エピソード 5 / 最終章
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舟をおりてから聖所に着くまでは、これということは何もない。
道のない急な崖の斜面をまっすぐに登って、そのあとは、荒涼とした山の尾根を、ただ北にむかって歩いた。リアルだと、こんな過酷な登山は都会育ちのわたしにはとてもムリだろう。でも、ここはあくまでバーチャル。一歩一歩は軽く、急な斜面を登っても息は切れない。行きたい方向をしっかりターゲットしていれば、足をふみはずすこともない。ただ、風景がうしろへと流れて行く。そういう感覚に近い。だから移動は楽だった。
途中から雨が降りはじめた。強い雨ではない。ただ、世界全部をおおいつくす、冷たくもなく暖かでもない、とてもニュートラルな雨だった。雨のせいで視界はあまり広くなく、山の尾根道から見えるのは、深い青色をした山肌と、足元の砂利と、あとは雲だけだった。話すことはもう、舟の上でほとんど話し尽くしてしまった。わたしは無言で、先頭を行くまりあも、あえてこちらを振りかえりはしない。いちばん後ろを歩くリリアも、一度も何も言わなかった。話題がない、というのもあるけど――
なにかこの、島の北側の山々には、なにか心を、厳粛にさせるものがあった。雨がふりしきる中、あまり言葉は、適当でないというか。しずけさこそが大事な場所、という感じがした。聖所、という言葉が、頭に少しあったからかもしれない。
とにかく歩いた。歩いた。雨の中を。でも、体はとくに冷えなかった。ゲーム特有の、視覚だけに特化したエフェクトだということもある。でも―― なにか、この雨には、慈愛とは言わないまでも、何か包み込むような、しずかなきれいな力がある気がした。根拠はない。歩きながら、わたしがただ、そう感じただけ。
やがて尾根道は終わり、そこから先は平たんな高原のような場所がひらけた。いつからか、足元に水があった。深さは足首くらいまで。あまり深さはない。水はおそろしく透明で、その下の岩の地面がそのままクリアに見えている。ふりやまぬ雨が高原のすべてに波紋を落としている。とても静かで、何に音もしなかった。そしてわたしたちは、「フォーの聖所」に、いつしか足を踏み入れていた。
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【 メ・リフェ島北部
「色のない水」北端 】
「色のない水」を踏んで、ヤンカの一行が聖所に近づいたとき、イーダは西の塔の上層、南側に張り出したテラスに立ち、少し上から一行を見ていた。先頭を行くのは短い金色髪、赤系統のバトルドレスに身を包んだヤンカ・ヤンカ。イーダの戦友であり、もっとも頼れる島守りのひとりとして、好意にも似た感情をひそかに抱いてはいる。なのでイーダの表情は、この時点ではかすかな微笑と言えるものだった。
しかし彼女の微笑は、まもなく消えることになる。問題は、あとにつづく二人の少女だ。ひとりは乱れた赤色髪で、軽装のチュニック、手には赤のオーブの杖。ビジュアルから判断すると、炎系の魔法を操る「メイジ」に違いない。そのうしろ、戦闘とはおよそ不釣り合いな可憐な容姿の銀色髪の美少女が続く。エルフ系のとがり耳、背中に背負ったロングボウが、彼女は「アーチャー」だと自ら告げている。
もとともとイーダは、自分の肉体を武器とせず、もっぱら遠距離の魔法攻撃に頼るメイジを、心のどこかで軽蔑している。「チートを使う虚弱なやつら」と。そう思っている。また同様にアーチャーに対しても、あまり良い感情は持ってはいない。接近戦にめっぽう弱く、距離をつめれば途端に無力化されるアーチャー戦士を、イーダはひそかに、毛嫌いしていた。「弱いくせに、小賢しい」と。じつは過去の戦闘で、ロングボウで固めたアーチャー兵団に対し、接近戦こそ我が戦場と自負する「三本カタナのイーダ」は苦戦を強いられ、敗北に近い戦いを経験した。その時の苦い記憶が、アーチャーの戦力をリスペクトする方向には向かわずに、ただ、「忌わしいやつら。うっとおしいやつら」と、ネガティブな感情だけが残ってしまった。このあたりに、イーダの、戦士としての心の弱さがあるのだが。このことにはまだ、イーダ自身は気付けていない。
しかし今、かすかな不愉快の感情をイーダの中に呼び覚ましたのは、何もその、二人が属するジョブの種類だけが理由ではなかった。ヤンカ・ヤンカが連れてきた二人の客人の、その、驚くべきレベルの低さだ。それこそが理由。
ひとりは13、もうひとりに至っては、レベル3。
いま戦時にある、この最北の島を舐めている、という強い気持ちが最初に浮かんだ。が、しかし、彼らはあくまでゲストだ。この島の住人が招待を出し、むこうから、はるかな距離を来てくれたのだ。そして、島の住人の客は、すなわち島の主、フォーの客人、でもある。
この点をあらためて意識して、イーダは、最初に感じたなかば本能的な嫌悪感を、自分の意志でぬぐいさる。彼女は意識して口元にかすかな微笑を貼り付けて、黒青に鈍く光るイベリス鋼の螺旋階段を踏んで、地上のレベルにまで下りてきた。
「ずいぶん早かったね、ヤンカ・ヤンカ」
イーダが最初に口をひらいた。
水におおわれた石の前庭の中央に立ち、涼やかな立ち姿で三人を出迎える。
「てっきりもっと、家族団欒(かぞくだんらん)、とか? そういう庶民的な何かを楽しんでるのかと」
「ふん。あんたに甘いところを見せたくないからね。つい、意地になって速攻で来ちゃったわよ」
ヤンカは言って、まっすぐイーダのそばに歩み寄る。
イーダが差し出した手を、バシッとヤンカが勢いよく握った。
「東の浜では、よくやってくれた。評価してるよ、ヤンカ・ヤンカ」
「ん。ま、そういうあんたも、ネイ川の方ではけっこう暴れたようね」
ふたりは強い視線をかわす。笑いと、敬意と。それ以外の、何か強いもの――
信頼、と。普通は言ってもいいものだが。
しかし二人は、その澄み切った言葉をそのまま受けいれるほどには、それほど素直な性格ではない。ただ、「こいつだけは、信じられるな」と。お互い、心の中では認めている。もちろん言葉で、それを相手に伝えるつもりもない。
「西の塔の詰所に、いま6人が来ている。」
イーダが、薄紫の髪を風に流した。とぎれない雨が、髪の表面で小さな水滴となり、すぐに砕けて消えて行く。ここでは雨は、本当に髪を濡らすことはない。あくまでビジュアル上のエフェクトだ。
「あと14人は、まだね。だから少し時間がある。必要なら、休息を。会議を始めるとき、鐘を鳴らす。それを合図に、詰所に来て」
「ん。じゃ、それまでは、ゆるく過ごさせてもらうわ」
ヤンカが言って、ちらりと、後ろに視線を送った。
視線を受けたメイジのアリーは、何か小さくうなずいた。
姉妹の間で、何か、言葉にならない言葉のやりとりがあるようだが、二人以外の外からは、それが意味することは不明だ。ただ、感じとしては、安堵とか、よかったね、とか。それに近い感情。基本のところで、二人はまだ、二人の時間を終わらせたくないのだろう。そこの部分は、少しはなれた距離から見ているリリアの目からもよくわかる。
「えっと。そっちの、アーチャーの子が、リリア、よね?」
イーダがそちらに視線を向けた。少し鋭い視線。敵意はないが、好意もない。フォー様が言うから、仕方なく、あなたを迎えたのよと。その目ははっきり告げているようだ。
「あなた。すぐ、フォー様の広間へ。何か、話があるそうよ」
「フォー様…」
リリアはかすかに首を左に傾けた。あまりその名前が意味するところ、フォーとの面会が彼女に何をもたらすか。つかみかねて、やや不安そうだ。じっさいイーダにしても、なぜ今、あえてフォーがこの娘を指名して会おうとするのか、そこの理由がわからない。やや、不愉快。いくばくかの嫉妬のような気持ちを。娘に少し、感じていた。こんな娘に、フォー様が、いったい…?
「さ、こっち。案内する。中まで入れるのはリリアだけ。悪いけれど、ヤンカと、妹のその子は、ここに残って」
それ以上の説明はせず、イーダはくるりと背を向けると、足早に、正面、聖所の本館のエントランスにむかった。リリアが、少し遅れて、イーダのあとにつづく。
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高いアーチ状のエントランスは、黒青色の金属で出来ており、精緻な幾何学模様の彫刻が細部にまでほどこされている。そして、水が―― エントランスをくぐると視界が少し暗くなり、頭上から無数の水滴が落ちていた。さきほどまでの外の雨粒よりも大きく、ひとつひとつがはっきりとした涙のしずくの形をとり、すべては無音で、虚無のように暗い建物の上層から、こちらへと。音もなく水が降っていた。
濡れて青光りする金属製の、今にも折れそうなくらい繊細に作られた優美な螺旋階段を、イーダはひたすら登ってゆく。リリアも、遅れぬようについていく。どこまで登っても階段は尽きない。ひたすらに、ひたすらに。円を描いて、上へ、上へ。途中でここが、地上のどこなのか、世界はいま、いつどの時間を刻んでいるのか。すべてが曖昧で、自分の存在が、どんどん希薄になってゆく。そのような、不安―― いや、それはあるいは、安息、なのかもしれない。自分がうすれ、かわりに、何かに包まれる。遠い昔に、どこかでこれと同じ気持ちを味わった気がするのだが。ほの暗い螺旋階段をひたすらに踏み、同じ動作を反復しながら、リリアは、その記憶がいつの記憶かを、とうとう思い出すことはできなかった。階段は、まだ続いた。リリアは踏んで、踏んで、そして――
「着いた。」
イーダが足を止めた。
暗い部屋、壁がどこかもつかめない、漠然とした暗闇の中にひたすらに水のしずくは降り続け―― その水の膜のむこうに、ひとつの扉があった。扉は黒い金属でできており、周囲の闇と、見分けることが難しかった。かろうじて、その片側が、人ひとり通れる程度に開いていることが、リリアの場所から見てとれた。隙間の向こうは、ここより深い、また、あらたなる暗がりだ。
「さあ。ここからはひとりで行って。わたしはもう行く。あとはあなたが、フォー様と、じかに話をしなさい」
イーダはそう言って、今来た階段をおりてゆく。その口調、そしてその去りゆく後ろ姿に、ごくかすかな怒りの気配を感じたけれど―― イーダが発する感情とも呼べないその気配、それを作った理由が何なのか、リリアにはわからない。ただ、少し、気が沈んだ。あまり自分は、ここでは歓迎されていない、のかも。
「来たか、娘」
扉の奥から声がした。
光る声、だと。リリアはそういう言葉を心に浮かべた。
聖所の暗がりの中、その言葉だけが、たしかに光を放っている。
「こちらへ。怖れることはない」
その言葉に導かれ、
リリアは扉の向こうに、ゆっくりと足を踏み入れた。
動きを感じる。
無数の何かが、そこで、かすかに羽ばたいている。
リリアの目には、何かは見えない。
ただ、暗闇の中を、何かが舞っている。
その羽音、かすかなはためきがつくりだす空気の動きを、リリアの五感が感じていた。
「遠くから、来てくれたのだな。」
フォーが、そこに立っていた。
いや。浮かんでいる―― のか?
暗闇が深く、どこで床でどこまでが壁なのか。
視覚の上ではわからない。
ただ暗闇の、中心部分に――
かすかな金色に包まれて、フォーが、そこに、たたずんでいた。
黄金の髪が、右に、左に、見えない水の流れに押されるように、大きく波打っている。
そして、フォーの身体を包んでいるのは、無数の黒い蝶。
まるで蝶だけで織り上げた黒のドレスのようだが――
それを形作る蝶のひとつひとつが、たしかにそこに生きていて、かすかな羽ばたきをその場所で繰り返す。その、動き続ける黒の衣、蝶のつくる黒衣に、フォーの小さな体は包まれていた。まだ少女と言ってもよい年齢。手足のつくりは細く、つよく握ると、もうそこで壊れてしまうのでは、という脆さを、リリアはそこには感じ取る。
「いろいろ、伝えたいことはある。だが、短く言おう。あまり多くの時間はさけぬ。いま、島は戦時にある。遠くから呼びつけて恐縮ではあるが。手短かに、語らせてくれ」
「話、とは…?」
リリアがはじめて口を開く。
その声は黒い深淵の奥にすぐにすいこまれて消えたが―― たしかにそれは、意味のある言葉としてフォーの耳には届いたようだ。フォーの唇のはしが、わずかにほころんだ。
「弟、のことだ。おまえの大切な弟。去る月に死んで、もとの世界をすでに去りし魂の話だ。わたしの言葉の、意味はわかるか?」
「はい。なんとか――」
「うむ。その、弟だな。名は、こちらの名ではアント・フォルマ。もともとあちらでは、シマギハラ・イツキ。その名で間違いないか?」
「はい。それは弟… です。今から三か月前、事件に会い、命を落としました。」
リリアが懸命に言葉をつなぐ。
「あの―― 弟は、それで、今、どこに?」
「うむ。言いにくいことだ。だが、言わねばなるまい」
「言いにくい?」
「そうだ。アント・フォルマは、たしかにここに受け入れた。その者の肌のぬくもりを、わたしは今でも覚えている。この手で彼を、ここに取り上げたのは。他ならぬわたしだからな。忘れるはずもない。が。悲しいかな。アント・フォルマは、また、去った」
「去った…?」
「うむ。消えた。ふたたび命を落とした、と。そう言ったなら、わかりやすいか?」
「命… えっと。それって、つまり――」
「死んだ、のだ。消えた。ここ一昼夜の、島をめぐる戦闘の中で。戦に巻き込まれた。島の東の、タスコの町の夜祭りに、ほかの子供らとともに、遊びに出かけた。が。そこに襲撃が来た。アントはそこで、逃げ遅れた。その夜、そこで命を落とした者は二十七を数えた。アントはつまり、その中にいた。そういうことだ」
「そん――な――」
「ここはあくまで、かりそめの場所だ。永遠に命を、つなげる場所ではない。この場所に生き、ここでまた形を失った者は――」
フォーは言葉を止め、暗さの中でたたずんで――
そして視線を、わずかに上げた。暗闇の中を、色なき蝶が、無限の羽音となってさわいでいる。かすかに空気が動く。かすかに空間がゆらぐ。
「つぎの場所へと、移行する。それが正確にどこか。私もじつは、知り得ない。わたしもまた、この世界の理を、すべて究めた者ではない。だからわからぬ。どこに散り、どこへ去ってゆくものなのか。命はどこへ、向かうのか」
「………」
「ここには弟はいないと。嘘をつくのは、たやすかった。だが。わたしは嘘を好まない。真実を、わたしは常に、友とする。だから伝えると決めたのだ。遠い旅路を、ここまで来た者に、事実を告げるのは酷だと思う。酷ではあるが――」
「あの、」
「何だ、娘。」
「あなたは、誰、なのですか? 神様ですか? それとも――」
「ふふ。おまえの問いはわかるぞ。それとも、わたしが悪魔かと。そう、ききたいのだな?」
フォーが笑った。
とてもかすかに。とても小さく。あたたかに。
「いや。どちらでもないな。わたしは、わたし。ここにあるもの、だ」
「ここに、ある?」
「そうだ。善でもない。悪でもない。ただ、あるものだ。わたしはフォー。それだけだ。そしてわずかに、生と死のはざまを、さまよう力があるようだ。また、そこにかすかに作用を与える―― そのような力が。このわたしには、もとよりあるようだ。だからわたしはその力をつかう。わたしがわたしとして。フォーがフォーとして、ただここで、ただ、わたしにできるであろう事柄を、ただ、ここで、為すのみだ。その程度のものだ。どうだ、がっかりしたか?」
「…いえ。特に、がっかりとかは――」
「まあ、ただし―― わたしの中にも、ひとなみの、少しの心は、あるようだ。ここまでお前を呼びつけておいて、そのまま手ぶらで返そう。などとは。わたしもさすがに、思っていない」
「…? どういう、ことですか?」
「そこで待て、」
フォーが大きく息を吸い、
体をうしろに、のけぞらせ、
目を閉じ、両手を広げ――
光が、
フォーの発する金色の光が、にわかに強さを増す。
その輝きが目に痛く感じて、リリアは腕で、光を遮るように目を覆った。
それでもかすかに目を開けて――
光がひとつに収斂し――
フォーの身体の前、
胸の前のその暗き空間に、
ひとつの形となるのを見た。
光が凝集し、ひとつの小さな形を作った。
それは人形。
光で出来た人形だ。
いや。正確には人形ではなく――
人形未満の、何かだ。なぜならそれには、半身がない。
胸より下の部分は、闇に消えて見ることができない。もとより存在しないのだ。
そしてその胸の部分さえも、光がぶれて、黒と光が交錯し、今にも消えそうで、かろうじて、消えずにいる。その程度のものだ。そこではっきり見えているのは―― 形があるのは、首より上の、部分だけ。そして右手が、かろうじて闇の中に光を帯びて見えている。
「…ねえ、さん?」
人形が、言葉を。
人の言葉を、黒が支配するその場所に。
ねえさん、と。言葉を告げた。とても小さく。
「イツキ…??」
少女がそばにかけよった。
そして、その人形を抱く。
人形未満の、光のかけらを。
いま、少女が、胸に抱く。
「ねえ、さん。来て、くれたんだね?」
「イツキ! イツキなのね! わたしが見える? 声が、わかる??」
「うん… わかるよ。感じるよ、ねえさんのこと」
「会いたかった。会いたかったよ!」
「うん。でも、会えた。会えたよ、サクヤ、ねえさん」
「ひどかったね。つらかったね。あの日、あの事件。あんなことが。あんなことが。あなたはぜんぜん、関係ないのに。あなたは何も悪くない。なのに、あなたは―― ほかの子たちも――」
「うん―― でも、それはもう、起こったことだよ」
「でも。だからって、何も関係のない、あなたが、」
「でもね、ねえさん。でも、もうそのことで、誰かを、恨んだりは、しないでほしい」
「でも。でも、」
「もっと明るい、話をしようよ。せっかくここで会えたもの。もっと大事に、時間をつかって。ね?」
「イツキ。ああ、イツキ。わたし、わたしは――」
「会いにきてくれて、うれしい。またねえさんと、少しでも、話せて」
光が少し、瞬いた。一瞬、光は強くなり、
そしてまた、もとの明るさにとどまって。
「僕、大好き、だったよ。いつも、優しかった、サクヤねえさんのこと」
「イツキ、」
「なんだか急に、二人の暮らしは、終わってしまったけれど。もっとほんとは、長い時間を、僕たち、一緒に、生きるつもりで。いたのだけれど。でも―― だけど―― そこであったこと。一緒に二人でできたこと。いっぱい、二人で笑えたこと。二人で一緒に――」
「もう言わないで、イツキ。全部わかってる。全部、全部、わたし、わかるから!」
「うん。だから。その、輝いていた時間を、しっかり、これから、見てほしい。それは、とても。きれいに、光っていたでしょう。輝いていた、でしょう。そのことが、大事、だよ。今には僕にも、それがわかる」
「イツキ、」
「ね。光を。いつも見ていて欲しい。暗いものではなく。明るい、記憶。二人でたくさん、笑ったことを。ね。それを、あっちに、持って帰って。そうじゃないことは、もう、ぜんぶ、過去の―― 過ぎたものたちに、まかせて。ね? 悲しみではなく。憎しみではなく。あったかかった、二人だけの、思い出を。それをあっちに、たくさん持って帰って欲しい」
「うん。うん。持って、帰るよ。ちゃんとわたし、持って帰る!」
「うん。そうして欲しい。ねえ、ねえさん――」
「何?」
「時間が、もう、あまりない。でも。僕は、消えて、いくけれど。ほんとに消える、わけではない。ただ、次へ、移ってゆく。続いて、ゆくんだよ。そのことだけは。わかって。続いて、ゆくのだから。だから、そんなに泣かないで」
「イツキ! だめ! まだよ! まだ行ってはダメ!」
「ねえ、さん。サクヤねえさん」
「イツキ!」
「僕の、ねえさん。大好きだった。たった、ひとりの。世界でいちばん、好き、だった――」
「イツキ!」
「ありがとう。ここまで会いに、来てくれて。最後に、話せて。最後に、言葉を――」
「イツキーーーッ!!!」
そして光は、消えてゆく。
光の形は、消え去った。光は崩れ、闇に還る。
少女の腕には、もう何も残らない。何も重さを感じない。
少女は涙をしぼりだす。少女は声を、しぼりだす。
涙が落ちて、落ちて、闇の底へと散ってゆく。
涙はどこに、ゆくのだろう。少女の叫んだその声は、
いつかどこかに、届くのだろうか。響くのだろうか――
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「またまた無理を、したんですね」
リリアが去った闇の間に、
イーダが静かに入ってきた。
イーダの淡い紫の瞳には、深い静けさと、
そして理解が。そこにはたしかに含まれている。
「あまりやりすぎると、本当に、フォー様自身が壊れちゃいますよ?」
イーダが、今にも崩れ落ちそうなフォーの身体を。
しっかりと、いま、受け止めた。そして支えた。
「…あの程度だ。」
「え?」
「あの程度しか、保持できぬ。あれがわたしの、精一杯の時間。あれより長くは、去りゆくものを、ここにとどめることはできない」
「でも、」
「ん?」
「わずかでも。それができるあなたを。」
「…なんだ? 何が言いたい?」
「それをあえて、とても小さな誰かのために、命を削って惜しまず分け与える。そんなあなたを。わたしは誇りに思います。いえ。わたしたちは。」
「………」
「フォー様。」
「何だ、イーダ?」
「そういう、ムリする、あなたのことを。わたしけっこう、好きですよ?」
「ふ。『けっこう』か。まあ、そうだな。嫌われ、蔑まれるよりは。それでも少しは、良しとしようか」
フォーが笑った。かすかに。弱く。
「微力だな、わたしは」
フォーが自分の右手と左手を、交互にながめる。
無数の蝶が、今も、たゆまず、空間のすべてを埋めている。
生きている暗闇。来ては去りゆく、無数の名もなき魂たち。
「フォー様、」
「ん?」
「無力と、微力は違います。そこにはやはり、力がある」
「む…」
「ですから。その力を。信じましょう。わたしがあなたを信じるように。あなたは、自分がよってたつ、その、源の力を。信じて。護って。育てて、戦っていきましょう。これからも。どこまでも。」
「…そうだな。いや。わたしが育てた島守りの娘に、わたし自らが、このように、さとされ、はげまされる日が来るとは。ふふふ。わたしもずいぶん、衰えた」
「あ。ダメですよ。ここで引退とか、考えたりしたら」
「バカを言え。引退など。誰がするものか… まったく、どの口がそれを言う」
「怒りましたか? 冗談です。さ、肩をかします」
「すまない、」
イーダが、フォーの肩を支える。
薄紫の髪を流した長身の娘と、細く小柄な、輝く髪の少女とが。
ふたりは、ややぎこちない足取りで、
暗闇の中を。命ある闇の中を。
ゆっくりと、歩いて。
そして二人は、
扉の外の、光の中へと。
その先に待ち受ける戦いの、その渦中へと。
二人はゆっくりと。歩みを、すすめて。
そして残された暗闇で、
無言の魂たちが、休みなく、羽根を動かして。
そのかすかなさざめく蝶たちの営みは、誰の目にも止まることはなく。
誰かの耳を震わすこともなく。しかし、それでいて、
その無言の羽音は、どこまでも、けして、尽きることはなく――
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【 メ・リフェ島 最北端
「聖所の入り江」 】
垂直に近い角度で切り立った断崖を、
秘密の小道を伝って、三人は船着き場まで降りてきた。
リリアとわたしと、そしてまりあと。
深い岩場の底に、黒青色の石を刻んだ岸壁と、ささやかな入り江があった。
二艘の黒の小舟が、そこに浮かんでいる。
そのうちの一艘のロープを解いて、まりあがわたしに、乗るようにうながした。
海のうねりが、かすかにボートを下から上へと押し上げる。わたしは揺れるボートの上に立つ。リリアもとなりに乗りこんだ。
「じゃ、元気でね、カナナ。リリアも―― ごめん。ほんとの名前は知らないから、とりあえずそれで呼んじゃう。カナナもリリアも。あっちで、元気でね。もしもカナナがバカをやりそうでどうしようもない時は、ぜひ、リリアが、カナナを止めてやってね」
「ちょっとまりあ。わたしを何だと思ってるの??」
「冗談、だよ。もちろんあんたは大丈夫。そんな無茶は、しない、よね?」
「いろいろ、ありがとうございました」
リリアが律儀に頭を下げた。
「ここでいろいろ、してもらったこと。見せてもらえたこと。わたしは忘れず、全部、持って帰ります。」
「ん。そうしてくれると助かる。ついでにカナナも、あっちまでお願い。途中で引き返すとか言って、島に戻ろうとしたら、リリアが、殴ってでもいいから、とめてやってね」
「ちょっと! さっきから。最後のお別れなのに! そういう話、ばっかりじゃない!」
「ばか。あたしは涙とか、苦手なんだ。空気読みな。これでもムリして、こらえているんだぞ?」
まりあの声が、最後は少し、うらがえり、
大粒の涙が、金色の瞳の上に盛り上がった。
「元気で。カナナ。来てくれて、ありがとう」
「おねえちゃん――」
ふたりは強く抱き合った。雨が世界に降りている。冷たくもなく、暖かでもなく。温度を持たない中立な雨が、二人の身体にふりかかる。リリアもそばで、小さく鼻を鳴らした。
それからリリアが、舟をすすめた。
霧が出始めて、島は、まもなく霧の向こうにかすんで、やがてもう見えなくなる。今では見えるのは霧だけだ。白一色の世界。波がうねり、うねり、しぶきが舞って上下にボートを揺らせていたけれど、リリアはしっかりと前方に定めてボートを進ませた。
霧がひときわ深くなったところで、
ポンッ、という、いささか場違いな電子音が響き、
二人にどちらも見える形で、視界に赤字でメッセージが表示された。
『メ・リフェ島の近海フィールドから、出ようとしています。フィールドへの再エントリーはできません。本当に、フィールドの外に出ますか?』
リリアが指で、『はい』を選択しようと手をのばす。
「あ、待って、リリア!」
わたしは無意識のうちに、リリアの腕を強くつかんでいた。
「アリーさん…?」
「少しだけ。待って。まだ、押さないで」
「でも――」
そのときわたしの心に押し寄せてきた突風のような感情は、とても言葉では言い表せない。二つの声が、激しくそこでせめぎ合っている。戻れ、という声。戻って、まりあと、一緒に戦うんだ。ずっとずっと一緒に。二人で一緒に。ふたりはもう、離れたりは、してはいけない。ここに残るのよ、カナナ。ここがあなたの場所だよ。わからないの??
戻ってはダメ。もう一方の声が言う。あなたは、ここを、出て行くの。それが約束。それがまりあの、希望、でしょう。それはわたしの希望でもある。だから。戻ってはダメだ。そこはまりあの世界。そこはフォーの統べる世界だ。わたしの場所は、また別にある。そこで、わたしは戦うんだ。わたしはそこで。わたしだけの、わたしひとりの戦いを――
戻りなさい、カナナ。今ならまだ――
戻ってはいけない。行くのよ、カナナ。行きなさい。
「アリー、さん、」
リリアがわたしの腕を、そっと、しかし力をこめて、握りかえした。
「まりあさんは、行けと、いいましたよ。」
「うん。」
「だから。行きましょう」
「うん。」
わたしは泣いていた。
涙がもう、止まらない。止めることができない。
わたしは泣いて、涙で、のどを、つまらせながら、
それから大きく、腕で顔の涙を払い、
それから指で。左の腕を大きくのばし、その指の先で。
『はい』を選択。
警告メッセージは解消して視界はクリアになり、
ボートはいつしか、霧の外に出ていた。
空一面を雲が覆い、そこに太陽は見えなかった。
ふりかえると、そこには広漠とした海霧のおおう海域があった。
そのさらに向こうに、フォーの島が、あるはずだ。
でももう、戻れない。わたしはもう、そこに戻らない。
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【 パフィン海 北部海域 詳細位置不明 】
わたしはリリアにかわってボートの前に立ち、
ずっとずっと先、可能な限りの海の向こうを視線でターゲット。
ボートを前へ、進めた。見わたす限り、海の上には何もない。
ひたすらに暗い色をした陰気な北の海が、はるか先まで広がっている。
「アリーさん、出ました」
「え?」
「ログアウトのオプションです。ユーティリティーの選択肢が。ほら。生き返りました。点灯しています。抜けたんですね、本当に。わたしたちは」
「うん。そっか。出れたか。」
わたしは何だかドッと疲れて、舟の底に、座りこんだ。
「終わったんだね」
「はい。」
「ん。そうか。これで、家に、帰れる、わけか」
「あまり帰りたく、なさそうですね?」
「だね。うん。帰っても、あそこに誰もいないもの。暗い、みすぼらしい、安い部屋のみじめな暮らし。そこがわたしの家だから」
「でも、」
「ん?」
「あとで、ログアウトのまえに。住所とか。メールとか。教えて、頂けますよね?」
「うん。いいよ。もちろん。」
「ですから。少なくとも、誰かはいます」
「え?」
「わたしも、そこの住人ですから。同じ世界の、仲間です」
わたしはリリアを見返した。
リリアの、大きなつぶらな輝く瞳を、はじめてこの近い距離で、とても深く、いま、わたしは見つめて。そこにある光に。気づいた。きれいな目だと思った。とてもきれいな。
「うん。ありがと、」
わたしはリリアの右手を、わたしの左手で。そっと、軽く、触れて、それから静かに、包み込んだ。その手を握った。少し、強く。
「でもあれだね、リリア、」
「はい?」
「リリアは、けっきょく、一回も撃たなかったよね、それ」
わたしは視線を、そちらに振った。
リリアの背中のロングボウ。光のないこの雲の覆う海域の上でも、その弓は、見とれるくらい綺麗に輝く銀色だ。
「アーチャーなのに。一回も、撃たなかったね」
「撃った方が、よかった、ですか?」
リリアがわたしの顔をのぞきこむ。
「ん。いや、ちょっとね。今、言ってみただけ」
「もしあれでしたら、いま、海のどこかに向けて、撃ってみてもいいですよ?」
「いや。撃たなくていい。というか、たぶん、リリアはそれ、撃たない方がいい」
「…そうですか?」
「うん。たぶん、あれだね。役割とかって、それぞれ違ってて。ほんとの意味での武器で戦う、まりあみたいな役目もあって。でも、あたしとか。そしてリリアも。たぶん、また、きっと、別の何かがあるんだね。そこには別の戦いが。なんか今は、そう思う」
「別の――」
「うん。戦うっていうことは、何も、殴ったり、撃ったりするだけじゃなく。きっといろんな、戦い方がある。だから。リリアは、たぶん、撃たない方がいい。そういうキャラじゃ、ないんじゃないかな。たぶん。わからないけど」
「わたしはたぶん、ゲームとかは。あまり、向いていないと思います、」
「うん、」
「でも。ほかに何か、できることがあると思います」
「うん。」
「アリーさんも。」
「わたし?」
「はい。きっと何か、たくさん、できることがあるでしょう?」
「ん、どうかなぁ?」
「ありますよ」
「ある?」
「はい。あります。必ず」
「うん。そうかな。そう、思いたい」
「あります」
「うん、」
暗くなりゆく世界の中で、リリアとわたしは、
固く、しっかりと抱き合った。
波が、舟を揺らしたけれど。
風が、二人に吹きつけたけれど、
二人は固く、体をよせて。
長い時間、その海で。
どこでもない、そこで――
リアルと虚構と、そのほかのどこかの、ただ中で――
ずっとずっと、そこで。
果てしない世界の片隅の、その名前のない海の上で。
ふたつの魂は、いま、とても、近く。
とても二つは、近い距離で。
それぞれの温度を、とても近くで、感じていた。
とても近くに。もう、この指で触れられる、その近い場所に。
###################
【 ユーラシア大陸東方海域
日本共和国 トウキョウ市 】
リアルに戻ったわたしは、いくつかの事実を知ることになる。
まず、最初に飛びこんできたのは、フルダイブRPG「ロード・オブ・ソウルズ」に関するニュースだ。世界規模でユーザーのいるこのゲーム、中国・香港特別区のとある企業がリリースしたもので、香港市街のある場所に、巨大なゲームサーバーを設置したゲーム会社の施設がある。今そこで、香港じゅうを揺るがす、大きな騒ぎが起きていた。
香港の警察当局が言うには、サーバーの不正利用と違法な資金管理、また、青少年ユーザーに与える様々な悪影響。それらを憂慮して、このたび、地元警察が一斉摘発に乗りだした、とのこと。ゲームサーバーの差し押さえと、ゲームサービスの即刻停止を、企業に対して厳しく命じた、とのこと。
ところが、
その摘発の情報を事前に察知した、香港、中国のコアなプレイヤーたち、それから、近隣の国からも、さらには、地球の裏側からも。数千単位のユーザーが、香港の街に渡航し、そこでサーバー施設をとりかこみ、「ゲームの存続を!」と、わかりやすいスローガンでデモを行っている。施設閉鎖のために派遣された警察隊と、もうすでに、七日間にわたって、路上でにらみ合いを続けている。一歩も引かず、そこの路上で、若者たちが、武装した当局の警官隊と、正面から対峙していると。
そういう、とても大きなニュースだった。
トウキョウの郊外のさえない集合住宅の一室で、
わたしはそれを、衛星ニュースで見ていた。ただ、見つめていた。
これは何? と。立ち尽くすわたしは自分の心にきいた。
これは何? 何だろう。
何が世界で、起こり始めて、いるのだろう。
それから、他にもわかったことがある。
RPG「ロード・オブ・ソウルズ」の運営会社の名前は、フォー・ゲーミング・インスティテュート。そのトップは、若干14歳の天才プログラマー、香港特別区の市民籍を持つ、ひとりの少女だった。ところが今から二年前に―― 彼女は失踪。その消息は、今でもわかっていない。少女の生死は不明。ただ、運営会社は、しっかりと彼女の意志をつぎ、今でも、そしてこれからも。「ロード・オブ・ソウルズ」のサービスを、一時たりとも止めるつもりはない。止めるつもりはありませんと。数ヶ国語で、強い声明を出していた。過去のニュースのアーカイブの中から、わたしはそのビデオを見つけ、何度もひたすら、繰り返し再生し、その声明を字幕で読んだ。『我々は、「ロード・オブ・ソウルズ」のサービスを、一時たりとも止めるつもりはない。止めるつもりはありません。たとえ我々がこの先、どのような困難な未来に、直面したとしても――』
世界は変わり始めているのだろうか?
昨日まで正しかったもの。昨日までは真実だったもの。
それが今日、どれだけ正しく、どこまで真実なのだろう。わたしには、よくわからない。世界のどこもかしこもが、わたしの知らぬ間に、大きく変わろうとしている。その響きが、いま、たしかな大きなうねりとなって、今、わたしの目の前で展開しはじめている。そしてわたし自身もまさに今、その大きなうねりの中に飲み込まれ始めている――
わたしはここで、何をすべき? 何がわたしの、役割だろう? ここにまりあがいたのなら、彼女はわたしに、なんと言う? 何を、わたしに、して欲しい? あるいはしろと。言うのだろうか? わたしの役割。わたしの使命。わたしの――
###################
数日後。
午後の遅い時刻。雨の空港の三階ロビーで。
顔を上げると、リリアがそこに立っていた。
リリアはここでは、サクヤと言った。
でも。とても似ていた。
髪の色は、少し違う。
目の大きさは、少し違う。でも。
そこに立っているのは、たしかにリリアだ。間違いない。
「アリーさん、ですね?」
「うん。おまたせ。って、逆か。わたしがむしろ待った方」
「ギリギリになって、ごめんなさい。高速の渋滞が、ひどくて。でも。うわぁ。なんか、あれですね。髪の色以外は、なんか、ほんと、そのままです」
「え?? わたし、あんな、アリーみたいにキツイ目、してるかなぁ?」
「いえ、キツくは、別に、ないですけど。でも、声の感じも。その表情も。とてもよく、似ていますよ。えっと―― ほんとのお名前は、カナナさん、でした、よね?」
「うん。でも。呼びやすければ、そのままアリ―で、呼んでくれてもいいよ。わたしもたぶん、ときどき間違えて、リリアって呼んじゃいそう」
「いいですよ、それも。わたし好きです。気に入ってますから。あの世界での名前」
『トウキョウ発、ホンコン行き、672便、御搭乗のお客様にお知らせします――』
天井のスピーカーからアナウンスがある。
天候不良のため、定刻から少し遅れるが―― それでも離陸はあるだろう。
どなたさまも、お手荷物のチェックインを――
どなたさまも、お手荷物のチェックインを――
そこまで聞いて、わたしは素早く立ち上がる。
「じゃ、行こうか。チェックイン」
「はい、」
「なんだかゲームの続きみたいね、」
「はい。まだ、続いていますね」
「でもこれは、ゲームなんかじゃない」
「はい。そうです。リアル、ですね。とてもリアルなゲームです」
「あは、そこ、ゲームって言っちゃう?」
わたしは笑う。そしてリリアの手をとった。
リリアがわたしの手を握りかえす。リリアにしては、とても強く。
「戦力としては、微力かもしれませんが。」
リリアがわたしにつぶやいた。
「でも。ひとりでも、多い方が。ひとりでも。ふたりでも。戦力には、変わりありません。」
「うん。正論だ。じゃ、行こう。二人の戦いは、これから、だね?」
「はい。これから、です」
雨の空港の吹き抜けのロビーには、多くの人々が入り乱れている。
着く人。去る人。迎える人。見送る人。
わたしたちは、そして、去る人、の列に加わる。
いや。「去る」のは、正確ではない。「行く人」。そこへ、これから「向かう人」だ。
やがてここから時間が過ぎて、明日という日が来たときには、
わたしはすでに、もうそこにいて、
その街に集う、まだ名前も知らないたくさんの仲間たちと。
そこを護るために。みんなで、戦うのだ。みんなで。まだ名前も知らない、世界の仲間たちと。わたしたちは。わたしとリリアは。そして、もう今も戦っている、さらに何千という、まだ名前も知らない、この世界の多くの仲間たち――
行くよ、そこに。だから待っていて。
わたしたちが着くのを、そこで。ずっと待っていて。
戦おう。戦おう。わたしたちも行く。
わたしたちも。そこで。しっかりと手をにぎりあい、
みんなと、そして、わたしとリリアと。そして。そして。
その続きは、もう、そこに。
雨の降りしきるこの灰色の街の外、
海をへだてた、その、わたしの知らない大きな街の、その特別な場所で。
新たなひとつの物語が、もうそこでわたしを待っている。
【 フォーの聖所 完 最後までありがとうございました! 】
フォーの聖所 ikaru_sakae @ikaru_sakae
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