、恵の誘いに乗らずにインドへ行かなかったことも話した。なぜ勢いに任せて日本を飛び出せなかったのか。違う世界を見ようとしなかったのか。

「土屋さんはなんでだと思うの?」

「わかりません。でも、自分には心が欠けてるなって思うことはよくあります」

「なんでだろうね」

 それから佑樹は、理沙が人を鬱陶しいと断じたことに驚いたと言った。

 彼は人との触れ合いこそが最も心を揺さぶられると考えていた。自分とはまったく違う人間の、まったく違う意見を知る。そこに喜びがあるのだと言う。

「その気持ちもわからないわけじゃないです」

 理沙はそう言ったが、やはり彼女は他人にそれほど興味がなかった。

「土屋さん、僕のことも好きじゃないでしょう」

「そんなことはないです」

「じゃあ好き?」

「嫌いではないです」

「それは好きと違うよね」

 理沙は「そうですね」と言うと黙った。佑樹はそんな彼女をいくらか冷たい目で見て立ち上がると、桜並木を再び歩き始めた。理沙はそんな彼を追おうとはせず、黙って見送った。

 佑樹はそれきり理沙の前に現れることはなく、古本屋も辞めた。


「もともと別に好きじゃなかったんでしょ」

 恵が居酒屋で言う。

「それはそうだけど」

 しかし、やはり嫌いではなかった。佑樹がなにを求めていたかは別として、理沙としては親しくなりたいという思いがなかったわけではない。

 佑樹は、理沙の冷たさを見抜いた。少なくとも理沙はそう思っている。

 「ある日、高校の帰りに、自分は他人にも自分にも興味がないことに気がついて無念だった」というマリア・ララァ・ラタコウスキーの言葉が理沙の頭をよぎる。

「無念」

「なにが?」

 恵がライムサワーを飲みながら尋ねる。

「わかんないけど、いろんなことが」

「ガンジス川の流れを見たら悩みなんて吹っ飛ぶよ」

「そうかもね」

 理沙はシークァーサーサワーを頼むと、残っているレモンサワーを飲み干した。

 酒に酔うのはいい。なにも考えられなくなる。理沙はそう思っていた。

「本当はインドじゃなくてもよかったんだろうけどね」

 恵は、「とにかく日本の常識が通用しないところに行ってむき出しの自分を体験してみたかった」と言った。


 家に帰ると、理沙の両親は眠っていた。理沙は化粧を落とし、水を一杯飲むと自室に戻った。

 本棚には手をつけていない五大長編がある。休学中には読みたい。そんなことを思いながら、彼女は部屋着に着替えて眠りに就いた。


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