第4話


         四


 江藤恵の四ヵ月に渡るインドの旅、そしてその土産話は、土屋理沙にはあまり面白くないものだった。

「ここで啓示を受けない者は、どこへ行っても啓示を受けることはない」というマリア・ララァ・ラタコウスキーの言葉が蘇る。

 インドで恵が体験したのは、非西洋的な文明と、日本にはない混沌ということだった。それで彼女がなにを得たのか、理沙にはわからない。

そこには行ってみなければわからなかったなにかがあるのだろうという気持ち。そして、異文化に興奮しすぎてしまっている恵を冷静に見ている自分がないまぜになり、理沙は話を聞けば聞くほど静かになってしまった。

「帰って来てからはなにかの拍子に虚しくなる」

 喫茶店の二階から人々を見下ろし、恵は言う。

「なんで?」

「だってここはインドじゃないんだもん」

「でも日本だよ。日本にだって、なにかはある」

 理沙は風船を持って歩く女の子を眺めた。手を放さないで、と思う。両脇には両親がいて、彼女を守るように歩いている。

「お金を貯めたら、またインドに行く」

「危ないって。今回はたまたま無事だっただけでしょ。こないだ女性が最も危険な国の一位がインドってニュースを見たよ」

「大丈夫。危険な場所はなんとなくわかるし」

「言葉は通じるの?」

「なんとかなるんだってば」

 理沙と恵はお互いに読書好きという共通点があったが、理沙と違い、恵はすでに本を捨て世界を見ることに夢中になっていた。

 恵が遠くの世界に行った。理沙は、そう思いながら彼女のインドの話を聞くことになった。


 一日十二時間、週に四日も古本屋に勤めると、年明けの給料は思った以上に跳ね上がった。この調子ならば、休学費用を払うのはすぐだ。理沙はそう思うと気分が軽くなった。

 そんな気分で本屋に向かった彼女は、最近になって力をつけてきている出版社の文庫本に目をとめた。形而上絵画を思わせる表紙には、『地下室の手記』と書いてある。

 休学をしたものの古本屋と自室を行ったり来たりしているだけの彼女に、『地下室の手記』という題名はなにか迫るものがあった。それに、彼女はフョードル・ドストエフスキーを一冊も読んだことがない。

彼女は文庫本を手に取り、レジに向かった。古本屋とはかけ離れた、接客し慣れた態度の書店員が彼女から金を受け取り、文庫本を渡した。

 その夜から理沙は、一睡もせずに『地下室の手記』を読み終えた。読み終えた後に居ても立ってもいられなくなったのは、マリア・ララァ・ラタコウスキーの『洗練された二重放射線』以来だった。

 彼女は眠らないまま朝を迎えて古本屋に行くと、店主を相手に『地下室の手記』がどれほど衝撃的だったかを伝えた。言葉が足りない。理沙は初めてそう思った。

「とにかく凄いんですよ、わたしのことが書いてあるんです」

「今時ドストエフスキーに感激する大学生もいるんだね。すっかり過去の遺物扱いかと思ったのに」

 店主はそう言って店内にクラシックピアノをかけると、理沙に「五大長編は読む?」と問いかけた。彼女はすぐにフョードル・ドストエフスキーの五大長編を買った。仕事が終わって帰るのに、大きな紙袋が必要だった。

 夕方の街を見渡すと、皆が一月に似つかわしい格好をしている。理沙も例外ではない。コートを着込み、手袋をはめ、足首を隠している人が大半だ。

 そんな中で、彼女は出身高校の女子高生たちを見つけた。少女たちは、足首も隠さずスカートも短い。若いな、と思ってすぐに、自分もまだ似たような年頃なんだと気づく。

「土屋さん」

 自分の後輩たちを眺めていると、後ろから声をかけられた。佑樹だった。

「なんか重そうな物持ってるね」

「ドストエフスキーです」

 佑樹は「読んだけど、内容は理解できなかった」と言って笑った。

「なにしてるんですか」

 理沙と佑樹は歩調を合わせながら石神井公園駅の北口を歩いた。

「近所のバーでピアノ弾かせてくれないかなと思って。でもそんなに羽振りのいいバーは練馬区にはないね。やっぱり都心に行かないと」

 そして、「都心に行ったら音大生に勝てないんだろうけど」と続ける。

 ふと理沙は、佑樹を見上げた。自信に満ち溢れているようにも見えるが、不安に苛まれているようにも見える。ごくありふれた青年の顔だ。

「なに?」

「なんでもないです」

「喫茶店寄ってかない? おごるよ」

「いえ、自分で出します」

 そう言って理沙はいつも行く風情もなにもないチェーン店の喫茶店を選んだ。以前に二人で街を眺めた、恵といつも一緒に入る喫茶店、そこがちょうどいいように思えた。近くには純喫茶もあるが、二人で純喫茶に行くのは気が引けた。

「ブレンド一つ」

「僕もブレンドお願いします」

 二人はブレンドコーヒーを待ちながら、お互いに視線を合わせることなく店内を見た。喫茶店には老人や中年女性が多いが、電源席にはビジネスマンや受験生も座っている。

「僕が持つよ」

 五大長編の入った紙袋を見ると、佑樹は笑った。理沙もそのくらいならば頼ってもいいと思い、ブレンドコーヒーのソーサーを二つ佑樹に任せ、二階へ上がった。

「こないだ、観葉植物を見てたね」

「九月に友達からドラセナっていう植物だって教えてもらって。それで、綺麗だなと思ったんです。こないだはもう枯れてましたね」

「よく覚えてるね」

 佑樹が微笑み、理沙は目を逸らした。目の前の人は嫌いではない。しかし、好きとも言えない。

「そういえばまた会おうって言ったけど、偶然になっちゃったね」

「そうですね。改めて、また」

 それきり、二人は黙った。隣の席では中年女性の二人組が息子の進学先について大声で喋っている。

「土屋さんは恋人とかいるの?」

「いえ、いません。いませんし、これからもいないと思います」

「これからもっていうのは……、なんで?」

 理沙はこの辺りに、自分が休学した理由がある気がした。人となにかを共有できない。また、そうしたいという気にもならない。そんな性分が自分にはある気がする。

「なんていうか……、こう……、鬱陶しいんですよね」

「なにが?」

「人が」

 佑樹は押し黙って外の空を見た。すでに一月の空は暗い。街中では、星も見えない。

「それで一人で本を読んでるの?」

「かもしれません」

 理沙はふと中学校卒業を控えた頃を思い出した。その頃、周囲は受験も終えてクラスメイトとの思い出作りに熱心だったが、彼女は親の財布から金を盗み、毎日のように秩父の山奥を歩いていた。

 それが楽しかったかと問われるとなんとも言えない。ただ、クラスメイトと話すよりは文庫本を持って秩父の山を歩く方が楽しかった。

その頃に出会ったのが、マリア・ララァ・ラタコウスキーの『洗練された二重放射線』だ。それが大学で東洋哲学を学ぶキッカケにもなった。

「二人が怖いってことはないの?」

 佑樹が理沙の顔を見据える。

「もちろん怖いです」

「そう」

 二人の会話はそれきり途切れた。窪田佑樹は人を鬱陶しいと言う人間の気を、改めて惹こうとはしなかった。理沙もまた会話を続けようとはしない。

「送ろうか」

「いいです。近いので」

 喫茶店を出ると、理沙は紙袋を持って歩き始めた。

「今度、どっか行こうよ」

「そうですね」

 そうは言ったが、理沙には佑樹とどこかへ行くという場面を思い浮かべることができなかった。

 家へ帰ると、化粧を落として五大長編を本棚に並べた。『地下室の手記』は面白かったのに、すぐに長編に取りかかる気にはなれなかった。

 『カラマーゾフの兄弟』を少しめくってみたが、それだけで理沙は眠りについた。

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