第42話

 うそ………うそ………


 少年の返事は、けして大きな声ではなかった。しかし、まるで耳元で言われたかのように、ヴェルニーナの鼓膜を激しく震わせた。ヴェルニーナの高鳴っていた鼓動が、一瞬とまる。だが喉の苦しさはいっそう強くなった。忌まわしい呪いから解放されたはずなのに、彼女は指一本動かすこともできなかった。


「ニーナ、ほしいの?」


 今度は自分の耳が信じられなくなったか、それとも、もう一度聞きたくなったのか。確認するように繰り返されたその声は、先ほどと変わらず小さく震えていた。


「はい」


 シンは、気持ちをこめるために必要な動作かのように、一度呼吸を整え、しかし、決してためらうことなく、力強く同じ言葉を繰り返した。


 その間、少年の黒い瞳は一瞬たりとも彼女の青い瞳からそらされることはない。少年の瞳に宿る熱はどんどん上昇しているかのようだった。そして、その熱が空気を伝わったかのように、ヴェルニーナの体温が上昇し、心臓が壊れんばかりに音を鳴らす。


 黒髪の少年は、魔力も持たず、言葉も知らず、何も持たないはずであった。だが、この少年は、彼女が誰からも与えられなかったものを、次々と彼女に与えてくれた。


 そして今また、彼女が心のそこから願い、だが結局あきらめてしまった宝物を、その小さな手のひらの上にのせ、どうか、どうか受け取ってくださいと、ヴェルニーナの前に惜しげもなく差し出している。


「うれしい……うれしいよう………」


 ヴェルニーナは、情けない声を上げて泣き、シンに抱きついた。彼女の目から再び涙があふれ、ほほを勢いよく流れ落ちる。それは先ほどの雨にぬれたように冷たいものではなく、彼女の熱を示すように、あたたかく心地よいものだった。


「シン……シン……」


 ヴェルニーナは、流れる涙をそのままに、声を詰まらせて少年の名を呼んだ。そして、つないでいる手を離し膝を折り、両手で少年をやさしく引き寄せる。膝立ちになったヴェルニーナは、顔をシンの胸にうずめるようにして少年の背中に手を回し、やさしく、だがきつく抱きしめた。


「ニーナ、ニーナ」


 少年は、ヴェルニーナの背中にそっとやさしく片手を回し、もう一方の手は銀色の髪に添えるようにして彼女を自分の胸に受け入れる。あふれる涙が服を濡らすが、それが望みであるかのようだ。そして、いつも彼女のためにしているように、大切に大切に、丁寧に丁寧に、月の光を反射する銀色の髪をそっと押さえつけるように指ですいた。


 シンの胸に顔をうずめたヴェルニーナは、その高まった鼓動から少年もまた緊張していることを知り、その速い律動にうっとりと耳を傾けた。


 少年が銀色の髪をすきながら、片手でヴェルニーナの涙をぬぐい始める。指が目にあたらないように、青い目のしたにやさしく手をおいて、指の背で涙を待ち受けるようにする。そして止まったしずくをしみ込ませるように自らの指に乗せ、彼女の涙をとりさるのだった。


 ヴェルニーナは顔をあげ、下からシンの顔の横にそっと手をあて、その黒い目を覗き込む。少年は、彼女の髪に指をからませ、熱をもったまなざしで彼女の青い目を見つめかえす。


 彼女が、シン、シンと少年の名前を呼ぶ。すると少年が、ニーナ、ニーナと呼び返す。いつかの馬車の中のように、ただ名前を呼ぶだけのことで通じ合い、何度も何度も繰り返し、互いの声に想いを乗せて、相手の中に伝えあった。


 やがて、互いに自分の想いを詰めあった二人は、いつしか息がかかるほど、顔を近づけて見つめあう。


「シン………」

「ニーナ」


 最後に一度いとおしく相手の名前を呼びあって、その一滴で満たしあい、満たされあった二人は、壊れやすい宝物に触れるように、やさしくやさしく口付けを交わす。


 そっと離すと、少年は彼女のそのやわらかさに夢中になったようだ。黒い瞳を溶けるようにうるませて、青い瞳に無言でねだる。求められたヴェルニーナは、初めて知るその喜びに打ち震え、何度も何度も繰り返し、少年と顔を重ねあう。やがて、二人の重なる時間が長くなり―――――


 リィンリィン………リィンリィン………


 体の奥からあふれだし押さえきれない喜びが、ヴェルニーナから漏れ出していた。それに混じった竜の魔力を、やさしい巨岩が受け取って、かわりとばかりにその身から、きれいな澄んだ鈴の音を、祝福するように響かせた。

 明日からもこの街で、二人が静かにくらせるように―――――





「どうやら上手くまとまったようだな」


 門からこっそり見守っていたジェイクが、二人の様子を見ていった。

 その首をディーネが乱暴に、だが二人の邪魔をしない程度に締め上げた。


「なにをしたり顔で!どうせあなたがややこしくしたんでしょ!」

「ええ!?おれ?」


 なんもしてねーよ、とあばれるジェイクの頭をわしづかみんで押さえつけた。そして、ディーネは心の中で、よかったわねヴェルとつぶやいた。


「まったくうるさい奴らだねぇ。雰囲気が台無しじゃないか」


 声をひそめつつも騒がしい後ろの二人に向け、サーリアが苦言を呈するが、その視線は遠くで抱きあう二人に向けたままである。なお、ジェイクとディーネは、念のために様子を見に来たサーリアにくっついて来たのだった。


 サーリアは、穏やかに目を細めながら、かつて自分の庇護のもと鍛え育んだ愛弟子の幸せを祝福した。そしてまた、彼女を解き放ってくれた黒髪の少年に、心の中で礼をいうのだった。


 満天の夜空にかかる満月が、柔らかい光で重なる二人を照らし出す。

 愛する二人が、お互いの顔をはっきり見られるように。


 三人が見守る視線の先で、二人の影が重なり合って、祝福の鈴の音が鳴り響く。

 その巨岩の足元で、ヴェルニーナとシンは、何度も顔を重ねあい、想いを伝え合っていた。

 いつまでも、いつまでも。


 リィンリィン………リィンリィン………

 ニーナ………ニーナ………

 シン………シン………


 Fin.









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奴隷はご主人さまに好かれたい たかくん @taka-kun

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