07 熱と変化
「うん、本当。キミと話してみたいよ、キミさえよければだけど」
今度は、震えた声も少しは隠せただろうか。自分の耳にはいつもの自分の話し方に聞こえる声に安堵しながら、人魚に向かってぎこちない笑みを向ける。人魚はおそるおそると秋夜を見上げ、それからプールサイドに身を乗り上げた。華奢な腕が身を支え、跳ね上がるようにして床に座るのを、秋夜はただ黙って見ていた。
話してくれるつもりなのだろうか。森安に言われたからか、秋夜が引き留めたからか。それは彼女に聞かないと分からないことではあるけれども、兎に角彼女はここに残るよう決めてくれたらしい。
森安が、その場に落ちる静かな空気を賑やかすように手を叩いて、言った。
「よし、決まりだな! 扉の前に展示の一時休止の札を出しておくから、ふたりでゆっくり話しな。しばらくしたらまた様子見に来るよ」
「…………いいんですか?」
「おうよ。魚たちにだって休憩は必要だ、特にお前みたいなやつにはな。今日は客足も鈍いし気にすんな」
控えめな声で確認する人魚に対してそう言ってから、森安は存外簡単にその場を去ってしまった。金属の階段を下りる豪快な足音が遠ざかるのを聞きながら、話したいとは言ったけれどどうやって声を掛けたらいいかわからない秋夜は、助け船が去ってしまったと苦い顔をする。人魚もいつの間にかケープを被りなおしていて、表情が良く見えない状態になってしまっていた。ケープの下に腕先までとは言わないまでもしっかりと着ているらしい服の、ふわりとした薄水色の裾がのぞいている。
ぴち、と尾の先がプールサイドを叩いていた。ゲームや漫画で見るように、片側に手をついて尾を曲げて──人魚なりに座っているのだろうか──いる彼女は、次の言葉を待つように静かにそこに佇んでいた。水もガラスも隔てない場所に彼女がいるのは、ひどく違和感があるような気も、それが正しいような気もした。
どうしたものだろうか。取り敢えず、自己紹介から始めてみようか。秋夜がそんなことを考えているのは心情と雰囲気が相俟って、高校入学の日の教室のような緊迫した空気を思わせた。新たにできるであろう友人にどうやって声を掛けたらいいか迷っているような、そんな。それ以上に緊張している自分に漠然とした不安感を感じながら、考える。
迷った末に、秋夜は頬を掻きながら口を開いた。脳内で何度か台詞を推敲したはずだったのに、口に出してみればそれはひどく単純かつシンプルな自己紹介にまとまった。
「……ええと、その。僕は七篠秋夜っていいます」
「……七篠さん。よろしく、お願いします」
「秋夜でいいよ、よろしく」
一拍置いて返ってきた返事はいたって平凡なもので、ついさっきの喜色を帯びたような声色はどこかへ消えてしまっていた。やっぱり聞き間違いだったのだろうかと一度思ってしまえば、どうにも次の言葉が出てこず、居心地の悪いまま目線を逸らしてしまう。逸らした視界に入ったガラス越しの人魚の部屋の入り口には、なにやら立札がされているようだ。さっき言っていた通り、人払いのために森安が設置したものだろう。森安はしばらく、と言った。そもそも、退屈しないような話し相手──それとして秋夜は選ばれたのである。しかし秋夜は話をするときは話題を振られるばかり、姉も家族も友人も、口から言葉がぽんぽん飛び出してくるような人とばかり話しているせいで、自分から言葉を出すのが慣れないのだ。
これではリラックスどころの話ではない。むしろ人魚にストレスを与えてしまいそうだ。とにかくこの居心地の悪い沈黙を何とかしようと、ない頭から言葉を絞り出して声をかける。
「キミの名前は?」
「……名前は、ありません」
「え、ないの?」
「……森安さんや他のスタッフの方には、人魚、花人魚、青薔薇、などと呼ばれてます。──名前は、ないです」
面食らった秋夜に、ケープの奥の瞳が暗く翳った。深い夜を思わせるその瞳に一瞬たじろいで、あ、なんていう情けない声を出した。名前から話を広げていこうと思っていたのにどうしたものだろうか。話題選びを間違えたことだけは分かった。つくづく自分主導の会話が苦手なのが露呈して、自分へのいら立ちが静かに積もる。
とにかく、会話を続けなければ。気に障ることを言ってしまったのか、沈んだ空気になってしまった場所で、秋夜は必死に頭を回転させた。
──こんな話を聞いたことがある。中学の時の職業体験の授業で、小春の頼みで保育園へと行ったとき、保育士の人から小さな子供と話すときは目線を合わせろと言われたのだ。目を合わせることは大事なことで、話しやすさや警戒を解くのに有効だと──その些細なことばを思い出した秋夜は、濡れたプールサイドにゆっくりと片膝をついた。
それに小さく声を上げたのは、今度は人魚のほうだった。
「膝、濡れますよ」
「もともと外は雨降ってたし、大丈夫だよ」
「でもその、どうして……」
「幼い子と話すときは目線を合わせろって言われたことがあるから──」
焦ったような人魚の問いに答えた秋夜は、ぱち、と瞬きした彼女の顔を見てから、自分の発言を思い返す。それから彼女と同じように、なんどか瞬きを繰り返した。失言である。
「いや、ちが……ごめん、君のことを子ども扱いしたわけじゃなくて、目線があってるほうが少しは話しやすいかと……ごめん」
焦るのは秋夜の番だった。さっき既に話題を間違えたと言うのに、もしかしてさらに過ちを重ね塗りしてしまっただろうか。けして幼子と同じ扱いをしたわけではないのだけれど、言葉選びを間違えたことだけは分かる。額に手を当てて言い訳をする秋夜の膝は人魚のいう通りじわりと濡れてきていて、冷たかった。それがさらに、失態を犯したという意識のせいで全身に巡る熱を浮き彫りにしていく。
兎にも角にもと謝罪の言葉を探す秋夜を目の前に、驚いたように瞬きを繰り返していた人魚が、不意に顔を綻ばせた。その予想外の出来事にに目を見開けば、続けて聞こえてきたのは笑い声。口元に手を当ててくすくすと声を零す姿を、秋夜はただただ見つめることしかできなかった。
「その、すみません……まさか、ふふっ」
怒らせたか、不快にさせたか。彼女の感情はそのどちらかだと思っていたのに、目の前の人魚は確かに笑っていた。水中の飾りの薔薇をつついて遊んでいた時の無邪気さが頭をよぎり、目の前の人魚と重なっていった。秋夜は胸をなでおろしながら続ける。
「……嫌な気分にさせてないなら、いいんだけど。ごめんね」
「いえ、全然。なんだか新鮮な気持ちです」
ふふ、と繰り返し彼女は笑った。彼女自身が楽器のように感じられるくらい、綺麗な笑い声だった。どこか心の底が温まっていく心地がして、秋夜も釣られて笑いを零す。こんな風に笑うのか、と穏やかに幸せで包まれる心に反して、鼓動はその勢いをあげていく。先ほどの恥ずかしさに体中の体温が上がったせいか、耳は少し熱かった。もうあんな失敗はしたくないけれど、それでも。
「でも、風邪をひいては駄目ですから、無理はなさらないでくださいね」
「膝が少し濡れたくらいで風邪なんてひかないよ」
「そうですか? でも気を付けてください」
──緊張は解けたみたいだし、いいか。
薄紅の唇が楽しそうにほころぶのを見ながら、秋夜はそう思った。それからしばらく、森安が帰ってくるまで、ほんの他愛のない話を、交わした。
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