Chapter : 4 深い青へ沈みゆく視界





 早春になると、あの日のことを思い出す。2年前の、2月最後の日。


 小学生に逆戻りしたぼくの意識からは、あの頃のマユとおなじように、いろいろなものが抜け落ちているような気がする。しかしいちばん大事なマユの存在だけは、忘れなかった。忘れようはずがない。彼女は、ぼくの命の灯火なのだから。


 だから、ぼくは彼女が送りはじめた「ラブレター」には、しないでいいと言われた返信を、かならず書くようにした。マユは律儀に、手紙の裏面に住所と名前を書いていたから、それ宛てに手紙を送った。


 が、返信は読まれていないのかもしれない。マユのラブレターの内容は一方通行だった。ぼくの返信には一切触れずに、あちらの学校生活のことなど、自分の近況を報告することしかしなかった。


 それでもよかった。学校から帰ってくると、彼女からの手紙がポストに入っている。むしろ、それでじゅうぶんだった。ぼくはやがて死にゆくまで、それだけを楽しみに生きようと思った。

 もう一度マユに会って、彼女の体温をたしかめたい。そんな欲望にかられることもあるけれど、あの日、2年前の2月28日に、ぼくはすべてを手にした。だからそれでよかった。



 そう思っていた。



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 ぼくが返信をやめた日のこと。



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 学校が2時過ぎに終わって、家に戻ってくると、ポストの中にあったのは、やはりマユの手紙だった。すでに700通を超える手紙が届いていた。


 きょうも、なんの変哲もない、マユの雑感が綴られていた。2年経て、手紙に書かれている内容の焦点が、彼女の身の周りのものから、彼女の心の中にあるものに変化していった気がする。

 いまごろ、あっちの方はどんな空の色なんだろうか。それを思い描くことすら、容易ではなくなったのは、ぼくが逆行して想像力が欠けたせい、だけではないだろう。


 ぼくはひととおり手紙を読み終えると、テレビをつけた。ときどき、あっちの天気予報を見る。同じ空の下に、マユが生きている実感が、欲しかった。ほぼ無意識的に、天気予報を気にする。


 そこにあったのは、映画のようなワンシーンだった。


 暗雲がたちこめている空の下、なにかを叫びながら逃げ惑う人々。奥の方の建物が、積み木崩しのように、突然瓦解した。その奥から、灰色の化け物が家屋を突き飛ばして現れた。液体状の化け物。それはまたたく間に建造物を押し倒し、あらゆるものを融合させてこちらに向かってくる。人々の悲鳴と怒号が入り混じる。


 車が寄せ集められる。道路標識が倒れる。化け物から逃れようとする老人は足を引きずっている。怪物は容赦なく、それらすべてを取り込み、さらに肥大しようとしている。


 轟音が鳴り響き、映像が途絶えた。画面は黒くなり、アナウンサーの声がそれを補う。


「お伝えしていますとおり、非常に危険な状況です。……河川や海岸には絶対に近づかないよう、――はい、また強い余震に備えて……」


 画面は依然として黒いままだった。その右上に、「南三陸町 中継」の文字があったのを、ぼくは見てしまった。


 遠い場所で、なにかが、起こっている。それだけは分かった。ぼくがこれまで目にすることのなかった、なにかが。


 テレビは、スタジオを映した。右下には日本地図。右上には、「宮城県で震度7 津波の危険 避難」のテロップが出ていた。アナウンサーは焦りながらも、なんとか冷静を保ち喋りつづけた。


 ――余震、震度7、津波、避難? 大きな地震? 南三陸町、宮城? 宮城、宮城……。


 頭の中で、点と点が線でつながれた。手に握られていたマユの手紙を目にした。


 そこにはマユがいつも律儀に書きつけている、彼女の住所が書かれていた。


 ――宮城県仙台市若林区荒浜。


 再びテレビを見遣った。日本地図の上の、宮城県の沿岸部には、津波が到達したことを示す赤いマークが点滅していた。


 声にならない悲鳴が溢れた。嘔吐にも似た、自制の利かない悲鳴が。



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 ぼくがやることは決まっていた――たったいま決めたのだ。両親はまだ仕事に出ている。家を抜け出し、父さんの財布から抜き取った5万円を握りしめて、徳山駅に駆けていった。

 それはぼくの逆行にそむく行為であることは間違いなかった。けれど、もし今日、いつもとは異なる場所にいたとしても、次の朝家に引き戻されるだけのことだ。


 息を切らしながら駅に到着する。東京までの切符を買う。誰かに見つかって引き戻されはしないかとびくびくしながら、新幹線が来るのを待った。


 自由席は満席で、ぼくが座る余地はなかった。立ったまま、時間の経過を見守った。あちらに近づいているのだという実感が、胸を締め付ける。


 東京に着くと、車内から吐き出されるように、皆が一気に下車した。ぼくは逸る気持ちをおさえつつ、人の流れに乗せられて、次の切符売り場に向かった。


 構内はおそろしく混み合っていた。都心だからか、と思ったが、それは違うようだ。切符売り場や改札口にいる駅員が、メガホン片手になにかを叫び続けていた。


「……状況を、確認しています。安全確認のため、下りの新幹線は現在全線運休となっております。――東北方面へお急ぎのお客様には多大なご迷惑をおかけし、申し訳ございません。地震のため安全確認を――」


 ぼくの反逆は、そこであっけなく終わることになった。おそらくは、この先にはいけないのだ。想像がおよばないほど巨大な未来から、遮断されているのだ。


 人であふれかえる構内から、とりあえず遠ざかることにした。ところが、街は、災害があったことを隠蔽しているようにも見えるほど、せわしく動いていた。車の往来、高い声で笑う女子高生の集団、携帯電話に夢中なサラリーマン。


 ぼくはその中に足を踏みいれた。現実と異世界との狭間にあるような場所だった。喧騒の濁流が、果てしなくぼくを惑わせた。ぼくはなるだけ、自分を保とうとした。都会の空気に舵をとられないように。

 いや、もうこの長旅は頓挫したのだ。けれど、彼女の消息を確かめたい気持ちだけが、行方も知らず頭の中を泳いでいた。


 その時だった。


「キミは、絶対に騙される」


 耳元で、だれかがそう囁いた。


 ぼくは振り返った。だが、そこには誰もいない。空耳だったのだろうか? けれど、たしかにさっき声が。


 いや、ひょっとしたら、いたのかもしれない。マユが、ぼくのすぐ近くに。もう一度ぼくの傍に舞い降りてきた――。


 まるで、別れを言いに来たみたいじゃないか。……あれは空耳だ。ちゃんと、マユを探し出さないといけない。


 そう思って再び前を向いたとき、ビル群が有している色彩が、さっきまでと少し違って見えた。暖色に包まれていた街の色は、いまは、金属質でつめたい、青白い光彩を帯びていた。



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 だが、意外にも、3月12日も、その次の日からも、マユからの手紙は途絶えなかった。




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