エピソード 3

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【 メ・リフェ島中部

    ヒョルデ渓谷内 テオール湖 】


 私の体感で、およそ数時間後。

 ボートはシーサーペントの巣窟を無事に(?)通り抜け、地下の洞窟を抜けてふたたび地上に出た。出口部分は上から水の落ちる大きな滝になっていて、ぶあつい水のカーテンをボートがくぐると、一気に視界がひらけた。

 大きな岩山が連なる深い谷底、そこに広い湖がひらけている。湖には波ひとつなく、鏡のように静かだ。空は真珠色の雲に深くおおわれ、そこから淡く光が降ってくる。いま時刻がどれくらいか正確にはわからない。けど、空から降る光の感じからして、たぶん、午後の、それほど遅くない時間じゃないかという気はした。

 周囲の岩山の表面を、小さな建物がびっしりと埋め尽くしている。天然の岩を利用して、谷底の湖をとりかこむいくつもの岩山が、すべて街になったようなイメージだ。特に誰かが操作していないけれどボートはそのまま自動で進んで、やがて湖の岸辺、岩でできた波止場のような場所に到着した。

「お帰りなさい。あなたが無事で何よりでした」

 岸壁の上から、声が降ってきた。

 見上げるとそこに綺麗な女の子の人形が一体。岩場の上にすらりと立って、クリスタルみたいに澄んだ青い瞳でこちらを見下ろしていた。人形らしい無表情だけど、その小さな唇のはしは少しだけ笑っているように見えた。麦わら帽をもう少しスタイリッシュにした感じの小ぶりな帽子をかぶり、そこに水色のリボンを巻いている。服は光沢のある白シルクのドレス、ドレスの胸から肩にかけて、繊細なデザインの水色の刺繍装飾。なんだかすべてが上品だ。流れるような髪は腰までの長さ。その色はホワイトゴールドで、気品あふれる令嬢ビジュアルを作っている。

「ただいま姉さん。わざわざこっちまで迎えに着てくれたんだね」

 シーマが音もなく浮遊し、ボートから、白っぽい岩の岸壁の上まで移動した。女の子の人形のそばに行き、そのまま静かに抱き合った。

「でも。リッフルタールとヴァーシが――」

「ええ。それはもう聞いた」

「本当に、ごめん。僕が、タスコの祭りに行きたいなんて言わなければ」

「それはでも、あなたのせいじゃないわ」

「でも。僕が。僕がもっと強くて、あそこで二人を護ってあげれたら――」

 シーマが泣きそうな声で言った。二体の人形は、そこで抱き合い、しばらく何か小声でささやきあっている。

「なんか、あれね。ゲームだけど、わりとシリアスというか――」わたしはこっそりリリアの耳にささやく。「やっぱあれかな。この島で、ダメージ受けて死ぬと、いろいろヤバい、感じもするね」

「ですね… わたしたちも、注意しないと危ないかもしれません」

「やれやれ。まいったなぁ。怪しいメールにひかれてうっかり来ちゃったものの――」


「すいません。お二人を、待たせてしましました」


 二人の話は終わったようで、シーマがこちらに向きなおる。彼はボートの上のわたしとリリアに向かってニッコリ笑い、もうひとりの人形の腰の後ろに手をまわし、

「紹介します。姉のエルナです」

と言ってもうひとりの方を紹介した。

「エルナです。」

 令嬢ビジュアルの人形がスカートのすそを両手で持って、とても優雅に小さくおじぎした。動作にいっさいムダがなく、流れるように上品だ。わたしは思わず、その人形の立ち姿に見とれてしまう。

「お二人には、弟がお世話になりました。危ないところを、お二人が助けて下さったとか?」

「あ、いえいえいえ。わたしはちょっと、その。ファイアーボールをちょっぴり撃っただけで。実際助けたのは、あの、ヤンカっていう武闘家の女の子ですよ」

 わたしはちょっぴり照れた。岸壁の上を視線でターゲットし、ジャンプ。うまくそっちに着地した。わたしに続いて、リリアも岸まで上がってきた。

「あれ? でも、そう言えば、」

 わたしは疑問を口にする。

「なんでここに、今、お姉さんが、お迎えとかに来たりするわけ?」

「はい? えっと、それは、どういうことですか?」

「えっと。だって。わたしたち戦闘に巻き込まれてから、このルートで今、この場所に着くこと。なんでもう、お姉さんが、ちゃんと知ってたわけ? 迎えに来るにしても、タイミングとか、あまりに良すぎるような――」

「もちろん、メッセージ・ダイアログですよ」

 シーマがさらりとそう言った。

「ボートで地下を移動中に、姉に、メッセージ機能を使ってここに着くことを伝えました。そのとき、ある程度の事情もぜんぶ、メッセージしましたから。夜中の浜での戦闘のことも、お二人のことも。だいたいは、もうすでに姉に伝わっていますよ」

「ああ、そう。まあ、そうよね。メッセージ機能。そっかそっか。」

 わたしはちょっぴり納得して、指で自分の頬を掻いた。

「そう言われたら、納得。ここってなんかいろいろ、すごくリアルだから。そういうゲームのシステムのこと、うっかり忘れそうになるよ」

「ここは工房都市ウトマと呼ばれる場所です」

 エルナが帽子に巻いた青のリボンの位置を直しながら言った。

「島の各所では、まだグマの侵攻軍との戦闘が続いているようですが。ひとまずここは安全です。ここにはグマの兵士は来られませんし、そのほかの、いかなる敵もここへは入れません。ですからお二人は安心して、しばし、こちらでお過ごし頂ければと思います。」

「えっと。。つまり、ここ以外は行っちゃダメってこと?」

「いいえ。あくまで、戦闘が終わるまでの間です。島に安全が戻った後は、もちろん、お二人には、ここ以外でも、どこでもお好きに移動して頂けます」

 人形のエルナは両目を細めて、綺麗な笑みを作ってみせた。

「あの。でも、わたし、ここには人に会いに来たのです」

 リリアが、一歩前に出た。

「弟に、会いに来たのです。できたらはやく、弟を探したいのですが。あまり長時間、ほかのことで時間を費やすのは―― その、時間がもったいない、気がして」

 リリアはちょっぴり生真面目な声で言い、谷底を吹く風に流れた銀色の髪を右手で押さえて整えた。

「弟さん、ですか?」

 エルナがかすかに首をかしげた。

「ああ。なるほど。面会に、いらしたのですね?」

「ええ、そうです。この島に来れば会えるからと。弟からメッセージが来たのです」

「あ、それそれ。わたしもそうなのよ」

 わたしは話に割り込んだ。

「わたしの場合は、姉さん。島に会いに来なさいって。やっぱりメッセージ来た」

「なるほど―― では、お二人に伺いますが―― そのメッセージに、何か記号と言いますか、照会用のパスコードのようなものは、ついていましたか?」

「あ、はい。ありました。」「あるある。コードあるよ」

「じゃ、できたらそれを、今こっちに、飛ばして頂けますか?」

 さっそくリリアはウィンドウをオープンにして、メッセージ転送の操作をはじめた。わたしも続いて、目の前の空間に半透明のメッセージウィンドウのオプションをスライドさせ、上から四つ目、『メッセージ・ダイアログ』をタップする。そこに開いた過去のアーカイブの中から、姉から届いたメッセージのコピーを選択。そこのコード部分を指でなぞって、それを新たなメッセージ貼り、『転送』を選んだ。転送先の相手名は「Ernah Einlogue」。 


「なるほど―― どちらも正規の照会コードのようですね。」

 エルナがどこか空中の一点に視線を流してうなずいた。わたしからは見えないけれど、おそらくそこに彼女のウィンドウがあるのだろう。

「それでは、これをそのまま、私からフォー様のところに転送しますね」

「フォー様?」

「はい。この島の北の聖所におられる、島の管理者のような方です」

「ああ。なんか、そう言えば前にシーマ君も、そんな名前言ってたよね」

「あの方にこのコードを送れば、おそらく、その、お二人の身内の方が島内のどこにいるか。その情報は、すぐに教えて頂けると思いますよ」

「おおっ。それは助かる」「じゃ、さっそく送ってもらえますか?」

「はい。いま、転送いたします」

 人形のエルナが空中に指を一本立てて、優雅な所作で右から左に指を流した。そのまま空中のその場所にまっすぐ視線を固定していたが―― でもやがて、ニッコリ笑ってこちらを向いた。操作がうまく完了したのだろう。

「それでは、フォー様からの返信を待つ間―― よければ、うちにいらっしゃいませんか?」

 エルナがわずかに浮上する。その動きにあわせ、白のドレスのスカートが軽やかに揺れた。

「お二人の口に合うかはわかりませんが、お菓子やお茶なども、お召し上がり頂けたらと。弟のシーマを助けて頂いたお礼を、少しはさせて頂ければ。わたくしとしてもとても嬉しいのですが」

「僕からも、招待しますよ」シーマもそう言って、重さをいっさい感じさせない動作でしずかに浮上し、姉のエルナの横にならんだ。

「せっかくここまで来たわけだから。じっさい僕らの家は、ここから、もうすぐのところです。もし時間が大丈夫なら、ぜひうちに来て頂いて、そっちの世界の今の話とかも、いろいろもっと聞かせて欲しいですね。あとは、僕らの方で、ウトマの街の案内とかも、少しはできると思いますけど」


「ねえアリーさん、どうします?」

 リリアがそばで囁いた。

「そうね… まあ、その、むこうからの返信待つ間は、特に別に、何か他にやれるわけじゃないし―― いいんじゃないかな?」

「でもその―― フォーっていう人は、いったい何者でしょう?」

「たぶん島の管理人、みたいな話だったよね?」

「でもそれは、ほんとに私たちの味方な、のでしょうか…?」

「けっこう疑うのね、あなたも?」

「疑うというか―― この島自体も、まだあまり、どういう場所なのかよくわかっていませんし――」

「うーん。でもま、あの人形っ子たちの話の感じでは、特に敵キャラなニュアンスは感じないけどな~。今も、情報照会してくれてるんでしょ? ちょっとぐらい待って、その、あの子たちの家に行っても、特に何かを失うわけじゃない気はするけど? いいんじゃないの?」

「アリーさんが、そう言うのであれば――」

 リリアは生真面目な顔でそう言って、まるで自分自身を納得させるみたいに何度かその場でうなずいた。たぶんわたしみたいにゲーム慣れしていないから、なのかもしれないけど。どことなく、不安そうなニュアンスが彼女の所作から伝わってくる。

 ああでも、そうか。考えてみれば。

 ログイン不可、とか。そういう不安要素もあるし。島につくなり戦闘で逃げ回るとか、ここに来るまでのバカでかいシーサーペントのうごめく地底湖、とか。あまりこの手のゲーム慣れしてない人間からすると、まあ、あまりに非日常なイベントなわけで。ゲーム初心者のこの子が、ちょっぴりナーバスになるのも、無理はないのかもしれない。



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 シーマとエルナの案内で、工房都市ウトマを歩いた。坂がやたらと多く、道は狭く、どこもかしこも崖に面していて、平地らしい平地はどこにもなかった。谷底の湖にむかってせり出す感じで、白い石造りの小さな家がぎっしりと建っていた。小さいけれど、どの家にもかわいい小さな緑の庭と噴水があって、その庭で人形たちが遊んでいた。そう、たぶん、遊んでいたのだろう。庭の花々の上にふわりと浮いて、お互いに追いかけっこをする人形や、何か、風変りなボール遊びに興ずる子達や―― あとは、なんとなく絵的に奇妙なのだけど、人形なのに、自分たちよりさらにひとまわり小さいぬいぐるみとかを使って、おままごとだか、お人形遊び的なもので遊んでいる人形もいた。


 人形たちの見た目のイメージはシーマやエルナとほとんど同じで、わずかに目鼻の感じとか、髪型とか、ひらひらした優雅な服のデザインや色が少しずつ違ってはいるけど―― もし仮にシーマとエルナがその中にまぎれてしまったら、探し出して、誰が誰かを言い当てるのは難しいかもしれない。どの家の庭にも、人形がいた。たくさんの人形。いくつもの人形。かれらの着ている光沢ある生地のカラフルなドレスが、淡い午後の日射しの中で鮮やかに浮き立って見えた。なんだかそんな風景ばかりをひたすらに見ていると―― もちろんゲームの中ではあるのだが―― 何か現実ばなれした、遠い夢の中の絵に自分がまぎれこんでしまった。そういう、淡い違和感があった。それは不快な違和感ではないけれど―― なにか、もう、とっくの昔に無くしたと思っていた古い古い家の写真を、いま、幾年かぶりに見つけた―― なにかそういう、喪失感? いや、そうじゃないか。いちど喪失したものに、またここでめぐりあった感じ? とても暖かな、でもそれは、たしかに少し、悲しい何かを含んでもいただろう。


「でも、すごい数のプレイヤーね。あれ全部、NPCじゃないんでしょう?」

 わたしはとある白い庭の前で足を止めていった。いまそこに庭では、七体か八体ほどの人形たちが、噴水を囲んでぐるぐるまわり、ときにはふわりと浮遊し、なにか鬼ごっこに似た遊びに興じているようだ。あははは、あはははは。とても無邪気な子供の声が、こちらの方まで聞こえてくる。

「NPCでは、ないですね。まあでも、プレイヤー、というのとも、少し違うと思いますよ」

 エルナがこちらを振りかえる。

「この街、工房都市ウトマは、おもに子供達が住むところです。遊んでいるのはみんな、たいてい、小さな子供ですね」

「こども?」

「はい。四歳とか、五歳とか、それくらいの子たちが多いですね。この街でいちばん年が上の子でも、十三くらいでしょう。それより歳の大きな人たちは、また別の街や村に集まっています」

「えっと。歳ってそれは、ゲーム内設定とか、そういうのじゃなく?」

「はい。リアル世界での、年齢ですね」

「えっと。。四歳とかで、このゲーム、できるわけ? けっこう操作、ムズカシイし、文字とか読めないと、けっこうできないこと、多い気がするけど…?」

 わたしはうまく飲み込めないで、とりあえず質問を返した。

 工房都市ウトマ。子供たちの――街?


「でも見ての通り、みんな、ここで楽しく暮らしていますよ。特に難しいことは何もありません。それぞれの子たちに、自分の家があって、自分の部屋やベッドもあって。特に何か、学校に行くとかそういうこともありませんので。日が暮れるまで、毎日それぞれ、好きなことをやっていますね。ほら、みんな、楽しそうでしょう?」

 そういってエルナが視線をむこうに送った。

 人形の子供たちが、今はそちら、噴水の水場で歓声をあげながら水遊びに興じはじめた。

「えっと。。あの、ちなみにエルナは今、何歳なの?」

「わたし? わたしは十二ですね。弟のシーマは十歳です」

「そっか。。二人とも、あれね。なんかすごく話し方がしっかりしてるから、てっきりもっと上かと思ってたけど―― まあ言えば、二人も、まだ子供の範疇ね…」


 そこからさらに崖沿いの路地を歩いて、急な石の階段をのぼり、そこからさらに、坂を登った。かなり高い場所まで来ていて、足を止めてふりかえると、渓谷の両側の岩壁をびっしり埋めるようにして、ウトマの街の白い家々が一望できた。何カ所かに、渓谷の両側を結ぶ白い優雅な石の橋がかかっているのも見える。

「工房都市というのは、あくまで昔の名前ですね。」シーマが、ずっと下の白い街並みを遠い目で見ながら言った。「初期の初期には、ここにはモノづくりとか手仕事の好きな人たちばかりが、集まって街をつくっていたようです。そのときついた街の名前を、今でも使っているわけです。でも――」

 谷をふきあがってくる水の匂いのする風が、シーマの服のえりのところを、かすかにはためかせている。

「フォー様が島に来てからは、ここは子供の街になりました。今でもたぶん、その、何かモノづくりをやっている工房は、きっとあるとは思うのですが。でも僕もまだ、そういう工房を実際に見たことがないですね。街はとても広くて。まだ僕の知らない場所もたくさんあります」

「えっと。その、シーマ君たちの家って、ここからまだ、けっこう遠いのかな?」

 わたしは素直に聞いてみた。道の上にちょっぴりかがんで、少しゆるんだブーツの紐を、あらたにキツく締め直す。こういうとこ、すごくリアルだ、このゲーム。

「疲れましたか?」

「いや、特にそういうわけでもないけど。まあでも、なにげに遠いなって。まさかこんな街が大きいとは思わなかったし――」

「すいません。でも家までは、もう少しです。あとちょっとだけ、上ります」

 坂の少し上から、地面から40センチほど浮上した姿勢で、シーマがこちらに言葉を投げた。わたしと視線が合うと、ニコッと目を細めて笑った。その端正な微笑みが、なんだかじわっと心にしみた。この人形の姉弟には―― なにか、わからないけど―― なにかひどく、ひどく美しいものが、なにかある気がして。微笑みかえそうとしたわたしは―― なんだか心が痛くて、なぜだかうまく微笑むことができない。あまりに綺麗すぎるものは―― なぜか私を悲しくさせるのは、なぜなのだろう。



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 坂を上りきったところにまた階段があって、その階段のいちばん上に、シーマとエルナの家はあった。


「あ、エルナが帰ってきた」「ほんとうだ」「シーマも一緒だね」


 幼い声が次々とあがる。緑の庭のむこうには白い柱の玄関ポーチのようなスペースから、小柄な人形たちが次々とおりてきた。五、六、七―― 全部で七人の人形たちが、庭の芝生の上をすべるように、一度にこちらに集まってきた。

「シーマ、よかった。怪我、なかったのね」「あれ? リッフルタールは一緒じゃないの?」

「ヴァーシもいないね」「でも、誰?」「なにか、大きなオトナのヒト」「ねえ、リッフルはどこ?」「ヴァーシ、一緒じゃないの?」

 人形たちが、口々に幼い言葉を吐きながらわたしたちをぐるりと取り囲む。どの人形も仕立ての良いシルクやレースの服を着て、女の子もいれば、男の子もいた。でも、その声を聞く限りでは、みな、とても幼い。五歳とか、六歳とか。それくらいの子供のような。


「リッフルとヴァーシは、少し、怪我をしてしまったの。だから今は、北の聖所のフォー様のところで、怪我の手当てをしているの」

 エルナが、集まった人形たちに、先生のような口調で説明した。ほかの人形たちは口をとじ、透きとおるような青い目でエルナを見上げ、その声に聞き入っている。

「でもみんなは、あまり心配しないで。きっとすぐによくなります。フォー様が、きちんと手当をしてくれます。だから、心配ありません」

「そっかぁ。」「けが、かぁ。リッフル、ヴァーシ、かわいそう。」「でも。フォー様のところなら、大丈夫ね。」「はやく良くなるといいね」「すぐ、戻れるといいね。」

 人形の子供たちが口々にささやきあった。

 わたしはちらっとシーマの方に視線をやった。シーマもこちらをちらりと見て、わりと真剣な表情で、無言で二回、うなずいた。「ひとまず、ここは姉にまかせてください」と。その目が、わたしにそう言っていた。

  

「さ、それよりも。今日はこちらに、二人のお客様が見えたのよ。遠い場所から、はるばる来てくれました。アリーさんと、リリアさん。さ、みんな、ご挨拶は?」

「こんにちわ。」「はじめまして。」「こんにちわー」

 エルナにうながされて、人形たちが一斉に、なんだか行儀よくこちらに挨拶を飛ばしてきた。なんだかこれは、保育園にでも、何かの手違いで入りこんでしまったみたいだ。

「あ、えっと。そんなべつに、お客様とか、そんなんじゃ、」

 わたしはちょっぴり照れくさくて、右の足と、左の足を、なんだかムダに交差させたりその場でステップを踏んだり、無駄な動作をしてしまう。てっきり、シーマとエルナの二人だけの家かと思ってたけど―― まさかこんな、子供がいっぱいの家とは、これはちょっと想定外だ。


 子供の人形たちの案内で、庭を通って白い柱のポーチをくぐり、玄関の扉をぬけると、そこは白い壁の、円形のドームのような感じの大きな部屋になっていた。つるりとした純白の石のタイルの上に、淡いピンクのクッションのソファーが四脚ほど、あとは低めの丸いテーブルと―― 部屋の周囲の壁は窓の多いつくりになっていて、ソファーと同色の、上品なピンクのカーテンがふわりと降りていた。どの窓からも庭が見えた。庭にはあちこち小さな花が咲き、噴水があり、白い羽根の小鳥たちがそこで水を飲んでいた。


「いま、お茶とお菓子を用意しますね。少しそのまま、お待ちください」

 言われるままに、わたしとリリアはソファーにかけておとなしく待った。子供の人形たちがわたしとリリアを取り囲んで、「どこから来たの~?」「お名前は~?」「どうして体が、お人形じゃないの~?」とか、子供らしい、興味深々の視線でいろんな質問を投げてきた。わたしはとりあえず、答えられる範囲で、飛んでくる質問にかたっぱしから答えなければダメだった。えっと。家は、トウキョウっていって、大きな街で、えっと、そこは日本っていって―― って、えっと。なんかあまりにも当たり前のこと言ってる気がするけど。でも、ニホンってどこ~? そこって遠いの~? とか、むこうは無邪気な質問をまたしてくるから、こちらはまた、子供にもわかりそうな言葉で、いろいろ適当に答えたりもする。えっと、中国連邦って、知ってるよね? わかる? そこの、はしっこから、海わたって、そのむこうの島で―― えっと。見た目が人形じゃないのは、えっと、基本、このゲームって、そういう人形キャラの方がむしろめずらしくて―― って、あ、キャラとか言っても、子供にはムズカシい? あ、そっかそっか。言葉わからないよね。えっと、じゃあ、何て言えばいいかなあ…? とか。なんか、自分でも言ってることが合ってるのかどうだか、どんどん怪しくなってくる。


 広い円形の部屋の中央では、エルナが自分のウィンドウを指で操作して、何かと何かを続けて選択する。ポンッ、という小さなポップアップ音がして、部屋の中央の丸テーブルの上に、次々と何かがポップアップした。マフィンを盛ったお菓子皿。それから、何かフルーツ系のケーキかタルトの大皿もポップアップ。続いてティーカップとティーポット。カップにはすでに湯気をたてる紅茶系の飲み物が入っている。そのあとデザートを盛った大皿と、ヨーグルトだかプリンだかのグラスもまとめて出現―― そしてスプーンとフォークとテーブルナプキンのセットもポップアップ。短時間のうちにティパーティーの準備がすっかり整った。このあたりのスピーディーさはゲームならではだけど。まあでも、食べる側、待つ側としてはありがたいシステムだ。

 

 そのあと、わたし、リリア、シーマ、エルナの四人と、あと七人の子供たちとでティータイム。シーマとエルナの姉弟は、もてなす側のホストだからか、あまりたくさんは、食べなかった。たまにちょっぴり、口に含みます。くらいの感じで。そしてリリアは、なにげに上品に、ちょっぴりフォークでお菓子をつまんでは、時間をかけて咀嚼し、これまた上品にティーカップに口をつけて紅茶をたしなんだ。所作のひとつひとつに、彼女の育ちの良さがにじみ出ている感じだ。


 いっぽうわたしは―― 特にマナーとかなんにも考えず、出されるものを、かたっぱしからひたすら口につめこんだ。リアルでのわたしの家はかなり貧しい部類で、高いお菓子とかを買う余力はぜんぜんない貧乏家計だったし。ここぞとばかり、バーチャルだけどスィーツ三昧のこのイベントは、あまりにお得なイベントすぎた。お菓子の味や食感はリアルに再現されていて、味覚的にはとても楽しめた。どれもこれも美味しすぎ。まあでも、どれだけ食べても満腹感がないのは、これもゲームならではだ。まあでも、そのぶん、どれだけマフィンをほおばってもプリンやチョコをひたすら食べ続けても、まだまだ食べてもOKなのは嬉しいと言えば嬉しい。ダイエットとか体重とか虫歯の心配も、ここではまったく必要ない。

 こら、行儀悪いですよ! もうちょっと、綺麗に食べなきゃダメでしょう。

 …とか、向こうでエルナが子供をちょっぴり叱ったりもしていたけど―― ああ、やばい。わたし、食べちらかしてる子供らと、ほとんど同レベルだ。そこで一瞬、エルナと目があって、やばい。叱られる! とか、一瞬本気で身構えたけれど。そこはエルナは、ちょっぴり綺麗に目を細め、可笑しそうにこっちを見ただけで、特には何も言わなかった。ああ、よかった。安堵するわたし。って、なんか、安堵するとこ、間違ってない…?




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 なんだかそこの大家族、たくさんの子供達で夜まで大騒ぎだったけど―― 走りまわって遊びまわって食べて飲んで―― 

 ようやく疲れた子供たちが、パジャマに着替えて、みんなそろっておやすみを言って、奥の子供部屋のほうに引っこんでいなくなる。そこでようやく、一息ついた。なんだか、お客様で呼ばれてきたつもりだったのに―― なんだかまるで、保育所の保育士さんになったみたいな気分で。なんだかどっと、気疲れした。疲労がひしひしと、身体全部に押し寄せてくるみたいで。

 外ではすっかり日が暮れて、庭にも夜のかげが降り、暗がりの中で噴水のちゃぷちゃぷいう音だけが小さく聞こえていた。何か、お庭のビジュアル効果でホタルっぽい光が、さっきからちらちら舞っている。わたしは暗い庭を見下ろすポーチに置かれたアンティークなデザインの籐椅子に深くすわって、「ああ疲れた。一日、長かったわ」と、特に誰に言うでもなく、ひとりごとでつぶやいた。

「私もちょっぴり疲れました」わたしの横でリリアが深くうなずいた。「あれですね。保育園の先生とかって、毎日こんな感じなんでしょうね。すごい大変なのだなって、今、ちょっぴりわかった気がします」


「ごめんなさいね。何だかすっかり、子供達のお世話を、お二人にも手伝って頂いて」

 エルナがそばまでやってきて、申し訳なさそうに、形の良いお人形のまつ毛をちょっぴり伏せて謝った。そして音もなく、わたしの横に座った。動作はすべて流れるようで、わたしはその優雅な動作にちょっぴり見とれた。子供の人形に囲まれていると、頭ひとつふたつ、サイズが大きく見えたけど、こうしてわたしと並んで座ると、やっぱりエルナも人形で、思いのほかに小柄だ。

「なんかさ、エルナは偉いね。しっかりしてて、お母さんみたい」

「いえ。私もぜんぜん、毎日、バタバタしてばかりですよ。リアル世界の本当のお母さんたちは、きっと本当に大変なのだろうなと。しみじみ思いますね」

 エルナが少し照れたみたいに、形の良いまつ毛を静かに伏せた。しばらく無言で、エルナはうつむいていた。ちゃぷちゃぷと、庭の向こうで噴水の水音がする。そのあとエルナが視線を上げて、私の方に、あらためて向きなおった。

「今さきほど、フォー様から返信がありました」

「えっと。あ、そうかそうか。で、どうだったの、照会結果は?」「何かわかりましたか?」

 わたしとリリアが、エルナの方に身をのりだした。

「まず、リリアさんの弟さまに関しては、何か、リリアさんがお持ちの照会コードが不完全で、確認にもう少し、時間が必要とのことでした。」

「えっと。不完全、とは、あの、何か不備が、あったのでしょうか…?」

 リリアが少し不安そうに小声できいた。

「わたくしも、あまり詳しくは聞けなかったのですが。何か、照会コードの一部が、最新のものではない、とか。でもいま、フォー様の方で、あらためて、コードの不備の詳細を確認中、とのことでした。もう少し、返答を待ってほしい、と」

「そうですか――」「照会コードのエラー、か。なんかちょっと、残念ね、それは。せっかくわざわざ、来てみたのに――」

「それから、アリーさんのお姉さまに関しては、」

「あ?? そっちは何かわかった? どうどう? どうだった??」

「はい。アリーさんお姉さまは―― たしかに今も、こちらの島に、いらっしゃいます」

「え! マジで??」

「はい。今は少し、距離の離れた場所にいらっしゃいますが―― 明日の午後までには、こちらのウトマに、来ることができそうだ、とのことです。こちらがその、お姉さまからの―― ダイレクトな、伝言、ですね。こちらに、わたしの方で、お預かりしています。いま、そちらに飛ばします」

 エルナが言って、目の前の空間の上、指を何度かスライドさせた。

 リンッ! という金属質の着信音がして、わたしのメッセージ・ダイアログに新着が来た。大急ぎでウィンドウをひらき、その、新着メッセージを読む。


『フォー様から、今、聞いた。あんた、ちゃんと信じて来てくれたんだ。まあでも、ちょっぴりややこしい時期に来ちゃったね。いまわたし、けっこう大事な用事で手がはなせない。でも、それ終わり次第、そっちにすぐ行く。待ってて。  まりあ』


「おねえ、ちゃん…?」

 わたしは思わず、つぶやいた。そのメッセージのニュアンスは―― たしかに、いかにも―― 姉のまりあが、書きそうな感じではある。でも――

 そんなことって、あるのだろうか。もう姉は、リアル世界では死んでいる。

 その死に顔も、実際に見た。冷たい唇に、この指で触れた。そのときの淡く冷たい死の感触は、今でも指先に残っている。

「ねえ。ここって、何。どうなってるの、これ?」

 わたしはそこにいる人形のエルナに向かって、思わず少し、強い口調で詰問し、その両肩を、彼女をはげしく強く、揺さぶっていた。

「なんで? どうして? だって、わたしのお姉ちゃんは、お姉ちゃんは―― もう、リアルでは、もう―― だってもう、お姉ちゃんは―― まりあは――」


「もう、死んでしまっている―― だからそこには、もう、いない―― …のですよね?」


 エルナがダイレクトにその言葉を言ったので、私は思わず息をのんだ。とっさに次の言葉が出てこない。

「もちろん、それほど簡単な話題ではないのですが。でも、ごめんなさい。私としては、最初から、そのことはわかっていました」エルナが、少し申し訳なさそうに、さびしそうに微笑した。「こちらの島に、ご身内の方に面会に来たという。それを聞いた時点で。その―― アリーさんのお姉さまと―― それから、リリアさんの弟さんが。どちらもリアルでは、もうすでに、亡くなられているということは。はい。その時点でもう、わかっていましたよ」

「…なんで?」「どうして、わかったんですか…?」

「理由は、えっと。なぜなら、その、この島では――」


「ここでは誰も―― リアルでは、誰ひとりとして生きてはいないからですよ」


 エルナのかわりに、もうひとつの声が答える。

 シーマがそこに立っていた。

「あまり怖がらせてもいけないと思って、今まであえて、言わなかったですけど。僕も、姉のエルナも、もう、リアルでは死んでいます。この家の他の子たちも。みんなそうです。ここでは誰も、リアル世界の一般的な意味では、生きてはいないから」

「えっと――」「それってつまり――」

 言葉が、うまくつながらない。

 わたしの思考はぐるぐるまわって、シーマが今言った意味を高速で考える。

「じゃあ、みんな、幽霊とか、死者とかってこと? この島の住人キャラが、すべて…?」

 ようやくわたしの口からその質問が出た。

 声は乾いて、なんだか自分の声には聞えなかった。

「死者といえば、ええ、そうですね。私もシーマも、リアル世界では一度、死にました。そちらにはもう、肉体はありません」

 エルナがしずかに言葉を投げた。誰もしばらく、口をひらかなかった。

 風が少し吹いて、前庭の夜の花畑がかすかにそよいだ。庭草の上の暗い空間を、いくつものホタルが舞っている。

「でも。幽霊かと言えば、それは少し、違うかもしれませんね」

「どう―― 違うのですか?」

 かろうじて聞き取れるくらいの細い声で、リリアがきいた。

「僕たちはここに、生まれ変わったのだと。そういう風に思っていますよ」

 シーマが言った。声はいつもと変わらない。落ち着いていて、余裕があって。

「ほら、手を、触れてみてください」

 そう言ってシーマが、自分の腕を―― かぼそい、少女のような白い人形の腕をこちらに差し出した。わたしはちょっぴり迷って、でも、おそるおそる手を伸ばしてその腕にさわった。

 冷たい、しかし、かすかに温もりのある木の感触がした。人形の腕。木製の腕。

「ね? 感じるでしょう? 僕の肉体は、いまここにあります。もちろんバーチャルですが―― でも、確かに見えるし、触れるし。感じることもできる。だからたぶん、僕はまだ、消えてはいない。ここにいますよ、僕は。この世界で、また、前の世界とは違った生を、今、生きている。だからこれは――」

「幽霊、と。言えばそうかもしれません。でも――」

 エルナが言葉を引き継いだ。

「体はあくまで、入れ物です。わたしの心が、今ここで、新しい入れ物を与えられた。だからここに、わたしはいます。わたしたちは。生きています。わたしたちはここにいます。と、言ったらそれは、変でしょうか?」

「えっと。つまりここは、この島は―― 死んだ魂の、受け皿―― 死者の魂の集まるところ―― つまりそれって、天国ってこと?」

「さあ? でも、天国っていうのは、もっときっと、特別なところではないでしょうか」

 シーマが言った。音もなくポーチの床から浮上し、わたしの肩の左、籐椅子の手すりの部分にふわりと乗った。

「ここは、なんというのかな。あらゆるものが、普通です。それほど何か、リアル世界と、極端に違うことはないです。もちろん、ちょっぴり飛べたりとか、少し物理の仕組みが違うこともあるけれど――」

「ここが何とか、名前はあまり、大事ではないと思います」

 エルナが言った。彼女はずっとむこう、夜の庭のどこかを見ている。その目は透きとおるように薄いブルーで、そこにはあまり、感情は読めなかった。でも、特に冷たい感じでもなかった。そこには少しの、温度はある。生きて、いるのだと思った。

「天国と言えば、そうかもしれない。ゲームといえば、これは単なるゲームです。それ以上の何かではない。ですが―― そのゲームの中に、とてもたくさんの、綺麗なものがあります。小さな子たちの笑い声があります。美しい景色があります。雨もふります。雪もふります。雪の冷たさを、この手に感じます。それは全部、リアルです。バーチャル世界の北の果ての、小さな島ですが――」

「でも。みんなここで、僕たちなりに、毎日生きてるんですよ」

 シーマが言った。そしてかすかに、笑った。人形らしい、青みがかったシルバーの瞳を、ちょっぴり細めて。



###################


「僕たち姉弟は、バッカリア共和国で生まれ育ちました。バッカリアは、ドイツ連邦の南、オーストリアとの国境近くにある小国です。父は早くに亡くなり、母と、ぼくたち姉弟との三人の暮らしが長く続きました。けっして裕福ではなかったけれど、母は優しい人でしたし、僕はとくに僕たち家族が不幸だと思ったことはありません。」


 エルナが寝室に去ったあと、弟のシーマが、話の続きをわたしたちに聞かせてくれた。わたしたち3人は庭の噴水のそばに座り、そこで話をした。ここから見える、前庭の入口のアーチの向こうには、渓谷の急な斜面をびっしり埋める、ウトマの夜景が見えていた。

 


「でも、それは僕が10歳の夏までのこと。それからあとは、控えめに言っても地獄でしたね。すべては、あの男が家に来た時から始まりました。


 男は、最初は優しかったです。いいえ、優しいふりをしていました。男は母の友人で、「少し先で、あなたたちのお父さんになるかもしれない人」だと。母はそう、紹介しました。でも、僕は一度も、そいつに心を許したことはなかった。笑っている時でも、けして目の奥は笑いません。そこに何か、冷たくゆがんだものを僕は見ていました。なぜあの聡明な母が、そういう男の暗い部分に気がつかないのか。それが不思議でならなかったです。男が姉を見るときの、じっとりとした、なめるような嫌な目が、僕はいちばん嫌いでした。姉をそんな目で見るなと。何度も心の中で思いましたよ。


 秋ごろから、色々なことが壊れていきました。男はことあることに母を殴りました。ひどい時には、重い物を頭に投げつけたり、倒れて動かない母を蹴ったりしました。僕は男がいないときを見て、母に言いました。どうして、やり返さないの。どうして警察に言わないの、って。でも母は言うのです。わたしが全部、悪いのだから。わたしがもっと注意して、あの人が怒らないように。もっとしっかりしなくちゃいけない。そう、言うのです。


 毎日が暗かったですよ。母が殴られない日、母が涙を流さない日は、だんだん減っていきました。そして母が弱くなっていくにつれて、こんどは攻撃の矛先が、姉のアリアに向かうようになりました。(アリアは、エルナの昔の名前です。)


 もちろん僕はとめましたよ。必死でとめました。でも、あまりに力が違いすぎる。僕はひどく殴られて、翌朝、立てないときもありました。僕たちは、少しずつ、普通の暮らしから転げ落ちていきました。学校にも、もう、行かなくなりました。怪我のことを、誰かにきかれるのが怖かったからです。それ以上に、外出したことで、またあの男に何かをされるのが怖かった。それまで僕たちの家だったその場所は、もう、そのときには、牢獄みたいな暗い場所に、すっかり変わってしまっていました。


 そのあとは―― 

 …ごめんなさい。ここからはちょっと、今でもつらくて。あまり細かくは、お話できないです。でも。ある時から、男は、僕とエルナを、地下の物置に、閉じ込めるようになりました。ろくに日の光のささない、寒くしめったその暗い部屋で。いろいろ、口には言えないようなことが、毎日ありました。おぞましい出来事がありました。だんだん、曜日の感覚も。今が朝で、いつが夜なのか。それさえも、よくわからなくなった。でも―― とにかく姉を護らなければ。姉さんだけは、ぜったいに。僕が、護って、護らなければ―― 


 でも。護れなかったです。僕は。ぜんぜん、護れなかった。

 

 だから、先に死んだのは、僕のほうです。

 僕が抵抗を、やめないから。男には、僕は邪魔な、物置に転がっている薄汚いモノ―― ひたすら噛みつく、唸り声を発する、人型をしたボロ布みたいなものだと。もうその時点では。そういうふうにしか、見ていなかったと思います。


 死ぬ前後のことと、死んだあとの時間が、記憶の中で混じって、

 いつ、どこで死んだのか。今ではよく、覚えていません。

 そのあと僕は、暗い場所に長くいて、

 でも。あるとき光が見えました。

 光が僕を包んで。僕は、どこかに、引きよせられて――


 それが、僕がここまでの経緯です。

 まもなく姉も、ここへ、引かれるようにやってきました。

 フォー様は、僕たちにこの家をくださって。

 ここに住んで、また後からやってくる子達を、世話するように。

 役割を、くださいました。


 それがこの家のすべてです。

 ここに集まっている子達は、みんな、多かれ少なかれ、

 前の世界で、ひどい思いをした者ばかりです。

 捨てられたり、ひどい暴力を受けたり。

 口では言えない、暗い世界の底を、みんな渡ってきました。

 フォー様が、どういう基準で子供たちを選んで、

 どういう気持ちで、ここに街をつくって、こうして島を護っているのか。

 僕も、本当のところは知りません。

 あの人は、ときどき会っても、あまり多くを、語ってくれないですからね。

 そして、めったに、笑わないです。もっと笑えばいいのに。


 まあでも。好きかどうかできかれたら、僕はフォー様が好きです。

 悪い人では、たぶんないと思う。

 ときどき、この街の暮らしにちょっぴり退屈したら、

 僕はたまに、谷を渡って、フォー様の住む聖所まで旅することがあります。

 行くとフォー様は、特に歓迎もしてくれないけど、

 でも、僕を追い返すこともなくて。何日いても、許してくれます。


 お母様、と言うほどには、僕とは年が離れていないし、

 友達、というほどには、近い関係ではありません。

 でも。なんだかときどき、無性に、会いたくなることがあります。

 あの、ぜんぜん笑わない、ムズカシい顔をしたフォー様を、

 ときどき近くで見たくなる。その手に、触れたく、なったりもします。

 声も、ときどき、聞いてみたい。とてもいい声を、していますから。


 まあ、でも。

 それが全部です。この島について、僕が知ってる全部の物語。

 その他のことは、きっと、また別の者が、知っていたりもすると思います。

 もしここに長くいられるなら、いろいろ、聞いてみてください。

 

 ごめんなさいね。もう、夜もけっこうな時間なのに。

 こんな僕の、昔話に、つきあわせてしまって。


 この話は、でも、あまり姉には、しないでください。

 僕が言ったことは内緒です。 

 あの、暗い、あちらの世界での冬の日々が、

 今でもたぶん、姉の心に、暗いよどみとなって、少しも消えずに残っている。僕にはそう、思えます。いつでも姉は笑っている。無理にも、笑おうとしている。

 

 でも、心からは、まだ、笑うことができないでいる。そういう姉の、氷につつまれた心のかけらを。ときどき僕は、感じます。まだ、色々なことは終わっていない。まだここでも、姉の心の中で、ずっとそれは、消えずに続いてるのです。いつかはきっと、消えていくのだと。僕は信じていたいけど。

 

 だから。僕もふだんは、あっちの世界のことは、もう、話さないようにしています。

 僕は先に死んで、こっちで楽だったけど。

 姉は僕よりも長く、あっちでひどい思いを、受けてきましたからね。

 その過去はもう、どうやっても消すことはできない。

 

 すいません。長い話しになりました。

 僕も、もう寝ます。

 リリアさんとアリーさんも、ゆっくり休んで。

 また、明日、もし時間があるなら、

 また明日、子供達と、たくさん遊んでやってください。

 みんな喜びます。じゃ、それでは。

 おやすみなさい。リリアさん。アリーさん――」


 (エピソード4につづく)

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