抜かず清兵衛

菊郎

抜かず清兵衛 上


「戦わず、決して抜かずに斬ってこそ、まことの武士よ」

 杉本宗近が言った。杉本は刀を右手に持ち、道場の最奥、掛け軸の前に座っていた。

「はい」

「覚えたか」

「日に何度も言われれば、猿でも心得ましょう。そろそろ、最後の句を教えてください」

「ない。この言葉運びが、気に入っているのでな」

「しかし短歌は」

「ないものはない」

 清兵衛は密かにため息をつくと、

「抜かずに斬るとは、尋常ならざる業。人の身で、果たして会得できるかどうか」

 杉本は白くなった顎髭を細指で撫でた。

「至難であろうな。だが、お前ができねば、後を継ぐ者がおらぬ」

「師匠の居合は至高です。ただ抜けば、誰でも斬れましょう」

 かつて開催された試合で、師匠は用意された刃引きの真剣を使い、道場の師範代を一瞬で斬った。斬った、と思った時には、師匠は刀を納めていた。清兵衛は弟子として、そこに立ち会っていた。まさしく、神速であった。

「それでは、ならぬのだ」

 清兵衛は懸命に考えたが、答えは浮かんでこなかった。

「師匠は、実戦で真剣を抜いたことはありますか」

「四度」

「それは、どのような時で」

「一つは、お師匠様と初めて会った時。二つは、友の介錯。三つは、藩命にて」

「……して、四つ目は」

「今ぞ」


    ●


 武蔵国、川越藩にある小さな村は、梅雨の湿気にむせていた。

 清兵衛は縁側に座って手で顔を仰ぎながら、縁側で寝そべっていた。明け方には焼き鮭の入った大きな塩むすびをたらふく食ったので、仕事前に二度寝をしたかった。しかしこの暑さでは、眠れぬ。

 諦めて農具を庭に集めていたところ、外から大声が聞こえた。

「やい、抜かずの。その鈍らで、うちの豆腐でも切っとくれ」

 佐吉か。清兵衛は苦笑し、作業を続けた。やがて支度ができ、農具を担いで玄関を出ると、二十に届くくらいの女がいた。

「お妙さん、どうかしましたか」

 妙は頭を下げた。

「佐吉がまた失礼なこと言って、申し訳ありません」

 清兵衛は笑った。

「いえいえ、お気になさらず」

「駄目ですよ。姉として、しっかりお灸をすえておきました」

「男子はあれくらい威勢があったほうがいいです」

 すると、右から手ぬぐいを引っさげた梅次郎がやってきた。この村の長である。

「おおい、清兵衛」

「すいません。すぐ行きます」

「今日は田植えが中心だ」

「わかりました」

 吉田が踵を返した。清兵衛は妙に、

「では、また」と言って、去っていった。

 清兵衛が村に移り住み始めて十年が経つ。一本の刀を引っ提げてはきたが、日ごろ振るうのはもっぱら農具であった。素振りもでき、田畑も耕せてよいと思ってからは、木刀も押し入れで埃をかぶっている。

 この日、清兵衛は村民とともに田植えに精を出した。清兵衛の住む村はかつての改革により治水に優れ、秋には棚田が稲穂で茂る。

 清兵衛は三人分の仕事をこなし、焚火を囲んで、仲間とともに酒を飲んだ。

 静かな会話はやがて大きくなり、愚痴がそこかしこで訊こえる。梅次郎の達者な口上を隣で訊きながら、清兵衛はお猪口を傾けた。

 酒の席で決まって話題に上がるのは、清兵衛の二つ名である。

 抜かず。

 十年を共にした一部の村民も、清兵衛が抜刀しているところを見たことがない。清兵衛は背丈が高く、顎髭を蓄えた仏頂面だった。その風体ゆえに、村では用心棒としての役目も負っている。

 抜かずと呼ばれるようになったのは、清兵衛が村に来て三年、盗人が押し入ってきたときのことだった。包んだ風呂敷を手に米蔵を出る盗人を巡回中の清兵衛が見つけ、鞘で殴って気絶させた。始終を見ていた男によれば、盗人は包丁を振り回していたが、清兵衛はことごとく避けた後、反撃したという。これまでも、村の豊かな米を狙って多くの野盗が現れたが、村に死体が出たことはない。

 身のこなし以上に、頑なに刃を抜かぬ姿勢が、いつも皆の気がかりだった。

「俺はよ、死ぬまでにいっぺん、おめえさんが抜くところを見てえ」

 鼻まで赤くした吉田が言った。周りから笑い声が上がった。

「機会があれば」

「おめえはいつもそれじゃねえか。食い意地だけは天下一品なんだがなあ」

 それから吉田は、話題を変えた。これ以上の問答は無駄と思ったのだろう。清兵衛は思い、酒をあおった。

 夜になり、焚火も燻ってきたところで酒盛りは終わった。清兵衛は小袖を整え、皆に一礼して自宅に戻った。


     ●


 清兵衛は目が覚めた。

 馬の足音だ。乗り手は相当急いでいるのだろう。音はあっという間に家を過ぎていく。

 まだ朝日も昇っておらず、庭は薄暗い。何事かと思い、筵から起きて縁側で耳をすましていると、玄関を叩かれた。

「清兵衛、俺だ、梅だ」

 清兵衛は急いで玄関に向かった。

「起きてますよ」

 梅次郎は勢いよく引き戸を開けた。肩で息をし、顔中汗にまみれている。

「なにがあったんですか」

「さっき役人が来てな。奴らが言うには、人斬りが出たそうだ」

「まさか、近くで」

「いや、川越の、城下だそうだ。一昨日の朝、幕閣の一人が、斬られちまったと」

「護衛がいたのでは」

 梅次郎は息を整え、

「四人な。だが、そいつらもろとも、だ。一瞬で全員を斬り伏せたらしい」

 清兵衛は身震いした。黒船が来て以来、幕府と長州藩の対立は日に日に激しくなっている。少し前には、京都で新選組が多数の長州藩士を斬ったという事件が起こった。今回の人斬りは、それに関連しているのかもしれない。

「しかし、なぜそれほどに焦っているのですか」

 川越城からこの村までは、馬を使っても二日ほどはかかる。

「そいつが西に向かっているらしい」

「この村を、通るかもしれないと」

「道なんざいくらでもあるが、こっちに来ない保証もねえ」

 梅次郎は頭を下げ、

「もしもの時は、頼む」

 そう言って、帰っていった。

 その日の夜。掛け軸の前で、清兵衛は瞑想していた。師匠から剣術以外に受け継いだことといえばこれくらいで、清兵衛の日課でもあった。心を空にすれば、本当にやるべきことが、浮かんでくる。

 幕閣が斬られたのが二日前。川越城周辺は厳戒のはずだから、そう簡単には出られまい。最短で来るなら、明日が頃合いだろう。清兵衛は、そう見切りをつけた。

 掛け軸の下には、師匠の形見の刀が置かれている。瞑想を終え、清兵衛は刀を取った。

 決して抜くまいと誓った刀、抜く時が、来るだろうか。

 斬る練習ならいくらでもした、だが、斬ったことはない。

 縁側に座ると、鞘を掲げた。濃い群青に塗られた拵えは、夜空によく映えた。そのまま柄を握って鯉口を切り、刃を抜いた。月に照らされ、輝いている。

 清兵衛はしばらく、銀に光る刀身に見入っていた。殺しの物とは、到底思えない。拵えが夜なら、刃は月。太陽に隠れ、目立たぬが確かに存在するその姿に、師匠は、刀の在り方を見出したのだろうか。

 用意した道具で、清兵衛は刀身の手入れを行った。とは言え、師匠より継いだ刀は鍛造以来人を斬った試しはなく、することと言えば油の交換くらいだった。丹念に油を塗り直し、清兵衛は筵に寝そべった。

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