第42話 “糺さん”

 山中は立ち上がった。大きくひとつ伸びをする。


「じゃあ、もう少し服を売るとするか」

「ああ。そうだ、俺にもたまには服を売ってくれよ」

「ドリーの服か? いいけど、ここの服はふつうのサラリーマンには高い買い物だぜ」

「うーん、そうだな。でも、たまに小物を買うくらいはできるだろう? そう言えば、さっき俳優の“内海 総”に売っていたコート。あれはカッコよかったな」

「まあな。だが素人が着るにしちゃあ、アグレッシブすぎるぜ。コートが欲しきゃ、もっと使いやすいのを探してやる」

「助かるよ。俺も井上みたいにコーディネートしてくれよ」


 白石がなにげなくそう言うと、山中は露骨に嫌な顔をした。


「冗談だろ。今以上に俺好みの男になったら、それこそ家から一歩も出してやらねえよ」


 それから、ああとうなった。


「井上のヤロウがさ、時々言うんだ。岡本を、自分の部屋に閉じ込めて誰にも見せたくねえ時があるって。

 影ひとつ、声の一言でさえ、他の男に聞かせたくねえって思う瞬間があるんだって。何を馬鹿な事いってんだ、って思っていたがなあ」

「……あいつ、そんなことを言ったのか?」


 うん、と山中はうなずいた。


「言うよ。それもさ、しごく真面目な顔で言うんだ。馬鹿じゃねえかって思うだろ?」

「惚れてんだよ、あいつ。身体も心もすっかり岡本さんに持っていかれているんだ」

「幸せな男だな」

「幸せな男だよ」


 白石は柔らかく笑った。


「お前も、俺を幸せにしてくれよ」

「そっちがおれを幸せにしてくれるのが先だろう? 俺は年下のか弱いネコだぜ」

「そのツラ、その身体で言うかねえ」


 ほんの数分前に、山中が使ったフレーズをそっくりマネして白石は言った。

 山中が笑う。それから


「そういえば、あんたの名前、まだ知らねえな」

「白石だよ」

「そっちは知ってる。ギヴンネームってのか、下の名前だよ」

「ああ、ただすだ。‟しらいし ただす”」

「ただす、か。良い名前だな」

「そっちは?」


善彦よしひこ。山中善彦だ」

「へえ。シンプルで、良い名前じゃないか。じゃあ俺は先に帰るよ。働けよ、善彦」


 白石がそう言って階段を降りかけると、後ろから山中が言った。


「鍵、ありがとう――糺さん」


 ぴた、と白石の足が止まった。それからまた階段を降りかけて、振り返った。

 階段の上に山中の巨体が軽々と乗っている。

 白石の、男のカラダだ。

 白石はわずかに笑い


「悪くない。悪くないよ、“糺さん”ってのは」


 と言って、軽い足音で階段を下りていった。そのまま、1階のきらびやかなシャツやジャケットやコートの間を足早に抜けていった。


 うちに帰るためだ。

 誰かがやって来る家に、戻るためだ。


 路上に出てから白石が振り返ると、ガラス張りになっているビルの2階では山中が早速やってきた客にジャケットを掲げていた。

 白石は微笑む。


 いまさら、清く正しい愛なんていらない。

 だけど、それに似たものを二人で探すことはできる。もし見つからなくても、探してみることに価値がある。


 今はただ、君がそばにいればいい。

 長い長い夜を、ともに過ごすひとがいればいい。


            ーー完ーー

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「しくしく恋ひわたり⑮幕間」『清く正しい愛なんていらない』 水ぎわ @matsuko0421

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