02 瞼の裏に焼き付いた

 人魚の展示されている場所は、水族館の中でも比較的大きなプールだった。イルカショーを終えてから進む順路に沿って、すぐそばの通路を右へ。金魚たちを横目に歩いた目と鼻の先、水槽のない通路が少しだけあり、その先の小さな部屋に人魚はいるらしい。出入口の傍には秋に行われるイベントのポスターと、それから簡易的に『花人魚』と書かれたプレートが掲げてあった。

 展示が始まり一週間、始まった夏休みということで、部屋はそれなりに賑わっているようだった。奥にはなにやらスタッフスペースらしい扉と階段があり、それ以外はほかの部屋と同じように真っ黒の壁面に床、天井がある。水槽から少し離れた場所には、休憩用にかワインレッドの小さく背もたれのない、どこからでも座れるタイプの四角いソファが置いてある。楽し気に部屋に入っていく小春の後について、秋夜はそこに足を踏み入れる。

 大きめの岩場がふたつと申し訳程度の珊瑚と水草、地面は細かながらに煌めく石の混ざっているらしい砂利で、水面から垂れさがるのは造花の薔薇飾り。人魚の棲み処として提供された水族館の一部は、ただひたすらに青と泡で埋め尽くされていた。いくつかに分けられて差し込んでいるライトはおのおの微妙に色が違うようで、アトランティコブルー、エメラルドグリーン、コバルトブルー……寒色系で纏められたライトは、その水槽の神秘さをより増している。他の魚たちの水槽に比べればサイズの割に多少飾り物が少ないように思えるけれど、それでも十二分にその世界は出来上がっていた。

 ぱあとはじけるように笑った小春が人魚の水槽に駆け足で近寄っていく。秋夜はまだ、角度と人垣のせいで人魚が見えなかった。彼女のように人の中をトラブルなく掻き分けていける自信もないので、小さな子供たちの集まっている一角の向こうから人魚を見ることに決める。人魚のことをそれなりに楽しみに狙ったところへ向かって、秋夜は水槽を覗いた。

 人魚は、その体を小さく丸めて、水槽の奥に居る様子だった。

 蒼玉のような瞳に、冷たい水の中でもその色を保つ桜色のくちびる。漆黒の宝石オニキスを思わせる艶やかで真っすぐな黒髪に、長いその髪に絡むようにして存在する蔓から耳の上あたりで咲き誇る青色の薔薇。それから、深い青から空のような水色に綺麗にグラデーションされた尾。秋夜の視界に留まるのはそれだけだった。別の言い方をするならば、秋夜の目を惹きつけるにはそれで十二分すぎた。神秘的なライトアップも、水中を漂う薔薇の造花も、はしゃぐ子供の声や部屋に響くヴァイオリンのミュージックさえも、彼女の美しさの前ではそこにあることすら気が付かないくらいに霞んで見える。彼女の美しさに釣られてか、物珍しさからかは分からないが、幾人もの人が足を止めていた。

 たっぷりと水の満ちた水槽の奥にいる人魚は、どうやらケープのようなものを着ている様子だった。人が増えてきたからか慌てて被ったフードから零れた黒髪はゆらゆらと水に揺れ、どこか怯えたような青色の視線が秋夜たちを静かに見据えている。上半身がこちら側から見えることはほとんどなく、垣間見えるその綺麗な尾もケープで隠されている部分のほうが多かった。

 ただ、秋夜は見惚れていた。時計を確認するついでに見ていたスマートフォンのLINE画面をひらきっぱなしに、人垣の向こうで目を輝かせる小春のことも気にも留めず、ただひたすらに目の前にいる人魚を見つめていた。彼女は人垣の向こう側で、ただじっとしていた。

 一瞬、彼女の瞳が微かに動いて、ちらりとこちらを向いたような──気がした。

 目が離せなくなった。世界全ての音が秋夜の耳から遠ざかっていくようだった。人魚とは、あそこにいる『花人魚』とは──こんなにもうつくしいものだったのだろうか。十三センチもあるらしい分厚いアクリルガラスの向こう側に行きたいと思ったのは、数年間水族館に通い詰めていながら初めてのことだ。話をしてみたい、声を聴きたい、笑顔が見たい──そんな欲求が、駆け巡るように秋夜の体を走り抜けていく。嗚呼、どうしてこの人は、この人に限って、話をしないのだろう。ニュースで見た人魚なんかよりも圧倒的にうつくしいのに。それとも、ああやって水槽の奥でひとり静かにしているからこその美しさなのだろうか?

 人に魚と書くのだから道理ではあるのだけれど、人魚はずいぶんとヒトに近い造形をしているようだった。知識として、ニュースの映像としてこそ知ってはいたものの、実際水の中に人がいるということはどうにも不思議に思えて仕方ない。薔薇や水草、端に設置された機械からあふれる泡、それから彼女の髪やケープが水に靡いていなければ、ただガラスを隔てた先にいる存在にしか見えなかっただろう。

 人が水の中にいるなんて、と思った。人に近いだけで人でないはずの彼女のことを。先ほどイルカショーの場所で、他人事のように彼女に同情していたのなんか頭からすっぽ抜けてどこか空の彼方にでも飛んで行ってしまったようだ。彼女の細く、ひたすらに白い腕を引いて水から引きあげないと、彼女が溺れて死んでしまう。海に暮らす生物に不要な心配が頭を埋める程度には、冷静さを欠いている状況だった。彼女はただ、何かに怯えているかのようにひたすらに水槽の奥で身を縮めているのだった。

 そうやって、ぼんやりと人魚を見つめる秋夜がそこに立ち止まってから、どれほど時間が経っていたのだろうか。目の前の人が何度か入れ替わり、ヴァイオリンが何度か同じメロディーを演奏した後に控えめに肩を揺さぶられて、秋夜はどこか遠い世界から現世に戻ってきた彼のような感覚に襲われる。はっとそっちを向けば、心配そうに自分を見つめるこげ茶色の瞳があった。ボブカットの少女──姉の小春である。

「秋くん、大丈夫?」

「……ごめん、ちょっとぼーっとしてただけだよ。平気」

「そう? ならいいんだけど……」

 眉尻を下げる小春に、秋夜はごめんねと笑った。どうやら心配をかけてしまったらしいというのは、言わずもがな分かった。彼女はどうにも心配症な部分があるから、心臓に悪いことをしてしまったのかもしれない。そう思う裏側で、秋夜は自分でも驚いていた。自分があそこまで何かに見惚れ、足を止めるなど、考えたこともなかったから。

 手に持ったスマートフォンの画面は、既にそのブルーライトを失っていた。確か十分だか十五分だかでスリープモードに入るように設定していたはずだから、最低でもそれだけの時間秋夜は我を失って彼女に見惚れていたことになる。まるでなにかの魔法にかかったかのような気分だった。

人魚と目があったとは思ったけれど、当然のことながら人魚はとっくに秋夜から顔を背けていた。それに微かな落胆と、最初からこちらなんか見ていなかったのかもしれないという冷静な声が自分を刺す。一度深呼吸をしてから、秋夜は小春に向き直った。

 岩場の陰に隠れた彼女を最後まで目で追いながら、秋夜は後ろ髪を引かれる気持ちで小春とともにその場を後にした。もっとここに居たいだなんて、小春でもあるまいし──彼女は最前列で人魚をたくさん見て、満足した様子だったわけだし。きっと彼女はこの後に残る熱帯魚の展示とアシカやアザラシの展示もたっぷりと見てから帰るつもりなのだろう。秋夜もその気持ちを振り払って彼女についていくのがきっと正解である。

 その部屋を出る最後の一瞬まで、人魚と目が合うことは、なかった。

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