クレヨン出エジプト記

賢者テラ

短編

「さぁさぁみんな。絵本読むから集まって~」

 村山弘美先生は、室内で自由に遊んでいた園児たちに声をかけた。



『聖ペテロ慈愛幼稚園』 という、いかにもな名前のキリスト教系幼稚園での一日は、間もなく終わろうとしていた。この幼稚園では「帰りの会」の前に、キリスト教に関係した絵本を、何か一冊読んで聞かせる決まりになっていた。情操教育の一環、という園の方針だったのだが、弘美自身は「別に何の絵本でもいいじゃん」 と思っていた。

 とにかく深刻な就職難の中にあって贅沢を言ってられなかった弘美は、何とかかんとかこの幼稚園の教諭としてすべり込むことができたのだ。キリスト教など信じるどころか、てんで関心もなかったのだが、この際仕方がない。

 仕事としてお祈りをしたり、ミサに出たりしながら、彼女はいつも流行の服やコスメ、はたまた美味しい料理やスイーツのことで頭が一杯であった。



 ……ま、早く済ませてこの子たち帰らせちゃえ。今日の夜は、同期の明日香先生とカラオケボックスに行くんだからね!

 日誌も記録も今日はテキトーで——



 ……などと、園長が聞いたら包丁を振りかざして追いかけてきそうな不謹慎なことを考えながら、弘美は自分用に椅子を引いてきて、固まって体育座りをしている園児たちに向かい合って座った。



「センセ。こんな絵本が廊下に落ちてたよぉ」

 絵里香ちゃんが一冊の絵本を抱えて、弘美の前までやってきた。

 受け取った弘美は、絵本を眺めた。

 それは「出エジプト記」というタイトルの絵本だった。

 大昔。キリストの生まれるもっと前。

 奴隷同然に働かされていたイスラエル民族を、モーセという偉大な指導者がエジプトから脱出させる。

 数々の苦難がありながらも神が彼らを助ける、というのがだいたいの内容であった。『十戒』という名作映画でも、そのお話は有名である。

「ま、ちょうどいいや。今日はこの絵本にしましょう。それではっ、モーセのお話のはじまりはじまり~」

 それが恐怖の始まりになろうとは、弘美は全く想像しなかった。



「むか~しむかし、モーセという人がいました。彼はイスラエル人だったのですが、エジプト人として育てられていました。ある日のこと、神様がモーセの前に現れたのです」



 弘美は、絵本を読みながらヘンな感覚にとらわれた。

 園児の誰一人として、弘美の手元の絵本に注目していなかったからだ。

 みんなの視線は教室の隅、弘美の右方向に集中していた。

「センセ、このオッチャン、誰?」

 言われてふと右を見ると……背の高いヒゲヅラの男が、杖を持って立っていた。

「!?」

 こんな人物が教室に入ってきたら、イヤでも気付くはず。



 ……一体、どうやって入ってきたの!?



 その後の展開は、弘美の頭が混乱するのを待ってはくれなかった。

 園児たちと弘美との間に、突然パチパチと燃える火の玉が現れたのだ。

 それは空中に浮き、揺れていた。



「モーセよ~ モ~セよ~」

 ヒゲヅラの男は答える。

「主よ。ここにいます」

「私はぁ~、あなたの先祖の神、『主』であ~る」



 ……私、何か悪い夢でも見てる?



「靴を脱ぎなさ~い! あなたがいるその場所は、聖なる場所だからであ~る」

「ハ~イ」

 子どもたちは、素直に上履きを脱ぎだした。

 あっ気にとられている弘美の前に、杖の男が近寄ってきた。

「何をしておる。おぬしも脱がぬか」

「あ……ハイ」

 わけの分からないまま、弘美も靴を脱いだ。



「コラ。続きを読まぬか」

 謎の男は、杖で弘美の背中をツンツンつついてきた。

 話の展開から推理すると、信じがたいが『モーセその人』のようだ。

「話が進まぬと、動けないではないか」

 子どもたちには何の動揺もないどころか、「そうだそうだ。センセ、早く続き~」と叫ぶ始末。

 仕方なく、弘美は絵本の読み聞かせを続けた。

 


「神様はモーセに命じました。

 ……エジプトの王様・パロのところへ行って、イスラエル人たちを国から出させるよう頼んでくるのだ、と。

 でも、王様はその願いを聞かなかったので、10の災いがエジプトに起きたのです。まず、ひとつ目。ナイル川の水が血に変わりました……」



 絵本から目を離して園児のほうを向いた弘美は、開いた口がふさがらなかった。

 周囲は、もはや幼稚園の室内ではなかった。

 恐ろしく広い川のほとりにいた。

 信じたくはないが、おそらくナイル川、というやつだろう。

 そして……その水は血のように真っ赤であった。ってか、血だった。

 政司くんが、腹を上向きにして死んでいる魚をつついていた。

「キャハハ。死んでる死んでる~」

 弘美は大慌てで、政司くんを魚から引き離した。



 ……ヘンな病原菌でもあったら、私の責任になっちゃうんだからね! 

 次の展開に行ってしまわないと——



「……二つ目の災いは、数え切れないほど沢山のカエルが、ナイル川から押し寄せてくることでした」



 とたんに、いやな臭いと生理的嫌悪感をもよおすようなゲロゲロという鳴き声が、周囲に響いた。

「ギャ~~~~~!」

 弘美は、爬虫類や両生類の類が大キライであった。

 反射的に弘美は絵本を宙に投げ、その場を走り去ろうとしだした。

 しかし、彼女はモーセに捕まえられ、椅子に戻された。

「これ、落ち着け。逃げたところで、どこまで行ってもカエルがいることには変りはないぞ。続きを読んでしまえば済むことだ」



 ……まぁ、そう言えばその通りだ。



 子どもたちはというと、ピョンコピョンコと跳びはねるカエルとたわむれ、「ギャハハ」などと笑っている。子どもの環境への適応力ってスゴイ。と、弘美は少しうらやましくなった。



 その後も、パニックは続いた。

 イナゴの大群。激しい雷や雹(ひょう)。三日間の暗闇——

 夢と言うには、あまりにもリアルすぎた。

 恐ろしい状況でありながらも、不思議と園児や弘美に害が及ぶことも、ケガをすることもなかった。

 弘美は、読むのをやめてしまいたかったが、その気持ちをモーセに見抜かれて言われた。

「本の最後のページを見てみなされい」



 ※注意!

 一度読み始めたら、最後まで読まない限りその世界から抜けられません。



 まるでドリフのコントのように、弘美は椅子ごとずっコケた。



 物語は、クライマックスに差し掛かった。

 いよいよ、イスラエルの人々をエジプト軍が追ってくるシーン。

 この後、モーセは目の前の紅海を真っ二つに割って、その中を通るのだ。

 目の前を、エジプト軍とその戦車が迫ってくる。その数、二千以上。

 ハイビジョンや映画館の迫力どころではない。

 地を揺るがす馬のひずめの音。

 本当に自分たちがひき殺されてしまうのではないか、と錯覚してしまう。



 弘美と園児たちとの背後には、もはやこれまで、と震えて観念するイスラエルの人々。

 そして前方には、地平線を埋め尽くすほどのエジプト軍。 

 子どもたちの前でモーセは叫んだ。

「見よ! 我らの神・主が私たちのために戦われる! 恐れてはならない!」

 想像を絶する光景を、弘美は見た。

 背後の海水がせり上がり、左右に水の壁となって分かれたのだ。

 そして、海であった所の一部が陸地となり、一本の道ができた。

 モーセは、弘美と園児たちに声をかけた。

「さぁ、ここを通るぞ」

 イスラエルの民数百万人は、海の中を大行進した。

 弘美と園児たちも、モーセと共にしんがりについて歩いた。

「わ~い わ~い 遠足みたいだ~」

 子どもたちは大はしゃぎであった。



 鶴田園長はブリブリ怒りながら、園内の廊下を歩いていた。

 チェックの厳しさのゆえに、先生方からひそかに嫌われていた園長は、ふたつのことで弘美先生に小言を言う覚悟でたんぽぽ組の教室へ向かっていた。

 覚悟というよりは、「言いたくて仕方がない」 というのが本当のところであった。

 このような人物が、愛とゆるしの『キリスト教系教育機関』の責任者になれるのだから、世の中不思議なものである。

 説教理由その1。送迎バスに乗る時間になっても、いっこうに園児たちが現れないこと。

 説教理由その2。給食用のお茶のヤカンが、たんぽぽ組の分だけが返却されておらず、給食のオバサンが困ってブーブー文句を言ってきていること。



 ……全く、余計な心配させてくれちゃって。

 こうなったらもう30分はお説教するんだからね! 腕が……いや、口が鳴るわぁ!



 さて。

 たんぽぽ組の教室のドアの前に立った鶴田園長は、説明のつかない、気味の悪い違和感を感じた。

 ドアが閉まっていること自体は別におかしくはないのだが——

 窓から中の様子がまったく見えないようになっている。真っ暗なのだ。

 何か『ムシの知らせ』のようなものが頭をよぎったが、とにかく入ってみないことには何も分からない。

 園長は、ドアに手をかけて力を込めた。

 しかし、開かない。

 ……たてつけでも悪かったかしら?

 両手を使い、渾身の力を込めてスライド式のドアを引く。

 弾みがついて、バン! と大きな音を立てて開いたドアの向こうから——

 ダムに穴でも開けたかのような大量の水が園長に覆いかぶさり、その狂ったような激しい水流の中に呑み込んだ。



「モーセおじさん! エジプトの戦車が追っかけてくるよ~」

 真由美ちゃんが、ちっちゃなかわいい手で後方を指して言う。

 杖を高く空にかかげたモーセは叫んだ。

「心配いらぬ! 今こそ海の水は元通りになり、エジプト軍を呑み込むであろう!」

 次の瞬間には、さきほどまでおとなしく両側に分かれていた海水の壁が崩れ、元通りの海に戻りだした。哀れにも、あとから追いかけてきたエジプト軍は、その中に溺れていった。

「やったぁ、やったぁ! ヤッターマ~ン」

 子どもたちは、まるで自分たちが勝ったかのようにバンザイ三唱をした。



 しかし……海の中で、どこかで見たような人物がイヌかきをしているのが見えた。

 広志くんが言った。

「あれ、園長先生とちゃう?」 

「たっ、助けてぇ!」

 アップアップしながらもがいているのは、あのいまいましい鶴田園長だ。



 ……フン、いい気味だわ。いつもムダに長い説教ばかりしている報いよ!



 そうは言っても、弘美もキリスト教教育を標榜するはしくれとして、助けないわけにはいかない。

「モーセさん、何とかなりませんか?」

 弘美からそう声をかけられたモーセは、フン、と鼻息をひとつついて、

「思わぬ飛び入りがはいったか。世話のやけるこった……規格サービス外だが、仕方がない」

 彼が杖で海の水を突くと、園長の体は宙に浮き、ゆっくりと陸まで運ばれてきた。

 モーセは弘美を見てせかした。

「ほれ。最後のページを読んで、物語を締めくくるのじゃ」

 弘美は大あわてで、腕に抱えていた絵本を開いた。

「……こ、こうして、エジプトを無事脱出したイスラエル民族は、目指すカナンの地へと向かったのでした」

 その瞬間、周囲は元の教室に戻った。

 すでに園児たちと弘美、そして鶴田園長以外は、誰もいなかった。



 子どもたちの帰りが遅くなってしまったことで、保護者全員にお詫びの電話を入れた。そのせいで、弘美のカラオケ計画は当初よりスタートが遅れた。

 その夜のカラオケボックスには弘美と明日香と……なんと鶴田園長の姿があった。

 日頃、下の先生方とは付き合いをもたない彼女には、珍しいことであった。

「園長……私たちついていけないですぅ。『岸壁の母』って、いったいいつの歌なんデスカ?」

 三人の楽しい(?)『ストレス発散会』の夜は、更けていった。



 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



 西暦3175年。機械惑星、エデン。



 アルデバラン星系・第三王立宇宙図書館のアニソン係官は、親友のスペツナズに尋ねた。

「おい。この前貸した『バーチャル実体験絵本』、いったいいつ返してくれるんだ?」

「ああ……あれね」

 スペツナズは頭をかいた。

「先週、時間旅行をした時に、落としてきちゃった」

 アニソンは青ざめた。

「アホ! 親友のお前の頼みだから貸したのに……あれ、ホントは禁帯出の図書だったんだぞ! 王立教育院の連中にバレたら、えらいことになるぞ」

 ひとしきり嘆いたアニソンは、あきらめの表情で言った。

「まぁ、存在したデータを破棄しちゃうかぁ。これ以上機能が使えないように遠隔ロックをかけちゃえば、時間管理局が動くような騒ぎにはならんだろ」




 たんぽぽ組の絵本となってしまったそれは——

 何度開いても、二度と不思議なことが起こることはなかった。

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