七 狂い桜

 春が近くなっても寒さは一向に引こうとしなかった。だが、ある日、お城の西にある長田山の西蓮寺の桜が狂い咲きをした。春を待ち焦がれていたお城の御家人たちはその話を聞きつけるとここぞとばかり、酒を用意し花見と繰り出した。


 最初は通人達が連歌や謡など楽しんでいたが、中間、下人も押し寄せ、側小姓や若衆もお殿様から許されて花見に加わると、詩心とか盛者必衰の理(ことわ)りの感慨などは消え失せて、若衆達に酒を注がせて大人たちは大騒ぎを始めたのだ。

 まさに桜の狂い咲きが人の心も狂わせたというわけだ。美しい男ノ子に振り袖姿といえば、男だけの集団で場が華やがないということはない。樽に口を付けて酒を飲みだす輩も現れ、若衆に詰め寄って積年の想いを口に出してしまう者も出る。皆に酒が回っているので咎めるものもおらず、冗談のように笑い流してしまう。


 騒ぎが最高潮に達したところで、道場の仲間に誘われて葉右衛門がやってきたのは八ツ半(午後三時)頃だったろうか。師範代ということでみなに歓待され、道場の門弟仲間で作っていた円座の中央に座らされた。門弟たちが立ち上がって大きめの丙子から盃に酒を注ぐ。葉右衛門は上機嫌で笑い飲み始めた。酒にはめっぽう強く、いくら呑んでもその後に笹之介に会いに行くこともたびたびあった。笹之介というと、あまり酒が飲めないので酒宴に同席することは殆どなかった。


「いや、今日はここまでじゃ」

「師範代殿!この桜の狂い咲きはそうそうあることではない。きょうはとことん!」

「あ!師範代殿!さては笹殿と、今宵は?」

 葉右衛門はじろと門弟を睨んで右脇に置いたの大刀を取ろうとした。



 その時、前から盆に大きな徳利を捧げて近づいてくる若衆がいた。皆、はたと笑いを止めその若衆に見入った。

 市三郎だった。朱に浅葱の染めが入った振り袖羽織をまとい、美しい前髪を垂らした匂いたつ若衆姿に皆見とれた。最近、笹之介に勝るのではないかと下馬評が立つ。立ち居振る舞いがこなれて美しく、腰つきも軽やかで、以前に御前会議で粗相をした時から変じて、むしゃぶりつきたくなる若衆じゃとの声もある。


 市三郎は葉右衛門の前につと膝を突くと、

「葉右衛門様、おひとつ」

 いかがともどうぞとも言わない。その目はあの道場での時よりもさらに深く葉右衛門を見つめる。ぞくとするような艶の目であった。


 葉右衛門が断ろうとする間もなく徳利をすと前に出す。

 周りのものはにやにやしながらお互いに顔を見回した。市三郎が笹之介を出し抜いて情けを掛けられた、などとの風評の真実を皆知りたがっていた。


 市三郎の目は、もし葉右衛門が無碍に断ろうとするならばこの場で首掻いて死ぬ覚悟を物語っていた。振り袖から出た艶めかしい右腕の肘下には雪のような白さの包帯が巻いてあった。

(これが最後か!)

 葉右衛門が目で問うた。市三郎はひとひらの笑みを口の端に出し言った。

「はい。これであきらめまする」

 この声は騒ぎ立てているやつがらには聞こえなかった。市三郎の口が動き、葉右衛門にはそれが分かった。


 葉右衛門は胡座の前に置いてあった飲み干したあとの盃を取ろうとすると、

「師範代殿!これにて!」

 横から門弟の一人が湯飲みを差し出した。

 葉右衛門は混乱した意識のうちに差し出された湯飲みを取ってしまった。酒を呑むときはとことん呑む、が道場でのしきたりだ。盃やぐい呑ではなく湯呑で酌み交わすことは普通だった。

 市三郎がそれに酒を並々注いだ。


「かたじけない」

 葉右衛門はそれだけいうとぐいと飲み干した。門弟たちがどうと笑った。

「さすが師範代殿!若衆に好まれ過ぎて羨ましい!」

 ひょうきんな一人が寒いなかで上半身を晒して裸踊りをし始めた。やんややんやとひとりふたりとそれに加わり、また大騒ぎをし始めた。

 その中で市三郎は葉右衛門が飲み干すとまた注いだ。葉右衛門に首を下げた姿勢で注ぐが、その目は上目遣いでまったきの服従を示している。

(今日はよいお日柄で)

 と市三郎の口は動くが笑いや叫びで聞こえるわけもない。それが聞こえたのかは定かではないが、その都度、葉右衛門は、かたじけないとしか言わなかった。


 その様子を桜の陰でじっと見ている者がいた。側小姓仲間の佐内であった。彼は葉右衛門が市三郎の注ぐ酒をいくどか飲み干したのをも届けると、その場を離れ、お城の方に駆けていった。

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