エピソード 4

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「ねえ、どう思う?」

 私はベッドの上で寝返りをうち、リリアの方に声を投げた。

 来客用の、小さな寝室。ほぼ真っ暗だけど、窓側のカーテンを通して、かすかに外から、白っぽい光が入ってくる。月なのか星なのか、それとも単なる光のエフェクトなのか。光がどこから来ているかは不明。子供達と、シーマとエルナは、壁をはさんだむこう側、隣の広い寝室でみんな一緒に眠っている。時刻は夜の深い時間。ゲームシステムの時計が死んでいるから今がいつかは正確にはわからない。

「何を、ですか?」

 むこうのベッドからリリアがきいた。特にパジャマのようなコスチューム・オプションがないので、わたしもリリアも、ふだんの装備のままで横になっている。ちょっぴりおかしいと言えばおかしい。ふだんリリアが背中にかけている銀色のロングボウは、今も彼女の背中にかかったままだが―― でも、そこはゲームビジュアルにありがちな、なぜかそれだけベッドを透過し、ビジュアル的にすり抜ける処理が発動している。だからたぶん、リリア的には、ベッドに寝ていて特に背中に違和感は感じていない、はず。

「さっきの話よ。ここの島の住人が、みんな一度は死んでいるって話」

「…ん。まあ、最初聞いて、びっくりはしましたけど――」

「ほんとかなぁ? あれ、実は全部、シーマもエルナもNPCってことはない? 実はすべて、ゲーム内の虚構とか?」

「…にしては、言動があまりにも、リアルです。あまりにも生き生きしています。あの、昼間一緒に遊んだ、人形の子たちにしても――」

「そこは、そうよね。ビジュアルは人形だけど―― でも、NPCにしては――」

「それに話が、とても具体的です。特にあの、虐待の話とか」

「うん。そうね。あれ全部、作り事とか、さすがにそれは、ないかと思う。あの子たち、あんな可愛い見た目だけど。ここに来るまでは―― その――」

「過酷、ですね。ほんとにひどい。聞いていて、わたし、涙が出そうになりました」

「うん。でも。やっぱりまだ、わたしはちょっと、まるごと信じるのが難しい。死者たちの島。死んだ子供たちが、死後に集まる場所――」

「でも。わたしたち最初から、その――」

「何?」

「ここで、その、死者に会える。その可能性に賭けて、来てみたわけではありませんか? もちろん半信半疑でしたが―― でも、もしかしたら、って」

「そうよね。そう言われれば」

 わたしは認めた。毛布を、首のところまで引き上げる。毛布はほとんど重さを感じさせず、でも、かぶると、わずかに体感温度が上がる感じは確かにした。

「でも。実際、死者は、まだ、死んでないですよ。ここにいますよ。って、面と向かって言われても。まだあまり、ピンとこない。実感として、ついていけてない。なんだか変な気分。ここがいったいどこなのか―― 夢なのかゲームなのか、それともリアルなのか。そこの実感が、ぜんぜん、湧かない。これっていったい。なんで、なんでわたし、こんなとこまで来ちゃっているんだろう」

「でも、もしかしたら――」

「ん?」

「リアルな世界も、じつは、ここと同じなのかもしれません」

「同じ? それって意味は?」

「あそこもじつは、ゲームみたいなもので。みんながリアルだと、全員が勘違いしてるだけで。じつは、そこなりの、それなりの魂の入れ物を、用意してあって。ただみんな、リアルなふりをしている、だけなのかも」

「ん。なんか今、深いこと言ったね」

「深いですか…?」

「や、でも。そうね。あらためて言われると―― ぶっちゃけ、そうなのかもね。ゲームの中のゲームの中のゲームに、みんなじつは最初っから巻き込まれていて。ほんとにそこがどこの場所なのか。わからないまま、みんな生きてる―― なんてね」

「いま、アリーさんも深いこと、言いましたよ」

「あれ? 深かった?」

「はい。深かったです」

 リリアがクスッと笑った。そっちのベッドで、彼女が少し横になる角度を変えた。

「でも明日、会えるんでしょう?」

「ああ。まりあ、ね。お姉ちゃん。もうとっくに死んじゃったはずの、バカ姉貴」

「嬉しい、ですか?」

「ん。どうかな?」

「楽しみ、ですか?」

「いや―― それよりちょっと、不安、だな。」

 わたしは正直に言った。

 不安。そう。それが一番、近い言葉だと思う。

「なんか、死者と会うとかって。やっぱりちょっと、怖い気がする。会って、何、話せばいいんだろう。それって相手は、もう、死んじゃっているわけだし――」

「じゃ、会いたくないですか?」

「ん。いや。会いたくないかって言われたら、やっぱりちょっと、会いたい。会って、じっさい、確かめたいよ。何がどうなって、ここに姉貴が、なぜ、まだいるのか」

「でも、わたしの弟は――」 

「弟さん。まだ確認がとれない、って言ってたね」

「わたしは会いたいと思います。会って、もう一度、声がききたい。あの子が話す、あの声が」

「んん。見つかると、いいよね。はやくデータの照会がとれて」

「会いたい。です」

「ん。」

「会って、いろいろ、会って――」

 リリアは、静かに泣いていた。最初は静かに、泣いてた。でも、だんだん、しゃくりあげるみたいに、声が―― 大きな嗚咽をあげて、リリアがボロボロ泣いていた。

 わたしはそっちのベッドに行って、泣かないで。って、言って、抱いたり、頭をなでたり、してあげた方がいいのかなぁ。って、思ったりもしたけど――

 でも、しょせんはわたし、その子の、弟、ではない。妹ですらない。姉でもない。

 そういう何でもないわたしに――

 その子のために、いったい、どんな言葉を、かけてあげる資格があるというのだろう?

 それを考えると―― 言葉が、出てこなかった。

 大丈夫よ。とも、言ってあげれない。じっさい大丈夫かなんて、誰にもわからない。

 泣かないで。って、言ったって。今はたぶん、むしろ泣く時なのかもしれない。

 泣くのが悪いとか、誰が決めたの。泣くときには、たぶん、泣かなきゃダメだったりするのよ、きっと。


 とか、

 ちょっぴりひねくれ者かもしれない。けど――

 わたしは結局、何も言わず――

 ただ、静かに、そこで無言で、ただ、隣のベッドで、横になっていることしか。わたしには、そこで、できなかった。わたしには、それしか。

 でもやがて――

 そのまま、泣きながら、

 リリアは眠ったみたいだった。


 そっちで声が聴こえなくなってだいぶたってから、

 わたしはこっそりベッドから起きて、リリアのベッドに、こっそり近づいた。

 カーテンから入る、かすかな白い夜の光の中で、リリアの銀色と白の中間色のボリュームある髪が、しっとり光って見えていた。瞳は固く閉ざされて―― その頬は、涙でひどく濡れていた。わたしは自分の手の甲で―― その、彼女の顔の涙をこっそりぬぐった。ぬぐうと、涙はたちまち小さな水泡のエフェクトとなって綺麗に散り消えてなくなった。わたしは同じ手で、彼女の髪にかすかに触れた。たしかな髪の感触がした。リアルだ。ゲームだけど、とてもリアル―― これがもし、本当じゃなかったら―― 本当のことって、いったい何なのだろう。わからない。いろいろ、リアルがわからない。


 これはリアル? それとも――

 自分のベッドにふたたびもどって、わたしは自分に自問した。

 誰もそれには答えてくれない。答えはたぶん、自分の心の、中にしか。

 うん。たぶん―― 何が、リアルで、そうでないのかは――

 その人の目、その人の心、そしてあとは――

 あとは何? 答えはほかに、どこにある…?


 そういうまとまりのない、ぜんぜん論理的じゃないわたしの頭で――

 ひとおおり、真面目に、めずらしく真剣に考え続けているうちに――

 わたしの意識は、どこか遠くに消えていた。

 眠り、と。たぶんそれは呼んでも良いものだ。

 でもそれはあまりにも無で、何も、何一つなさすぎて――

 わたしの意識は、その無の中に、深くうずもれて、消えていった。 



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「カナナ」

 

 リアルな名前を呼ばれた。

 目を覚ます。そこは見なれない景色だ。

 どこか暗い部屋にわたしはいて――

 ああ、そうだ。ここはゲームの中。

 わたしはプレイ中にログアウトできなくなって――

 寝る前のことが、一瞬で脳内再生される。

「ちょっと。あんた、まだ寝ぼけてる?」

 頭をちょっぴり小突かれて、顔を上げる。

 さっぱりした金色髪の女性が立っていた。

 わりと長身。細身。赤が基調のチャイナ風のスカートドレス。

 ん。このヒト、知ってる。前に会った。

 名前はたしか――

 まだ定まらない意識で、彼女をターゲット。


 ヤンカ・ヤンカ


 武闘家のヒトだ。島に着いて最初のタイミングで助けてくれた――

「思ったより早くウトマに着いたの。ちょっと早すぎたかな?」

 その人が、いたずらっぽくささやいた。金色の目をわずかに細め、ベッドの上からわたしをのぞきこんでいる。口元はちょっぴり笑ってる。

「あ。おはよございます、ヤンカさん」

 わたしは目をこすった。

「ヤンカ、でいいよ。あと、ございますとか、敬語もいいから」

「えっと。あれ? でも、もう戦闘とかって、終わったんですか? グマの親衛隊とかって――」

「もう全部、やっつけた。数が多くてちょっぴり手こずったけど、基本、雑魚ね。あんなのは。」

「すごい。強い。」

「ねえ、外、出ない?」

「外?」

「うん。まだ早いし。もうひとりの子、まだ寝てるし。」

 ちらりと、もうひとつのベッドに視線を送る。そっちではリリアが向こうに体を向けて、まだ眠っている。

「ここで話してたら、あの子も起きちゃう。それに、あんたとは、ちょっぴり二人で話がしたいんだ」

「あ。えっと。ええ、わたしは別にいいですよ?」

「敬語。もう、それ、よしなさいって。あたしは別に、偉くもなんともないんだから」

 そう言ってヤンカは、わたしの頭をバシッと軽く、叩いた。

 なんかこの、なれなれしさは、どこかで確かに記憶ある。

 違和感。なんだろう。胸がすごく、なんだか急に、どきどきする――


 ヤンカのあとについて、家の外に出た。

 まっすぐ足早に庭をつっきって、玄関のアーチをくぐる。

 まだ夜の明けない、暗い路地に出ると、迷いない足取りで 路地から続く急な登り階段をスタスタとのぼりはじめた。

「えっと。どこ、行くんですか?」

「上のほう。景色いいとこ、知ってるから。そこまでそんなに遠くない」

「ああ、そう――」

 気温は低めで、周囲には、たぶん、朝霧というのかな、

 うっすらもやが、かかっている。周囲は暗くて、ところどころともった家々の明かりが足元を照らす。階段は、途切れなくひたすらに崖の上へと続いて行く。かなり登った。だいぶ家が少なくなって、ごつごつした灰色の岩肌が、直接そのままむきだしになる。

「でも、ヤンカさんは、何でまたウトマに?」

 足もとに少し気をとられながら、わたしはヤンカの背中にきいた。

「用事って、ここでまた、何かあるんですか?」

「敬語。」

 ヤンカが笑ってふりかえる。足をとめ、口元に笑いをためながら、首を左右に振った。「あんたそれ、敬語はもうよしなさい」の意味だろうと、わたしは理解する。

「あんたもけっこう、鈍いわね」

「鈍い?」

 わたしはききかえす。

 ヤンカはこっちを見ないで石の階段を少し先まで登りきった。もうだいぶ、標高が高い。ふりかえると、さっきまでいたウトマの街はすっかり夜明け前の霧に沈んで―― まるで雲の上に、立っているみたいだ。その雲のずっと先に、谷向こうの険しい峰が、ずっとかすかな遠景として見えている。

「いいかげん、わかりなさいってこと。」

 ヤンカはなんだか、からかうみたいに言って、そこからは、崖の上の細く白い道を、迷いない足取りでわたしを先導した。ヤンカの背中を見ながら、わたしは、なんだかまだ眠りから抜けきらないアタマで、とりあえず、後についていく。

「そもそもあんたは、何しに来たのよ? この島に?」

「えっと。それは――」  

「面会、だったんでしょ?」

「はい。じゃ、なかった。ごめんなさい、また敬語。えっと。そうです。姉に、会いにきました」

「死んだっていう、そのお姉さん?」

「はい。」

「どうして死んだの、その、お姉さんは?」

「…わからないです。」

「わからない?」

「はい。冷たい、冬の海で。ひとりで、死んでいました。自殺かもしれないし、他殺かもしれません」

「どっち?」

「自殺か、他殺?」

「そう。あんたはどっちだと思った?」

「…どうかなぁ。体は、きれいだったから―― たぶん、何か―― 自殺のほうが、当たりかな、って。」

「そう思った?」

「はい。うん。なんとなく、だけど――」

「自殺は当たりね」

「え?」

「自分で自分を殺した。でもたぶん、そこまで本気で死ぬつもりでは―― 本人は、なかったのかもしれないね」

 朝霧の上にうかぶ岩山の細道を、その人は、危なげない足取りで、こっちを見ずに歩いていく。

「…なんで、そんなこと、あなたが知ってるの?」

 わたしは言った。声はとても、乾いていたと思う。

「なんで知ってるか? だって。それ、自分のことだもの」

「……?」

「もう。鈍いわね、あんたも」

 ヤンカが足を止め、こっちをふりかえり、笑った。

 とても皮肉で、乾いた感じの――

 でもそれは、とてもよく知っている――

 わたしの知ってる、その人の、笑い、だった。その人の。

「おねえ―― ちゃん?」

「よく来たね、カナナ」

 彼女が言ってこちらにまっすぐ片手をのばし、わたしの頭をつかんで、ぐりぐりと左右に乱暴に揺り動かした。

「ずいぶん遠くまで、来させてしまった。感謝してるよ。言葉信じて―― ちゃんと来てくれたこと。普通は来ないよ。馬鹿げてるもの。最初から、話じたいがね」

「…おねえ、ちゃん?」

 わたしは感情が、あふれすぎて。気持ちがあまりに、あふれすぎて。

 言葉が、もう、言葉にならない。

 おねえ、ちゃん。おねえちゃん。

 おねえちゃん、おねえちゃん。おねえちゃん。

 その単語ばかりが、ひたすらわたしの舌の上でリピートされた。

 それ以外の言葉はもう、何も今は浮かんでこなかった。


「すわろっか、そこ」


 彼女が言って、先にそこに座った。岩の上。

 冷たい、つるりとした灰色の岩肌に――

 ためらいもなく、さっと、無駄のない動作で座った。

 わたしも横にすわった。

 足元に見えるのは、霧だけだ。

 まだ太陽は山むこうから出てこない。

 その光の、かすかな気配もわからない。

 ずっと足元を流れる霧と。

 いま、わたしたちのいる、灰色の山肌と。

 ずっとむこうの、谷向こうの峰。

 それだけ。それだけがいま、世界のすべて。



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「どうして死んで、しまったの?」

 わたしはきいた。

 ひとしきり泣いて泣いて、

 涙がだいぶ、おさまって、

 ようやく最初の質問。

 ちらりと横を見ると、

 おねえちゃんは――

 その、ヤンカの姿をまとったわたしの姉は――

 どこかずっと遠くの霧を見て、それから、口のはしで、声をたてずに笑った。

「どうしてかな。ほんとに死ぬつもりは、なかったのだけど」

「事故――?」

「とも言える。でも、自殺かな。いろいろうまくいかなくて、人間関係テンパって、もうダメだなと思って。薬を飲んで、そのまま海に入った。何か、そういうの、いっかいやってみたかったんだよね」

「やってみたかった?」

「うん。そういう、絶望した女の子のやりそうな、いかにもなこと、とかさ。ドラマとかの見すぎかもしれないど。なんか、衝動的に、さ。そういうの、演じてみたかった自分がちょっといたんだね。でも、演じたつもりが――」

 彼女はそこで言葉を止めて、左右に首をふり、

 それから少し真剣な目で、自分のブーツの先のあたりを見た。

「バカだね。そんなのやったら死ぬことくらい、わかりそうなもんなのに。季節は二月で。雪まで降ってて。普通に泳いだって死ねる気温だ。そこで薬やって、ね。バカだ。」

「おねえ、ちゃん――」

「いろいろ、迷惑かけた。あたしがもっと、ちゃんと稼いで。あんたを学校にやったりとか。あんたが無理なバイトしなくても普通に暮らせるくらいには。あたしが、もっと――」

「ううん。そんなことない。おねえちゃんは、いつも、がんばってくれてたよ。すごく、感謝してた」

「まあ、そう言われるとちょっとは心がなごむね。まあでも、ダメな姉だったのは本当。いろいろあんたに、迷惑かけた」

「迷惑とか。そんなの、考えたこともなかった」

「いい子だ、あんたは。あたしの妹にはもったいない」

「そんなことない。いい子、なんかじゃ、ぜんぜん、ないから――」

「まあ、でもね。タイミング的にさ。あれよりほかに、選びようがなかった部分も、ちょっとある。」

「タイミング…?」

「うん。いろいろあたし、バカだから、お金のやりくり失敗して、おっきな借金したりとか、しててさ。あんたには、恥ずかしくて、そんなの言うこと、できなかったけど」

「………」

「でも、借りた相手が悪くて。すごく危険なヤツラと、つながってたりもして。あたしもそれほど、善良な市民じゃないし悪い事バカなこと、いっぱいしてきた。それでもなんとも思ってなかった。でも。下には、下がいる。悪いやつには、底がない」

「………」

「そういうのにつかまったら、もうちょっと、厳しいよ。身動きとれない。脅されたり、いろいろ、ちょっと口では言えないこと、やられた。でも、抜けられない。あんたもうすうす、知ってたかもしれないけれど。あたし、体うって、いろいろ、やらしいことして、汚いことして。そうして何とか、借金かえして。ちょっとはましな暮らし、あんたに、させてあげたらとか、そんな甘い事、ずっとずっと、できもしないで、考えるだけで。」

「おねえ、ちゃん――」

「でも。状況は、どんどん、どんどん悪くなった。で。雪の二月のあの夜に、これもう、無理かなって。ちょっぴり思ったんだよね。これ以上、ムリだ。そしてこれ以上続けたら、ぜったいあたし、あんたを巻き込む。そしたらもう、あたしだけの問題じゃなくなる。それはいやだ。それだけはいやだ。あんただけは、ぜったいぜったい、巻きこめない。いやだ。それだけはイヤ。だったらもう、あたしがひとりで、さっぱりきれいに、消える方がいい――」

「おねえ、ちゃん、」

「ごめん。カナナ。こんなとこまで来てくれて、姉から聞けた話が、こんなしょぼい、ほんとに底辺の告白話、とかさ。カッコ悪いよ。でも、これが本当。こういうのね、ちょっとは伝えずに、あんたと永遠に会えなくなるの―― それはでも、嫌だなって。どんだけどんなにカッコ悪くても―― あんたには――」

「………」

「だって、あんただけが、家族、だからね。ほかには誰も、いないから。たったひとりの。だから。どんなにバカでも。どんなにくだらない話でも。あんたに、ほんとの、話だけは。ちょっと、したかったの。それだけは。だから、メッセージ出した。あの人の許可とって、あんたをここまで招待した」

「あのヒト?」

「フォー様っていって。この島のボス、というか。ここでのいろんなことを管理している。偉い人だよ。賢い人。あたしはそれほど、嫌いじゃない」

「………」

「でも。ほんとに来てくれるとは、あんまりあたしも、期待はしてなかった。いかにゲーム狂のぶっ飛んだあんたでも。こんなバカな話、さすがに信じないだろうって。ゲームの中で、死んだ姉貴と会いましょう? バカな。誰が信じる。誰が来る? 来ないよ。ふつう」

「でも、わたし、来たよ」

「だから。あんた、ほんとに、大好きだ。大好きだよカナナ。感謝してる。こんなバカな姉の、死んでまでバカな話にあんたをつきあわせて―― 遠くまで呼びつけたりして――」

「ぜんぜん、バカじゃないよ。お姉ちゃんは、バカじゃない」

 わたしは首をはげしくふって――

 となりの彼女に、ぴたりと体をくっつけて。

 肩を、抱いた。しっかりと。左の腕で、彼女の肩を。

 バーチャルだけど、バーチャルじゃない、

 姉の、肩を。大好きなその人の、その肩を。

「ごめんね、って。ひとこと、それが言ったかったの。ごめん、カナナ。中途半端で何もかもを投げ出した、この、バカなあたしを許してって。言ったらちょっと、都合よすぎる?」

「ううん。都合とか、どうでもいい。わたしは許す。ぜんぶすべて、許します。というか、何も悪い気持ち、ひとつも何も、おねえちゃんに、持ったりしてなかった。許すとか。そんな何か、悪い何かを、おねえちゃんは、したわけじゃない。ぜんぜん何も、していない」

「そう言われると、ちょっとはあれね。心がちょっぴり、しんみりするね」

「おねえちゃん、」

「何?」

「もう、どこにも行かないで」

「…カナナ――」

「もう、ずっと、一緒にいよう。ずっとずっと、一緒に。ね?」

「……それはムリ」

「どうして?」

「面会の時間は、限られている。あんたはあっちに、戻らなきゃいけない」

「なぜ?」

「なぜ、とかない。どうして、もない。だってあんたは、まだ、あっちで、生きているのだから」

「お姉ちゃんも、ここで、今、生きてる」

「そうね。生きている。それは正しい。でも、ここはたぶん、移行する場所、だよ」

「移行する…?」

「そう。世界から世界へと渡っていく魂が、一時のあいだ、羽根を休めるんだ。ここはそのための場所。フォー様が、そういう孤独な渡り鳥たちのために、束の場の、休息の場所を、ここに作ってくれた。たぶん、そういうことだと思う。ここに誰かが、永遠にとどまることはできない」

「でも。しばらくなら、一緒に、ね?」

「今がたぶん、その時間よ」

 姉は小声でそう言って、右の腕で、わたしの背中を強く抱いた。

「今、一緒だから。今の、これ。この時間。これがきっと、あたしがあんたに差し出せる、精一杯の何かだよ。だから、カナナ――」

「ずっと一緒に、いてほしい」

「ムリだ、それは」

「ムリでもいい!」

「ムリだ」

「ムリでも!」

「ったく。わがままな、駄々っ子じゃないか、それじゃ」

「わがままでもいい! おねえちゃんと、一緒にいたい!」

「カナナ、」

「大好きだよ、おねえちゃん。ほんとにほんと、大好きだ」

「あたしも好きだよ、カナナ。好きだった」

「過去みたいに、言わないで」

「そうだね。うん。そこはちょっと、悪かった」

「おねえちゃん、」

「カナナ、」

「まりあ、おねえちゃん、」

「カナナ、」「おねえ、ちゃん――」



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【 メ・リフェ島北部

     「色のない水」北端 】


「北の尾根」と呼ばれる岩がちな山々のもっとも北、山並みが海に尽きる所。

「フォーの聖所」はそこにあった。

 メ・リフェ島の北部のその場所では、雨が降り止むことはない。

 世界にこの島ができて以来、雨は一度も止んだことがない。

 と言っても、それほど強い雨ではない。

 傘をささずに長くそこに立っていたとしても、体をひどく濡らすほどではない。

 尽きない雨が、その場所にひろがる浅い水面に、無数の波紋をつくっている。「色のない水」と呼ばれるこの土地は、水深があまりに浅いため、水には覆われているものの、誰もが湖とは認識していない。そこはあくまで水に覆われた大地であり、南から北へ、また北から南へと、ここを歩いて渡ることには何らの支障もない。

 冬が来て島の峰々に雪がおりても、この場所に降るのはやはり雨だ。大地よりも空よりも、ここでは雨こそが、この場所にあるもっとも本質的なものであり、これからもそうであり続けるのだろう。「フォーの聖所」は、そのような土地にある。


 誰が最初にその名でここを呼び始めたのかは、今ではもうわからない。

 この島の主たるフォー自身は、自分を何か聖なる者だと考えたこともなかったし、ほかの誰かに、この場所を神聖視するよう命じたこともなかった。しかし―― 幾年もの風が吹きわたり、幾代もの雨が大地を濡らし、今では誰もが当然のように『聖所』とここを呼ぶようになった今、また新たに別の名でここを呼ばせよう、『聖なる』の文字を不使用にさせよう。などと、考えるほどにフォーは暇ではなかった。だから、呼ばれるにまかせていた。「フォーの聖所」。その響きは、最良の名ではないにせよ、それほど悪いというものでもあるまい。フォーはそのように考えていた。いや、考える、というほどに、じっさいには深く考えたこともなかったのだが。


 降りつづく雨の中、「島守り」の頭(かしら)をつとめるイーダという名の紫髪の娘が落ち着いた足取りで聖所の門をくぐった時、フォーは「黒の間」と呼ばれる高層の広間で、「人形」をつくっていた。人形づくりは根気と精神力を要する作業だ。ひとつ人形を作るたびに、フォーは自分の全身が固い石の床に何度も打ちつけられた後のような、重く冷たい痛みと疲労を感じ、立っていることすらつらいと感じたが、そのつらさを、あえて周囲の者に訴えるつもりもなかった。言って痛みがやわらぐわけでもないし、誰かの同情が欲しいわけでもない。

 ただ、やはり疲れる。とても重い疲労感。これは何度経験しても変わらない。

 フォーのいる『黒の間』は、その名の通り、広間の全部を暗黒が覆っている。初めて入る者の目には、黒一色の虚無、とも見えるであろう。しかしフォーは、繰り返される日々の大部分の時間を、この黒の間で過ごしてきた。だからフォーには、見えている。フォーは知っている。ここは単なる、闇だけの広間ではない、ということを。

 蝶だ。

 幾万もの蝶が、舞っている。

 蝶の色は黒。闇にまぎれてその形を見ることは難しい。

 難しいが――

 フォーは、五感で、その形を捉えることができた。

 五感のうちのどの感覚が、実際に蝶の存在をフォーに知らせてくれるのか。

 それはフォー自身にも、言うことができない。

 ただ、わかった。フォーにはわかる。

 そこに、彼らがいるのだと。

 そこにはつねに、彼らが、舞っている。

 フォーは暗闇の中に手を差しだし、

 ひどく繊細な、かすかななめらかな動きでもって、

 その、幾万の蝶のうちの、ひとつを、かすかに、指先でつかむ。

 壊してはいけない。けっして壊したり、脅かしてはいけないものだ。

 ただ、触れる。ただ、そっと、指の先で、その蝶に向かって語るのだ。

 なんじ、移行する魂よ。

 なんじは、形を、欲するか。

 なんじは、生を欲するか。

 生きたいと、願うのか。

 ここで形を。生を。ふたたび輝かせたいと。

 おまえは確かに、思うのか。

 蝶よ―― 

 フォーの指は、このように語る。

 そして蝶は、答えるのだ。

 生きたい、と。

 その答えを、フォーの指は待っている。

 指はそれを受け止める。

 フォーが命をつかまえる。

 そして――

 闇の中に、光が生まれる。

 それは白い光。

 光は徐々に輝きを増し――

 いつしかフォーの両腕は、光り輝く人形――

 人間の美と端正さを小さく凝縮したそのデザイン、

 人とは呼べない、人以下ではある、

 しかしたしかに、美しい、その小さな人形を。

 フォーは、闇の中から抱き取って、聖所の冷たい石の床に、

 世界で最も高貴なる宝石を扱うのと同じ、最大限の敬いの手つきで、

 しずかにフォーは、人形を置く。

 そしてフォーは身をかがめ、その人形の唇に、かすかな口づけを与え、こう言うのだ。

 さあ、おまえは再び、自由。

 行って、生きなさい。

 ここはお前の島。いかなる他者も、ここではおまえを傷つけまい。

 移行する魂よ、移ろいゆく者よ、

 生きよ。ここで。心ゆくまで。

 ここはおまえの島なのだ。

 その命、ふたたび尽きて、闇がおまえをふたたび捉える、

 その、抗い難き破壊のときまで。島が、おまえを護るだろう。

 さあ、立ちなさい。

 わたしの愛しき、わが島の子よ――



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「また、成形の儀式ですか。体がよく、もちますね」


 声が鳴った。


 儀式を終えて朽ちかけた体を引きずるように階下の謁見の間に戻り、

 しばしの休息の淵の底でまどろんでいた、小柄な少女の肉体を持つ、聖所の主。

 フォーが、ようやく視線を上げた。

 そこにひとりの島守りの娘が立つ。

 薄紫の長い髪を無造作にたなびかせ、体の線にぴたりと合った黒の短衣は、きわめて東洋風のデザインだ。三つの「カタナ」を背中に帯びたその長身の娘。

 名前はイーダ。「島守りの長」の称号を持つ。その東洋風の剣を振るわせたら、イーダを凌駕できる相手はおそらくいない。今まで誰にも負けたことはないし、これからも負けるつもりはない。娘はそのように、とても単純に考えている。

「東浜、シュメーネ河口で戦っていたメルダとウィルジーナから、報告がありました」

「聞こう、」

 フォーが奥の台座からおりてきた。流れたなびく黄金の髪が、薄暗い謁見の広間に光を放った。先ほどの儀式の疲労が、ぬぐいきれない重みとなってフォーの表情を鈍らせている。が、特に気分が悪い、ということもない。ただひどく、疲れているだけだ。

「報告。島の脅威は排除されました。グマの侵攻軍は全滅、です」

「うむ。よくやってくれた」

「しかし、まだ終わっていないんですよ。これがね。」

「と、言うと?」

「増援が。海を超えて、十六個師団の規模で軍船団が新たに接近中との情報」

「多いな、それは」

「敵も、飽きないですね。そして懲りない。まあでも、今回レベルの兵士らであれば、我々の敵ではありません。ただ、それを上回るレベルの兵で軍勢を組んで攻めてきた場合には――」

「ちと、やっかいだな」

「はい。あまり楽観はできません。まあ、だからと言って悲観もしていませんが」

「うむ。護るしかあるまい?」

「はい。その通りです。シンプルです。選択肢はない。戦いましょう。そして勝ちましょう。勝てます、おそらく、私たちは。」

「島守りを、召集。」

 フォーが、円形の大窓の外に煙る、水に覆われた大地の彼方に。感情の読めない、金色と深い赤の入り混じった小さな瞳をそちらに向けた。

「連戦につぐ連戦で申し訳ないのだが。私には、おまえたちを頼る以外に術がない」

「ご心配には及びません。我ら、全力を尽くしてお護りしますよ。ではすぐ、召集をかけましょう」

「しかし、あれだな。ヤンカは、今――」

 思い出したように、フォーが言う。

 視線を広間の中に戻し、初めてイーダの方を見た。

「妹と面会中、ですね」

「む。大事な時間だな」

「でも。戦力的に、ヤンカが抜けるとキツいです」

「では、呼ぶか?」

「はい。ちょっぴり、気の毒ですが――」

「ふむ――」

 フォーは少し、迷ったようだ。視線を下げて、自分の両手を、右、左、右と、かわるがわる目で追った。まるで手の中に残った、蝶たちの羽根の軽さ、あるいはその羽根の重さ。それをあらためて、記憶の底から思考の淵へと呼び戻すかのように。





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【 メ・リフェ島中部

    ヒョルデ渓谷内 工房都市ウトマ 】


 行かなきゃダメだ、とまりあは言った。

 その朝、ようやく二人は会ったばかりなのに。

「召集がかかったの。島守り全部が、フォーの聖所に。行かなきゃならないわ」

 ヤンカのビジュアルの姉のまりあ。小麦色に光る大きな瞳を鋭く細めて遠くを見た。

 子供達の家の庭、芝生の上に毛織のラグを広げてテーブルがわりに、みんなが朝食をとっている時のことだ。まりあはティーカップの紅茶を一気に飲み干し、立ちあがった。

「あんたたち二人は、すぐにも島を出た方がいい。ここに長居すると、また戦闘に巻き込まれる」

「ええ! そんな。だって、やっと会えたのに」

「ぐずぐず言ってる暇はない。今ならまだ、西側のラシーデの浜から小舟で出られる。そっちの海は、まだしばらく安全」

「でも――」

「『でも』も『だけど』もない。万一ここで何かあったら、あんた、ほんとに死んじゃうんだから。世界から消えちゃう。あんたのそのレベルじゃ、防戦とかもムリそうだし―― ん?」

 まりあが視線をわたしから外した。どこか、視界の左下のあたりを見て、そこに指をもって行く。そこにたぶん、何かのポップアップ・メッセージが出たのだろう。

「またメッセージ来た。えっと… 何?」

 まりあが一瞬、みけんに眉をよせて難しい顔をつくった。

「『ヤンカ・ヤンカは、フォーの聖所まで「リリア」を送り届けること。家族との面会に関して、フォー様が、直接リリアに話をしたいと言っている』だって。へえ。珍しい。フォー様が外の誰かに会うなんて」

「えっと。では、私はどうすれば?」

 リリアが横からきいた。トマトとツナのサンドイッチを食べる手が、すっかり止まっている。

「ん。あなたは、じゃ、今から移動ね。あたしがそこまで送って行く。ちょっぴり距離はあるけど。まあでも、そんなにすごい遠くというほどでもないわ」

「ちょ、ちょっと、おねえちゃん! わたしはどうなるのよ!」

 わたしは全力で抗議した。

「あんたは、そうね。この、人形の子たちの案内で、このあとラシーデの浜まで下りなさい。そこから舟で――」

「嫌だよ!」

「嫌とか、言わないの。これね、あんたの命、かかってる話よ?」

「わたしも行く! その、なんとかの聖所!」

「行かせない。そっちに行くのは、リリアだけ。あんたはすぐに島を出る」

「出ない!」

「出なさい」

「出ないから!」

「って、もう、あんたが頑固なのはわかってたけど――」まりあがバリバリっと右手で頭をかきむしった。「こんなときにまた、姉妹ゲンカか。相変わらず感心な姉妹だわ、あたしたち」

 まりあが唇のはしで笑い、それからまた、ウィンドウを呼び出して、右手の指で何か操作した。そのあと真剣な表情で、そこに表示された何かを読んでいる。

「いちおう、許可、とった。あんたも、一緒に来てもいい。」

「ほんと? よっしゃッ!」

「ただし、リリアの用事が済みしだい、二人はすぐに、聖所の北の船着き場からすぐさま島を出る。これが条件。長居はできない。あくまで、リリアの用事が終わるまで、だよ」

「わかった。でも、じゃ、それまでは一緒だね!」

 わたしはまりあの腰に飛びついてギュッと強く抱きしめる。バーチャルだけど、バーチャルなりの姉のぬくもりとやわらかさを感じる。もうこれ、放したくない!

「ったく。こんな非常時に、べたべたなつかれてもねぇ」

 まりあがグシャグシャとわたしの髪を乱暴になでつけた。

「さ、じゃ、行こう。移動するよ。フォーの聖所」



###################


「短い時間でしたけど、お二人と話せてよかったです」

 エルナが言って、ニコッと目を細めて人形らしい綺麗な笑顔を作ってみせた。

 ウトマの街の船着き場、湖に浮かべたボートに、いま、わたしとまりあとリリアの三人は乗りこんだところ。エルナとシーマは桟橋の上から見送ってくれる。

「今度来るときは、もっとゆっくり、家で遊んで行ってくださいね。小さい子たちもきっと喜びます」

「ちょっと、シーマ。」エルナがシーマをひじでこづいた。「もう、次はないのよ。二人はこれからリアルの世界に戻るのだから――」

「あれ? でも、もしリアルで、どこかで二人が、うっかり死んじゃったりしたら―― そしたらまた、もしかしたら、二人はここに、戻ってこれるかもしれないでしょう? フォー様が、ふたりを――」

「ちょっと! あまりそういう、縁起の悪いこと、お別れのときに行っちゃダメ!」

「あは。いいよいいよ。シーマ君の言いたいこと、わかるよ。シーマ君なりに、気をつかって言ってくれてるんだよね。」

 ボートの上でわたしは笑った。

「いろいろ、ありがとう。もっとほんとは、ゆっくり話して、お菓子ももっと食べたかったけど―― またそれは、いつかね。もし来れたら。もし、また、機会があれば。」

「ありがとうございました、」

 リリアが律儀に頭を下げる。

「とても綺麗なお庭で、心が癒されました。また、子供達とも遊びたいです。またいつか、来られることがあれば。その時は必ず、お邪魔します」


「じゃ、行くよ。舟を出す。落ちないように座ってて」


 まりあがロープを解くと、舟は自然と水の上に滑り出す。

 オールのようなものはなく、たぶん、舟のへさきの部分に立つまりあが、前方を視線でターゲットし、舟をそちらに進める仕組みっぽい。シンプルで便利な方式だ。

「さようなら」「さよなら!」

 桟橋の上で、二人の人形が手を振っている。

 エルナとシーマ。姉と妹が、小ぶりな白い腕を、ずっとずっと、振り続けていた。

 やがてボートは渓谷の底の湖の奥深くへと。二人の姿は、もう、視界の中には見えなくなった。ウトマの街が、少しずつ、視界の奥へと遠のいていく。



###################


――おねえちゃん、

――ん? 何?

――むかしさ、潮干狩り行ったの、覚えてる?

――何? しおひ? 何?

――海にさ。三人で、貝、取りに行った。

――ああ、行ったね。行った行った。あのときはあれか。まだ、あの人がいたんだっけ。

――うん。まだ、親子だった。三人で、電車乗って。今だとハヤマってそんなに遠くに思わないけど、あのころは、なんだか世界の果てに行くぐらい遠く感じたよ

――うん。あたしは五歳かそこらで―― あんたは三つ、とかだったよね?

――うん。それぐらい、だったと思う。

――で、何? その、海が何?

――ううん。特には、何も。ただちょっと、思い出して

――まあ、あれね。考えてみると、あれが最後の、親子の思い出、か。あのあとずっと、あたしたちは、二人になった。あの人はもう、あたしたちを捨てて、二度とは返ってこなかった。

――でも。どうかな。捨てたの、かな?

――ん?

――わたし、ちょっと、思ったんだけど

――何?

――もしかしたら、同じ、だったのかもしれないよ。

――同じって何? 何と同じ。

――おねえちゃんと。

――あたし? なんで私?

――おねえちゃん、言ったよね。わたしを―― あんたを、巻き込むことはできない、って。できなかったって。だからひとりで、冬の海に――

――ん。つまり、あれ? 母親も―― あの人も、何かトラブルあって、それで、あたしたちを置いて逃げた―― そういう何かに、あたしたちを、巻き込みたくなかった、ってこと? そう言いたいの?

――んん。わからない。そうかもしれないな、って。今朝、ちょっと思っただけ。

――でも。きつかったよ。あのひと消えてから、あたしたち。毎日、食べるものもろくになくて。部屋に暖房もないし。寒かった。いつもお腹すいてた。お金もなかった。ろくに服も、買えなかった。熱いお風呂も入れなかった。ないものばかりで。そこのところは、やっぱりちょっと、許せない、かな。

――うん。別にそこは、許さなくても、いいと思うよ。きつかったものね。わたしも今でも夢に見るよ。

――夢? 

――うん。おねえちゃんと、ふたりで。冬の部屋で。ずっと、二人で、座ってるの。日が暮れてきて、部屋はどんどん暗くなる。そしてどんどん寒くなる。でも、暖房ないし。照明もない。暗くなっていく、ゴミでうもれた冬の部屋で、二人でじっと、抱き合ってるの。抱き合ったままで、じっとじっと、座っている。そういう夢。今でもたまに、見たりする。

――そっか。うん。あれはでも、キツかったものね。うん。 

――おねえちゃん、

――何?

――どうしてひとりで、行ってしまったの?

――行って? 何? あたし、今ここにいるじゃない?

――でも。本当のリアルでは。もう、おねえちゃんは、いない。

――ああ。それね。その話。でも、だって、それは今朝、いろいろ、詳しく、話した――

――でも。わたしは、お姉ちゃんに、行って欲しくなかった

―― ……

――生きていて、欲しかったよ

―― ……

――おねえちゃんには、ずっと、そばにいて欲しかった

―― ……

――家族、だもん。たったひとりの。わたしの、たった、ひとりだけの

―― ……ごめん、カナナ。きっとあたしは弱かったのよ

――うん。誰でも、弱いことはある。特に、そのことで怒ったりはしてない。だから謝ることはない。ただ――

――ただ?

――さびしい、よ。さびしい。ただ、それだけ。

――カナナ…

――ねえ、

――んん?

――こっちでは、さびしくない? お姉ちゃん?

――ここで? あたしが?

――そうだよ。ひとりで、こっちで。お姉ちゃんは――

――ん。どうだろう。でも―― さびしいとは、たぶん、感じていないと思う。

――…そう?

――うん。だって、あたしこっちでは、島守りって言って、いろいろ、島の子たちのために、戦ったりとか。役割があるよ。こっちで生きてる意味がある。誰かに頼りにされてる感じする。大事にされてる感じする。そういうの、あっちの世界ではなかった。リアルでは。全部が使い捨てで、あたしなんて、ゴミと同じの、道具に過ぎない

――そんなこと、なかったよ

――そういう世界に、あたしはいたの。だから……

――おねえちゃん……

――こっちでは、フォー様っていう、わりとまともなボスがいて。その人が、ここの、ちっちゃな綺麗な島を、すごく大事に考えている。その、まっすぐな、護りたい気持ち、あたしもけっこう好きだから。だから。

――………

――あたしも、あの、フォーっていう人の、大きなわがままというか。あの人がやりたいこと。大事に護って、つくりたいもの。つくって。そして。護り続けたい場所。そういうの、一緒になって、大事に、護っていけたらなって。ちょっぴり今は思ってる。使命、とかは、大げさな言葉はあんまり好きではないけど。でも。使命、かな。役割。やること。それは自分の生きる意味。ここに自分が立っている、その、正しい意味が。ときどき、あたしたちには必要だ。今は、だから、それがある。それは悪い気分じゃない。だから。あたしはここで、さびしくはない。仲間もいる。たくさんいる。みんな、お互い、お互いを必要としてる―― えっと。あたしはちょっと、しゃべりすぎてる?

――ううん。いいよ。しゃべって。もっともっと、声を、聞いていたい。でも、

――んん?

――おねえちゃんは、今、誰と戦ってるの? 敵は誰? 

――ひとつじゃないわ。戦う相手は。いろいろ、敵がいる。フォー様のやり方が、気に入らない者がいる。この島の存在自体が、許せない者がいる。いろんなやつが、いろんなやり方で、フォー様のやりかたを否定し、ねじふせたいと。どこか遠くで思っているみたい。あたしには理解できないけど。でも。世界には、いろんなひねくれた考えをするヒトが、あちこちいるみたい。まあ、じっさい相手がヒトなのかどうか、それもよく知らないけど。まったく。迷惑な話だ。で、目下の敵は、グマ帝国、っていうことにはなっている。

――グマの帝国兵って、でも、あれはゲーム内のイベントでしょう? そんなに大事な、戦いなの?

――まあ、純粋にゲーム内だけのメカニズムなら、それは平気なんだけど。でもたぶん違う。外部に、それを、やらせている者がいる。本来このゲームの中で、アスフォニア大陸のグマ帝国は、この島には干渉しない。興味すら持たない、はず。もともとそういう設定だから。

――じゃあ、なぜ? なんでこの島で、戦闘とか?

――わからない。誰かが仕組みを書き換えてる。この島を潰したいのよ。手段はあえて選ばない。いろんなやり方で攻めてくるわ。前には別の敵がいた。その前にも別の敵が。戦いは、ずっとここで続いている。

――そんな…… この島の、いったい何がいけないと言うの?

――わからないわ。それは相手に、こっちが聞きたい。こんど、グマの皇帝を後ろで操ってるその根暗なボスをとっつかまえて、直接きいてやろうかしら。でもさ、カナナ、

――何?

――あんたは生きなよ、あっちで。

――ん。まあ、努力はする。

――あんたはたぶん、あたしより、もっと実際、強いところある。厳しい暗いあっちの世界でも、あんたなら、うまく、生き抜いていける。というか、生き抜いて欲しい。希望だ、あたしの。

――希望…?

――そう。希望。もうダメになって投げ出した、ダメダメのあたしだけど。そんなあたしにも、人なみに、希望くらいある。だから。それがあたしの希望だ。生きて。生きて欲しい。カナナ。おねがい。生きて。

――おねえ……ちゃん、



 舟の上では、ずっと、そういう話をしていた。

 リリアはうしろで、だまって、過ぎてゆく水辺の景色を見ていた。

 あたしとまりあは―― 

 そこでたくさん、話をした。とてもとても、たくさんの話を。

 今までずっと、話せなかったこと。今までずっと、思っていたこと。心にずっと持っていたこと。隠していたこと。隠さなきゃいけなかったこと。

 それをぜんぶ、そこで。二人ははじめて、言葉にした。

 水の上を渡る風は少し冷たくて、空は曇りで、その向こうにあるはずの太陽は、一度も姿を見せなかった。舟はひたすら進み続けて、水はどこまでも舟を導いて、そしていつも、そこには風があった。風はわたしとまりあの髪を揺らせ、服のすそをパタパタと揺らせ、そして後ろに通り過ぎていく。でもまた新しい風が、前からやってきて二人の髪の揺らし―― 風はいつまでも、止むことはなかった。冷たい風だったけれど―― でもわたしはその冷たさの中に、何か本当の、世界のまっすぐな澄み切った本当の言葉が、そこにはきっと含まれている。そういう感じが、ちょっとした。世界の言葉は、どこにでもある。そこにも、ここにも、あそこにも。ただ、それを。わたしはここにいて、そのまま、感じていればいいんだ。そんな、よくわからない、漠然とした思いがわたしを包んだ。わたしは風に包まれて―― そしてその人の―― いまは確かにそばにいる―― そしてもう、また、まもなく二度と会えなくなる。その、いちばん大事なその人の、かすかな熱を、そばに感じて。舟は―― 舟よ、もうずっと、ずっとこのまま、水の上をはなれないでと。思った。舟。もう、ずっと。二人をこのまま。しずかな水の上に、このままずっと、つなぎとめていて。時間よ、止まれ。もうここで。この瞬間を。これだけをもう、永遠の絵としてフレームに入れて、もう、どこにも。どこにも遠くに、わたしのそばから、持って行かないで――


(エピソード5/最終章 につづく)

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