夜のメロディ

高梨來

第1話

 ぱらぱら、とまばらなビーズを落としたような雨音。そこにかすかに交わる、紙をめくる乾いた音。

 不揃いでいびつな、それでいて不可思議な調和を感じさせる穏やかな旋律が、耳朶を淡くくすぐる。

 このまま、意識の波にさらわれるままでいたいところだけれど──誘われるままにぱち、と数度のまばたきを繰り返し、油を注し忘れた機械のようにわずかに軋む身体を震わせる。

 途端に、傍からはよくよく見知った掌がするりとこちらへと差しのばされる。

「ごめんね、起こした?」

「いや──寝坊してた? だったらごめん」

「まだ早いよ、僕が悪い」

 ぎこちなく起こそうとした身体を差し戻すように、優しい掌はさわさわとぎこちなく震えた肩や首筋をなぞる。

 なまめかしさなさんてすこしも感じさせない、まるで家族がそうするようなやわらかな手つきは、どこか懐かしい記憶を呼び覚ますかのようにひどくやさしい。


「少し待って」

 ぽつり、と暗がりに静かに落とされる灯のような言葉とともに、しなやかな指先は手慣れた手つきでそうっとベッドサイドの灯りをともす。淡い暖色の光を滲ませたベッドルームはまだ、夜の海を漂っている最中だ。

「目が冴えちゃったみたいで──リビングにいこうと思ったんだけれど、ここのほうが落ち着くから」

 ぽつりぽつりと穏やかに答えながら、手にしたぶあつい本をそうっとサイドテーブルへと置いてみせる。

「こういう時は便利だよね、灯を点けなくても本が読めるんだから」

 ほんのすこし前まで、本の中に記された言葉をなぞっていた指先は、わずかに汗ばんだくしゃくしゃの髪をやわらかになぞりあげる。



「言葉を追うのって、やっぱり特別なんだよね。リーディングにはずいぶんお世話になっているし、もちろん感謝もしているけれど──耳で捉えるのと言葉で辿るのとでは、やっぱり受け止められるものが違うでしょう?」

 やわらかな響きを落としていきながら、確かめるようにそっと、頬の上をしなやかな指先が滑り落ちる。触れられたその先からたちまちにあるべきはずの輪郭が淡くほどけて新たな像を結びつけていくかのようなこの錯覚に、僕はいつまでも慣れないままだ。

「聞いてもいい? どんな本だったのか」

 ぎこちないまばたきとともに問い尋ねてみれば、悪戯めいた響きでの答えが投げかけられる。

「君に知られたら軽蔑されるんじゃないかっていうような、つま先まで痺れてくるような官能小説」

「……おなじベッドで恋人が眠っている時に読むのにはぴったりなセレクトだよね」

「そんな度胸がある人がいれば尊敬するよ」

 くすくすと笑い声をあげるのにあわせてかすかに喉が震えるそのさまを、すなおに美しいとそう感じる。

「──ファンタジーだよ。扇情的な要素なんてかけらもない、ね」

 うっとりと静かに瞼を閉じるようにしながら、彼は答える。

「孤独な青年と、言葉を話す黒い犬。お互いの素性も知らないまま、知人を介して手紙のやりとりだけを何年も続けていた彼らはひょんなことをきっかけに出会うことになる。正体を知られることを怯えていた犬は、彼に出会って驚く。彼は数年前に病を患い、瞳から光を失っていたからだ。犬は戸惑う。このまま正体を黙っていれば、彼は都合よく自分の姿を想像の世界でだけ描いてくれる──僕に触れて、一言そう伝えれば、自分のほんとうの姿を知ってもらうことが出来るのに。子どもの頃に読んだ本なんだけれど、こないだ偶然見つけて懐かしくなったもんだからつい」

 伏せられたまなざしとともに雄弁に語られる言葉の奥に、目にしたこともないはずの幼い子どもの影がそうっと過ぎる。

「……どうなるの、ふたりは」

 ぎこちない問いかけを前に、控えめに言葉は返される。

「忘れてしまったんだ。なにせよ、読んだのはずいぶん前だからね──ハッピーエンドだったことだけは覚えているんだけれど」

「そう、」

 答える代わりのように、しどけない笑みが花のようにやわらかにこぼれ落ちる。

「ごめんね邪魔をして。僕は気にしないから続きを読んでくれていいよ、灯も落として構わないから」

「……ありがとう。でもいいよ、謝らないで。続きはまた今度にするよ」

 答えながらするりと手慣れた手つきで灯を落とせば、たちまちにベッドルームはやわらかな暗がりに満たされる。

「ごめんね、起こして」

 雨の雫をまとったようなやわらかな湿り気を帯びたささやき声に包まれると、途端にゆらり、と胸の奥はあわく痺れる。

「あやまらないで、ね」

 答えながら、シーツの波の上をたゆたう掌をぎゅっと握りしめる。

「よかったの? 君は」

「……いいよ」

 耳元に唇を寄せるようにしながら、くぐもった声が漏らされる。

「君と見る世界の続きの方が大事だから」

 あたたかな吐息に包まれるようにして送り届けられる言葉に、目の前に広がる世界はゆるやかに輪郭を溶かすかのようにあまく滲む。


 ひとまずはさようなら。ほどけた気持ちはまた結び直してあげるからきっと大丈夫。

 この願いの行く末は夢の中で、そして、目覚めた後の世界でも。


 重く塞がれていくまぶたの裏で光る星を見つめながら、ぽつりぽつりと胸の内でだけ囁き声を響かせる。

 ひそやかな暗闇の世界を包む静かな雨音、そこに静かに覆いかぶさる恋人の吐息──いまこの瞬間、ここでしか鳴らせない、残すことができないひとときだけのやさしい旋律はたおやかに耳朶をくすぐり、やがてゆっくりと遠ざかる。


 ねえ、君ならこんな夜を彩る音色をどんなふうに写し取るの?

 頭の隅をもたげた問いかけを、ゆらゆらと漂わせるようにしながら静かに意識を手放していくのにただ身をまかせる。


 水彩画のように揺れる夜が、今宵もまた静かに更けていく。




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夜のメロディ 高梨來 @raixxx_3am

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