05 幼気

 水族館の中は相変わらず、時間がゆったりと流れているように感じられた。季節の展示とイベントコーナーを通り抜け、エンゼルフィッシュが悠々と泳ぐ水槽の前を横切る。真っ黒な壁のせいでどこから流れているかわからないミュージックが展示によって変わるのさえ、秋夜は自分の選んだクラシックで上塗りしていた。小春がいるときはすべての展示をひとつひとつ見ながら進むけれど、秋夜ひとりだとそうする理由も特になかった。くらげの部屋と、そこを抜けた先にいる鮫の水槽を一瞥してから、淡水魚のいる大きな水槽の前を通り抜けて絶賛イルカショーを行っているプールの外周を歩いた。イルカショーの動員も今日は少なめの様子だ。夏休みとはいえ平日、会社に行っている人も多いのだろうなと簡単に考察する。客が集まっているところに水をかけに行くイルカたちは、演舞をするたびに餌をもらって嬉しそうだ。一瞬足を止め、イルカたちを少し眺めてから、再度歩き出した。

 秋夜の目的地はここじゃない。塩素の匂いを振り切るようにプールのある大きな広間を出た秋夜が足を向けたのは、当然人魚のいる水槽の場所だった。

 また、あの人魚を、見たい。小春が飽きることなくなんども水族館に足を運ぶのは、こういう気持ちが原因なのかもしれないな、と思う。硬質な床と床の黒に同化するような黒いブーツの靴底がぶつかり合い、金属質な足音が鳴っていた。いつも通りスニーカーで来ればよかったな、と秋夜は思う。雨に濡れ、水が靴に沁み込み乾かすのが面倒だからと気にして履きなれないブーツにしたけれど、それだけで自分の足音が随分耳障りに響いていた。靴ずれがないだけマシなのかもしれないが。

 薔薇飾りの目立つ大きな水槽の前には、偶然か人がいなかった。この前は一歩引いたところで彼女を見たけれど、これなら誰にも気兼ねなく水槽のそばまで行けそうだ。アルバイト中にさえ思い出して集中力を欠かれるほど焦がれた美しい彼女──これは綾瀬の表現を借りている──は、今日も岩陰に隠れているだろうか。この前同様、あまりにも怯えているのなら、少しだけ眺めてすぐに帰ろうと考える。人魚側にしてみれば、自分が生活しているのを四六時中眺められるのはいい気分ではないだろう。プライバシーもなにもあったものじゃないのだから。

 そんな風に予想しながら、人魚の水槽のある部屋に足を踏み入れた秋夜は、驚きで目を見開いた。

 人魚は、岩陰に居なかった。

 水族館に慣れたのだろうか、はたまた彼女を観覧する人が居なかったからだろうか。人魚は、ケープのフードこそ被ったままだけれど、水槽の手前のほうまで来ていた。こちら側には背を向けていて、分厚いガラスを隔てているせいで音が聞こえていないのか、秋夜が来たことに気が付いた様子はない。秋夜がゆっくりと、それでも確かにガラスのギリギリまで近づいても、彼女は一切反応しなかった。遠くから見たときはただの紺と水色のグラデーションにしか見えなかった尾だが、ところどころ黄の鱗が混ざっているようだった。そして他の青い鱗もその黄の鱗も、個々に色を持ちながら光を反射して時折虹色に光っている。それが見えるほど、彼女との距離は近かった。

 時間が止まった心地がする。まさか、こんなに近くにで見られるとは思っていなくて、心の準備ができていなかったのもあっただろうけれど──息がいつの間にか止まっていて、目の前で尾をひらひらとさせる彼女をただ見つめていた。釘付けにされていたというのが正しい表現のような、気もする。早鐘を打ち始めた心の臓を、秋夜は思わず片手で抑えた。

 人魚は、自分の耳の上に咲き誇る青薔薇に似せて作られたらしい造花をつんつんと指でつつき、どういう仕組みなのかはらりと重さを持って落ちるそれに驚いたように、水中だというのにひどく俊敏に飛びのいた。飛びのいたついでに秋夜と人魚を隔てる水槽に背をぶつけたらしく、ガラスにそっとあてがっていた片手に振動が伝わってきた。驚いて少し目を見開くと、人魚は背を抑えてよろよろと沈んでいく様が目に入る。秋夜は彼女がその一撃で怪我を負ったかと一瞬焦って、両耳のイヤホンを一気に抜いた。

 ただ、それはどうやら無用な心配だったようだ。人魚は痛みを逃がすためかまるで人間の幼い子供が駄々をこねるようにごろごろと水草に身を預けて砂利を転がっている。痛くはないのだろうかと別の心配が湧きだすものの、そこまで大きなけがにはつながらなかったようで安心感にほっと息をついた。

 ──秋夜の持っていた人魚への印象とは全く異なるその仕草に、思わず秋夜は目を細めた。人魚というと、女神のような清純でお淑やか、高貴たる故に孤高なイメージか、この場合の彼女には当てはまらないがニュースなどで見るサービス精神旺盛な陽気なイメージをどうしても持ってしまっている。例で言えば前者に当てはまる彼女は特に、岩場で怯える姿など、御伽噺で塔に幽閉されていた姫君が初めて俗世と触れ合ったような、世間知らずのお姫様みたいだと──そんな無遠慮で勝手な印象を抱いていたのだ。

 それがこんな子供らしい、少しお転婆でかわいらしい立ち居振る舞いなど。心臓は相変わらず鼓動の速さを保っていたが、それにしても思わずくすくすと笑ってしまう。

 そんな秋夜の存在に、辺りを転げまわっていた人魚はようやく気が付いたようだった。秋夜のほうを見て一瞬体を強張らせると、次の瞬間その陶器のような白い肌を真っ赤に染め上げる。秋夜が瞬きを数回する頃には、初めて見たときのように岩場の後ろへ隠れてしまっていた。リラックスしていた様子だったのに悪いことをしたな、と思うと同時、その様子から見るに、常日頃こういった行動が表に出ていないことを確信する。薔薇をつついたり、水槽のガラスのそばまで来ていたのは決して慣れたのではなく、人がいないからこそ行っていた行為なのだろう。彼女にとってきっと不本意であるその行動を見てしまったことに、秋夜はなぜだか些細な優越感を感じていた。

「……可愛いとこもあるんだね、キミ」

 その言葉が聞こえるわけはない。それでも彼女にとってあれを見られたことは相当に恥ずかしかったらしく、いつのまにやら指先まで真っ赤にしていたようだ。人魚がすっぽり隠れるには少し足りないサイズの岩から見える手先は赤く染まっており、あのまま茹だってしまわないか多少不安になる。人魚の煮物など聞いたことがない。それが自分のせいだとなればまっぴらごめんだ──まさか秋夜だって、人魚が羞恥で茹だるなどというそんなニュースは一度たりとも聞いたことないため、本気で心配しているわけではないけれど。

 人魚の楽しみの時間を邪魔してしまったし、別のところを少し見てから帰ろうか。あふれる幸福感からの笑いが収まってから、秋夜はリュックを背負いなおした。

 見ていないことを前提に手を振ってから、水槽のある部屋を出ようと踵を返す。部屋になっている人魚の展示プールは、奥は行き止まりである。流しっぱなしの音楽を再度聞こうと、首にかけっぱなしになっていたワイヤレスイヤホンに手を伸ばした秋夜とすれ違うように、飼育員であろうスタッフの男性が部屋に入ってきた。この人魚は女性なのに、男性が飼育員なのか──とさっきまでの幸福感と裏腹に少しの苛立ちと人魚への心配を覚えて顔を顰めた秋夜を一瞥してから、スタッフは水槽をひょこりと覗いた。

「お、珍しいな」

 分厚い水槽の向こう、ましてや水中に声など届くはずもないのに、この人は何をやっているんだろうかと自分を棚に上げた辛辣な評価を脳内で定めながら、秋夜は男性を置いて歩き出す。また来よう、と密かに心に定めた秋夜を引き留めたのは、男性が続けて言った言葉だった。

「人見知りのあいつが人のこと眺めてるなんてなあ。そこの兄ちゃん、なにしたんだ?」

 悪意のない、揶揄うような声音に思い切り振り向く。

 あいつ──人魚の、ことだろうか。一瞬のことだった。秋夜の心を期待だけが埋め尽くし、鼓動が一層強くその存在を訴える。うるさい、分かってると自分の体に怒鳴りたくなるような一瞬を超えて秋夜の瞳がしっかと水槽の中を捕らえたとき、水槽の向こうの岩陰で、確かに人魚がこちらを見ていた。海に溶けてしまいそうな神秘的な空間の中で、タンザナイトの石を嵌め込んだかのように煌めいて美しいその瞳は、確かに秋夜のほうを向いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る