九官鳥は占う

賢者テラ

短編

「優樹、今日も快勝だったな」

 トレーナーの山口は、禿げ上がった自分の頭をペチペチ叩く。

 これは、機嫌のいい時に彼がいつもする癖である。

 優樹は、プロボクサーとしてデビューして以来、負け知らずだ。

 先ほども、4ラウンドを待たずに対戦相手をKOし、マットに沈めてきた。

「それじゃ、今日はお疲れ。明日からはまた厳しい練習メニュー再開すっからな! 夜更かしすんなよ」

 そう言い残して山口はジムをあとしにた。



 優樹はジムの片隅に位置する、小さいながらも自分の個室として与えられた部屋に入った。彼は、この『狂栄ボクシングジム』に住み込んで、ボクサー生活を送っているのだ。

 部屋の隅っこには鳥かごがあり、九官鳥が一羽、その中に鎮座していた。

 鳥かごの前にどっかりと座り込んだ優樹は、まるで相手が言葉を理解する人間でもあるかのように、語りかけだした。

「キューちゃんよぉ、次の試合も勝てるかな……どうだ?」

 


 それは、半年前のことだった。

 プロテストに合格し、プロでの初試合を前日に控えたある夜のこと。

 優樹は、不安でいっぱいだった。

「オレは明日、勝てるんだろうか?」

 思わず、ボソッと独り言が出た。

 その時だった。

「カテル、カテル」

 優樹は驚いた。声の主はキューちゃんだった。



 親や友人のいる故郷を離れて上京してきた彼は、何となく寂しかったのか、部屋にいる時も相棒が欲しいと思った。

 そこで、近くのペットショップから買ってきたのが、この九官鳥のキューちゃんだったのだ。

 子供時代にインコを飼っていた経験があったため、飼育の要領は心得ていた。

 ちなみに、キューちゃんのネーミングの由来は、優樹が幼少時代に影響を受けた伝説のアスリート、高橋尚子にちなんで名付けられたものだ。

 キューちゃんに言葉を覚えさせようとして、優樹は様々な努力を試みたが、これまでに一言も言葉を発することはなかった。

 ……ま、いいや。お前がいてくれるだけで、オレは十分満足だよ。しゃべれなくたって、お前はお前だもんな。

 それが、唐突に言葉を発したのだ。しかも、まるで優樹の問いかけに対して反応したかのように。

 悪い冗談だ、と思って笑ったが、それで何だか気が楽になった。

 リラックスして、平常心で初試合に臨んだ優樹は、快勝した。



 それからというもの、優樹は試合があるたびにキューちゃんに『お告げ』をもらうのが習慣となっていった。

「カテル」

 そう言われた試合は、必ず彼が勝った。

 不思議なことに、キューちゃんは「マケル」とは言わなかった。

 その言葉通り、優樹は破竹の勢いで勝ち続けた。

 いつしか彼は、「今最も注目される新人ボクサー」として、その名が知られるようになっていった。



「お兄ちゃん、すごいじゃん」

 優樹が病院へ見舞いに行った時、病床の妹・美樹は苦しいながらも精一杯の笑顔を浮かべた。

 美樹は、百万人に一人の奇病で、心臓に奇形があった。設備の整った病院に入る必要があったため、優樹と一緒に東京へ来たのだ。

 臓器移植が必要なのだが、海外へ行くしかない上に、適合するドナーがまだ現れていなかった。もちろん、移植には莫大な費用がかかる。

 実は、優樹がボクサーで上を目指す理由のひとつに、このことがあった。

「へへ、すごいだろ美樹。見てろよ、お兄ちゃんは必ずチャンピオンになっちゃるからな!」



 病院の帰りに、上京してから知り合った女性のところへ寄った。

「あら、優ちゃん」

 ラーメン屋 「太極軒」の戸を引くと、エプロン姿の弘美は優樹の姿を認めてすぐさま駆け寄ってきた。

「今日はお食事?」

 その声は、はつらつとして明るい。

「いんや、また次の試合に向けてウェイトコントロール中やけ、残念やけど食うわけにはいかんなぁ」

 二人は、顔を見合わせて笑った。

「弘美の顔が見たくってさ——」 

 優樹は照れくさそうに言う。

「今度の試合はな……やっと現チャンピオンに挑戦できる大事な試合なんや。見ててや、絶対モノにしちゃるからな。その時こそオレは、お、お前になぁ——」

 優樹の頭にヤカンを置けば、お湯が沸かせそうだった。

 プロポーズする、と言いたかったのだが、恥ずかしさに言えずじまい。

「ゆ、優ちゃん、店のオヤジさんが呼んでるから……私行くね」

 弘美も顔を真っ赤にして、フワフワした足取りで仕事に戻って行った。

 途中、コーラ瓶のケースにけつまずいているのが見えた。



 だからこそ、今度の試合は落とせない。

 何が何でも勝ちたい。

 優樹はドキドキしながらキューちゃんに尋ねた。オレは勝てるのかと。



「マケ」



 優樹は我が耳を疑った。そして、何度も聞きなおした。

「マケ、マケ」

 キューちゃんの言うことは変らない。優樹は、初めて恐れを抱いた。



 ……オレは負けてしまうのか。



 今までキューちゃんの予言が完璧に当たっていただけに、信じざるを得ない現実だった。



 優樹は、リングに立ちたくなかった。

 試合をやめてしまいたかった。負けると分かっている試合なんてー。

 優樹は頭を抱えて、暗い部屋の中で苦悩した。その横では、彼の気持ちを知ってか知らずか、キューちゃんが「マケ、マケ」と何度も鳴き続けていた。



 試合当日、やはり彼はリングの上にいた。

 無数のライトが、戦場に立つ二人の戦士の姿を浮かび上がらせる。

 大観衆の熱気が、波動となって中央に押し寄せてくる。

 やはり、現チャンピオンの強さは本物であった。

 決定打はまだもらってないが、テクニックと手数で押してくるチャンピオンは、少しずつだが優樹にダメージを与え、確実にポイントを稼いでいた。



 5R目。コーナーに腰掛けた優樹に山口トレーナーはささやいた。

「このままやったら、パンチもらわんでも確実に判定負けや。残りのラウンド、細かい攻めはいらん。ここぞという時の一発を狙って、ガマンするんや」

 優樹は、思わず苦笑した。

 ……そら、言うのはなんぼでも簡単や。やる方の身になってみい、って。



 ゴングが鳴った。

 すぐさま、チャンピオンは細かいジャブを鋭く繰り出しながら、ジリジリと踏み込んできた。優樹はコーナーに追い詰められ、ボディへの連打を浴びてしまう。一発一発は大したことなくても、数を浴びると確実に、ダメージが蓄積する。



 ……オレは、負けるのか——。



 優樹は、一瞬目を閉じた。



 妹の声が聞こえる。

「負けるな、兄ちゃん。ワタシも頑張って生きるんだから」

 弘美の声が聞こえる。

「優ちゃん、信じてるから。きっと私のこと幸せにしてくれるよね?」



 その瞬間、優樹はキューちゃんの予言のことも、負けるかもという恐れの感情も忘れた。彼は最愛の妹のため、そして弘美のため——

 そして何より自分のためにも、負けるわけにはいかなかった。

 この戦いだけは。



 腫れあがった彼の目は、確かに捉えた。

 大振りに腕を振ったチャンピオンの、一瞬のガードの隙を。

 優樹は自分という存在の全てをかけて、そこにエネルギーを凝縮させた。

 チャンピオンの右ストレートが飛んできたが、よけることはもはや考えなかった。



 ……こっちのパンチが先に当たればええんや!



 恐れることなく腕を振りぬいた打撃は、コンマ一秒程度の差でチャンピオンに速さで勝った。

 見事なカウンターが決まった。




 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※




 明日は、いよいよ妹に付き添って海外へ行く。移植手術のためだ。

 タイトルをモノにし、文字通りチャンピオンとなった優樹に、莫大なファイトマネーが転がり込んできた。

 ドナーもタイミングよく見つかり、ようやく移植が実現することになったのだ。

「私ね、元気になったら恋をするんだ。でね、お兄ちゃんみたいなカッコイイ人見つけるんだ」

 貴重な青春時代をベッドで過ごしてきた美樹は、そう言って笑顔を見せた。



 優樹は、キューちゃんに話しかけた。

「しばらく帰って来れないからな。世話は山口トレーナーに頼んどいたから、元気でいろよな」

 突然、キューちゃんは新しい言葉をしゃべった。



「ヨカッタ、ヨカッタ」



 ……そうか。

 お前は、オレに教えたかったんだな。

 負けると予言されたけど、負けるわけにはいかなかったオレは、全力で覚悟して勝負に臨んだ。そして勝利を収めた——



『運命とは、与えられたものじゃなく、自分の力で切り開いていくもの』



 やっと分かったよ。ありがとな、キューちゃん。

 その後、優樹は沢山の試合を戦い、輝かしい戦績を残した。

 もう二度と、キューちゃんに試合の勝ち負けを聞くことはなかった。




 キューちゃんもまた、死ぬまで二度と人の言葉をしゃべることはなかった。

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