第41話

 ヴェルニーナは、涙をとめねばならぬと思いながら、自分の中の感情をおさえきれずにいた。


 彼女は、かつて普通の少女らしく、一番大切な気持ちの入った宝物をその人と交換し合うという物語にあこがれた。だが現実はきびしく、そのような話は自分にはおよそ無縁なものと何度も思い知らされ、やがてあきらめた。それどころか一時は、人との交わり自体を絶つまでに追い込まれた。そして、あの大樹のような師のもとで、木陰に入って傷をいやし、成長し、やがて強さを手に入れた。


 少女から大人になったヴェルニーナは、ある程度の気持ちならばと妥協できるようになり、そういう相手でも納得するようになっていた。一度はそれすらも拒絶された彼女であったが、この黒髪の少年と出会ってからの日々で、かつて少女のころにあこがれた幸せを、ふたたび望み期待してしまった。


 あの子はもうあなたのものよ

 だってちゃんと印をつけたじゃない

 きっと逃げたりしないわ

 それで満足すべきよ


 後ろからひっそりささやいてくる声に、ヴェルニーナはそうではない、自分がほしいのはそれではないと涙を流す。彼女のつちかった大人の理屈は、それで妥協すべきだと言っていた。しかし、もしそれを受け入れれば、彼女の少年への大切な想いが、傷つき汚れてしまう気がした。


 じゃあ、あの子が他の人を選んでいいの?


 だが、その声がヴェルニーナの心臓につきささり、縛りつける。どうしようもなく混乱した彼女は、自分の気持ちの行き場をなくし、さめざめと泣いていたのだった。


 黒髪の少年は、しばし呆然と、子供のようになく彼女をみていた。そしてしばし目を閉じると、意を決したように息を吸い、しっかりと彼女の目を見て、みじかく言った。


「しーの」


 とめどなくあふれる涙が少年の姿をぼやけさせていたが、視覚がうすれてていたためか、そのかわいらしい声は彼女の耳にはっきり届いた。だが混乱の中のヴェルニーナは、唐突な少年の言葉にとまどい、反応できずにいた。すると、シンは彼女をいつものようにじっと見つめて、もう一度しーのと言った。


 少年とのきらきらと光るような思い出は、すべて彼女の心の箱の中に大切に保管されていた。かわいらしい舌足らずの言葉に刺激され、ヴェルニーナはその箱の中を探して、その場面を思い出そうとした。まだ出会って間もないころの食事の光景が脳裏に浮かび、そのときの少年との楽しいやりとりがヴェルニーナの頭の中に瞬くように繰り返された。


 あのとき私はたしか………


「ほしいの?」


 少年との思い出をつづった紙を読み返し、記憶の中に見つけた光景が思い出され、ヴェルニーナはふと、反射の反応のように、そうこぼした。あのときと同じように。


 少年は、ヴェルニーナの言葉を受け、つないだ両手の力を強め、彼女の青い目を見ていった。


「はい」


 ―――――ヴェルニーナの目からあふれ出ていたものがとまる。

 彼女の両目が、はっきりと少年の像を結ぶ。月の光に照らされた美しい顔にはもうあの仮面は見当たらない。そのかわり、少年の顔は彼女に何かを伝えようとしているように見えた。


 ヴェルニーナの反応をしばらく待つかのようにして、シンは彼女を下から見上げ、やがて、もう一度、はいと繰り返す。二人の言葉のやりとりは、少年がヴェルニーナに何かを望んでいることを伝えてくる。その何か、が欠けており、彼女の返事により決定的になる。そのことをヴェルニーナは理解したが、だがそれゆえ返事ができずにいた。


 おなかがすいてるんじゃないの?

 どうせ勘違いよ

 これも、もし違ったらどうするの?

 恥ずかしい


 繰り返し刻み込まれた否定の経験が、しつこく彼女を縛ろうと声をあげてくる。


 そんなはず……そんなはず……


 その場面を望んでいたにもかかわらず、いざそのことを意識すると、言いようのない恐怖が彼女の中に沸き起こっていた。自らの逃げ場をなくす決定的な言葉をシンへと返せず、ヴェルニーナは人形のように固まったままだった。


 ――――お前の目は真実を映す青い石だ

 ――――目をしっかりひらいて、それを見てきなさい


 サーリアの声が再び彼女の中で響いた。

 その鋭さから持ち主を傷つけ続けた両目は、いまこそ借りを返すときだといわんばかりに、はっきりと少年の姿を映し出し、ヴェルニーナに少年の姿をあますところなく見せ付ける。シンは彼女に訴えかけるように、彼女にしっかり伝わるように、はい、はいと繰り返し、隠すことなく自分の気持ちをさらけだしていた。


 心臓の鼓動が不規則に高鳴って、締め付けられるような息苦しさを覚え、ヴェルニーナはひとつ唾を飲み込んだ。


 シンの気持ちを知りたいと、シンに伝えてほしいと望んでいた彼女であった。

 だが、唐突に準備なく、決定権を自分に渡されたような状況に置かれてしまい、また、少年への気持ちの大きさゆえに、彼女の足はふわふわと頼りなく、恐怖ですくんでしまっていた。ヴェルニーナの口からシンへの言葉は、まだ出ようとしない。


 ――――その子がきっと勇気をくれる


 ヴェルニーナは、サーリアの穏やかな声を思い出しながら、少年の手にすがり強くにぎった。その手は、いつものように小さく、やわらかく、彼女を拒まない。そしていま、その手はとても頼もしく彼女の手を握り返してくれていた。少年の手は、いつもより熱く彼女の体にその熱をつたえ、その熱が彼女の体にいきわたるように流れ込んできて、彼女を安心させてくれるようだった。小さく頼もしい手から熱をわけ与えられたヴェルニーナは、その力をかり、賢者が弱めた呪いをふりきって、ようやく何とか言葉を発した。


「ニーナ、ほしいの?」


 いまだ残る呪いがもたらす恐怖とそして長年望んだ期待から、弱々しく弱められたその声は、かすれて震えており、夜の庭の静けさにすぐに溶けてしまいそうだった。


 だが黒髪の少年は、確かに届いたと伝えるように、彼女の両手をさらに強く握り締めた。頭上の夜空に劣らず澄んだ黒い瞳で、強くしずかに彼女をみつめる。出あったあの日とかわらずに、決してそらさずに。

 そして少年は、ゆっくりとはっきりと、彼女が教えた短い言葉に彼女のための想いをこめて、彼女のその身に染み付いた残酷な呪いを打ち砕いた。


「はい」

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