Chapter : 3 最後のデートと海の定理






 2月の終わりの日――28日、土曜日。明日、3月1日になったら、マユは引っ越しをして、ここから遠く離れた場所に行くという。なんとか両親を説得して、今日だけは外出できるように頼んだらしい。


 下関から海沿いに山陽本線を進み、特牛こっとい駅で下車する。淡い灰色のコートを着たマユは、いつになく、緊張を帯びた面持ちだった。なにか大事なことを告げようとしているような、けれどそれを言い渋っているような。


「たとえば――」


 ぼくは、数センチとなりのマユに、ぎりぎり聞こえるぐらいの声で言った。


「なあに?」


「たとえば、今日、いや、今日が終わっても、二人でいられないかな。明日までこっちで過ごすってのは」


 するとマユは、嬉しそうにくすくす笑って、


「颯、キミの気持ちはわかるけれど、そうできないの。明日までこっちで過ごしたとしても、いつの間にかあっちに移動してるの。これは折り返しだから」


 そのマユの笑顔が、なんだか哀しげだった。ぼくはそれを横目に、かける言葉を見失った。でもすぐにシャトルバスが来た。次の情景へとぼくたちを誘うようだった。


「もうすぐ、橋が見える。楽しみだね」


 場を取り繕うような声で言うマユ。ぼくたちがぼくたちでいられる最後の時間だ。ぼくも、悲しんでいるいとまなどない。はじめて出会ったときのように、何気なくふるまわなくちゃ。

 だが、その観念は、かえってぼくたちの距離感をぎくしゃくさせてしまった。


 観光客を乗せたバスは、淡々と進み続けた。時間もそれと同じように淡々と進行した。


 大きな海峡と橋、透き通るように明るいブルーの海が見えてきた。写真でしか見たことのない角島大橋。けれど、それを実際に目の前にすると、ぼくのすべてが、その美しさに呑まれそうになる錯覚さえ覚えた。


 灯台公園前で下車したぼくたちに、潮風が吹きつけた。ぼくたちはぶるりと身を震わせた。


「あれに上ってみようよ」


 マユの指差す先には、白い灯台があった。ぼくは、ジャンパー越しの身体をさすりながら、歩き出す。


 びゅう、と音を立てて強い風が押し寄せた。家を出る前、ちょっとだけワックスをつけて整えた髪が、台無しになった。まわりの観光客たちも、わあ、と声をもらしながら、海辺の寒さを痛感しているようだった。


 灯台や、その向こうに見える風車が、この強い風を切っているのだろうか。前方から、耳に錐をさすような、するどい音が聞こえる。


 ぼくはそのとき、ふと変なものを感じた。既視感、とも言うべきだろうか。どこかでこの風を浴びて、どこかで同じような光景を目にしたことがあるような。けれどそれをどこで見たのか、そもそもほんとうに目の当たりにしたのか、判然としない。


「さ、行こ行こ」


 マユの声で、我に返った。思いを巡らせていた脳が、現実感を浴びた。



 ---




 灯台にあがり、海と橋をしばし眺めたあと、ぼくたちは海浜公園沿いを歩いていくことにした。


 少しずつ休憩をはさみながら、ふたりで歩いた。あたりが翳ってきて、日の暮れが近いのを悟る。慣れない場所を長時間歩いているせいか、頭が重くてクラクラするような倦怠感に苛まれた。けれどこれはマユとの最後のデートだ。こうしてはいられない。


「ちょっとだけ寒くなったね」


 マユは、ぽつんと語りかけた。歩きつづけていると、寒さが少しずつ和らいでいき、体感温度は適度に保たれていた。けれど陽が隠れてから、また肌寒くなったように思えた。


「そうだね――」


 そこで、マユがはたと足を止めていることに気付いた。マユは左手をぼくの方に差し伸べていた。

 ぼくはその手のひらとマユの顔を見比べた。彼女の行為の言わんとするところは分かっていたけれど、それが真実だと確かめたかったのだ。


 ぼくは、右手を、そっと彼女の手に重ねた。僕の手は、やさしく、マユの手に包まれた。マユは、照れくさそうに、あはは、と笑って、言う。


「これ、してみたかったの」


 その笑顔は、なにひとつ偽りのない、ほんとうの嬉しさを前面に押し出したものだった。この時ばかりは、ぼくも場を取り繕うことなど考えずに済んだ。ぼくの身体の冷え切っていた奥底に、温かさと潤いが生じたからだ。


「ね、颯。あのベンチで休む?」


 海浜公園には、休業状態の海の家が軒を連ねていた。その脇には、横長のベンチがあった。ぼくたちはそこに、手を繋いだまま座った。さっきまでぼくのなかにあった倦怠感は、どこかに飛んでいった。

 ぼくの心は、それよりも彼女の体温にざわめいていた。が、それとともに、もう少ししかこうしていられないという焦燥に満ちていた。


「歩き疲れちゃったね」


 彼女は両脚を振り子のようにふりながら、海の遠くを見ていた。


 疑問だけが残留している。いま、ぼくたちの間に隔たる蟠りは存在しない。


「マユ。結局、『海の定理』って、なんだったの?」


「ああ、あれね」


 マユは島の方を見ていた。もしかしたらさらに遠くの水平線を見ていたのかもしれない。


「海って、波が押し寄せてきて、また引き返すじゃない? それを何度も何度も繰り返して、徐々にその波の形や勢いを変えながら、押しては引く連続になる。不確実な今が、未来に向かって少しずつ動いていく。それって、すごくわたしたちみたいだなって思ったの。だからわたしは、わたしたちのリズムを、海の定理、って呼ぼうと思ったんだ」


「マユは、やっぱり詩的だね」


「あはは。颯もじゅうぶん、詩的だよ。というか、感情が豊か、っていうべきかな」


 ぼくたちは、ふたりで笑い合った。誰もいないビーチに、白い波が寄せては返している。


「颯は――」


 マユは、そう言いかけて止まった。たわむれに、彼女の手をぎゅっと握ってみた。するとその手がさらに強い力で握り返された。


「キミは、絶対に生きのびる。たとえ、わたしを忘れてしまっても」


 ぼくは、それがなにを意味するのか、理解できなかった。だが、いまぼくの顔を見すえているマユは、瞳を潤ませていた。そしてそこから雫がこぼれた。それだけは、理解に及んだ。


 彼女はもう片方の手で涙をぬぐうと、その手でコートのポケットをまさぐった。その中から、ひとつ、白色の封筒があらわれた。


「わたしたちは、今日が過ぎたら、きっともう出会うことはない。けれど、颯が悲しくないように、わたし、あっちから、毎日手紙を書くね。返事は、しないでいい。ただ、毎日届くから覚悟してね。文字は、時間を超える力を持ってる」


 彼女は、受け取って、と言うかわりに封筒を突き出した。


「わたしから颯への、1通目のラブレター」


 ひとつ頷いて、手紙を受け取り、ポケットの中に仕舞い込んだ。


 涙ぐんだマユは立ち上がった。その瞬間、ぼくの手から、マユの手がするりと抜けた。いとも簡単に。ぼくは反射的に立ち上がる。


「ごめん。もう、行かないと。今ならわたし、気持ちの整理できてるから」


 唇を固く結んだマユは、さよなら、と小さく言った。


 ぼくに背を向けて、砂浜をゆっくり歩き出すマユ。潮風に長い髪が揺れ、彼女の爽やかな香りがぼくの方に漂ってきた。彼女はどんどん遠くへ、夕べの世界へ消えていこうとする。


 ぼくにできることは、なにもなかった。けれど、頬に一筋の涙を感じた瞬間、ぼくはするべきことを見つけた。



 走り出す。


 彼女までの距離は、そう長くなかった。


 後ろから、彼女を腕の中に閉じ込めた。ひとつになれたような、温かさ。それは原初的で、何十回と繰り返された行為のような。


「マユ」


 肩を震わせながら泣きじゃくるマユに、ぼくは力強く語りかける。


「マユ、好きだ」


 ぼくの両腕に、マユの手のひらが重なった。爪が食い込むほど、強くあてがわれていた。




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