人魚姫は夜に舞う

深瀬空乃

一章 瞳に惹かれて

01 平凡な日

 青に染まったその空間が、嫌いではなかった。まるで空中を漂うように泳ぐくらげや、荘厳な雰囲気を漂わせたガラス越しのサメ。水槽に張り付くタコを怖がる姉を宥めるのも、幼いころから見慣れたせいでお手の物だ。

 秋夜アキヤは、並ぶ水槽にゆっくりと目を細めた。水の中に降り注ぐ青色のライトが、水面が揺れるのに合わせて風に靡くカーテンのように辺りを照らしていた。隣に並ぶ姉──小春コハルが目を輝かせているのにもお構いなく、秋夜は一歩引いたところから泳ぐチョウチョウウオを見つめている。ふたりの姉弟が来ているのは、水族館だった。

 水槽を際立たせるためにか真っ黒な部屋の中、例に漏れず黒い天井からは、彼らさえも水中の一員だとでもいうように、青い光ばかりが降っている。そんな中無秩序にスマートフォンを開いた秋夜は、時間をみてから姉の方を叩いた。

「……小春、そろそろイルカショー始まるけど」

「えっ、もうそんな時間? 早く行かなくちゃ」

「いつも時間管理甘いよね、小春」

 わざとらしくため息をついた秋夜に、小春がぷうと頬を膨らませた。自分より低い背丈の彼女がそういった仕草をされると、もうどちらが年上──といっても微細な違いだけれど──分からない。秋夜はごめんと笑って軽く謝ると、小春の頭をぽんと叩いて、慣れた様子でイルカショーのプールまで足を運ぶ。ふたりは双子だった。

 二人の住む町に昔からあるその水族館は、秋夜の姉である小春お気に入りの場所だった。休日は毎回と言っていいほど水族館に遊びに行っているし、それに付き合う形で秋夜も着いていっている。年間パスポートをもつ双子ということで、もう受付の人にも飼育員の人にも、フロアに常時いるスタッフの半分以上には顔を覚えられてしまった始末だ。いつからか始まったその習慣は、高校生になった今も続いていた。

 別に秋夜は、水族館がさして好きなわけでも──否、それは嘘だ。薄暗い中に浮かぶようにして点々と置かれた水槽を眺めるのも好きだし、再現のためにか植物が沢山植えられた熱帯のエリアを回るのも好きではあった。好きな魚だってそれなりにいる。水族館自体はきっと好きなのだろうが、流石に一ヵ月四回、長期休みはもう少し回数が増え、年に五十回を超える回数もそこに来ていれば流石に飽きが来るものだ。それでも姉の喜ぶ顔が好きなのと、普段からただでさえ隙だらけなのに魚を目の前にして八割増しで隙だらけのの姉を放置できないという理由から、わざわざ休日を割いて水族館に来ている。恋人がいるわけでも、友人が多いほうでもないので、いい暇つぶしでもあるのだけれど。

「あのねあのね、イルカショーが終わったら、新しい展示見に行きたいの」

「ああ、話題になってたよね。いいよ、行こうか。というか放っておいても行くだろ、キミは」

 一緒に来てるんだから当たり前でしょ、と微笑めば、ぱっと顔を明るくした小春は楽し気な足取りで進んでいく。その一歩後ろを、秋夜はついて歩いた。スマートフォンの通知を切り忘れていたらしく、秋夜のポケットからバイブ音が鳴る。それに一歩足を止めた秋夜に、小春が楽し気に振り向いて話しかけた。

「わたし、本物の『人魚』のこと見るの初めてなんだ」

「……そうだね、僕もだよ」

「あ、だから少し楽しそうだったの? ふふ、しばらく目新しいものなかったもんね。どんな子なのかなあ、人魚さん」

 常の様子の十割増しで楽しそうな姉に、秋夜もつられて微笑んだ。そのほがらかなやり取りを見守るように、静かなミュージックがどこかのスピーカーから流れていた。

 この水族館には、先週から『人魚』が展示されている。話を聞いてからずっと楽しみにしているふたりがその展示を見にいくことがかなったのは、夏休みが始まった日の今日のことだった。


 『人魚』が水族館に展示されるのは珍しいことではない。

 深海に棲む生物の一種類として数えられる人魚は、深海生物の中でも人の言語を解する数少ない希少な種だと言われている生物だ。高い知能と人間の上半身と、魚のような下半身を持つ彼らは、ひとくくりに人魚と呼ばれようとも人に好意的に接する種、人里知れぬ海の底で一生を過ごす種と様々な種類がいて、その中でも「花人魚」と呼ばれる種が、各地の水族館に多くいる人魚の一種類である。

 秋夜の持つ人魚の知識はせいぜいその程度だった。けして巨大な水族館、有名な水族館とはいえないそこに、今まで人魚が展示されたことはなく、人魚に関するイベントなども行われたことがない。地元から出たときまで水族館に行くほど水中の生き物にこだわりのない秋夜は人魚を見たことがないのだ。

 イルカショーで前のほうの席へと行きたがる小春を、今日は人魚を見るのだから濡れるなと言い聞かせ無事に引き留めた秋夜は、イルカのいるプールの見慣れた準備中の様子に手元のパンフレットを開いた。人魚の展示に合わせてデザインが変わったと言っていたし、確かに秋夜の知る昔のパンフレットとは異なっている。となりでうきうきと目を輝かせる小春を尻目に、黙々と斜め読みながらに読み進めた。

 花人魚は人に近い人魚だと言われているらしい、ということは、久方ぶりに開いたこのパンフレットで初めて知ることになった。それから、目を引くのは一文の注意書き。

「『……こちらの人魚は、話しません』」

「えっ、そうなの?」

「そうらしいね。トークイベントとかの記載がないなとは思ってたけど、そういうことだったのか」

「そっか……でも、人魚が見られるんだよね!」

 一瞬残念そうに顔を曇らせた小春が、自分を叱咤するように微笑んだ。そうだねと頷きながら、秋夜はゆっくりとパンフレットを読み進めた。秋夜の常識として一般的に、ニュースなどで取り上げられる人魚というのは、話したり、水中の舞を見せてくれたりする印象だったけれど、どうやらこの人魚は違うらしい。──という注意書きを読んでいる辺りで、イルカショーは始まった様子だった。芝居がかったリーダーのトレーナーらしき人の声がマイクから響き、ファンサービスのようにプール内を泳ぎ回っていたイルカはプールのあちらこちらにいるそれぞれのトレーナーに集まっていく。楽し気に次の展開を待つ人々の声ばかりがこの場を支配していた。

 そんな喧騒の中で秋夜は、もしかしたら、人魚にだって人間と同じように言葉や舞の得手不得手があるのかもしれないな、と静かに思った。人間だってニュースで取り上げられるのなどごく一部の人たちだけだ。人魚にだって才能の優劣くらいあるものだろう。展示と言われて連れてこられ──これに関しては実態は分からないが──勝手に期待されて、勝手に落胆されるなど可哀そうだなと、秋夜は他人事のように人魚に対して同情した。

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