『ヨウジ』

 ヨウちゃんと海に行ったことは一度もなかった。

 ヨウちゃんが海に行ったことがあったのかどうかも、わたしは知らない。

 海、というそれ自体は知っていただろうけれど、潜りたいとか、越えたいとか、それに何かを思ったり、感じたり、期待したり、そういうものがあっただなんて、ちっとも気づかなかった。

「どう思う、コウちゃん」

「……でかいし、動いてる……」

 嫌なものを見てしまったというようにコウちゃんが眉根を寄せた。

「生き物じゃないよ」

「生き物のにおいするじゃん」

 わたしが手のひらから砂浜へコウちゃんを下ろそうとすると、コウちゃんは嫌がってわたしの足首にしがみつく。

「大丈夫なのに」

「ぜったいやだ」

 仕方がないので、その場でしゃがんで海を眺める。

 ここに、ヨウちゃんがいる。

 あんまり大きいから、見通せなくて、全然、ちっとも見えないというのに。

 ぱちん、とコウちゃんの尾鰭があたしの足の甲を叩いた。

「こら」

「帰ろうよ」

「来たばっかりなのに」

「こんなところに用ないじゃん。長居は無用だよ」

「難しい言葉を覚えたねえ……」

 ひと際大きな波の音が聞こえた。

 堪えかねた様子でコウちゃんが両手を伸ばしてきたので、そっと掬い上げる。

「ごめんごめん」

 ふんと鼻を鳴らして、コウちゃんは顔を手のひらに押し付けて隠してしまった。

「ごめんね、コウちゃん、もう帰ろう」

 そのまま頷いたコウちゃんの頭をよしよしと撫でる。

 もう一度、わたしは海を見つめる。

 ……だめだ。やっぱりわたしには、何の感情も湧いてこない。

 どうしてヨウちゃんが海を選んだのか、さっぱりだ。

 アオイさんは、ヨウちゃんは海に出ていったのだと言った。

 きっとヨウちゃんは、居たい場所へ帰ったのだと思う。

 コウちゃんの言葉を借りるなら、用のない場所に長居は無用、だから。

 コウちゃんは金たらいに。ヨウコさんは金魚鉢に。

 アオイさんは、どこに帰っただろう。

 ヨウちゃんは、海に。

 わたしは。


 わたしはまだ、水槽を出たばかり。

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水槽の子どもたち コオロギ @softinsect

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