青い目の人形

賢者テラ

短編

【7月2日 2:00 PM】



 青い目をしたお人形は

 アメリカ生まれのセルロイド……



 ある病院の、入院病棟。

 その個室のひとつで、ベッドに伏したまま歌う少女が一人。

 その声は力なく、今にも消え入ってしまいそうであった。

 空調は効いているはずなのに、冬の冷たい空気の重苦しさが、彼女を取り巻く空間を支配している。寒くはないのに、そこだけが荒涼とした冬山を思わせる異空間を作り上げていた。

 少女のベッドのサイドテーブルには、存在感のある一体のフランス人形が鎮座している。かなり昔の、それなりの匠の技による作と思われる風格を備えていた。

 その青いガラス玉のような眼球は、片時も視線を外すことなく病床の少女を見下ろしていた。




【7月3日 2:05 AM】



 僅かな光しか灯されていない、真夜中の病棟の廊下。

 深夜勤に当たっていた看護師の堀江聡子は、懐中電灯の光を頼りに、病室の患者を巡回して歩いていた。誰もいない、夜の病院の廊下は、必要以上に薄気味悪い。



 ……静かだ。



 聡子は、この病院に勤務してやっと一年になる。

 しかし、この深夜勤の時の見回りだけはなかなか慣れることはなかった。

 闇、というものがもたらす生理的嫌悪感は、何とも抗いがたい。

 何もいるはずがないのに、ついつい臆病になってしまう。

 この科学の時代であっても、闇は人間にとって恐怖の対象なのだ。



 突然、聡子の持つ懐中電灯は、現実にあってはならないおぞましいものを映し出した。

「キャッ」

 驚きのあまり、持っていた懐中電灯が手から離れてしまい、カランカランとリノリウムの廊下を転がる。

 聡子はしりもちをついたまま、必死で転がった懐中電灯に手を伸ばそうとした。しかし、聡子を震え上がらせたその存在は、次第に彼女との距離をせばめつつあった。

 月明かりに浮かぶ、直立した一体のフランス人形。

 それが、音も立てず足も動かさず、スーッと進んでくる。

 愛くるしい人形の顔ではなく、怨念に歪んだ顔は、殺人鬼のようであった。

 右手には、包丁と思われる刃物が握られている。

 そのガラス玉の眼は、明らかに聡子をターゲットとしていた。

「ひ、ひいっ」

 聡子はあまりの恐怖に腰が立たないまま、廊下を這いずった。

 刹那、太ももに激痛が走った。

 大腿部の肉をざっくり切りつけられたのだ。



「いやあああああああああああああああ」

 聡子は、手近にあったストレッチャーを、奇怪な人形に向かって押した。

 ストッパーを外されたそれは、勢いをつけて人形に突進していった。

 人形は、フワリと空中に浮き、人の首あたりの位置で停止した。

 そして、ゆっくりと聡子の傷が作った血溜まりの真ん中に着地した。

 次の瞬間、聡子の大絶叫が病棟中に響き渡った。

 なぜなら、彼女は見てしまったからだ。血の滴る刃物を片手に、そのフランス人形が……

 廊下に溜まった聡子の血を、ジュルジュルと吸い出したのを!

 血の海にかがみこんだ人形は、上目遣いに聡子を見つめた。視線が合った。

 その人形は確かに……笑ったのだ。




【事件の翌日 7月4日 11:30 AM】



「お見舞いにきたよ。ケガは大丈夫?」

 病室のスライドドアがガラッと開き、一人の女子高生が入ってきた。

「これ、お土産ね。こういう時でもないと、食べる機会もなかなかないでしょ?」

 彼女は手に持っていた高価そうなマスクメロンを、ベッド脇のサイドボードの上に置いた。

「里奈。それ、まさかあんたがお小遣いで買ったの?」

 堀江聡子は、よっこらしょと上半身を起こしながら、娘の里奈にそう尋ねた。

「まっさかぁ。おばあちゃんが、これ持ってきなって渡してくれたのよ。万年金欠病の私が、こんなもの人に買えるわけないじゃん!」

「……それ、そんなにエラそうに言うこと?」



 聡子と里奈の家庭は、それまで辛いことがありすぎた。

 里奈が生まれる少し前に、聡子の夫・里奈にとっての父は若くして亡くなっていた。また、里奈には兄がいたのだが、生まれつき筋ジストロフィーという難病に侵されており、11歳でこの世を去った。

 兄の世話に忙しい聡子に、あまり構ってもらえなかったという辛い幼少期の記憶が里奈にはある。でも、里奈は兄のことも好きだったから、それを恨むことはしなかった。

 以来、ずっと母子家庭で、二人は二人三脚でやってきた。気が強いところは親子で似ており、時としてケンカをすることはあったが、その年頃の平均的な親子関係と比較しても、二人は大の仲良しと言えた。



「看護師が、一夜にして患者の側になるなんて、笑い話にもならないわ」

 聡子は、そう言って大きく伸びをして、あくびをひとつした。あれから切られた足を縫ってもらったり、警察の事情聴取があったりで、あまり寝ていないのだ。

 普通なら、人形に襲われるなどというような体験を実際にしたら、その後数日は恐怖でおびえ切って、誰とも落ち着いて話せない、というケースがほとんどだろう。でも聡子が比較的落ち着いていられるのは、逆境に負けず女手ひとつで里奈を育ててきた、その精神的な強さのゆえんだろうか——。



 聡子は娘に、昨日の事件の一部始終を話した。誰かに、まともに聞いてもらいたかったからだ。

 ウソのつきようがないので、聡子は人形に襲われたと正直に言うしかなかったが、警察は聡子の精神が錯乱していたので、あり得ないものを見たように思ってしまったんだろう、と判断した。

 そこは、警察を責めることはできない。刃物を持った人形に斬り付けられたなどと言っても、誰も信じないのが普通だろう。

 仮にこの経験をしたのが他人だったら、今の話を聞かされたら自分もやっぱり「頭おかしいんじゃない?」と言ってしまうはずだと思った聡子は、警察に信じてもらえなくてもそれほど腹は立たなかった。

 でも、娘なら私がウソをついていない、と信じてくれるのではないか? その一縷の望みを託して、聡子は自分の体験を話してみたのだった。



「うん、信じるよ」

「……エッ?」

 聡子は、うれしいという感情より先に、そんなにあっさり信じてくれたことに、逆に驚いた。

 そのことを正直に言うと、里奈は手を叩いて笑った。

「アハハ、そう。そうだよね! こんな話、フツー信じないよね! でも私はさぁ、そういうこともあり得る、って思えるような体験、結構してるんだよね——これが」

 里美の話によると、高校に入ってからできた友達の中に、安倍夏芽という名前の子がいて、その子に付き合っているとまめに『怪奇現象』に出くわすのだそうだ。

「だから私、もうたいがいのことには慣れちゃった。エヘッ」

 母親の聡子としては心配で、怪奇現象などに慣れてくれるな、と思った。

「でもさ里美、なんでその安倍さん、って子の周りだけヘンなことが起きるの? その子は何者?」

「う~ん、聞いた話だとね、安倍さんって『陰陽師』なんだってさ! ホラ、苗字だって安倍、でしょ? こないだ、陰陽師の安倍晴明が活躍する映画みたばっかじゃん? マジで、あの安倍晴明が先祖なんだって言ってたよ……あっ、そうだ!」

 そこまで言って里奈は、いかにも名案を思い付いたという表情をして、手をパンと叩いた。

「安倍さんに相談してみようよ。きっと、ママを襲ったチャイルドプレイもどきも、退治してくれるんじゃないかな!」

「……あんた、さらっとすごい言い方するねぇ」

 そう言いながらも、人を襲う人形がチャイルドプレイもどきというのも、言い得て妙だと聡子も思うのであった。




【里奈の初回のお見舞いの二日後 7月6日 4:00 PM】



「……紹介するね。こちら、クラスメイトの安倍夏芽さん」

「はじめまして——」

 放課後、里奈に連れられて噂の『陰陽師』が聡子の病室にやってきた。

 安倍晴明神社の神主兼巫女。安倍晴明から数えて31代目の子孫にして、陰陽道の正統継承者。

 黒のロングヘアを腰まで伸ばしている。かなりの美少女と言えたが、ただ少々細めの目が狐のようで、頭の回転が早そうだが少々冷たい印象を受ける。

 はじめましてと言いながら、頭を下げるでもなく腕組みをして直立不動のまま。ちょっとエラそうだが、確かに代々のお役目を継ぐ『風格』のようなものは感じられる。

 今はブレザーの制服姿だから分からないが、陰陽師としての装束に身を包めば、いかにも陰陽師然とした雰囲気になるのだろう。



 結局聡子は、自分が襲われた件について、娘の友達の陰陽師に力を借りることに決めた。

 警察は、あくまでも犯人は「人間」という前提に立っているため、捜査は難航している。犯人の逃走経路とかアリバイとか、そういうことばかり気にして挙句は近所の聞き込みなどに力を入れる始末。

 相手は、常識の通用しない化け物だ。ユーレイみたいに物理的な壁をすり抜けられたら、科学捜査さえ意味がない。

 餅は餅屋。化け物や妖怪変化には陰陽師。聡子はそう割り切った。

「それで……何か分かりました?」

 すでに里奈が、夏芽に『人形が人を襲う事件』についての詳細を知らせてくれていると聞いた。聡子は、もしかしたら夏芽がもう何らかの情報をつかんでいるかもしれない、と期待していきなり質問してみた。

 果たして、陰陽師の仕事は早く、すでに驚くべき情報をつかんできていた。



「この病院に『再生不良性貧血』という病気で入院している少女がいる。斉藤良枝という子だ」

 横柄な陰陽師は、腕組みをしたまま大股で病室内をウロウロ歩きながら説明を始めた。 

「……その子のそばには、持ち物らしいフランス人形があった。来しなにその人形を調べてきたが、唇の部分を含め、至るところにルミノール反応が出た。人形が、かなりの血に触れてきた証拠だ」

「ビンゴだね! 夏芽っち、すごいじゃん」

 里奈は感心して言った。

「で、その人形の由来なんだが——」

 せっかくの里奈の賞賛をまったくスルーして、夏芽は所見を述べ続けた。



「……あの人形の名はジョゼフィン。

 昭和2年に日米の子供達の友好を願って、アメリカから日本へ向けて12,739体の青い目の人形が小学校、幼稚園に送られた。これは、そのうちの一体。

 人形は当時の日本の子ども達に、大事にされた。だが——

 時代は変り昭和16年12月8日、日米開戦に伴い、人形たちまで「憎い敵、アメリカのスパイ」とされ処分を命じられたのさ。当時、この処分に立ち会った大人達は、火で燃やされる人形の束を見て『胸のつまる光景だった』と供述している」



 事件に隠された意外なドラマに、聡子と里奈の二人は静かに聞き入った。



「……当時の資料によると、罪のない人形たちへの処分を不服として、意義を申し立てた人物がいたんだな。この人形の持ち主、つまりは入院している少女の曾祖母に当たる人物だ。

 彼女は当時の軍部につかまって拷問を受け、死んでしまった。

 恐らくあの人形は妖怪の類ではない。単なる怨念の集合体だ」



 里奈は、聡子の横の丸い回転イスに座って子供のようにクルクル回りながら、夏芽に質問した。

「じゃあ、何で見境なく人を襲うのかな? うちのママは別に当時の軍部とかと何の関係もない人なはずでしょ?」

 夏芽は、そうくると思ったというようなしたり顔で、こう補足する。

「あの人形は……単に血を求めているんだ。健康な血を」

 それを聞いた聡子と里奈の親子は、ぞっとした。



「斉藤良枝、という女の子の担当の医者も看護師も、彼女の病状がどんな処置をしてもひどくなる一方なことに、首を傾げていたんだそうだ。

 でも、今回の一件で謎が解けたよ。

 曾祖母は、孫を思うあまり、歪んだ愛情表現に出た。

 人の血を取り込んで、少女に血を移していたんだ。血液型の違いで少女の体が拒否反応を起こさないように、人形の体内で何らかの化学変化を加えてから送り込んでいたらしい。

 医学的には、単に血が足りないから輸血すればいい、という単純な病気じゃないのだが、霊にはそんなことが分からない。やみくもに輸血する、というそんな医学的には意味のない行為を続けるせいで、逆に女の子の病状が悪化していた、というわけだ」



「人形が、血を? 人形なんて中はなぁんもないはずなのに——」

 そういう、至って常識的な疑問を持った里奈だったが、夏芽の返答に驚愕した。

「……人形の体内には、血が流れてた」

 夏芽は、ニヤリと笑った。

「針でつついたら、青い血が出てきた」




【その夜 7月7日 2:30 AM】



 丑三つ時、つまり夜の二時半過ぎ。

 暗く静まり返った病棟の廊下に、二人の人影が見える。

 夏芽と里奈の二人だ。夏芽がついに、人形退治に乗り出した。警察は頼りにならないし、放っておけば第二・第三の被害者が出るかもしれないからだ。

 夏芽は、嫌がる里奈を説得して助手としてついて来させた。聡子はケガ人だから、当然病室待機だ。

 里奈は、悪霊退治の時は夏芽が「陰陽師っぽい格好」になるんだろうと期待していたが、これまでの制服姿のまま着替えようともしないので、ちょっとがっかりした。でも、空気を読んでそのことを夏芽に言わないだけの分別はあった。

「ふあぁぁ眠いぃ」

 里奈は、大あくびをした。

「安倍さぁん、なんであえてこの時間なの?」

「悪霊が一番動きやすい時間だからだ。動いてからでないと、あの人形をつつこうが燃やそうが意味はないからな」

「それで、あの人形に有効な撃退法ってあるんですか?」

 恐る恐る里奈は尋ねた。

「正直なところ、ない」

 夏芽は、こともなげに即答した。

 ええ~っ! そんなご無体なぁ! とブゥブゥ文句をたれる里奈を夏芽は手で制する。

「まぁまぁ。やってるうちに、なんとかなるだろ」



 ……計算深いのか、いい加減なのか分からんお人や!



 里奈は深いため息をついた。



 病棟の廊下に、二人で手分けして5メートルおきに護符を貼り付ける。 

 相方の里奈には意味不明な言葉が、夏芽の口から漏れ出る。



 六甲六丁天文自成


 六戊六巳天門自開


 六甲磐垣天門近在


 急々如律令 



 作業が終わった後、夏芽は錫杖(しゃくじょう)と呼ばれる杖を片手に、呪言を唱えだした。

 すると…見る見るうちに、周囲が淡い青白い光で輝き、大規模な結界が張られた。

「これでよし。病院の他の患者さんに迷惑がかからん」

「……んでもさぁ、敵さんがこっちへ来てくれるって、なんで分かるわけ?」

 車椅子の肘掛で頬杖をついて、理奈は素直な疑問をぶつけてきた。

「ヤツは来る」

 夏芽は、キッと顔を上げて、厳しい顔で前方の闇を見つめた。

「感じる。もうすぐだ」

 彼女が来ると言えば、本当に来るんだろう。どちらかというと「来てほしくない」里奈は、暗い気分になった。



 急に、真っ暗な廊下の奥から不思議な歌声が響いてきた。



 日本の港へついたとき

 いっぱい涙を浮かべてた

 私は言葉がわからない

 迷子になったらなんとしよう



 果たして、音もなく近づいてきたのは、例の人形『ジョゼフィン』であった。

 話に聞いていただけで見るのは初めての里奈は、その身の毛もよだつ恐ろしさに戦慄した。

 しかし。夏芽は顔色ひとつ変えずに上体を思い切り倒し、前傾姿勢で人形に向かって駆ける。

 残像を残すような不規則な、しかし恐ろしいスピードで人形に迫る夏芽は人差し指と中指を立て、空中に晴明紋(ヘキサグラムという星型)を切るように描く。



 相火三焦


 合わせて六気と成し、羅剛星・三宝荒神にみことのりを奉ず



 その図形は光を放つ線となり、光の粒子の尾を引いて人形の体になだれ込んだ。

 夏芽は錫杖を渾身の力で振り、人形をはるか後方に吹き飛ばした。

「キイイイイイイイイイイ」

 ブロンドの髪の毛を振り乱した人形は、空中に浮き上がって、刃物を振りかざして突進してきた。

 横転してその直線的な攻撃をかわした夏芽は、半身をひねって、軽やかに体の向きを変えた。

 しかし——

「しまった!」

 人形は急に里奈のほうへ標的を移し、迫っていった。

「させるかぁぁぁ」

 里奈は、夏芽から渡されていた呪符の束を、胸のポケットから取り出した。

 変わった漢字だらけのその巻物を、胸いっぱいにまで開いた。



 禁呪符陣! 悪霊退散!



 とたんに巻物に墨で書き付けられた漢字たちが飛び出し、人形にまとわりついてその動きを封じた。

 人ならざる存在と初めて向き合うわりには、行動が的確で、落ち着いている。少々「キレ気味」なところは危なっかしいが。

 里奈はどうやら、『本番に強い』タイプらしい。



「待って!」

 闇からの突然のその声に、二人は驚いた。

 突然飛び出してきたのは、病室で療養しているはずの聡子だった。松葉杖をつき、斬りつけられたほうの足を引きずりながら、こちらへ駆け寄ってくる。

「お母さん! なんで来ちゃったのよ!」

 里奈の制止も聞かず、一同が唖然としている目の前で、聡子は驚くべき行為に出た。動きを封じられ、空中で停止している人形に抱きついたのだ。



「……あなたのことは、夏芽ちゃんから聞いたわ」

 聡美は、涙声で語りだした。

「私も、息子を筋ジストロフィーで亡くしてるの。もし代わってあげられるものなら、とどれだけ思ったか。自分の体を代わりに差し出せるのなら、って」

 聡子が人形に密着しているため下手に攻撃できない二人は、神経を研ぎ澄まして成り行きを見守った。

「だから。あなたの気持ちはよくわかるから……あなたの気の済むようにして。欲しいんなら、私の血をあげる。その代わり約束よ、私を最後にしてね——」

 何の前触れもなく、人形の持つ刃物が、刃先からズブリと聡子の肩に進入した。

 溢れ出す血。そこに、真っ赤な口を開いた人形が、ガブリと食いつく。



「ちょっとぉ、お母さんに何するのよう!」

 見かねた里奈は、思わずありったけの呪符を一度に使おうとした。

「……待って」

 いつの間にか里奈の横に来ていた夏芽は、手で彼女を制した。

「なんでぇ?」

 夏芽は、戦闘中とは思えない満ち足りた笑みを浮かべた。

「きっと、あんたのお母さんの勝ちだよ」

 その言葉に、里奈は狐につままれたような表情をした。

「このほうが、私たちが闘ってねじ伏せるよりも最良の方法だったかも——」



 聡美の血液を吸い続けていた人形は、やがてガクガクと震えだした。明らかに苦しんでいる。



 ワタシニハ スエナイ——



 浮遊力を失った人形は、やがてポトリ、と廊下に落ちた。



 数秒の静寂の後。

 人形と瓜二つの、半透明の人形が出現した。

 恐らく、人形に取り付いていた霊魂が抜け出たのだろう。

 それはむっくりと起き上がって空中に浮き、天井近くで一旦静止した。

 驚いたことに、その顔は人を襲ったときの般若のような形相ではない。

 可愛らしい、おだやかな本来の人形の顔であった。

 人形の歌声が響いた。



 やさしい日本の嬢ちゃんよ

 仲良く遊んでやっとくれ

 仲良く遊んでやっとくれ……




「ア・リ・ガ・ト・ウ」



 最後に、人形がお礼を言ったように聞こえた。

 夏芽は、降魔呪言ではなく、浄霊と天界での安寧を祈る呪文を詠唱した。

 朗々とした、澄んだ声が廊下に反響する。



「鎮宅 

 一魂浄誓の儀 

 祝覇盛の時に阿夜して見る神の

 態雅の時に遠津美世麗を彷徨えり——」



 その祝詞(のりと)に見送られるように、霊魂は天井を突き抜けて消えた。

 おそらく、もう人では認識の及ばない世界へ旅立ったのであろう。



 浄霊は夏芽に任せて、里奈は再び大怪我を負った聡子に肩を貸して、当直ドクターのいる部屋へ向かった。母親をかつぐ前に、ふと気になってもう脅威ではなくなったフランス人形を拾い上げた。

 


 後日。

 問題の人形の持ち主、斉藤良枝の担当ナースは、ある事実に気付いて叫んだ。

「まさか! 良枝ちゃんの染色体、あの里奈っていう子とほぼピッタリじゃない!」

 実は良枝の病気である 『再生不良性貧血』 は、治療のためには骨髄移植が必要なのだが、これは誰でもいいわけではなく染色体の構造がかなり似ている人物のものに限るため、例え家族であっても合わない場合が多いのだ。

 見つからなければ何ヶ月でも何年でも、適合する人物が登録に上がって来るまで待ち続けなければならない。

 良枝はそうして一年半も待ち、何とか命をつないできた。


 

 しかし、この件は昨日の事件によって急展開を見せる。

 昨日の戦闘中に、打ち身と軽い捻挫をしてしまった里奈は、同じ病院の外来で診察を受けた。かまれてはいないが吸血怪物に関わったので、慎重を期して血液検査も行ったのである。

 良枝の看護師が半分ダメもとで、新規の患者である里奈の血液に適合検査を行ったところ…ものすごい確率を乗り越えて、まさかの適合となった。

 驚愕の事実を告げられた里奈は、二つ返事で骨髄移植に同意した。

 表向きは、『人の命が救えるなら』と立派なことは言っているが、ホンネには 「しめしめ。堂々と学校休める日が伸びる~」という低俗なもくろみがあった。

「ま、あなたもママやみんなのために事件解決手伝ってくれたからね。ちょっと長いご褒美休暇、ってことでいいんじゃない?」

 そう言って、聡子は娘の頭をなでた。

 この年頃の子ならば、恥ずかしいと言って嫌がるところだが、里奈はなされるがままうっとりとした目をして、しばらく母のひざ元で過ごした。

 普段、クールな印象ばかりの夏芽だったが、この親子をめったに見れない優しい眼差しで見つめるのだった——。




【事件からおよそ一週間後 7月14日 2:00 AM】



 ここは京都市、上京区にある宝鏡時、深夜。

 あのフランス人形、ジョゼフィンは——

 里奈の手配により人形寺として有名なここに送られ、供養の日を待っていた。



 イヒヒヒヒヒヒヒヒヒ



 暖房もない、ピンと張り詰めた冷気の漂う寺院内。

 見回りに来た住職は人形を保管している場所を確認して、顔をしかめた。

「……こら。またお前か」

 職業上、このようなことには慣れっこになっていた住職は、まったく動じることなくジョゼフィンに語りかけた。

「お火上げ(供養して焼くこと)の日までまだあるから、それまでおとなしゅうしとれ」



 それに答えるように、ジョゼフィンは口元をつり上げて、ニヤッと笑った。




  ~ 完 ~

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青い目の人形 賢者テラ @eyeofgod

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