第2話

        二


 土屋理沙は喫茶店で二十分ほど待っていた。

 九月中旬の東京都はまだ暑い。喫茶店も冷房を強くしていた。カーディガンを持って来なかったのは失敗だったなと彼女は思う。

「待った?」

 江藤恵はアイスコーヒーを持って理沙の前に現れた。その手首には日傘がかけられている。

「ううん。そんなに」

 理沙はそう言って本をハンドバッグにしまった。

「なに読んでたの?」

「孔子。課題で」

「面白い?」

「恵、好きじゃなかった?」

「読んでたっけ? 無理して読んでただけじゃない?」

 恵はそう言ってバッグからマリア・ララァ・ラタコウスキーの旅行記を取り出した。

「それはあまりいい本じゃない」

 マリア・ララァ・ラタコウスキーのファンである理沙は言った。

「そう? わたしはこれ凄く面白かった」

 理沙は彼女の旅行記のほとんどすべてが駄作だと思っていた。特に東洋への旅に関しては、彼女自身が「あの頃はオリエンタルなものにこそ真実があると勘違いしていた」と言っている。

「ともかく、わたしはインドに行くことにしたの」

「ガンジス川?」

「ガンジス川」

「危なくない?」

「だから一緒に行こうよ。二人なら一人よりは危なくないでしょ?」

 理沙もインドはともかくとして、海外旅行へは行ってみたいと思っていた。マリア・ララァ・ラタコウスキーは「少し外の世界を覗いて、それでなにか変わった気になるのはあまりいいこととは言えなかった」と言っているが、それでも日本とはまったく違った景色を見れば、なにか自分自身も変われるのではないかという思いはある。

「でも、単位がね……」

 理沙は単位数を計算して大学をよく休んでいたため、旅に出るのは難しいと伝えた。

「単位なんてどうだっていいじゃん」

 恵は理沙よりも勉強ができた。しかし彼女はなにか大きなものへの反発か、受験勉強をせずに古着屋でアルバイトをする生活を選んだ。実家暮らしのため、時間も金もある。

「留年するお金は土屋家にはないよ」

 そう言いながら、理沙はガンジス川に惹かれてもいた。母親から感受性がないと言われ続けていた自分でも、ガンジス川を見ればなにかが決定的に変わるのではないかという淡い期待がある。

「行けない?」

「う~ん」

 結局のところ、自分のこういうところがダメなのだろうと理沙は思った。なにかをやってみたいと思っても、直感より先にやってはいけない理由を探してしまう。

 理沙は喫茶店内の観葉植物を見た。大きく、中心が緑の葉が何枚も垂れ下がっている。

「あれはなにかな」

「ドラセナじゃない?」

「ふうん」

 恵の言うドラセナは、九月の光で緑色に光っていた。

「行きたいのか行きたくないのかだとどっちなの?」

 恵がアイスコーヒーを飲み干して尋ねた。

「直感は行きたいって言ってる。でも単位とか安全とか言葉の問題を考えるとね……。恵も女一人でインドは危ないよ」

「わたしは一人でも行く」

 恵のそんな強さに、理沙は憧れとも嫉妬とも言えない思いを抱いた。

 なんとなく大学に行くということもなければ、なんとなく安全な国に行こうとも思わない。思いついたら実行する強さ。それは理沙にはないものだった。

 喫茶店内はにわかに騒々しくなってきた。恵は水を汲み、席に戻って理沙を見る。

「なんでそういつも冷静に危ないとかなんとか言うのかな」

「さあ、わかんない。性格かな」

 理沙はそれ以上は話す気になれなかった。恵とは、時折決定的に意見が合わないことがある。今回もまたそうだった。


 本屋に寄って帰宅すると、母親が仕事から帰って来ていた。

「おかえり」

「あんたこそ」

 理沙はキッチンを見た。今晩はカレーらしい。食材だけがコンロの脇に置いてある。

「野菜だけ切る」

「ありがと」

「ねえお母さん」

「なあに?」

「感受性ってなに?」

「そのまんま。感じる力」

「それわたしにはない?」

 理沙は手を洗い、包丁を握って言った。

「あんたはすぐに理屈で考えるからね」

「そっか」

 妙に納得し、理沙はニンジンを切り、タマネギを切ると、ジャガイモを切って残りを母親に任せた。

 自室に帰ってからも、理沙は理屈で考えすぎるという恵と母親の言葉を反芻した。

 なにか悪いことを言われたような気分でいたが、直感や感受性に従うことが偉いということはない。彼女はそんなことを考えながら眠りについた。


「変な時間に寝たね」

 起きると居間には母親がいて、テレビのクイズ番組を観ていた。

「感性ってそんなに大事かな」

「まだ言ってるの? そんなに気になった?」

 母親はなにかというと理沙に「感受性がないんだから」と言ってきた。父親の不機嫌さを読めなかった時、学校の課題で絵を描いた時、クラスが学級崩壊になりかけた時の立ち振る舞い、あらゆる時にだ。

「時々、自分が石でできてるような気分になる」

「わたしはそこまで言ってない」

「わかるけど」

 母親は理沙を阿波人形浄瑠璃に連れて行った話をした。『傾城阿波の鳴門 順礼歌の段』という演目を観たらしい。

 生き別れ、再会して追いすがる娘と、国へ帰るように諭す母。その場面で、理沙は声を上げて泣いた。小学校一年生の頃だったという。

「その印象が強いのかな、あんたは感受性が鋭いのかと思ったの。だからそれからのことをどうこう言ったのかもしれない」

「覚えてないや」

 理沙はカレーを温めると、米をよそってルーをかけた。

「チキンカレーでいいのに」

「たまには豚カルビで食べたいじゃない」

「そうだけど」

 理沙は母親の前に座ると、一緒にクイズ番組を観ながらカレーを食べた。彼女と同じ大学の卒業生は正解を連発していたが、理沙はほとんどの問題がわからなかった。

「恵がさ」

「うん」

「インド行くんだって」

「一人で?」

「誘われたけど、わたしは断った」

「危ないでしょう」

「わたしもそう言ったんだけどね」

 理沙はカレーを食べると、「美味しいね」と言って食べ続けた。

「あんたは行っちゃダメだよ」

「行かないよ。感受性ないもん」

 マリア・ララァ・ラタコウスキーは「修練のない内に感性に頼るのはただの怠け者の行為だ」と言っている。理沙の好きな言葉だ。

 しかしそれでも、理沙は考えることに疲れ始めていた。大したことを考えているわけではないが、いちいちを言葉にして冷静に吟味することに億劫さを感じているのは間違いない。


 九月の終わり、ニューデリーから絵葉書が来た。恵からだった。

 理沙はその絵葉書を受け取ると、背中がなにかに引っ張られるような疲労感に襲われた。

「心の仕事」

 誰もいない家で寝転んでそんなことを呟いてみたが、彼女自身もその言葉の意味がわからなかった。脳裏には、インドの日差しに照らされる恵がいた。

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