抜かず清兵衛 下
明朝から雨が続いている。小雨程度ではあるが、陰鬱とした空気が、村に漂っている。
妙の家の軒下で、清兵衛は辺りに目を光らせていた。妙の家は、村の入口にもっとも近い。妙と佐吉は、村長の家に待機させている。編み笠を被り直した清兵衛は、刀を手に、村の周囲を歩き始めた。畦道や畑を横切った。
入口に戻ってくると、誰かが歩いてくるのが見えた。編み笠を被ってはいるが、わずかに見える顎は痩せ、よれた小袖から覗く胸は骨ばっていた。
清兵衛に気づいたのか、老人は止まった。清兵衛と老人は、しばらく向き合っていた。
やがて老人が言った。
「その刀、大業物と見た」
「師より賜った」
「その者、名は」
「杉本伊勢守宗近」
「ほう、居合の」
老人は少し間を置いて言った。
「貴公、ここの者か」
「そうだ」
「村を通りたい。どいてはくれぬか」
「できぬ」
「なぜ」
「人斬りを放っては、師に顔向けできぬ」
二人は黙った。やがて老人の右腕が、かすかに動いた。
「退け。無益な殺生はせぬ」
「
清兵衛は編み笠を妙の家の側に放り投げ、腰を落とし、右手を柄に当てた。
同様に編み笠を落とした人斬りは、鯉口を切った。太刀である。長尺の刀身を上段に構えた。
清兵衛は変わらず、左手で柄を握っている。二人は対峙したまま睨み合った。清兵衛が近づけば、人斬りは退き、人斬りが近づけば、清兵衛が退く。見えた時の間合いを維持し続けている。
人斬りの足並みは、緩慢だが、隙がなかった。太刀を握り、清兵衛の動きをつぶさに見ている。居合の本領の一つは返し技であり、それを警戒しているに違いなかった。だが上段に構えるということは、自信の表れでもある。優れた剣術の腕と驕らぬ気性があればこそできる、姿なのだろう。
斬られるかもしれぬ。清兵衛は鞘を固く握った。
清兵衛が一歩進む。
人斬りが一歩下がる。
人斬りが二歩進む。
清兵衛が二歩下がる。
同時に、左手の親指を鯉口に当てた。これ以上退けば、村に入ってしまう。
清兵衛は、間合いを詰め始めた。人斬りは変わらず進んできた。一歩、また一歩と進む。
雨に混ざった汗が清兵衛の頬を伝い、落ちていく。総髪が雨に塗れ、前髪が垂れてきた。目に雨が入っても拭わず、じっと人斬りを見ていた。
雨脚が増してきていた。二人は雨に濡れ、なおも刀を構えたままである。
人斬りが太刀をわずかに持ち上げる。瞬間、清兵衛は鞘を握り直し、右手に力を入れた。動きは読めていると、伝えた。人斬りは刀を戻した。
あまりに静かで、家に隠れた村人の息遣いも訊こえるようだった。二人は再び動かなくなったが、それはすなわち、
人斬りの太刀を注視するうち、清兵衛は気づいた。
かすかにではあるが、彼の呼吸が浅くなっている。
呼吸は戦いの律動であり、どのような達人も、隠すことはできない。
それは杉本の教えであった。斬り込む者が見せる、わずかな予兆である。
人斬りの呼吸が止まった。
来る。
人斬りが大きく踏み込んだ。老体が弾かれ、構えられた太刀が清兵衛の右肩に迫った。
だが、人斬りは即座に後退した。
腰を深く落とし、さらに前かがみとなった清兵衛の、鯉口をわずかに押し上げる音が、したのである。人斬りが斬ろうとしたはずの清兵衛の右肩はそこにはなく、半身ほど左にずれていた。
肩で息をしていた人斬りは、自らの体を見、やがて太刀を納めると、額の汗を拭った。
「なんのつもりだ」
「邪魔が入った。ほれ、訊こえぬか」
少しすると、東から、いくつもの怒声と馬の蹄の音が訊こえた。追っ手が来たのだろう。果たし合いは短かった、だが、随分長かったように感じられる。
「これ以上の果し合いは無用」
清兵衛は居合の構えのまま、
「逃がすと思うか」
「続ければ、どちらかが倒れる。斬った方も、ただでは済まぬ」
「人斬りが命乞いとはな」
「おうよ。儂には大命がある故、まだ、斬られるわけにはゆかぬ」
「人殺しの大命など、たかが知れる」
「天誅も征伐も、ひとえに殺しよ」
人斬りは編み笠を被り、清兵衛の左側に茂る雑木林に歩いていった。柵を越え、木々をかき分けようとした時、なおも睨みを利かせる清兵衛に振り返った。
「
「戯言を」
「まさに神速よ。叶うなら、次は刃を拝みたいものだ」
〇〇
清兵衛は汗が止まらなかった。杉本が、今まさに刀を構え、自分に相対している。
「師匠、何故、このような」
「こぬなら、こちらからゆくぞ」
深く腰を落とし、前かがみになった杉本は、一糸乱れぬ構えであった。骨ばった体は泰然とし、まったく動かない。清兵衛が親しんだ、優しい杉本はいなかった。本気なのだ。
手にした真剣で斬りかかる様を、清兵衛は思い浮かべた。突き、横面、袈裟は、すべて躱され、神速の居合が首を刎ね、胴をすり抜ける。
腕が震えた。
無理だ。
だが斬らねば。
どうやって。
どうやろうが、やらねば、自分が斬られてしまう。
しかし、斬りかかったところで――。
考えあぐねた清兵衛は、息を切らし、床に座り込んでしまった。
その姿を見た杉本は、いつもの杉本に戻った。細く力強い手に引かれ、清兵衛は立ち直した。そして涙を浮かべ、頭を下げた。
「情けない姿を晒し、申し訳ありませぬ」
「儂を斬れそうだったか」
「いえ。むしろこちらが、斬られる様しか」
「それこそ、抜かずの深奥。抜刀を極めたお前なら、必ず至れよう」
「しかし」
杉本は笑った。
「案ずるな。お前にはお前にしか至れぬ、境地があるのだ。それより清兵衛、儂は久方ぶりに、腹が減ってしょうがないぞ」
●
人斬りが村を迂回し、西に去ってから一夜明けた。村に訪れた幕府の役人たちへの説明で梅次郎は忙しかったが、ほかの者はいつも通り過ごしていた。清兵衛の家の向こうから、田畑を耕し、そして蒸し暑さに愚痴をこぼす声が訊こえる。清兵衛は働くと言っていたが、村人たちの強い勧めで、思い直した。
今朝届いた野菜の山から、清兵衛はよく冷えた塩漬けきゅうりを取り、ほおばった。縁側からは、南に湧く入道雲がよく見えた。
「今日も暑いですね」
妙が言った。運んできた両手のお盆には、お猪口と、冷酒の入った徳利があった。
「ええ。こんな時、自分だけ涼んでいるのは、なんだか申し訳ないです」
「みんな清兵衛さんに助けられたのですから。休んだって罰は当たりませんよ」
妙に家事を任せ、清兵衛は居間で横になった。
――見事な胴抜きであった。
あの、老齢の剣客との果し合いが、頭から離れなかった。三十余年を生き、初めて実戦を経験した。震えこそしたが怖れなかったのは、師匠の教えの賜物だろう。病身を押して師匠が見せた、
勢いよく玄関が開け放たれた。驚いて起き上がると、佐吉が来ていた。
「どうした」
佐吉は清兵衛の近くにあった藁座布団に座った。農作業を手伝っていたからか、両手が少し汚れている。うつむくと、黙り込んだ。腕を組み、なにやら思案に耽った後、小さく言った。
「その、今まで悪く言って、ごめんなさい」
「明日は雪か」
「茶化すなって」
佐吉が真面目な顔になったので、清兵衛は慌てた。
「悪かった、悪かった」
「昨日の、見てたんだ」
「そうだったのか」
「みんな格子から見てたよ」
清兵衛は野菜の山を見ると、
「ああ、なるほど。どうりで」
清兵衛は立ち上がった。刀を持ってきて佐吉に差し出すと、
「持ってみろ」
「いいの」
「ああ」
手にした途端、膝立ちだった佐吉はよろめき、前のめりに倒れた。
「痛え」
起き上がった佐吉の鼻は、赤くなっていた。
「重いか」
「重い」
清兵衛は藁座布団に座り、佐吉と向かい合った。
「三斤。これで人が斬れる」
「清兵衛ならかんたんに抜けるだろ。どうしてあの時斬らなかったの」
「抜いたし、斬ったぞ」
佐吉は目を丸くした。
「そんな」
「杉本の居合は神速。小僧には見えずとも、まあ無理はないな」
「でもあの爺さん、無傷だった」
「だが斬った」
佐吉は腕を組み、頭を捻った。
「意味わからん」
「いつかわかる」
清兵衛は刀を手にした。庭に出、「佐吉、よく覚えておけ」と言って鯉口を切ると、刃を太陽にかざした。佐吉が息をのんだ。
「戦わず、決して抜かずに斬ってこそ、まことの武士よ。食うて寝て、好きに死ぬべし」
「それ、短歌? なんか、ちょっと違うような」
「この言葉運びが、気に入ってるんだ」
抜かず清兵衛 菊郎 @kitqoo
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