06 交わる視線

「あの、本当にいいんですか」

 鉄の階段を先に行く飼育員の男性──森安モリヤスに、秋夜は控えめに声をかけた。この上は、飼育員が魚たちに餌をやったり水槽を掃除したりするためにある職員専用のスペースのはずだ。その証拠に、部屋の奥にある階段の入り口には、スタッフオンリーと書かれた札がかけてある。まさか普段立ち入るはずもないその場所に、ただの客である秋夜が招かれることになるとは夢にも思わなかった。

 先ほど、彼に声をかけられて振り向いたときにこちらを見ていた人魚は、一瞬目が合ったと思えばすぐに岩陰に隠れてしまった。それに落胆とささやかな安堵を覚えていた秋夜に続けて声をかけたのは森安で、何を思ったのやら人魚に会ってみないかという誘いをかけてきた。彼は何度か水族館内で顔を合わせたことのある古くからのスタッフで信頼できる人、それだけにその言葉の意図が分からない。どうして、そこら中に蔓延しているようなありふれた高校生に声をかけたのだろう。

 急展開を見せる話についていけず、何を言われたかを頭の中で噛み砕いているうちに、あれよあれよと階段のところまで連れてこられてしまった。水族館にかかる静かなBGMが遠くに聞こえる。振り返った森安は笑うと、手でちょいちょいと秋夜を呼びながら笑った。

「兄ちゃんは、あの元気な嬢ちゃんと一緒によく来てるって職員の間でも評判だからな。悪い奴じゃねえのは分かってるよ、ちっちゃいころから見てるわけだし」

「いえ、人柄の問題ではないと思うんですけど」

 だから大丈夫だとでも言いたげに笑う彼に、秋夜は冷静に言葉を挟んだ。たしかに幼いころからよくここには訪れているし、ランドセルを背負っていた自分を知っている職員だっている。しかし、数年通い詰めたからと言って裏にいれてもらえるのはまた違った話ではなかろうか。それも、バックヤードの見学などではなく、言い方は悪いが大事な展示品であるはずの人魚と会わせるなど。怪訝そうな顔をしている秋夜に、森安は笑って言った。

「人魚、見ればわかるだろうが若い娘なんだよ。俺みたいなおじさんとばっかり話してもつまらないだろ。話し相手はいたほうが退屈しない。退屈しないのは精神衛生に良いだろう?」

「……それで、僕ですか?」

「あいつが誰かのこと見てるなんて珍しいしな。物は試しに。な?」

 いいからこっち、と手招きされ、秋夜は好奇心と押しに負けて一歩踏み出した。工事現場の足場のような階段は、綺麗に整備された水族館の中で踏みしめることになるとは思わなかった感覚だ。カツン、カツン、と一歩歩くたびに足音が響いた。

 トークイベントはありません、とパンフレットに書かれていたせいで、てっきりこの人魚は人間の言葉が通じないのだと勝手に思っていたけれど、どうやらそうでもないらしい。スペースや時間やコストなどの、ただの水族館の方針なのかもしれない。常識的な感覚としてとりあえず遠慮はしたが、人魚と──あの人魚と、話ができるなんて願ってもみなかったことだ。

 森安は早くも上にたどり着いているらしく、普段は閉め切られているはずの扉は開け放されている。蛍光灯の光の漏れるそこに近づくにつれて五月蠅くなる胸に、秋夜は自分の心臓が喉から飛び出してくるんじゃないかと心配になる始末だった。

 話をしてくれるかどうか、そもそもどれだけ会話ができるのかは置いておいて、もしかしたら彼女の声が聞けるかもしれない。どれだけの運勢を使えば、こんな流れに出会えるのだろうか。明日自分が生きてるかだなんていうくだらない心配が頭を掠めていった。

 塩素の匂いが鼻腔をくすぐった。階段を登り切った秋夜に、森安は扉を閉めるように言う。バタンと鉄製の扉が勢いよく閉まり、床が薄いのか振動が足の裏から少しだけ伝わってきた。森安は扉が閉まったのを見届けると、プールのあるらしい方向へと歩き出す。迷いのない足取りに、ここまで来てしまったらもう後戻りはできないなと思った。なんだか悪いことをしている気分になってしまう。森安の独断だと思われるこの行為は、あとで怒られないだろうか。

 リュックの肩紐部分を握りしめるようにして後をついていけば、やがてすぐに見えたのは水面だった。少し向こうでは、青薔薇やら装飾のライトやらを吊り下げているらしい紐が見え、水面の上からもライティングが設定されている。水族館に幾年も通っていても、その裏側を見るのはなんだかんだと言ってはじめてだ。様々なパイプが太い細いに構わず張り巡らされていて、モップやらなにやらの掃除用具もそこらに置いてある様子だった。

「濡れて困るもんはそっちに置いておいてくれ」

 頷いてから、近場にあった机にリュックとスマートフォンを置いた。それから駆け足で水面に近づけば、森安が楽しそうな顔をして待っていた。

 人魚のプールだ、ということは上から見てもすぐさま分かった。ガラスの向こう側──いつも自分がいる場所は、ガラス越しだとどこか遠いところのようにも見える。青い天井と壁、床も相まって、向こう側も水中のような気さえしてきた。透明感のある水の中は、泡が立ち飾り物が揺れていなければ水だとさえ認識できない。人魚の姿は、秋夜のいる場所からはぱっと見つけられなかった。それでも、秋夜の意思と関係なしに早まった動悸が収まる気配はなく、出来ることはといえば森安の次の言葉をただ待つだけになった。

「んじゃ呼ぶぞ。これであいつも少しはリラックスしてくれればいいんだけどなあ」

 見ず知らずの人と話してリラックスはできないと思うけれど、という反論は飲み込んでおいた。せっかく人魚と会えるチャンスが来たのに、そうやってひねくれた発言ばかりして機嫌を損ねでもしたら勿体ない。一度きりになるかもしれないその機会を逃すわけにはいかない、と無意識のうちに思っていた。

 森安は、ゆっくりと手を水槽内にいれると、二、三度水面を叩いて見せた。波紋が経ち、水が跳ね揺れる。それに反応したかのように、もうひとつ森安の作ったものではない大きめの波紋が出来た。

 するり、と何でもないように顔を出したのは、当然人魚だった。ケープが頭からするりと落ちて、濡れた髪がぺたりと肩に張り付いている彼女は、ガラスを隔てた先にいる存在ではない。突き付けられた当たり前の事実に、足元の床が急に不安定になった気さえする。声も出せずにただ人魚を見つめる秋夜に、森安から期待に満ちた視線が指さる。蛍光灯の下にいる彼女も、水の中にいるときと変わらない美しさだった。

 白い頬から、水滴がぽたりと落ちて、プールいっぱいの水に溶けていく。目にかかる鴉の羽のように艶やかな濡れ髪をしなやかな指が退ければ、深い藍の目が秋夜を刺した。

 水の中から姿を現したときの人魚のその静かな表情は、秋夜を見るなり即座に崩された。ぎょっとその瞳を目をまんまるにして見せたかと思えば、十数分前の自分の行動を思い出したのか一瞬で頬を赤く染め、それから森安のほうに何かを確認するように視線を送る。かと思えば森安が何かを汲み取って返事をする前に、ひらりと体を翻した。

 水中に、帰るつもりか。

「待って」

 自分でも驚くくらい自然に、声が漏れた。今にも岩場に隠れたいんだろうな、というのは震える背中をみれば一目瞭然で分かる。そんな彼女にどうして声をかけてしまったのか自分でもよく分からなかった。綾瀬は秋夜より秋夜の感情に詳しい節があるから、もしもこの場に綾瀬が居たなら理解できたのだろうか。

 秋夜からその先の言葉が出てくることはなかったというのに、声をかけられた人魚は律義に体をその場に留めていた。何かの機械の作動音だけが沈黙の間を縫っていた。

 助け船を出したのは森安だった。

「あー、お前も俺みたいなおじさんとばっかり喋ってるんじゃ飽きるかと思ってさ。同年代の友達のひとりくらい居ればいいかと思って連れてきたんだ。人柄は保証するし、少しでいいから話してみないか?」

 自分の子供を諭すような優しい声音だった。まだ、水槽の向こう側にだれか客が来た様子はない。だから焦ることもないのだけれど、秋夜の心は急いていた。人魚の声が聴けるかもしれないのだ。

「──…………もし、余計な気をまわしているなら」

 しばらく逡巡したようにその場に漂っていた人魚の声が、秋夜の耳に触れた。鈴の音のように心地よく、曇りのない夜空のように綺麗な、少し高い澄んだ声だった。その声に釘付けにされた秋夜は、さらに口から音が出なくなる。喉の奥ですべての言葉が引っかかっている気がした。存外──予想以上に、流暢な発音だった。声だけ聴くとすれば、本当にただの人間と大差のないような。訂正、声だけ聴いてもその綺麗さは只事ではないと感じさせるだろうけど。

 人魚は、静かな声で続けた。

「……そこの方にもご迷惑なので、帰っていただいてください」 

「ちげえよ。単に話し相手がいるほうが退屈しないだろうって話だけだ。お前が興味持った人間ってだけで貴重だしな。兄ちゃんもお前と話したそうだったから連れてきた、それだけだ。協会はともかく、俺自身はお前の意思を尊重するって言ったしな」

 森安の答えに、人魚は再びしばらく考え込むように押し黙ってしまった。こちらから表情を見ることはできない。余計な気をまわすとはどういうことだろうか、と思った。無理やりここに連れてこられたと思われているのだろうか、ならばそれは違うと否定すれば──彼女と、少しだけでも、言葉を交わすことはできるだろうか。そんな打算のもとで、秋夜は何度か深呼吸をしてからゆっくりと口を開いた。それでも少し声が震えていた。

 彼女に声をかける、ということ。綾瀬にあれほど揶揄われるほど、家でも家族に心配されるほど心奪われてしまったらしい彼女に、言葉を届けるということ。まだ自覚が足りていないけれど、自分はいつの間にか随分と緊張しているようだった。

「──僕は、キミと、話してみたいよ」

「…………」

 その震えた小さな声に、すぐの返事はなかった。自分は、コミュニケーション能力が低いなと自分で感じることはあれど、人に対して何かを語るのに躊躇うほうではない。声が小さくなるなど、震えるなど、記憶の限りをたどっても未体験のことだった。無意識のうちにぎゅっと拳を握りしめていて、手のひらに爪が食い込んで少しだけ痛かった。

 彼女に、僕の言葉は届いただろうか。伝える言葉はこれで正しかったのだろうか? 静かに返事を待つ時間が永遠のように感じられるのも初めてだった。

「……本当、ですか?」

 ──人魚は、そう言葉を投げ返してきた。

 自惚れでないのなら、錯覚でないのなら、秋夜にはその声は少し喜色を帯びているように感じられた。シンプルなその願いを、どうやら人魚は聞き届けてくれるつもりらしい。秋夜が人魚の声に弾かれたようにしてそちらを見れば、人魚は再びゆっくりとこちらを向いていた。視線がゆっくりと、交わった。

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