03 脳裏に描く

 ガチャン、と硬質かつ耳に障る音がキッチンに響いた。状況を飲み込めず瞬きした秋夜に、周りも驚いたように声を上げる。どうやら自分の手が滑ったようで、皿を落として割ったのだった。地面には白色の破片が散らばり、パスタなどを盛り付けるはずの平皿は見るも無残な姿になっている。滑ったようで、というのは、その音が聞こえるまで彼は自分の手が滑ったことにさえ気が付いていなかったゆえの表現だ。

「えっ、七篠ナナシノくん、大丈夫……?」

「……すみません、多少ぼーっとしてました。片付けます」

 普段からミスが少ないせいか、周りからは非難よりも心配の視線と言葉が流れてくることになってしまった。それを申し訳なく思いながら、秋夜はゆっくりと破片をちりとりにまとめる作業をした。アルバイト中にこんなくだらないミスを犯すなど、普段の秋夜では考えられないことだった。


 スタッフルームで着替える秋夜の視界を、突然ターコイズブルーが遮った。べちんと音を立てて目元に当たったそれは、どうやら隣で着替える友人の腕のようだ。秋夜は呆れたように目を細めてから、どうやらこの時期にも関わらずお気に入りの長袖パーカーを着ているらしい彼の腕を雑な動作で退けてみせた。

綾瀬アヤセ

「あ、悪い。柱かと思った」

「人間と柱の区別もつかないわけ、キミは……」

「悪い悪い、つい。ごめんな」

 ため息をついた秋夜に、隣にいる友人──綾瀬は悪く思っていなさそうな顔で手を合わせて謝ってくる。レストランの楽しそうな喧騒が微かに聞こえるだけの薄暗く狭いスタッフルームの中とはいえ、人の顔と柱を勘違いするなんて相変わらずだねと辛辣な判断と言葉を下しながら──もちろん親愛ゆえである──秋夜は適当に手を振って彼を許した。ここはふたりがアルバイトをしているファミリーレストランのバックヤードだった。

 そろそろ夏休みだし、と彼に誘われてこのアルバイトを始めたのは先月のことだった。秋夜は、世間が優しくしてくれる学生のうちに社会経験を積むのもいいかなんていう斜に構えた考えで誘われるままアルバイトを始めたのだが、これがなかなか楽しい。学費を稼ぐためだからとハードにシフトを詰め込む綾瀬に比べれば頻度は低いけれど、秋夜はなんとなくアルバイトを続けていた。

 黒のTシャツに薄手の白のカーディガンを重ねて着るのを最後に着替えを終えた秋夜は、まだもたもたと着替えている綾瀬を待つべくスマートフォンを弄っていた。彼と自分は店内での仕事が違うけれど、たまたま今日はシフトの終わりが被ったから帰りに夕飯でも食べようかと話していたのだ。外は夏という季節の割に少し薄ら寒く、寒がりの彼なんかは長袖のパーカーを着ている始末だった。どうやら今年の夏は冷涼らしい。過ごしやすくて結構なことである。秋夜は暑いのが得意じゃなかった。

「そういえば言い損ねてたんだけど、髪染めたんだな」

「ああ、うん。キッチンとはいえ一応接客業だしインナーカラーだけど。綾瀬はこの夏休みにピアス開けるんだっけ?」

「そうそう、ピアスな、せっかく高校生になったし開けたいなと思ってさあ。まだ開けてないけど。あとその白髪インナーカラーにしてる意味ないぜ、お前それなりに髪短いんだし見えてるぞ」

「そうやって尻込みしてるとピアス開ける前に夏休み終わっちゃうと思うけど。あと白髪じゃなくてアッシュグレイって言って。店長に許可は取ったよ」

「ハイハイ、相変わらず細かいな」

「キミが大雑把なだけでしょ」

「失礼だな、よし着替え終わった! 飯行こうぜ!」

 そう言って斜めがけの鞄を背負った綾瀬に、秋夜は手に持っていた深緑のリュックにスマートフォンを滑り込ませてから、リュックを背負った。


「で、お前なんかあった?」

 塩っけの多いポテトを口に運びながらそう問いかける綾瀬に、黙々とハンバーガーを消費していた秋夜は首を傾げた。少し遅い時間の店内には、くたびれたサラリーマンやら自分たちのようにアルバイト帰りらしい人たちの騒ぐ声やらが充満している。綾瀬はなにかあったかと心配そうに問う反面、どこか面白そうなことがあるとでも言いたげな視線で秋夜の顔を刺していた。

「……なんかって、何?」

「いや、あのだいたいある程度はなんでもこなす器用貧乏のお前がこうもミス多発とかさあ、ちょっと信じられなくって」

 その言葉に、秋夜は食べていたハンバーガーを喉に詰まらせかけ、慌ててジュースで流し込む。普段はともかく、人の精神状態に敏感な綾瀬がそこを指摘してくるとは思わなかったのだ。大丈夫かとけたけた笑って見せる綾瀬を軽く睨みつけながら、秋夜はゆっくり息をついた。

 秋夜はアルバイトでも学校生活でも、ミスが少ないタイプだった。周りを見て、説明を聞いて、それなりにこなす。あるひとつのことを極めたりはしないけれど、それなりに上手くやっていく。それはまあ昔からの習性だったし、綾瀬に出会った頃からそうだったから何ら疑問はないだろう。むしろ彼は、今日の秋夜の様子が変だったことを言及しているのだ。

 秋夜はファミレスのキッチンで調理のサポートとしてアルバイトをしているが、今日は特に「らしくない」ミスが多かったのだ。自分でも自覚はある。皿洗い中に手を滑らせ皿を割るのにはじまり、ちゃんと確認してから作ったはずなのに料理自体が違ったり、工程をひとつ飛ばしてしまったり。フロアから注文を聞いてくる綾瀬と顔を合わせる回数も少なくない。どうやらそれで秋夜がくだらないミスを連発していたのがばれていたらしい。

「……器用貧乏は余計。人には調子のいい日と悪い日があるってだけだよ」

「えー、でも単に調子悪いわけじゃないだろ、もっと理由あるだろ、信じられない」

 秋夜は正直、本来は別の品についてくるべきバーベキューソースを単品で頼んで、すでに十二分に濃い味をしているポテトを更に飾り付けて食べている綾瀬のほうが信じられない。信じられないのだがしかし、今日の自分の蛮行──というには些細なミスだったけれど──は自分でもあまり信じたくない事実だった。その理由に心当たりがないわけではない分、さらにだ。

「なーんか仕事中もぼーっとしてることが多いし、やけに水族館について忙しなく調べてるしさあ」

「……なに、見たの? 人のスマホ覗き見するのやめたほうがいいと思うよ。あとあれは小春が水族館好きだから調べてただけ」

「見えたんだよ、人聞き悪いこと言うなって」

 夜九時のハンバーガー店の喧騒に紛れ、綾瀬が意地悪く笑ってみせる。どういう感情だ、と秋夜が思うのもつかの間、綾瀬はその「心当たり」をいともたやすく言い当てて見せた。

「心ここにあらずで、いっつも何かに見惚れてるような感じ。なんかあったろ」

 ──面白いことが。

 綾瀬は口には出さなかったけれど、どうにも目がそう訴えてきている。秋夜は今度はハンバーガーを喉に詰まらせることなく無事に胃に落とし込んだ。そういえば彼奴は人心の機微に敏い代わりかのように、恋愛話が大好きだったな──と、秋夜はようやく思い出したのだった。それから、彼にとって近しい人物でありながら色恋沙汰から遠く離れた友人である自分の恋愛事情が好きであることも。ミスの内情を言い当てられた驚きよりも、漫画家になりたいと言っているだけあって恋の始まる可能性があればどんな破片さえ集めてくるその執念にため息をつくことになったのだった。

 きっと、ふとした瞬間に脳裏をよぎって、秋夜の心を奪っていく──人魚のことを。それを話さない限り今日は帰してもらえないだろうなと安易に予想がついた。綾瀬と長い付き合いなだけに、簡単に予想出来てしまった。

 別にクラスメイト相手でも、バイト仲間相手でもない相手を脳裏に描いていること。そもそも、相手が海の生き物であること。これは恋なんかじゃなくて、ただただ綺麗で、目に焼き付いてるだけだということ。それを理解してもらうにはどうにも時間がかかりそうだと、秋夜は今から頭痛がする思いだった。

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