第六話 借りていたマフラー

 広くなったリビングへ、レースのカーテン越しに柔らかい光が射し込んでいる。今朝の天気予報では気温が上がらないと言ってたっけ。

 帰りは寒いかな。

 緑地に赤と黄色の細いストライプ柄が織り込まれたマフラーへ手を伸ばす。鼻先まで埋もれるように巻いて部屋を出た。エレベーターを待っている間に大きく息を吸い込むと、気のせいかもしれないけれどかすかにおじさんの匂いがした。


 自転車置場へ行ってピンクの自転車に鍵を差す。一時的に消えたあの事件からは、面倒くさがらずにこのラックへ入れるようにしていた。

 外に出てすぐ右側、登校班の待ち合わせ場所には誰もいない。

 もう十一時になろうとしているし、終業式も終わって春休みに入っているから当たり前なのだけれど。

 あの宿題の答えもバッチリで、メイちゃんたちはスコット先生から褒められたらしい。二年生になるユウタ君からは「こんどはボクの宿題もいっしょにかんがえて」と頼まれている。

 四月からはどんな一年生が入ってくるのかな。

 五年生は誰が副班長をやるんだろう。一番しっかりしているリンちゃんがいいと思うけれど「めんどくさい」とか言いそうだしな。意外とカンナちゃんは適任かもしれない。


 振り返ると陽を浴びたスカイツリーが白く光っている。

 すっかり見馴れた堤防はあいかわらずボロいままだ。せめて明るい色に塗ればいいのに。それだけでも印象がずっと良くなるはず。

 そんなことを考えながら自転車を走らせた。


 橋を越えて坂を下っていくと事務所が見えてきた。


「こんにちは」

「お、珍しいな、こんな時間に。午後からくるのかと思ってたよ」


 聞き慣れた声でいつもの笑顔が迎えてくれる。


「あ、さてはランチをおごってもらおうと思ってるんだろ。どこに行く?」

「ううん、今日は違うの」


 マフラーをたたんでテーブルの上に置く。

 おじさんも自分の席を立ってソファへ向き合うように座った。


「あのね……」


 次の言葉が出て来ない。

 もう決めたことなのに。


「んー、その顔は……あれか」


 背もたれに寄りかかってあごの髭に右手を添えて少し考え込んでいる。顔を上に向けると、ふぅーっと長く息を吐いた。


「あれだろ。その……引っ越し、することになったのか」


 おじさんの顔から目を背けちゃいけない気がした。

 口元に力が入ったまま、ゆっくりとうなずく。


「そっかぁ」


 書類棚の上に置かれた水槽から、エアーポンプの音だけが聞こえてくる。


「で、いつ?」


 今度も先に口を開いたのはおじさんだった。


「……今日」

「マジか! この後ってこと?」

「大きな荷物を出し終わったから、ここへ来たの」

「それにしても急だな」

「急じゃないもん」


 黙っていたけど。


「まぁそうだよな。ちゃんとお母さんと話し合って決めたんだろ?」

「うん」

「わかった」


 おじさんは腕組みをすると、また背もたれによりかかった。


「ごめんね」

「なにが?」

「黙ってて」

「そんなこと気にしなくていいよ。朋華が決めたことならば、それでいいさ」


 そう言うと腕をほどいて、こちらへ身を乗り出した。


「それよりさ、みんなには黙って行っちゃっていいのか? ユウキちゃんや登校班の子たちには」


 彼女たちにはわたしの中で言葉を贈った。

 会って話なんか出来るわけがない。それに――。


「もう会えなくなるわけじゃないって言ったのは、おじさんでしょ」

「そうだけど……」

「それにね、こっちの部屋も今まで通り残しておいてもらうことにしたの」

「え、なんで?」

「引っ越して三人で暮らすのはいいんだけれど、ママが出張でいないときはさすがに西村さん――あ、彼氏さんの名前ね、西村さんと二人でっていうのはちょっとというか、まだ気まずいから。そういう日はわたしだけこっちに帰ってくることにしてもらったんだ」


 ママから言われたとおりにするだけじゃなく、ちょっとだけ勇気を出して「こうしたい」とお願いしたら、拍子抜けするほどあっさりとオッケーがもらえた。ママの方でもどうしようか考えていたみたい。


「だから、これからは毎日じゃないけれど、たまには登校班で一緒になることもあるし」

「なるほど。たしかに、いきなり大きく変わるよりはその方がいいのかもな」

「そういうこと。安心した?」


 上目づかいにおじさんを見ると、フッと笑われた。

 なによ、もう少し喜んでくれたっていいのに。


「これ。今までありがとう」


 三か月以上も借りていたマフラーを差し出す。


「今日は午後も寒いって言ってたぞ。風邪ひかないようにマフラーしていけよ」

「いいの?」

「期限なしで貸しておくよ。いざとなったらいつでも返してもらえるんだろ?」


 おじさんがニヤリとする。

 手に持ったままのマフラーが温かく感じた。


「やっぱりさ、ランチおごってもらおうかなぁ」

「え、渋谷に行かなくていいのかよ」

「いいんだよ遅くなっても。ママたち二人の時間も作ってあげないと。ねっ!」


 しょうがねぇなぁとか言っちゃって、うれしいくせに。


「何にしようかなぁ……駅ビルのてんぷらはどう?」

「俺はいいけど、昼間っからボリュームのあるもの食べてると太るんじゃ――ぁがっ!」


 正面からおへその辺りに正拳突きをお見舞いした。


「女子に言うことじゃないでしょ? まったく。学習しないなぁ」


 お腹をさすっているおじさんを残して、先に事務所を出る。

 自然と湧きあがってくる笑みが隠れるように、口元までマフラーを巻いた。



―スコット先生の宿題  終わり―

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