憂鬱の正体

 宴会が終了し、自室へと戻る。

 「ふう」と小さく息を吐いて冕冠を結ぶ紐に手をかけると、後ろから「失礼致します」という声と共に襖が静かに開いた。


「お手伝いいたします。お一人では扱いづらいでしょう」

「ああ、頼む」


 静々と入室してきたのは優花だ。彼女は前に立つと、丁寧な所作で冕冠の紐を解いていく。

 透き通るような白い肌に、仄かに点した紅。柔らかく、それでいて芯の強そうな茶褐色の瞳が美しい。ふわりと揺れる同色の髪から漂う花の香りに、胸の奥が突き動かされる感覚が込み上げた。


「琥珀様、そんなに見つめられますと困ります……」


 気が付けばいつの間にか顎紐は外されていて、目の前には少し頬を赤くした優花が気まずそうに目を伏せていた。慌てて冕冠を取り外す。


「す、すまん……」

「では、次はお召し物を……」


 戸惑いがちに冕冠を受け取ると、優花はそそくさと後ろへ回った。一枚一枚、ゆっくりと重ねた着物を脱がせてくれる。長襦袢になると、漸く重苦しい空気から解放された気持ちになった。

 用意してくれていた練色ねりいろの着物に袖を通すと、儀式用装束一式を桐箱に詰め終えた彼女が立ち上がる。


「では、こちらの戦闘装束のみ火熨斗ひのしをかけておきますわね」

「優花」


 振り返り様に距離を詰めた。急に近くなった距離に驚いたのか、優花は手に持っていた装束をばさりと落とす。真ん丸な瞳を見つめながら彼女の左頬に手を添えた。


「ありがとう」


 その一言に、彼女は一拍置いてから「いいえ……」と目を伏せて答えた。

 どこか物悲しげな表情。翳る睫毛には憂いが見える。


 ──その意味を、俺は知っている。


 一瞬の静寂が過ぎったその時、部屋へと近付いてくる足音が聞こえた。すぐに「琥珀」と呼ぶ低い声。

 さっと彼女と距離を取り、「おります」と声を掛ければ無遠慮に襖が開いた。


「琥珀……ん、何だ。優花もおったのか」

「はい。琥珀様のお着替えのお世話をしに参っておりました。後は御髪おぐしを整えるだけでございまして……」

「優花、後は自分でやるから良いよ」


 そう言って微笑むと、目を伏せた彼女は遠慮がちに口を開く。


「……では、私はこれにて失礼致します」


 足元に落とした装束を拾い上げ、丁寧に頭を下げると優花は部屋を後にした。その様子をじっと見送った男は再び視線を戻す。


「何だ、邪魔だったか?」

「いえ、別に。それより何のご用でしょう? 父さ──いえ、当主様」


 目の前に立つ初老の男──先程までの煌びやかな衣装を脱ぎ捨て、当主の顔から一人の父親の顔へと変わった彼は厳しい視線を投げ掛ける。


「先程のお前の態度。あれは何だ。首位席の立場でありながら皆を待たせ、あまつさえあの様な心許ない返事……地支としてだけではなく、次期当主としての自覚があるのか?」


 『次期当主としての自覚』

 もう何千回と言われてきたその言葉に、正直反吐が出そうだ。だが、喉元に込み上がるそれをぐっと飲み込む。


「……分かってるよ」


 依然として向けられる視線から逃れるように、髪結いを解きながら鏡台へと腰掛ける。肩まで掛かる輝く金と黒。「伸びたな」なんてぼんやり思いながら木櫛きぐしを手に取ると、ややあってから背中へ深い溜息が落とされた。


「……優花とのこともそうだ。いつまで許嫁という関係のままで甘えておるのだ」


 櫛を通す手がぴたりと止まる。


「お前ももう二十になる。私がお前の歳には既に母さんと──」

「それはっ!」


 バンッと音を立てて木櫛を置けば、鏡越しに目を見張る父親と視線が噛み合う。


「……ちゃんと、考えてるから」


 目を伏せても、未だ背中越しに感じる強い視線。もう限界、うんざりだ。


「今日はちょっと疲れたんだ。もう寝るから出てってくれ」

「……明日は責務を全うしろ。お前は焔の代表なのだからな」


 そう言い残して、ぴしゃりと襖は閉まった。足音は段々と遠のいていく。

 再び訪れた解放感に安堵の溜息が漏れた。目の前に映る己の姿は、お世辞にも顔色が良いとは言えない。

 立ち上がり、障子を開ければ眼下にはざわめく桃色の木々。縁に腰掛けると、漂う花弁がふわりと香りを連れてくる。


「……一体、何の意味があるんだ」


 対立し合う隣国。

 明日に控える『顔合わせの儀』と称した互いの見栄の張り合い。

 そして、相次ぐわざわいの火種。


「こんなことやってる場合じゃない……そうじゃあないんだ……」


 掌で遊ぶ花弁を握り締め、呟く。


「俺が……変えてやる……」


 決意を込めた言の葉は、桃色の風と共に空高くへと消えていった。


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VERSUS みあ @mianin27

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