04 雨のゲート
その日は朝から雨だった。少し青い顔をした小春が、今日は神社に行ってくるねと笑って家を出て行ってしまったせいで、水族館に行くつもりで支度をしている途中だった秋夜は今日の予定がまるごと宙ぶらりんな状態になっていた。別に小春と約束していたわけじゃなく、普段は水族館に行きたがるからと勝手に支度をしていただけなので彼女を責める謂れもつもりもないのだが。彼女は水族館の次に神社が好きらしく、たまに思い出したように神社に行きたがる。決まって秋夜を置いて。それが今日だったというだけの話だった。
今日はアルバイトのシフトもない。今からでも支度をほどいて、家でまったりと課題でもやるかと思ってから、ふと脳裏にあの人魚のことが浮かんできた。
人魚のことを思い出したついでに、数日前に綾瀬に根掘り葉掘りと事情を聞かれたときのことを思い出した。色恋沙汰に目を輝かせる彼だったが、秋夜が恋してるだとかそういうんじゃないときちんと説明すれば、理解はしてくれたようだった。理解はしてくれたようだったが、「人魚と人間の恋の話もこの世界にはあるぞ」とまだ諦めてはいないようだった。そういう友人だということはよく知っているので、今更特にいうことはない。
その時の様子を思い出してため息を漏らしながら、少しだけ逡巡して、それから秋夜は荷物を取り上げた。親に行ってきますと声を掛け、足が向けたのは──結局のところ水族館だった。綾瀬を誘って勉強会でもいいが、彼は確か今日もアルバイトだったはずだ。水族館にひとりで行くのは、ずいぶんと久方ぶりに思えた。
家から水族館まで、歩いてもさほど距離はない。片手とスマートフォンをジーンズのポケットに突っ込んで歩く秋夜の耳には、ワイヤレス通信タイプの白いイヤホンが挿さっていて、エレキギターの目立つJ- POPが多少の音漏れをさせながら流れていた。秋夜の持つ紺色の傘から滴った水滴が、視界の隅を掠めていく。車道側を親と一緒に歩いていたひよこの雨合羽を着た幼い子供が、トラックが通り過ぎるときの水しぶきを浴びているのを横目に、秋夜は歩くのを速める。
歩き続けて十五分、線路で分断された向こう側に行くために駅の中を通り過ぎてまた五分──海の近くまでくれば、水族館の看板が見えてきた。少し長い石造りの階段をのぼり、その看板の横を通り過ぎる。バス停にあるような半透明の雨除けの屋根の下に、チケット売り場と入場チェックのゲートが鎮座していた。秋夜の地元は別に観光地というわけでも、この水族館自体が特別有名なわけでもないからか、はたまた雨だからか、長期休みの時期だと言うのに人はほとんどいなかった。その閑散とした雰囲気は、見慣れた光景だった。
ゲートを通り抜ければすぐに建物で、屋根が途切れることはもうない。屋根の下に入った後に傘を開け閉めして水滴を払った秋夜は、いつもの癖でぺこりとゲートにいる人に礼をしてそのまま入ろうとした。
ゲートでチケットのチェックをしていた人に腕を掴まれ止められるまで、そこにいるのがいつもそこにいる人じゃないことに気が付いた。
「あの、チケットを!」
「……ああ、すみません」
どの曜日にいる受け付けの人とほとんど顔見知りなせいで、年間パスポートを見せることもなくゲートを通るのがいつものことになってしまっていた。背負っていたリュックを降ろしてパスポートを取り出そうとする秋夜を見てか、ひとつ向こうのゲートにいたいつものスタッフの人が、秋夜の通ろうとしたスタッフのほうに声をかける。
「あ、
「えっ?! で、でも……」
「毎週のように来てるお得意様なのよ。秋夜くん、今日は小春ちゃんはいないの?」
「今日は一人です」
それは珍しいわねと笑ってから、スタッフさんは別の人のチケット確認を始めてしまった。結局、パスポートを出せばいいのか出さなくてもいいのか分からない。ただ、先の反応を見るに秋夜とこの場にはいないものの小春の特例性を知らなかったようだから、一度はパスポートを見せておいたほうがいいかもしれない。
財布からカードのような形をした、水族館の名前とイルカのマークが刻まれたカードを取り出した。水崎と呼ばれた女子がそれを確認し、頷く。そこで秋夜はようやくまともに水崎の顔を見て、それから思い出した。もしかして彼女は、高校のクラスメイトではないだろうか。たしか、園芸委員か何かに入っていたはずだ。花に水をやっている姿がぼんやりと頭に思い浮かんだ。たまに、最寄りの駅で見かける制服姿も。
後ろに人が並んでいないことをいいことに、その場で財布に再度パスポートをしまう秋夜を見ながら、水崎がぽつりと呟いた。
「七篠くん、水族館好きだったんだね」
「……姉が好きだからね、その付き合いで。よく来るよ」
「そうなんだ。……さっき立川さん──そこのスタッフさんがが言ってた小春さんって、その、お姉さん?」
「そうだけど。水崎は別の高校だから知らないと思うよ」
「そっか。あの、あのね、私は夏の間だけバイトでここで働くことになったの」
「……そっか。頑張ってね」
肩より少し伸びた髪を纏めた彼女は、記憶の通りクラスメイトだったようだ。体育祭の時にひとことふたこと交わしたくらいの記憶しか秋夜にはないけれど、どうやら向こうは秋夜を認知しているらしかった。曖昧に笑って返事をした秋夜は、歩き始めながらイヤホンを耳に挿す。お世辞にも自分が人付き合いが上手な方でないのは分かっている、下手に相手を傷つける前に退散するが吉だ。
確か彼女は生真面目な性質だったな、と、ぼんやりとした記憶を探りながら思った。成績も悪くなかったはずだ。もしかしたら毎回パスポートを見せるよう要求されるかもしれない、そうでなくとも世間話を求められるかもしれない──今度からちゃんと通るゲートを選ぼうと、秋夜は思った。ポケットからスマートフォンを取り出した秋夜は、イヤホンから流れるJ‐POPを、ゆったりとしたピアノ曲に切り替えた。
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