八 ありがたのおとぶらい

 葉右衛門は市三郎の持ってきた大徳利を全部飲み干すと、ゆらりと立ち上がった。すでに日が陰り始め皆そろそろ帰り支度を、と言い出した頃だ。

「葉右衛門様、お刀を!」

 葉右衛門が刀を取ることを忘れて立った時、市三郎は前ににじり寄って刀を直接手に触れないように、振り袖を腕に巻いて両手に抱くように捧げた。

 まさに念者と契りし若衆の姿だった。

 葉右衛門は市三郎を見下げながらゆらゆらと立っていた。腹を出した形でちょうど袴の中の股の位置が市三郎の口のあたりであった。それを見ていた者達は市三郎と葉右衛門の関係を確信したのだ。明日にはその噂が伊賀上野の町々の隅々に広がろうというものだ


 葉右衛門はまた、かたじけない、と言って刀を取り、市三郎に大げさにお辞儀をするとくるりと回って城の方へ歩き出した。歩きながらさんざん苦労して三重に巻いた侍帯の内から一枚目と二枚目の間に大刀の小尻を収めると、ようやく刀を腰に差しめたほどに酔っていた。もはや頭は回らず、とにかく市三郎から遠ざかることを考えていた。そして今宵は笹之介の家に行くことの約束を。


 市三郎は小さい丘とも思えるほど大きい岩の角まで見送って来て、その岩に坐りながら、谷を下ってゆく葉右衛門を遠く眺めていた。


 日が陰るとずんと冷え込んできた。風が出てきた。この上雪が降りそうだ。下駄の鼻緒の先の皮足袋の親指が寒さで痺れた。よろける足で葉右衛門は山を降りていった。



 笹之介の屋敷にようやく付いた頃は日はとっぷり暮れていた。雪雲に月が出てくれたおかげで道を迷わずにすんだ。

 屋敷の門の前に人影があった。笹之介だった。どれほど待っていたのだろう。


 葉右衛門が泥酔していることはひと目で分かった。笹之介はこわい目をして葉右衛門に近づいてきた。

 前髪が激しくひゅうと吹く寒風に舞う。いつもきちりと櫛っている髷に逃れた髪が揺れた。

「はは・・。笹。いささか今宵は酔った。聞き及んでおろう、長田山でな・・・」

 笹之介は葉右衛門の言葉を聞きもせず、ぐいとその手を取った。葉右衛門は口をつぐんでこれはまずいと思いながらもおとなしく引かれてゆく。


 屋敷に引かれて入り、方形の離れの庭に入ると笹之介は両開きの猿戸に錠を掛けた。鍵は懐に入れて、

「ここで待ち給え」

とだけ言って、一つだけ開けていた雨戸から家に入るとその雨戸も締めてしまった。

 六畳ほどの方形の掃き庭に葉右衛門は閉じ込められたのだ。正面は雨戸を閉めた縁側、横は錠を掛けた猿戸、ほかはしっかりした孟宗竹を組んだ高い塀となっている。


 葉右衛門は酔のせいでゆらゆらと揺れて立ち尽くす。すると肩先に雪の粉がちらほらと落ちてきた。

 葉右衛門は酔と寒さに次第に気分が悪くなってきた。そして時間が経つに連れ足先から伝わる寒さに耐えられなくなった。ぶると震えた時、胃から強い酸が上がってきた。喉が焼けたようにひりついた。声を出そうとしたが、声が嗄れてうまく出ない。


「やれ、今死にそうじゃ!」とようやく言うと、二階から笹之介の小坊主を相手に笑っている声がする。見ると二階の広い窓のもたれから笹之介が顔を出している。

「声がまだ出るとは、いまだお付け差し(口を付けた一つの盃で酒を飲み合うこと)のぬくもりも冷めておられぬよう!」

 葉右衛門は笹之介の怒りのほどを思い知った。今日の市三郎に酒を注がれて呑んだことを笹之介は知っているのだ!町の噂や道場で何があったのかそれも察しているのだろう。それにしても寒さが身に染み、笹之介に全て知られたという恐ろしさに心臓の動悸が激しくなった。


「それは違うのじゃ・・・」

 葉右衛門は血を吐くような声となっていた。

「市三郎殿とは何もない!神明に誓って言う!・・・もう他の若衆の足跡も踏むこともしない」


 吊り行灯を脇の小坊主に持たせたので笹之介の顔が照らし出された。葉右衛門を上から見る目は釣り上がり、目尻に鬼神の怒りと憤りを宿していた。小坊主は恐れ震えていた。

 だが見上げる葉右衛門はそれに見入った。

 なんと美しい若衆よ!そして何故その様に怒る!・・・儂はそなたに命を託した。何をすれば許して貰えるのだ!


 その想いに答えるように笹之介は言った。

「それならばその腰の二振りをこちらに渡し給え」

 そうか、儂の心を疑うのか!何でも言うことを聞いてやるぞ。

 雨戸をそっと開けた小坊主の震える手に大小を渡す。足がゆらりと揺れた。小坊主はひっと言って慌てて大刀と脇差を抱いて雨戸を閉めた。


 二階からまた鶴の如き高く尊い声がした。

「はは、市三郎殿にも腰のものを与えたのかえ?さぞ喜ばせ申し上げたことでしょう!その臭いがまつわり付いている着物と袴なぞ汚い!全て脱ぎ給え!」


 笹之介の怒りを鎮めるには葉右衛門は従うしかなかった。ここで帰ってしまったらもう二度とあの優しい笹之介は戻ってこないのだ。今の笹之介は笹之介ではない!従って鎮めるしかないのだ!


 葉右衛門は着物と袴を脱ぎ、寒さに身を抱きながら上を見ると、さらに、

「ついでにその髪ほどいて懺悔しやすいようにすればよいでしょう!」


 葉右衛門は早く怒りを鎮めて温かい家の中に入り、笹之介と肌を合わせたいと願った。髷の紙縒(こよ)りを震える指で切り、ざんばらの髪となった。

「これへ硯と筆を」

という声にしばらくすると、何か落ちてきた。死人が頭に付ける三角の紙に細紐が付いている。紙には梵字が書いてあった。


「それを額に当てて市三郎殿に可愛がられた葉右衛門様は成仏するのじゃ!」

 この気が違ったような声を聞いて、がたがた震えていた小坊主はついに逃げ出した。外からでも二階からどたどたと逃げる音が聞こえた。


 葉右衛門は膝を突き、ぶるぶると震えながら三角紙を頭に巻き死を予感した。酒の酔は寒さと恐れによって心臓に強烈な打撃を与え始めたのだ。

 すでに葉右衛門は笹之介に許されることしか考えられなかった。強靭な鍛え上げられた肉体もここまでの虐待に耐えられる限界が来ていた。

 葉右衛門は震えながら手を合わせ拝むより他に出来なかった。その声はもはや消え入るようなしわがれとなり、あたかも幽霊のそれのようだった。


(許してたもれ・・・笹・・・)


 二階の笹之介は葉右衛門の状態も気にせず、胸の突起を弄ばれながら喘ぐ市三郎の後ろからその情けを迸らす葉右衛門の姿を思い、その怒りは頂点を迎えていた。小鼓を取り出し、端座して習い覚えた謡曲の「松虫」の中の一節を謳い出した。

「ああら~ありがたのおとぶらいや~」

「な」、と謡い終わる前にもたれ木に顔を出して下を見る。

「あ・・・」


 階下の葉右衛門は立ち上がっていたが、両腕で身を抱き震え、上を見た目は白目を向いてめぜわしくまばたきをして口から泡を吹いている。

 そして膝を突き、どうと浅く積もった雪の上に倒れた。


「葉右衛門様!・・・わたしはなんという・・・!」

 笹之介は階段を落ちるように降り、腰の印籠を引ききって雨戸を開け外に出てみれば、すでに葉右衛門は息絶えていた。


 走り寄る笹之介は葉右衛門にすがり、その青ざめた顔を撫で、冷え切った胸に顔をつけてみれば、付け差しのぬくもりどころか、葉右衛門の笹之介を温めたぬくもりも失せていた。

「葉右衛門様!」

 笹之介は葉右衛門にすがりついたまま泣いた。言葉にならぬ自らの所業の恨み言。こんな我に命を掛けて優しいままに雪のように消えてゆかれた。

 笹之介は体を起こし葉右衛門の口を自らの唾で濡らした。


「葉右衛門様・・・お一人ではいかせませぬ!」

 笹之介は脇差を抜くと胸の合わせを緩め、帯を腹の下に下げてその切っ先を深く突きこんでいった。喉を突かなかったのは葉右衛門の口にその口を合わせ命が尽きるまで愛し合ったときのぬくもりを感じていたかったからに違いない。苦しかったであろう。しかし笹之介の顔は静かに微笑んでいたようだった。


 こうして伊賀の国一の艶なる兄弟と言われた二人は儚い夢となった。


 小坊主に知らされて笹之介を止めようと集まった親類縁者と盟友達は、二人の亡骸を見て驚き悲しんだ。二人の過ごした褥となった部屋を見てみれば、大きな木綿で張った敷布団と大きな掻巻に枕二つ。。着物掛けには香を焚きしめた白小袖が二両。酒肴の用意がしてあり、笹之介が葉右衛門を心待ちに待った様子が伺われた。このことは口から口へと伝えられ、これが衆道に生きた若衆の極みと諸人の涙を誘った。

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