犬の沈黙
古新野 ま~ち
第1話
外を歩くだけで身体が水を吸ってぶにょぶにょに膨らみそうになる雨の降る手前、どこまでも続く鼠色の雲しか見えない空だった。風はなかった。煙草のヤニみたくアスファルトに染み付いた排気ガスが空気の中に溶けていた。
意思に反して俺は足を止めた。安いママチャリでも余裕で登れそうな坂道の中間で太ももがふるえた。歩くことはやめなかった。気圧や湿度や道路の条件を加味しても――隣で緩いペースで走るサンバイザーをしたおばさんに追い抜かされた――、自分の足を無能だと罵った。
排水溝をはさんだ向こう側は私有地で、そこでは栗の木があった。『むせかへる花栗の香を蝶くぐる』 という俳句がある。きっと、蝶々は花ならなんでもええんかいすげぇなという感嘆が込められているんだろう。むせかえるという言葉の通り、少し前に遡るが、白い栗の花は頭が痛くなる臭いを放っていた。青臭く、前を通るのが嫌だからと、走る習慣をやめようかと考えた。実際には、異例の暑さで中断した。
栗の花も太陽も消えた。そして梅雨の無限の圧力に押し潰されそうな苛立ちに耐えかねて大気を押し返すために走る習慣を再開した。整備していなかった脚が、まるで弾力性を失ったゴムベルトのように仕事をしなかった。
四つん這いの小学生くらいはありそうな犬――ラブラドールだろうか、俺は犬に詳しくない――を連れた男が坂を下って来た。道の真ん中でノロノロと歩く俺に、まだ十分に距離があるにも関わらず、威圧的に視線を寄越してきた。犬が車道に出ないようしているのが精一杯だった。遠目でも、その男が春先の健康診断で医者にダメ出しされているだろうことが容易に想像できる、贅肉。俺よりも走れないだろう体型だった。ここで引き返し、それを男に目撃されるのは良い気ではなかった。しぶしぶと前に進んだ。
犬が車道に寄るから、俺はその逆に避けた。だいたい、家一軒分の距離が空いていた。しかし、その距離にも関わらず、排気ガスが溶けた空気のなかに広がる、死に至るような臭いがした。アルコールを手放せなくなっている人間特有の、厨房に立てば発火しそうな死の臭いだ。生前はアル中だった父親ですらここまでの体臭ではなかった。彼はせいぜい、口臭がひどいくらいだった。
両親を実家に棄ててきたという意識があった。だから二人の仲に何があったのか知るよしもなかった。三回忌のときに父親が遺した未開封のウィスキーを呑んでいた。そのとき母は、数年前から飼いはじめたというパピヨンを膝にのせて彼女の掌の皮脂で毛並みを整えてやるように撫でていた。彼女は酒に弱かったらしい。いろいろなことを言っていた。
退職した父親は買い物に付き合うくらいしかしなかったらしい。収入に見合わず増えていく酒の量と一方的な家事の負担に耐えかねて、彼女が何かの楽しみを求めて飼いはじめたらしい。その子が飲み込みかけたドッグフードを吐き出させてそれを食事に出していても気がつかなかったほど、終末の父親の感覚は死んでいた。
男は多くの車が過ぎ去っていく車道から遠ざかろうとしていたが犬の力に押し負けていた。俺は犬のおかげですんなりと対向することができた。すれ違いざま、犬が、うぉんと吠えた。
男の顔は予想に反して、真っ青だった。蒸し暑いのに、悪寒に苛まれているようだった。すれ違いざま、植物や排気ガスやアルコールとは違う臭いがした。それがなにか、俺には分からなかった。
腿が音を上げるので立ち止まった。流れる汗を袖で拭った。すると背後で、不吉な音がした。
男が内臓を吐き出そうとしているような嗚咽をしていた。大層なものだった。何度も何度も血を吐くような音を立てているから、俺までゲロをしそうになった。
さっき、俺が立ち止まったところに、男が倒れ伏した。近寄って介抱しようとした。しかし脚が痛くて動けない。しかしすぐに一台の緑の車が幅寄せして助手席から若い女が降りてきた。その人は運転席の、おそらく旦那に、救急車を呼ぶようにと言った。車が止まっているからか、ちらほらと野次馬が集まりはじめた。
そこの家の老夫婦や通りかかった学生が、意識のない男を心配そうに見つめている。倒れた男の手から、リードは放されていた。にも関わらず、犬は男の頭を見下ろして黙って佇んでいた。
今日はこのままで終わりたくない気分だった。脚がジャンクのままなのは勘弁だった。だから今日は坂を歩いてのぼった。
犬の沈黙 古新野 ま~ち @obakabanashi
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