第3話

         三


 十一月になると近所の公園の銀杏が鮮やかな黄色になり、土屋理沙の二十歳の誕生日が近づいた。

 その誕生日、彼女は両親の許可をもらい、大学に休学届を出した。休学費用の二十万は彼女がアルバイト代で払うという約束だ。

 両親にも担当教員にも休学の理由を訊かれたが、理沙は上手く答えをまとめることができないでいた。

 急に心が重くなった。そんな理由が通るとは思えなかったが、そうとしか言いようがない。気温が低くなってきたせいもあるのだろう。彼女自身はそう思っていたが、それだけでは説明できないしこりのようなものもあった。

 化粧もせず、白い花柄のワンピースにカーディガンを羽織ると、彼女はアルバイトのため外に出た。肌寒い。郵便受けを開けると、恵からの絵葉書が投函されていた。これで六通目になる。彼女がインドに行って二ヵ月が経っていた。

 自転車に乗るとより寒かった。周りを見ると、夏服を着ている人はいない。彼女だけが半袖のワンピースを着ている。

「おはようございます」

 古本屋の裏口から入ると、店主がAMAZONへの出品準備をしていた。

「おはよう。店番よろしく」

 理沙はタイムカードを押すと、店内に向かった。

 照明の暗い店内には、店主の趣味であるクラシックピアノが流れている。本のほとんどは歴史と文化論に関するものと文学全集で、流行の本は申し訳程度に置かれているだけだ。

「店長」

 一人の青年が死角に入ると、理沙は店主に話しかけた。

「なに?」

「わたし、大学休学したんですよ」

「どれくらいの予定?」

「とりあえず一年です」

「それで?」

「もう少し昼間のシフトって増やせませんかね」

 店主は少しのあいだ考え、「窪田くんと相談だね」と言った。

 窪田佑樹は理沙と同じ大学の夜間部に通う四年生で、ジャズピアノを弾いていると聞いたことがある。彼女は一緒のシフトには入ったことがなく、大学でも見かけないため、シフト交代の時にしか会ったことがない。

「窪田さん、どれくらい入ってるんですか?」

「平日は十一時から十六時半、五日間入ってもらってるよ。土日と夜は土屋さんだから」

「じゃあこれ以上は取れませんね」

「それは君次第でしょう」

 マリア・ララァ・ラタコウスキーは、物心がついてから数えるほどしか人からなにかを奪ったことがないのだという。奪うだけの度胸がなかったことが理由のひとつ、そして奪いたいほどのものがなかったことがもうひとつの理由だと言っていた。

「わたしと窪田くんが同じ時間にいても無駄ですよね」

「それは無駄だね」

 理沙はそれきり黙ってレジに着いてPCを開き、AMAZONに商品を載せる作業に入った。

「最近の若い人は交渉しないね」

 店主はそう言ったが、理沙は聞こえない振りをして作業を続けた。


 夕方、家に帰ると理沙の顔は寒さで青くなっていた。

「バイト行ってたの?」

「うん」

 仕事の終わりに、店主は佑樹に連絡をしておくと言った。さらに、二十歳のお祝いということで、理沙に『マリア・ララァ・ラタコウスキー全集第一巻』も贈った。古書好きが集まる店でも、東洋哲学の異端である彼女の著作は売れないらしい。

「けっこうです、お金払います」

 理沙はそう言って金を払った。店主は「最近の若い子は失礼だねえ」と金を受け取った。悪いことをしたとは思ったが、理沙はプレゼントをありがたくもらうということがどうしてもできない。

「あんた顔青いよ?」

「わかってる」

「バイト行くなら化粧くらいして行きなさい」

「うるさい!」

 理沙は自分でも驚くほどの怒鳴り声を上げて二階へ向かった。

 そして彼女は店主から受け取った本を机に置くと、ワンピースのままベッドに入った。


 夜中に起きると、店主からメールが入っていた。

『窪田くんが自分のメールアドレスを教えてもいいと言ったので載せておきます。シフトの交渉は自分でしてください。』

 メール本文にはそうあったが、時間は深夜二時だ。この時間にメールをするわけにはいかないと思い、理沙は部屋着に着替えて一階へ食事を探しに行った。

「起きたの?」

 居間には母親がいた。彼女はいつも夜更かしをしているが、二時まで起きているのは珍しい。

「お母さん起きてたの」

「明日は日曜だから」

「ああ、そっか。さっきはごめん」

「冷蔵庫に餃子入ってるよ」

「ありがと」

 理沙は椀に米をよそうと、味噌汁に火をかけながら休学の理由を母親に告げようか迷った。実のところ、彼女自身もなぜ自分が休学したのかよくわかっていない。

 ダイコンと油揚げの味噌汁をよそうと、電子レンジが鳴った。理沙は飯と味噌汁をテーブルに置き、電子レンジから餃子を出す。

 醤油と辣油をかける際、彼女は母親の目を気にした。母親はCS放送の映画を観ている。その隙に醤油と辣油を大量にかけた。

「あんた前から調味料かけすぎじゃない?」

「……言われると思った」

「うつ病だと馬鹿舌になるって言うけど、大丈夫?」

「わかんない」

 理沙は自分でもはしたないと思うほど勢いよく夕飯をかきこんだ。母親特有の、キャベツの甘みのする餃子に醤油と辣油を大量にかけて食べる。

「あんた、楽しい?」

「なにが?」

「生活」

 母親の言葉に、理沙はなにも言えなかった。楽しいと言えば楽しい。楽しくないと言えば楽しくない。そもそも、日々の生活が楽しいかどうかを考えたことがなかった。

「わたし、休学してどうするんだろうね」

「それはあんたが考えることでしょう」

 考えていることなどなかった。ただ理沙は、ぼんやりと自分のことが嫌になっただけだ。祖母の葬式で泣けない自分、インドへ行こうと言われてすぐに行こうと言えない自分。母親から感受性がないと言われる自分。

「明日はシフトの相談に行くかも」

「都合のいいシフトになるといいね」

「期待してないけど」


 佑樹とはすぐに連絡がつき、石神井公園駅南口の喫茶店で会うことになった。彼もアルバイトのシフトを減らしたがっていたらしい。

「どうも」

 理沙と佑樹は、早番と遅番の交代の際にしか会わない。顔見知りには違いなかったが、言葉を交わしたことはほとんどなかった。

「なんで急にシフトを?」

 佑樹はアイスココアを飲みながら尋ねた。

「休学したので、なるべく早めに休学費用を捻出したかったんです。わがまま言ってすみません」

「僕も別の仕事を探してたからよかったんだ。わざわざ会って断りを入れるなんて律義だね」

 理沙はシロップもミルクも入れていないアイスコーヒーを飲むと、「こちらのわがままですから」と言って頭を下げた。佑樹はそんな彼女に微笑んで見せ、二階から街を見下す。

「この喫茶店、眺めいいね」

「そうですね、そう思います」

「シフトは……どうすればいいんだろう。十二時間ずっとあの店で働くの?」

「できれば」

 店の隅を見ると、いつか恵から教えてもらったドラセナの葉が枯れて、茶色がかっている。その恵は、十一月になってもまだインドから帰って来ない。

「なんで休学したのか訊いてもいい? 別になんていうか、世間話だけど」

 理沙はしばらく考え、

「自分でもわかりません」

 と答えた。

「そう……。また会わない?」

 佑樹は理沙の顔を覗き笑いかけた。理沙は目を逸らし、「そうですね」と答える。

「休学中になにか見つかるといいんですけど」

「なにかって?」

 彼女にはそれ以上答えられなかった。見つけたいのは、ただなにかなのだとしか言いようがなかった。

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