喪失

@negerobom

喪失。

 快調な滑り出しでした。その一言で他に何の補足も必要ないくらい、本当に良い一歩目でした。

 

 その時期の季節は丁度、春が終わって夏の頃でした。自分の心情とその季節の機嫌はとても似ていたように思います。今となっては想像もつかないくらいの情熱を、その時の自分は持っていました。寧ろ他に何一つの荷物が無いくらい、持て余していたのです。

 兎に角励んでいて、今まで覚えてきた全ての惰性を捨てて、本当に良くやっていたと思います。気分が落ち込む事も当然ありましたが、そんな時でも直ぐに立ち直り、また、元の正しい自分に戻って、励む日々を続けます。

 落ち込んだ時、また気分の悪い時は良く、海に行って、いつも通り何もない風景を眺めていました。そうしていると時間が過ぎていくので、勿体ないなどと当時の自分は思っていましたが、落ち込んでいる時のその衝動にはとても抗えないのです。砂浜を歩いたり、海を眺めたりすることが日課のようでもありました。そうして上手く均衡を保っていたのです。

 その時はただ、ひたすらに走っていました。向かいたい場所があって、そこだけを見据えていて、できるだけ早く、と急いでいたのを覚えています。その頑張りは病的のようでもあり、いつも自分を脅迫しているとも捉えられるものでしたが、実際そのやり方で向かいたい場所にぐっと近づくことが出来たのです。

 ただその場所が、想像と全く違う有り様で困惑しました。到着はしていないのにかなり近づいたことは分かります。ただ、今日まで頑張ってきた甲斐があった、という風には素直に思えなかったのです。通過点のその場所は避けては通れない事だって分かります。だからといってこんな所に好んで来る人も居ないでしょう。この場所に辿り着いたという事で、自分の努力は確かに報われていた事を理解しました。着実に進んでいって、寧ろ早すぎるくらいでした。想像以上と言って大袈裟ではありません。気が付いたらこんな場所に来ていた。

 ――地獄のような世界に辿り着きました。

 そこは通過点。そして全く一人ぼっちの世界。絵本に書いてあるような地獄とは違い、酷いお仕置きをする鬼も、人も居ません。きっと人間にとって本当に酷い仕打ちは、誰も何もしてくれないという事なのではないか、という結論に至りました。自分にはそれ程耐え難い苦痛だったのです。極上の孤独を味わう為にここに寄って来た訳では当然ありません。勿論走り出す前に想像していた場所はこんな場所では全く無い。真逆でした。ですからこの出来事は全く想像の範疇には無い事だったのです。酷い世界で、不思議な時間が流れます。

 そこには時間がありません。時計はあって指針も正常に動き、時間を知らせてはくれますが、そういう意味合いではなく、永遠を体感するようなのです。自分だけ時間が止まっているという認識をしてしまう。永遠に苦痛を与えられないという無痛が疼くようで、兎に角痛くて仕方が無いのです。

 邪魔な手荷物は走り出す前に全て捨ててきました。それでも頭の中のもので捨てられないものはあります。感情だったり、思い出という類のものでした。

 あの時の自分は何もかも捨ててしまえる勢いがあったので、もしかするとそれらのものが捨てられるような物体であったなら、捨てていたかも知れません。でもそうではないので、それだけは失くさないで済みました。それだけちゃんと残っていました。

 それさえ失うことに事になるのですから、本当に酷い事でした。

 

 一人の時、且つ、何もしていない時。思考が勝手に働きます。そんな時間をずっと繰り返して、考えるだけの人間にどうしてもなってしまいます。そして人と関われる場所では当然ないので、感情の使い道をなくします。使わなくなったそれは次第に薄くなって、使い物にならなくなってしまいます。仕方が無い事ではありますが、そうさせてしまうこの場所はやはり、尋常ではない苦痛の世界だと思い知りました。

 思い出だけになった自分は次にどうしましょう。忘れていない、思い出せることを思い出して、自分を知ります。自分が罪ばかりを繰り返してきたことを思い知ります。そうして記憶を全て漁って、罪を全て割り出したら、思い出も必要無くなりました。結局自分は利己的なばかりで、罪を償うというような事を思うのは、しなければ人道に反する気がしているから、そうしないと正しくないからという動機だけで行うのです。自分がいくら反省したって、他人に傷を付けてきたのは事実で、仮に許されたって見えない場所に傷は残るものですから、この償いに意味は無いのです。ただ自分の中で完結するその償いは、自分にとっての意味しか持たない。

 自分は本当に一人になってしまったのです。許しを施してやくれないし、反対に罰しようとしてくれる人も居ない。こんな世界に来てしまいました。

――大事なものをいくつも失いました。


 





 

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