Chapter : 1 2009年2月13日
「キミは、絶対に騙される」
黄昏時の教室、窓際。前置きも無しにそう言ってのけ、ふふっ、と可笑しそうに笑う瀬切マユ。ぼくは、なんのことだろう、と訊き返す前に、心当たりがないか考えた。けれど、思い当たる節がないので、「誰に?」と尋ねた。
「さあ、誰だろうね? わたしにも分かんない。でもね、そんな気がするんだ。明日とかさ、バレンタインデーじゃん。颯宛てのラブレターが、靴箱の中に入ってるかも。けど、それはただのイタズラでした、みたいな。ふふ」
なにか、妙だった。マユが身にまとう空気感が、微妙にいつもと異なることに気付いたのだ。目が合わせられない。それに気づいた瞬間、胸の鼓動が大きくなった。でも、ぼくが抱いている願望は、結実しないものだろう。たぶん。
「それはない。マユだって、二宮のことが好きなんだろ? ましてぼくにラブレターなんて」
するとマユは、あははは、と、一段高い笑い声を上げて、
「ほーら、騙されちゃった。明日は土曜日だよ? わたしも颯も帰宅部だから学校には来ませんよー。考え過ぎでーす」
ぼくは椅子の背もたれに背を投げて、期待外れの返答に乾いた笑いを返した。
「でもね、颯はまだわたしに騙されてるんだな」
今日の彼女はいつもにまして、挑戦的で意地悪だった。けれどやはり、その裏にはまだ、不自然なものが伏流している。
「それは、マユがぼくに嘘をついたってこと?」
「ことば通りの意味で、ものごとを考えてるようじゃ、ダメだよ。その裏に何があるか考えなくちゃ」
「嘘かほんとか見抜けってこと? それちょっと、面倒くさくないか?」
「そんなだから、騙されるんだよ、颯。んー、じゃあさ、わたしが言ったことをよく思い出して、当ててみて」
矢継ぎ早にしゃべり倒す彼女。
「なんだろうな……」
ぼくはまた考えにふけるような素振りをして、
「じつは、性転換した男の子でした、みたいな?」
「あはは。わたしもそこまで物好きじゃないんだな」
「逆行しつづけているのが嘘だった、とか?」
「それはあり得ないよ。颯にだって分かるでしょ」
そう言うと、彼女は、ほんのわずかに俯き加減になった。その表情は冷めていた。けれど、その裏で秘密でも飼っているかのような瞳をしていた。
ぼくは、まずいことを言ってしまった、という後悔にようやくいたった。そうだ。彼女は逆行している。それは疑いようのない事実だ。
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マユはたしかに、2000年の1月1日から、若返りつづけている。彼女の言うとおり、逆行しつづけ、赤ちゃんになって死ぬ運命にある。つまり、これまでの人生を引き返しているのだ。
マユと同じクラスになってから、登校日は彼女と話すことを欠かさなかった。それを見ていると、たしかに彼女は逆行していることがわかる。けっして彼女はぼくを欺いているのではない。周りの生徒や先生たちは、何食わぬ顔で、かつ口裏でも合わせたような自然さで、彼女に接している。けれど、ぼくにはわかる。むしろ彼女は、ぼく以外には逆行のことを口外しなかった。
彼女は一日ごとに、なにかを忘れつづけている。たとえばそれは数学の定理であったり、漢字の読み書きであったり。ぼくはそういったものを教えている間、奇妙な親近感と違和感をおぼえたものだ。マユが逆戻りしているという確証が、心の根底に萌芽し、蔦のように意識全体に張り巡らされていくのを感じていた。
だからこそ、ぼくは彼女に逆行が嘘だなんて、言うべきではなかった。
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長い沈黙を破ったのは、マユの方だった。窓のほうに向いて突然けらけら笑い出したのだ。
「わたしが落ち込んでると本気で思った? あははは」
マユは、おかしそうに、大袈裟なほど背中をのけぞらせて笑った。ぼくは、さっきからつっかえて取れないわだかまりを感じながらも、なにも言い返す気になれなかった。彼女が笑い止むまでややあった。
「じゃあ、わたしの方から正解を言うかな」
窓のほうに向いたまま、彼女は静かに言った。
「わたし、二宮くんのことが好きだって、これまでは話してたけど、あれ、嘘なんだ」
ぼくは心臓を射抜かれたような衝撃をおぼえた。不意に目線が下がる。横に向いた彼女の右手は、ブレザーの裾をぎゅっと握りしめていた。
「わたし、好きだよ。颯、キミのこと」
マユは、震える声で言いきった。また沈黙があった。しかしその沈黙に耐えかねるように、彼女はこう言う。
「わたし、2020年には死ぬ。背丈がどんどん縮んで、赤ちゃんになって、死んでいくんだ。その前に、3月になったら仙台に引っ越すの。でも、確かな思い出が欲しい。1日だけでも、わたしは特別な思い出が欲しい。颯だけはちゃんとわかってくれるって、わたしは信じてる」
ぼくは彼女の右手を見たままだった。彼女の表情は、とても見れない。心臓の音が上がる。振り絞るようなその声の根底にあるものは、ぼくの心情と同じなのだろう。さっきまで明るく笑っていた彼女と、いまの彼女との対比が、ぼくを凍りつかせた。
「わたしと、2週間だけ、付き合って欲しいの」
今にも感情が暴発しそうな、高く可憐な声。ぼくも決心しなければならなかった。踏ん切りをつけて、マユの横顔を見た。彼女は、それに弾かれたようにぼくと目を合わせた。
「こちらこそ。ぼくも、マユと付き合いたい」
有り体にそう言った。すると、かたぐるしい空気感はまたたく間に氷解していった。彼女の感情を阻害するものは、もはやなにもないようだった。
「よかった。……颯、ありがとう。じゃあわたしたち、これからカレカノだね」
マユは右手の小指を立てて、ぼくの前に突き出した。ぼくも同じようにして、彼女の指とからませて、指切りをした。その瞬間、ぼくも自然に笑顔になった。マユも、それを受けて微笑んだ。
ぼくの人生ではじめての恋人。それがマユでよかった、と思う。たとえ2週間の恋だとしても、一生忘れられない恋になるだろう。マユは特別な人なのだから。
なにを隠そう、ぼくの人生も、マユと同じように逆行しているのだ。
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