2036年 7月19日 深夜 路時 紗亜那、堀井 存、茂田奈 玲央

第21話 消せない傷痕 その1

 路時 紗亜那は夢を見ない。


 もし、例え見ることがあったとしても、悪夢ばかりのはずだった。

 彼女にとって生きることは苦しみであり、楽しいことも、嬉しいことも、ほとんど経験したことが無かったのだから。


 彼女の未来には、希望など無い。

 ……いや、無いはずだった。


 彼女が目を覚ました時に夢を見ていたと思うようになったのは、つい最近の事である。

 夢に出て来るのは決まって堀位存と言う少年で、この時の夢も、存と一緒にいる夢だった。

 暖かな光とそよぐ風の中、存少年と手を繋ぎながら海を見て、潮騒の音に包まれながら二人で彼方を見ている夢だ。


 彼女が生まれて初めて海へ行ったのは、ほんの半日ほど前。陽が落ちる前のことだったが、あの水平線のある光景が、どれだけ彼女にとって大切なものとなったか。

 課せられていたも、何もかもを忘れて、ひたすら遠くで暮らしている『もしも』の自分を想像した。

 その空想を、とても美しいと思えた。


 そして彼女は、変わっていく自分を知る。

 平穏さ、心の豊かさ、他人への関心、今と言う時間への慈しみ。

 これまで紗亜那と言う少女に無かったものが、存と言う少年と一緒にいることで次々と生まれていた。

 ずっと、隣にこの堀居 存と言う少年さえいれば、自分は変わっていける――少なくとも、いつか憧れていたこともあった、人並みの人間としての人生を持つことが出来るのではと、彼女にはそう思えた。


 だが、それらは少し考えれば実現しようのない事柄だと言うのが彼女自身がよく分かっていた。

 憎しみを受けて生まれ、彼女の達により与えられた逃れられぬ苦しみの中で溺れ続ける――それが彼女の生き方として相応しい物なのだと教え込まれて、彼女はそれに逆らうことを考えることすら出来なかった。


 今の今までは。


―――――――――


 紗亜那は、目を覚ましたものの、ウっと呻いた。

 鈍い頭痛である。


 だが、痛みに震えている時間は無いということを、すぐに思い出した。

 気を失っていたと言う事には気づいたが、気絶してからどれだけの時間が経ったのかが全く分からない。

 しっかりと意識を現実に繋いだ紗亜那は、ここはどこなのだろうかと周囲を見回した。


 あの袋小路の場所ではない。

 いったい、どれだけの時間が経ったのだろうか。

 しかし、どれだけ視線を動かしても、視界は闇一色であり、状況が分かる物が何一つとして見えない。

 急に怖くなった紗亜那は、思わず叫びだしてしまうところだった。

 自分が独りでいる可能性を考えたからである。


「堀位君……!」


 床を這うように手を伸ばし、今、最もそばにいて欲しい人物――自分が最も大切に想っている少年、堀位 存を探した。

 誰かを探し求めて手を伸ばしたことは生まれて初めてだったが、必死だった。

 脳裏に、敵対した女――空志渡 礼美の邪悪な顔と、彼女が操る異形の怪物の姿が浮かぶ。

 紗亜那が最後に覚えているのは、死んだはずの玲央が立ち上がり、空志渡礼美と戦っていた姿だったが、果たして存少年は無事なのか。

 何しろ、玲央の死体が起き上がらなければ存は殺されていただろうと言う、そんな状況だったのである。


 と、その時、彼女の細い指が他人の熱に触れた。


「……堀位君?」


 名前を呟いたが、まさしく彼の様だった。

 目を凝らし、その肌に触れて彼が五体満足でいることを確認すると、ホッとしてその腕に触れた。


(あたたかい。生きてる。堀位君)


 安心したのもつかの間である。

 ふと、近くにあった壁の向こう、部屋の外から声が聞こえて来たのだ。

 壁――その時になって自分たちが室内にいることに紗亜那は気づいたが、この暗闇の場所で唯一の音である。

 声の色は一つ。あの玲央とか言う女だ。

 応対の言葉があるにもかかわらずに一つの声しか聞こえないと言う事は、恐らく携帯端末で通話しているのだろう。


「合流は不可能だ」


 紗亜那は壁に耳を当てて、その声を聞く。


「……悪いが合流する理由が無い。無理に合流しようとすれば敵の追跡を受けるぞ。……いや、貴方が私の事をどう思っていようと、もはや関係ない。先ほども言ったが、私の私怨とそちらの利益が合致したのは良い知らせだが、しかし、切り捨ててくれて結構だ。奴らと戦うのは、私の独自行動と言う、そのままの扱いでいてくれていい。……フン、何を今さら。私がどんな攻撃を受けても死なないと言うのは良く知っているだろう? 失って困る物もない」


 一体誰と話しているのだろうかと紗亜那は思ったが、もちろん紗亜奈には知る由もない。


「もはや、私にとっての貴方は特別な人間ではないが、感謝はしている。恩も十分に返した。だから、これを私の最後の仕事にしたい。貴方の所属している組織とは手を切らせてもらう。……出来るだろう? 私は正式には組織の一員ではない。所属しているのは貴方で、私は貴方が個人的に所有している道具と言う位置づけだったはずだ」


 その一瞬。

 紗亜那の頭の中にキンキンと鳴る声が響いた。

 フラッシュバックである。


『思い上がらない方が良いよ。お前はなんだから』


 ウっと呻き、紗亜那は全身が震えてくるのが分かった。

 急いで連絡を取らなければならない。

 だが、自分の携帯端末はどうしただろうか。

 バックに入れたままだったと思ったが、バックはどうしただろう。

 水族館の時も、海の時も、電車を降りた時も持っていた。その後、駅であの男たちに腕を掴まれた後はどうしただろうか。

 それに、と紗亜那は思い、課せられた命令を思い出す。


『ノルマだ。一日、最低でも一回。避妊はするな。帰って来たら調べる。形跡が無かったなら、今度こそ、お前はだ』


(私……昨日は、結局、誰ともしてない。でも、どうすれば)


 そして、気づいた。

 指先が、愛しい少年の腕に触れたままだったことを。


 紗亜那は恐る恐る、少年の服に触れる。

 思った。

 近場にいる男は、この存少年しかいない。

 もう、この少年としかない。


 いつか聞かされた過去からの言葉が、再び紗亜那の頭の中に甦る。


『お前の生まれた意味を考えろ。生かされている理由を。かつて沢山の人がお前のために人生を狂わされた。命を失った者もいる。それを考えれば出来るはずだ』


 それでも、嫌だった。

 穢れのある体で、この綺麗な心を持つ少年を汚したく無かった。


 でも、するなら今しかないと紗亜那は思った。

 壁の外は静かになったようだが、玲央はまだ戻ってきていない。

 急がなくては。

 玲央がいつ通話を終えて帰って来るかもわからない。

 紗亜那は躊躇うのも数秒で、存のジーンズの止め金具を外し、その下にあるチャックを下ろそうと、指先で摘まんだ。


「やめておけ」


 声が聞こえたのはその時だった。


「目を覚ましたようだな、路時。私はお前の素性を知っているぞ。お前が何をするように命令されているのかも知っている。だから、存に何をしようとしているのかも分かる。存とお前がをしたことが無いと言う事も、想像が付いている。だが、意識の無い状態でそれをすることを、存が望んでいると思うか?」


 声の主は、もちろん玲央だった。

 部屋に侵入した玲央に反応した壁がぼんやりと光を放ち始め、玲央の美しい顔の輪郭を薄っすらと浮かび上がらせていた。

 恐らく、通話を切り上げて来たのだろう。

 まだ画面の光る携帯端末を片手に、ジッと紗亜那を見ている。


「分かってる。でも……」


 紗亜那はそう答えると、再び存に視線を落とした。

 分かってはいても、止めることが出来ない。

 自分に与えられた命令を完遂できなければ廃棄処分になる。それはすなわち、だ。

 やはり、死は怖かった。

 幼少期、自分が命令を下される前にいた施設で『廃棄処分』と言う名目で連れていかれた少女達は、誰一人として戻ってこなかった。

 ……いや、自分も連れていかれる段になって裁を発現させなかったら、とっくに廃棄処分になっていただろう。

 あの暗い廊下を、殺されるためだけに歩かされるのが、怖くて仕方ない。


 しかし、紗亜那はこうも思った。


(でも、これは多分、私の本心を正当化してるだけ。死ぬのは怖いけど、でも、本当は)


 紗亜那の本心は、どんな手段であっても存と繋がっていたいと言う、どうしようもないだった。

 それが例え、獣の様に肉欲を貪るような形になったとしても、強く結ばれたい。自分だけを見て欲しい。自分だけを愛して欲しい。

 気絶する前の光景を思い出したら、止められなくなってしまったのだ。


 あの時。

 空志渡礼美が、純真な存の貞操を奪いにかかった時、自分がどういう気持ちになったのか。


『よく見とけよ? 自分の好きな男が犯されるところをさぁ』


 唇はあっさりと奪われた。

 舌が絡み合う音が聞こえた気もした。

 その時感じた感情――あれは恐らく、紗亜那が人生で初めて経験しただった。

 汚れて欲しくない、犯されないで欲しいと思いつつも、もし彼がそれをするのなら絶対に自分と、と密かに思っていた紗亜那の慕情は、アレを見た瞬間に裏返り、どうして存とをしているのが自分では無いのかという、焦げ付きのような嫉妬へと変化してしまったのだ。


 この矛盾した感情は認めたくなかったが、もう、紗亜那自身も溢れる感情を止めようがなかった。

 再び動き出した紗亜那の細い指先が存のジーンズのファスナーに触れて、僅かな金属音をたてる。

 玲央は諦めたかのように言った。


「そうだな。それはお前と存の問題だ。個人的には止めたいが、止める事が正解かも私にはわからない」


 玲央は一度そこで言葉を切ったが、僅かな思考時間の後、言った。


「続けると言うのなら、私は別室に移っても良い。だが、私個人から忠告しておくぞ。存はお前の事を知らない。お前も存の全てを知らないと見ている。だから、それ以上踏み込むな。深く知り合えば、今までの関係は破綻する。後悔することになるぞ」


 紗亜那は、玲央の顔は決して見なかった。


「私だって、本当はしたくない。大切だから。堀位君には、綺麗なままでいて欲しかったから。でも……」


 空志渡礼美の愛撫に反応してしまった存を思い出すたびに、心が酷く辛くなった。


『見ろ。少年の、固くなって来たぜ!』


 誰かに奪われて、存が自分以外に夢中にある想像をしてしまった。

 そんなことがあるはずが無いと思いもしたが、あの姿を見てしまった以上、根拠はどこにも無かった。

 もし、そんなことが起きたとしたら、きっと耐えられない。

 それに、今の自分は存の恋人ですらないのだと、紗亜那は思う。

 ――いや、そもそも存とそう言う関係になれるとすらも思っていなかったが、それでも、現状の関係は弱々しくて、何かきっかけさえあればすぐにでも粉々になってしまうと、そう思っていた。


 この行動がその関係の終わりになるのかもしれないけれど、それでも――


 それはどうしようもなく、矛盾だった。

 殺されたくないと言う恐怖と、存を大切に想う暖かな愛慕と、青く燃える炎のような焦燥がごちゃ混ぜになり、紗亜那は泣きそうになりながらも、どうしようもなく存の『男』を迎え入れようと疼きだした自分の『女』を、抑えることが出来なかった。


 紗亜那はグッと息を止めた後、意を決したように強く言う。


「私はもう、この人しかいないから。だから」


 言い切った後、紗亜那は存のジーンズのジッパーを下ろし、彼の下着に手をかけた。

 手は震えていた。


「……分かった。私は別室に行く」


 複雑な表情をした玲央が部屋を出て行く。

 紗亜那は――


「堀位君、ごめんなさい。ごめんな、さい」


 彼のシャツの裾をそっとまくり上げた紗亜那は、彼の下腹部――ヘソの下にキスをする。

 舌を出して触れ、そして繊細な体温の波をなぞるかの様にして下に動かして行った。

 尾を引く粘液の跡。

 紗亜那は存の下着に触れながら、舌での愛撫を続けた。

 その動きは可憐で儚げにも見える紗亜那とは酷く不釣り合いに見えるほど官能的で、もし存の意識があったのなら、身悶えして全く動けなくなっていただろう。


 だが、動かない。

 存はまだ、目を覚まさない。


 一瞬、這わせた舌の横にあったのような線に紗亜那の視線が触れた。

 最初は気にならなかったが、何だろうと思った瞬間、何か、ゾッとするような予感めいたものが紗亜那の脳裏に走った。


 (これは……傷の痕? 何の?)


 不良にやられた傷ではない。

 殴られただけでは、そうならない。

 線のようなものが、いくつも走って、肌が、まるでなんらかの疾患にかかったかのように荒れている。


 瞬間、部屋の灯が強まった。

 時間差である。その光は、部屋を出て行った玲央への反応だった。


「えっ」


 存の肌を見た紗亜那は、目を見開いて、固まった。

 固まらざるを、えなかった。


(何? 何なの?)


 分からない。

 ただ、シャツの下から覗いていたのは、酷く変色した肌と、やはり赤く腫れた様なの、不規則な列だった。


 紗亜那は、恐る恐る存のシャツを上までまくり上げる。

 そして――


「っ……」


 そこにあったのは、かつてこの存少年を攻撃した者が付けた虐待の歴史だった。


 線は、切り傷の痕だった。

 刃物で斬られたと思わしき直線と曲線が所狭しと描かれて、それが何度も何度も肌を切り刻んだ痕跡なのだと言う事が分かる。


 銃痕と見間違うような痣は、タバコの火を押し付けられた物だろうか。

 それ以外にも火傷の物と思わしき、熱せられた様々な道具――フォーク、スプーン、小瓶の底のような曲線の輪郭が、まるで影を落とした記号のように肌の色を変えていた。

 乳首は切り取られて消失している。

 他にも、まだ完治していない新しい傷がいくつもあった。

 ところどころにある痣は、不良に殴られて出来た物だけではないだろう。

 何か、鞭のような物――恐らくはベルトで強く叩かれ、肌が破れたような痕もあったし、何かを突き刺されて抉られたかのような、痕もあった。


 紗亜那が言葉を失ってしまったのは、少年のシャツの下には傷の無い場所など、どこにも無かったからである。


『汚れてなんか、いない』


 不意に、いつかの小屋で駆けられた言葉が蘇ってきた。

 出会った時の、存の言葉だ。


『汚れてないよ。君は、綺麗じゃないか』


「そんな。こんなことって」


 紗亜那の目から、涙が知らずと溢れ出る。

 あの出会った時の言葉の意味が、やっと分かったのだ。

 と言う意味が。


 そして、紗亜那の涙のそれに反応するかのように、存が目を覚ました。

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