第22話 消せない傷痕 その2

「……路時、さん?」


 眠気も数秒。


 目を覚ました存は、自分の服が脱がされかかっている状態であることに気づき、狼狽ろうばいした。

 半裸である。

 存は顔を真っ青にさせて少女を見た。

 腹部に触れて、肌を湿らせていたその液体が少女の唾液だと気づく。

 ほとんどずり下げられていた下着にも気づき、下腹部へ伸びた唾液の線が続く先に、自分の何があるのか――何をされそうになっていたのかを知った。


 だが、辺りを包む夏の気温とは裏腹に、空気は冷えている。

 存は服装を正し、何かを言おうとしたが、何を言えば良いのか分からなくなって、何も言えなかった。

 どうして少女が自分にそんなことをしようとしたのかと、考えれば考えるほど、存の頭は混乱していく。

 それにどうして、路時さんは泣いてるんだ? と、存は思った。


 だが、それも数秒だった。


(……まさか!)


 自分のシャツの下、肌の状態を思い出した瞬間、心臓が早鐘を打つかのように暴れた。

 そして、少女は言う。


「そんな酷い傷、誰に……」


 もはや疑う余地はない。

 存にとって、何よりも隠したいと思っていた秘密は暴かれてしまったのだ。

 それは積み重なった義母からの、罰の証し――自分が罪人であることの証明である。


 だが、グロテスクな体を見られてしまったと思っていた存は、泣きながら必死に発せられた紗亜那の声を聞いた。


「答えて、堀位君。その傷はどうしたの?」


 質問だった。

 涙をこぼして、必死に聞いていた。


「誰に、つけられたの? 堀位君みたいな優しい人に、どうして」


 存はごまかすことも、嘘をつくことも出来ず、紗亜那の必死さに無言を貫くことも出来なかった。


「……傷は、義母かあさんに」

「お母さん? 堀位くんを、産んだ人?」

「違う。義理の母なんだ。僕のお父さんが再婚して」

「一緒に暮らしてる家族なんでしょ? なら、どうしてそんなことを?」


 存は、踏み込んで質問を浴びせて来る紗亜那の必死さから逃れることが出来ない。


 本当なら、何かと理由をつけて、ごまかしてしまいたかった。


 経験上、傷のことを話せば必ず不幸を呼ぶのだと、存自身が強く思い込んでいたためだ。

 町田瑠香のことである。


 存の秘密を知った瑠香は、その体に刻まれていた虐待の痕さえ誰かに見せればと思ったせいで「子供の服を脱がしてイタズラする、ふしだらな問題児」とレッテルを張られて、家族ごと町から追い出されたのだ。


 慈しみを持って自分に接してくれた人が、孤立し、性犯罪者だと迫害される。それは、存にとっては酷く辛い物であった。

 恩人を自分の事情に巻き込んでしまったことは、存がずっと悔いていた事だったのである。


 だが、それでも、存は紗亜那に誠実でありたいと思った。

 一体、紗亜那以外に誰が自分のために泣いてくれる?

 それを思い、涙を流す少女を想えば、事情を話さないのは不誠実であると、そう思った。

 紗亜那に事情を隠したままでいることが正しい事とは、どうしても思えなかったのだ。


「僕を産んだ本当のお母さんが、僕が生まれる前に酷い事をたくさんしたから、その罰で」


 言った。

 もちろん、紗亜那の目を見ることはしなかった。

 本当なら、顔を見て告げたかったが、人を見る眼の発動条件となれば、そうするわけにもいかない。


 そして。

 数秒、必死に顔を覗き込もうとして来る紗亜那から目を背けていた存は、少女の追撃を聞く。


「堀位君を産んだお母さんは、どこにいるの?」

「もういないよ。僕が小さい時に、死んだんだ。刺されて。小さかった僕の、目の前で」

「だからって、どうして義理のお母さんはあなたにそんな罰を? 誰か止めなかったの? どうして誰も止めなかったの? お父さんは? お父さんは義理のお母さんを止めなかったの?」

「再婚した後、父さんも死んだんだ。義理のお母さんは、その後別の人と再婚して……だから、今、家にいるのは義理の父なんだ」


 紗亜那は、グッと唇を噛んだ。

 涙が、またポロポロと床に落ちて新しい染みを作る。


「私は、分からない。あなたが悪いわけじゃないのに、どうしてあなたが罰を受けているの? 堀位君が悪い事をしたわけじゃないんでしょ? あなたのお母さんがもういないから? 堀位君がそこまでされなきゃいけないことをしたの? あなたのお母さんは、何をしたの?」

「詳しくは知らない。だけど、たくさんの人を不幸にしたって。人を殺したこともあるって」

「本当なの?」

「本当だと思う」

「思うって? 証拠は無いの?」


 紗亜那は、うつむいたままの存に対しての容赦ない質問を続けていた。

 存は、混乱していた。

 調べた事が無かったわけがない。

 昔の新聞の記事なんかを探して読んだりもした。

 だが、見つからない。

 図書館の新聞、インターネット――存が自分の母親の名前をいくら探しても、事件のニュースらしきものは見つけられなかった。

 自分には見つけられなかったのだと言う、結果が存の中に残されていた。


 それでも、もしそれが嘘だというのなら、自分が罰せられている理由は存在しないことになる。

 理由無くして、あれほど罰せられることなどあり得るのだろうか。


 存は、自分を罰してる時の義母の顔を思い出しながら、言った。


「……証人がいるんだ」

「証人?」

「僕のお母さんに酷い事をされたって言ってる人が、近くにいたから」

「そんなの、分からないじゃない! その人が嘘をついていたら! あなたの家には、他人しかいないじゃない!」


 紗亜那の叫びが存を打つ。

 胸に、心に、魂に。

 そして、紗亜那の瞳が真っ直ぐに存を見つめていた。


(ダメだ! 目を合わせたら!)


 存はなおも下を向き、目を逸らす。


「路時さん。ごめん。やっぱり、僕みたいな人間は君みたいな奇麗な人の近くにいちゃいけなかったんだ。怖かったら、近くにいなくて良いから」

「違うよ……! 堀位君は何を言ってるの?」

「僕の傷、見たろ? こんな汚い体で、僕は」

「汚くなんかない」


 紗亜那は首を振って、言った。

 涙の雫が、顔の動きと共に床にまた落ちた。


「汚くなんかないよ。そんな傷なんて、汚くなんかない。私は、堀位君のそばにいたいの。堀位君は、いつだって私の事を考えてくれてた。いつだって、自分のことより私のことを考えてくれてた。ねえ、堀位君」


 紗亜那はポロポロと涙の雫を落としながら、言った。


「私、堀位君と出会えて、変わったの。何をしても、何をされても何も感じれなかったのに、心が、変われたんだよ。一緒に歩いて、海を見て、お話して――悲しいのも、嬉しいのも、全部、あなたに教えてもらった。堀位君に会うまで、知らなかった。あなたを想うと、こんなにも胸が苦しくなる。こんな苦しい思いなんて、今まで感じた事も無かった」


 紗亜那の涙は止まることなく床に落下して、水の跡を残す。

 それはぽたり、ぽたりと、音を立てた。


「汚いと言うのなら、本当に汚いのは、私なの。何も分からないまま、私は……私には、あなたが思うような綺麗なところなんて一つも無い」


 その瞬間、存は紗亜那の目をしっかりと見てしまった。

 不可抗力である。

 涙を流している紗亜那を見て、自己否定するような彼女の言葉を聞いて、つい、顔を上げてしまったのだ。


 そして、存の『人を見る眼』は発動する。

 紗亜那の考えていることが強く存の頭に入り込み、その過去の片鱗も覗いてしまった。


「う、ああ……!」


 その瞬間、紗亜那は、自分の身体に手を這わせて身を隠すようにした後、存から離れた。


 だが、存は動けない。

 力が暴走し、少女の心に踏み込んでその中を見てしまったのだ。

 それは、大切だと思っている人間の傷の記憶に踏み込まずにはいられなかった、無粋な少年の純真さだったのかもしれない。


 だが、存が見たのは、彼自身知りたくもなかった紗亜那の一部だった。

『本当に汚いのは』と言った少女が、心の中で思い出していた記憶。

 紗亜那が、一体どれだけの人間に性欲の捌け口として都合の良い存在として扱われたのか。


 100人や200人どころではなかった。


 若い少年たちがいた。

 老いた老人もいた。

 腹の出た中年もいた。

 悪ぶった不良も、普段は正義ぶっているような若者も、紗亜那の肉体に触れて、好きなように弄んで、少女の体内に欲をぶちまけていた。


 そして、かつてのこの少女に感情らしきものがほとんど無かったと言うのは本当だった。

 表面に出ないと言う事ではない。

 どこか、心の大切な場所が壊れていた。

 健全に育てなかった。

 彼女が出会った人間の誰も彼もが、よってかかって少女の心を、暗い穴の底へと押し込んで蓋をしてしまったのだ。


 嬉しいと思う事も、悲しいと感じる事も、怒りも、何もない。


 虚無である。


 だから、要求されればどんな変態的なことでもやった。

 したいと思ったわけではない。が、嫌だとも思わなかった。

 しなければ廃棄処分――利用価値が無い殺されて捨てられると言われてはいたが、それでも。


『なぁ、そんなにセックスが好きかよ、便所女』


 言われれば頷いて、顔は自分を抱いている男たちの、何が楽しくて笑っているのかも分からない顔を真似ながら、必死に男の体にしがみついた。

 最中にどんな声を出せば男が悦んで早く終わるのかを知って、舌を出せと言われれば舌を出し、自分で動けと言われれば、素直に従った。


 何をしても、何をされても、心は何も感じない。

 ただ、それでも男の動きで勝手に昂ってしまう自分の肉体だけはコントロールのしようが無かった。


 触覚、味覚、嗅覚、痛覚。

 性行為は、熱くて、重くて、苦しくて、不味くて、生臭くて、好きだと思える部分は何一つとしてない。


 だが、それでも、行為の最中に否が応でも感じてしまう、脳が痺れていく様な感覚と、少しも揺れる事のない心とは別に、勝手に上り詰めてしまう淫らな体の反応は、自分ではどうしようもなかった。


 それでも、心が何も感じない。

 体が望んでいない事になっても、何も感じない。


 そして……


 ――


「み、見ないで。お願い。やめて!」


 叫び声で我に返った存は、震えて泣いている紗亜那を目にした。


 人を見る眼の起こした現象の理屈は紗亜奈にも分かっていないようだったが、知られたくない自分を見られた、知られたと言う感覚が彼女にあったのだ。


 地面にぺたりと座り込んだ紗亜那は、ひたすら体を小さくして、泣いていた。


「ご、ごめんなさい。汚れてて、ごめんなさい。汚くて、ごめんなさい。私、私……」

「き、汚くなんか」


 存は、吐き気に襲われた自分をごまかしながら、必死にそう言った。

 もちろん、紗亜奈にはバレバレだった。

 泣きながら、少女は存の言葉を遮って、言った。


「今の、人の心を見る力なんでしょ? 前にも、同じようなことをされたから分かるの」

「前に?」

「私たちの目の前で玲央さんに殺された男の人。顔を潰されてた人。あの人と会ったことがある。何日か前に。あの人も同じ事が出来た。同じようなことをされた」


 存は思い出す。


『お、思い出したよ。お前だったのか、町田、瑠香』


 瑠香お姉さんと呼んで親しんでいた女性の名前を、死の間際に言った男。

 その前後、不可思議な感覚を覚えた。

 あれは、人を見る眼で見られた感覚だったのかと、存は思う。

 同時に、『お前は、この間の、誰とでも寝るガキ?』という言葉も思い出して、酷く嫌な予感がした。


「私、あの人ともセックスした」


 紗亜那は顔も上げずにそう言って、泣いた。


 ――ほんの数日前。

 紗亜那は町で乃原に声をかけられて、誘われるがままにホテルに行ったのだ。

 その時に、紗亜那は乃原に人を見る眼で見られた。


『……うん? 知らない感覚だな。何だ? 心が、壊れている?』


 乃原はハッキリと言うと、無表情でいる紗亜那の身体に触れて、言葉を続けた。


『えっと、路時ろじちゃんって言ったっけ? 君、セックス、好きじゃないだろ? まぁ、嫌いって感覚も無さそうだけど。何でこんな誰とでも寝るなんてことしてるんだい?』


 紗亜那は答えた。


『変わった能力を持っているみたいだけど、私を探ろうとするのは、無駄。何が目的かは知らないけど、私は何も喋らない。体は好きにして良いから。早く済ませて』

『うーん……』


 困ったなと、乃原は笑う。

 紗亜那の心に感情らしきものが見えないので、どう対応すれば良いのか分からないのだ。

 紗亜那は平然と乃原に言い放つ。


『さっさと、して。そうじゃなきゃ、他を探す』

『いや、するよ。君に興味はあるけど、別に良いさ。もう、何も聞かないよ』

『……どうぞ』


 ――


 乃原の能力は弱く、その眼は心の表面的な物しか見れないようだったが、紗亜奈には自分の心を見られたと言う実感があった。

 だから、存が同じ能力を使ったのだと言う確信を、紗亜那は持ったのだ。


 そして、存は泣いた。

 紗亜那を想う、純情とも呼べる純真さは、酷く傷ついていた。

 不特定多数の――あの不良達のような男が目の前で紗亜那の体を好き勝手にしていたことも、その事実を乗り越えたつもりでもいたが、それでも。


 故人とは言え他人とセックスをしたなどと言う紗亜那の言葉も、存にはショック過ぎた。

 紗亜那は絶望の顔で涙をこぼし、言った。


「堀位君、私、離れたくない。あなたと一緒にいたい。でも、私はこんなにも汚れてる」


 存は泣きながら紗亜那の肩に触れる。


「……一緒にいる。一緒にいるよ。何があっても。約束したじゃないか。僕はいつだって君の味方だよ」


 存自身、自分の悲しみよりも我慢が出来ない事があった。

 どんなに吐き気を催すような過去を抱えていても、紗亜那が自分を否定して、自分を汚れていると言っているのが、我慢できなかったのだ。


「誰かに命令されてたんだろ? 路時さんはそれに逆らうことが出来なかったんだ。それだけなんだ」


 紗亜那は首を横に振った。

 なおも否定である。


「私、そばにいる資格が無いの。人間である、資格が」

「資格? ……資格って何だよ。君は、人間なんだぞ」


 人である資格。

 自分を人でないと言う紗亜那を想うと、どうしようもなく悲しく、辛かった。


 少女の心。

 感情がほとんど動か無かった、壊れてしまっていた心。

 喜びも、悲しみも、怒りも、全て、上手く感じることが出来ないでいた。

 そうなったのは、彼女が悪いからじゃない。

 生まれつきなのか、それとも、誰かにそうなるように仕向けられたのか、そこまで深い場所は見れなかったが、しかし――


 今の存は、紗亜那が変わりつつあるのだと知っているのだ。


「今の君は、泣いているじゃないか。自分でも言っていたろ? 昔はそうじゃなかったのかもしれない。でも、今の君は嬉しかったり悲しかったり、そう言う事を感じられるじゃないか! ちゃんと、心を持った人間じゃないか! 苦しみから逃れるのに必死だった、ただの人間なんだよ! 誰だって、他の誰かだって、こんなことされて良いはずがないのに! どうして、君が!」


 存の目から涙がこぼれて、床を濡らす。

 だが、それでも紗亜那は存の言葉を認めなかった。


「私が、男の人としなきゃいけなかった理由は、あるの」

「理由?」


 見つめ合った二人の視線が絡まり合い、存の人を見る眼が発動する。

 ――理解。

 だが、それでも存は紗亜那の言葉を聞いた。


 紗亜那はぽつり、ぽつりと語り出す。

 自分と言う存在が何であるのか、その生い立ちを。


――――――――――


 路時 紗亜奈が生まれたのは 新型のコロナウイルスが世界中で蔓延し、度重なる内戦や国家間の争いの危機が至る所で露呈しだした、2021年と少し。


 だが、彼女の呪われた生い立ちの全てを語るには、それよりも昔、1980年代に上星市で起きた、魔法使いを巡る戦いまで遡る。

 歴史が証明する通り、かつて発展途上だった上星市に君臨し、混沌の限りを尽くした魔法使いは、正義を信じる若者たちによって倒された。


 しかし、困難だったのは、そのである。

 戦いが終わって魔法使いが死ぬと、暗躍していた多くの組織が、魔法使いの残したを求めて動き始めたのだ。


 魔法使いがこの町に発生させた混沌。

 町にばらまかれた依存症の無い、心を壊す媚薬の製法や、下水道に潜んで人を食っていた得体の知れない生き物の生育方法など、悪用すればいくらでも利益を生むものばかりだったのである。


 もちろん、魔法使いを倒した若者たちは、それらを破壊するために動き出した。

 世の中に残れば、必ず未来への負債となるのは、目に見えていたからだった。


 だが、結果として少年たちは、その全てを破壊することは出来なかった。


 大人の協力者も数多くいたが、まだ10代中ごろの学生中心で構成されていた彼らの若さでは無理もない。

 魔法使いの組織が運用していた悪行の全てを把握しきれず、そればかりか、魔法使いの部下であった裁能力保持者の残党は逃げ延び、一部は魔法使いの遺産の一部を持って世界中に逃走を始めたのだ。


 そして若者たちは二手に分かれた。


 一つは逃亡した残党を追って旅立ち、もう一つは、地下に潜った残党たちと戦い、魔法使いの残り香を完全に消去するために町に残ったのである。


 こうして戦いは終わることなく続き、その後、数十年に渡る殺し合いが、世界中のあちこちで発生し、その間にも、少年たちが破壊しきれなかった魔法使いの遺産は様々な組織によって回収されて行った。

 それらには上手く扱えば恐ろしい力を手に入れることも出来るだろう遺産がいくつかあり、その中でもひときわ危険な代物があった。


 魔法使いに、子供がいたのである。


 その子供は女の子で、発見された時、決して腐ることのない千切れた人間の腕を胸に抱えていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

罰 ~The inherited sin~ 秋田川緑 @Midoriakitagawa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ