サツキヤミ
KEN
先日、名古屋がめでたく梅雨入りした。
――訂正しよう。全然おめでたくなんかない。貯水池で降るならともかく、中途半端に発展した都市部でじめついた空気を振りまかれても嬉しくない。
今年は特に、初夏から飛ばし気味の高気温が続いていた。その流れで高湿度の時期を迎え、名古屋の梅雨は例年以上にむしむししていた。
◇
深夜二時にもなって、私は一人コンビニへと歩いていた。
明日は休みでやることもない。夜更かししてレンタル映画に興じるのも悪くなかろうと考えたのだが、映画のお供であるスナック菓子が底をついていた。
菓子など食べなくても映画は見られる。だが口寂しくて酒に手を出し、途中で酔いつぶれた失敗談を持つ身としては、やはり菓子があった方がいい。
そんなわけで、雨がじとじと降りしきる夜に、私はわざわざ傘をさしているわけだ。
名古屋とはいえ、私の住む場所は普通の住宅街。錦三丁目のように夜も煌々と光に溢れた街とは違い、家々は漆黒に溶けて静かに眠りについていた。
私の傘が黒いせいもあるのだが、梅雨の夜は光がない。空には墨色の空が広がり、裏路地の水たまりは黒々と広がっていた。べたつく空気から溢れ出す湿り気に息がつまりそうで、沼で溺れた錯覚に陥る。
無事コンビニで菓子を購入し、帰り道を急ぐ。胸騒ぎという程でもないが、何やら長く留まらない方が良いような焦りがあった。
行きと変わらぬ黒々とした光景の中を、ぱしゃぱしゃ水音をさせて歩き続ける。と、突然後ろに気配を感じた。私は反射的に振り返っていた。
私はオカルト的事象に怯える性格ではない。だが得体の知れない禍々しい気配に、全身が鳥肌で包まれた。
目の前には何もいない。いない筈だ。少なくとも目で見た限りでは。
だが私の身体はがたがたしていた。何か良くないもののいる雰囲気。禍々しい気配は消えていない。それどころか、すぐ目の前に迫りくるような気持ち悪さと切迫感さえあった。訳の分からない恐怖に、私は動けずにいた。
その時だった、傘の上から声がしたのは。
「危ないよ」
咄嗟に傘を脇へよける。と、頭上を宙返りする子供と目があった。子供は真っ黒のコートに身を包み、顔の下半分を布で隠していた。
しゅぱっ。
空気の切れる音がした。そして子供は綺麗に着地した。水たまりがばしゃりと音を立てて歪んだ。
目の前にはやはり何もない。だが確かに、不定形の何かが切れ、空気の淀みが消えた。そして悍ましい気配が地面にじわりとしみ込んでいくさまも感じ取れた、気がした。
「危うく『サツキヤミ』に取り込まれるところだったね」
振り返って子供は言った。その黒い眼に感情の光はなかった。
子供が持っていたのは長さ三十センチほどの両刃の剣。草薙剣を思わせるデザインのそれは、漆黒の闇と雨の中で鈍色の光をたたえていた。
「『サツキヤミ』って何だ?」
素朴な疑問が口をついて出た。
「梅雨の夜に人間を取り込んで心を食う化け物だよ。この時期、何処からともなく現れるから、僕らのようなヤミキリは苦労させられる」
心底面倒そうに、子供は言った。コートのような服と暗がりのせいで性別まではわからない。ただ、声変わりはしていないように思えた。
「貴方は幸運だった。僕が間に合っていなかったら、貴方は廃人になっていただろうね。近くの川にでも飛び込んでいたかも」
子供の言葉に私は身震いした。いつもならそんな世迷言を信じはしないが、その時の私は、子供の言葉が確かに事実であると直感した。背筋を雨と汗が伝った。
「な、何かお礼を……」
「別に良い」
子供は小さく首を振った。雨に濡れた短い黒髪が払われ、飛沫が小さく舞った。
「梅雨の夜は魔が潜む。これに懲りたなら、もうこんな日に夜歩きしないで」
子供はコートの裏に剣をしまい、立ち去ろうとする。
「あの、せめて名前を!」
私の言葉に、子供は立ち止まった。
「ヤミキリに名前はない。人の記憶に残らない僕らに名前は必要ない」
振り返る事なくそう言い、子供は煙のように姿を消した。後には全身ずぶ濡れの私と、道路に転がった傘が残された。
◇
あの時確かに私を助けてくれた子供の顔を、今はもう思い出す事が出来ない。それどころか、あの夜の記憶さえあやふやになっている。まるであれが夢の出来事だったみたいに。
梅雨の夜は魔が潜む。その言葉と暗い路地裏の景色だけが、私の中に鮮明に残っていた。
サツキヤミ KEN @KEN_pooh
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