朱の章

虎の巻

戴冠の儀

「──はくさま、琥珀こはく様」


 鈴を転がすような声に誘われ、ゆるりと両瞼を開く。同時にふわりと鼻腔をくすぐる花の香りに思わず笑みが零れた。


優花ゆうか、か……」


 ホッと安堵の溜息を残して、覗き込んでいた顔は離れていった。

 壁に背を預けたまま、両の腕を天井へ向けてぐっと伸びをする。どうやら、いつの間にかうたた寝をしてしまっていたようだ。胡座をかいていた脚が少し痺れるように重い。


珊瑚さんご様のお支度が整われたようです。そろそろ支儀しぎの間へ移動なさいませんと……」

「ん……」


 小さく頷きながら右側に佇む窓の外へと視線を投げた。外では美しい桃色の木々が有限の刻を惜しむように、列をなして一斉に咲き誇っている。


 ああ。また、この憂鬱な時間が始まる。




戴冠たいかんの儀。

 それは、地支ちしに選ばれし者が齢十二を迎える日に行われる。『地支の正式な継承者』として国の当主より冕冠べんかんを賜り、その使命を全うする誓いを立てるのだ。


 支儀の間のふすまを開け、恭しく一礼をする。しゃらん、と頭上の冕冠から垂れる前後左右各十二旒の宝玉達が静かに鳴った。


 ──ああ、重苦しい。


 あてがわれた上手かみての空席へと足を向ける。既に自分以外の面子は揃っていた。

 足早に座布団へ着席すると、後ろで控えていた女官が徳利を持って現れる。とぷとぷと目の前の膳へ注がれていく御神酒の音を聴きながら最上手に視線を滑らせば、厳格な当主の何やら言いたげな瞳とぶつかった。ふい、と逸らせて三畳ほど離れた前方を見遣れば、蘇芳すおうの控え目な笑顔が向けられる。

 細められた隙間から覗く、穏やかで温かみを帯びた栗色。全てを見透かされていそうなその瞳に、背筋がしゃんと伸びる。

 御神酒を注ぎ終えた女官が身を引くと、ややあってから重厚な鈴の音が響き渡った。



 しゃん、しゃんと静かに鳴り響く鈴の音と共に開け放たれた襖の向こうから現れたのは、淡い栗色の髪を短く切り揃えた少年。桃色の瞳は真っ直ぐに上手の当主へと向けられていた。

 その場で一礼して、少年は一歩一歩、着実に摺り足で上手へと足を運ぶ。目の前を横切る彼の表情──その顔には自信と喜び、これからへの期待がありありと浮かんでいる。


 ──何がそんなに嬉しいのか。


 見守る柔らかな視線とは裏腹に、湧き上がる心の声は酷く冷たい。だが、そんな声にそっと蓋をするように目を伏せた。


 当主の一歩手前に着くと少年は再び恭しく一礼し、その場で跪く。少年の礼を受け、当主はゆるりと腰を上げた。傍に控える従者から差し出された上質な桐の箱から冕冠を取り出すと、少年の頭上へと掲げる。


天照あまてらすの意志の下、そなたを第陸位だいろくい、『』の正当継承者として此処に認めよう」


 一歩踏み出した当主の手から、跪く少年の頭上へそっと冕冠が載せられる。少年は顔を伏せたまま、右手を胸に当てた。


「十二地支が一人、卯の号を賜りし、この珊瑚。天照の御意志に添い、己の為すべき天命を全うすることを誓います」


 流暢に口上を述べ終えると、すっと立ち上がる。

 当主の胸辺りまでしかない身の丈。まだ、ほんの子供だ。子供なんだ。お前はまだ──。

 幼少の頃より知ったる少年の姿に、人知れず拳を握り締める。

 はっと我に返った時には、少年は既に向かい側の末席へと腰を沈めていた。


 そして、当主の一声でこの世で一番憂鬱な宴会が始まった。




「ねっ、ねっ。さっきの僕の演武、どうだった?」


 皆の酒も良い具合に回り始めた頃、目の前に現れたのはこの儀の中心人物──珊瑚だった。両手には二本の徳利を掲げて満面の笑みで覗き込んでくる。

 演武、というのは宴会が始まって間もなく行われた『戴冠者によるきょう』の一つだ。我が国、ほむらに伝わる宝刀・草薙剣くさなぎのつるぎに見立てた剣を用い、舞踊を織り交ぜながら己の剣技や武闘を披露する。珊瑚は見事に美しく、優雅に舞ってみせた。


「ん、ああ。良かったぞ」

「んもう、琥珀兄ってば! 僕あんなに頑張ったのにー!」

「はいはい、分かってるって。一緒に夜半まで稽古してたもんな。だから、当然の結果だよ」


 そう言って頭を撫でてやれば、「えへへー」とはにかみながら上機嫌に酌を始める。

 無邪気なその笑顔に、胸の奥が小さく軋んだ。


「なあ」

「うん? なあに?」

「お前、本当に──」


 続く言葉は、重厚な鈴の音に掻き消される。珊瑚は軽く一礼を残し、自身の席へと戻って行った。

 ややあってから、当主が悠然と立ち上がる。


「最後の地支が揃った。明日はおぼろとの顔合わせの儀が執り行われる。これでようやっと、我々は大義を成せるのだ。壱の位、寅の地支・琥珀よ。明日の演武で我が国の力をしっかりと朧へ見せつけるのだぞ」


 突然振られた話題と鋭い視線に一瞬、息が詰まりそうになった。


「……はい」


 絞り出すようにしてようやく発した言葉は、思ったよりも小さい。向けられる視線は徐々に冷気を帯びて行った。


「……では、これにて終宴とする」


 終の言葉を告げ、皆に見送られながら当主は支儀の間から去って行った。

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