二 願望

 市三郎は二人が葉右衛門の屋敷に入ったあとも、地蔵の陰でじっとしていた。涙があとからあとから流れ落ちる。なんということだろう。はじめて人に恋したと思ったら、崖から転げ落ちるように絶望の縁に巻き込まれた。あきらめよう・・・相手はよりによって笹之介だ。敵う相手ではない。葉右衛門と笹之介の仲は噂にはなっていた。だが、晩稲の市三郎は恋をするまではそのような噂に興味がなかったのだ。


 市三郎はとぼとぼと降り出した小雨のなか、自分の屋敷に帰った。


 それからというもの、市三郎は暗い顔をして奉公に出た。周りも心配をしだし、殿からも病ではないかと言われ、しばし休むことを許された。

 自分の部屋で小机の前に座り、漢籍を読むも全く頭に入ってこない。市三郎は自分が嫌になった。市三郎も家老の子。ゆくゆくは殿のために藩政の一部を担わなくてはならない。これではいけない。


 市三郎は心を許せる若衆達と野駆けや雉狩りに出かけ気を紛らした。ただ、葉右衛門が一目惚れをして笹之介に近づいたのは雉狩りの時だったという。雉をみるたびに市三郎の心には葉右衛門への未練と笹之介のつんとすまして自分を見る目への憎しみがつのっていった。



 北風が伊賀国にも吹き出し、厚めの合わせを着込む季節になった。

 ある夕、小姓仲間の三人が市三郎の部屋に訪れ、食事の後、茶を飲んだり謡を競ったり気のおけぬほどに楽しく語り合った。十二から十四までの少年達で市三郎が最年長だ。まだおなごとの境が来ぬ年頃、しかし同じ道場で武芸を習い、近くの寺で論語や左伝を習っており、武士の心得やご奉公のことなど話題は尽きない。だが、そろそろ「をとこ」への準備が始まりそうな。


「皆様、ところで笹之介殿と葉右衛門様のお仲はどう思う?」

 一番歳下の兵介が切り出した。

「衆道の契をおむすびになったということじゃろ?お殿様の耳にも入っているとか」

 と二番めに若い直次郎。

「残念じゃがお似合いじゃ」

「お主も葉右衛門様に?」

 これは三番めに若い佐内。

 直次郎。

「この国の若衆で葉右衛門様に憧れたことのない者はおらんじゃろ」

「町のおなご達も葉右衛門様と笹之介様が通ると家事を放り出して見に行くとのことじゃ」


 市三郎は黙って憮然と聞いていた。地蔵の陰で葉右衛門と笹之介が深い接吻をしていた光景を思い出し、怒りが湧いた。

「笹之介様もああ見えてさぞや閨はすごいのじゃろうな!」

 市三郎の言葉に皆が驚いて顔を向けた。三人共まだ念者がおらずおなごのように誰がよい、彼が優しい、などと語り合っている。念者がいればここには来ない。それにまだ未精通の少年には、閨での秘め事など夢のようなことである。


「市三郎殿!市三郎殿は念者殿がどのように『弟』と致すのかご存知なのか?」

 兵助が目を見開き好奇の眼差しを送る。

 市三郎はしまったという顔をする。それがみなには最年長の若衆が何かを知っていると感じさせた。


「市三郎様!・・・我らみなまだ『兄』を持っておりません。でも気にかけて頂いている方もあるとか。まだ幼く相手にならぬだろうとお考えとも。ゆえにこれから・・・是非、我らにお教えくだされ!」


 三人は市三郎に詰め寄った。最年長でなければ市三郎も彼らの一人となりえたであろう。しかしここには小姓衆でも最も幼い年頃の四人しかいない。確かに一文は無文の師という言葉もあり、一年長く生きているだけ市三郎には若衆としての矜持も出来始め、周りの目も気になり始めた。

 すでに衆目に注視されることの多い笹之介を見習って、姿勢を正し腰を伸ばし、横顔は健気なようにし、お尻を高くあげるようにして歩くこともし始めた。その姿は衆道の者達からは艶やかに写り色香をただよせている様に見えるのだ。


「一度だけ・・・」

 市三郎は無意識にぼそりと言った。あの葉右衛門を待ち焦がれた地蔵の陰の自分と葉右衛門にいだかれた笹之介が夢想の中で重なっていた。それに自分の顔を「美しい」と言ってくれたことも思い出し、ずっと反芻していたのだ。


「えっ!」

 市三郎を囲む三人は声を上げお互いの顔を見回した。

「どなたとですか?!」

 兵助が叫ぶ。直次郎が、

「しっ!兵助殿、声が高い!これは我らだけのことじゃぞ!」

 市三郎に向き直り、声を下げてしかし力強くおとなう。

「市三郎様!それは・・・どなたでございますか?」

 三人は息を呑んで答えを待つ。

「そ・・・れは・・・」

「それは?」

 左内が自分の馬乗り袴の膝布を握りしめて身を乗り出した。

「は・・・葉右衛門様と・・・」

「ええっ!」

 三人の声は中庭を越えて両親の寝所まで聞こえたであろう。


 佐内が声をひそめて、

「あの伴葉右衛門様ですか・・・?はえもんと呼ばれる方はあの伴様しかいらっしゃりませぬ!」

 市三郎の心に仕舞ったはずの願望が図らずも露見してしまい、市三郎は真っ赤になって困惑した。正座した膝をくるりとみなから外し、自分の言ってしまったことを後悔して手を突いた。言い直したくとも動悸がして呼吸をするのもやっとだった。破裂しそうな胸を抑えた。その仕草は恋に悩むおなごのように儚く弱く見えた。


 三人はしばらく唖然としていたが、左内が口を開いた。

「・・・葉右衛門様はお側小姓の笹之介様の念者とお殿様の耳にも入っているということで御座います。市三郎様にもお手付になったということが知られれば、笹之介様はあのご気性。ただでは済みません。これはここだけのこととしましょう。皆様、如何?」

 佐内は皆の顔を見回し、この場を我が物として言った。

「金打(きんちょう)!」

 三人は相槌を打ち、それぞれの脇差を少し抜き、また戻して鍔音をさせた。そして今日はこれにてと、そそくさと待たしていた下人に玄関で声をかけ、馬に乗って帰っていった。


 市三郎の頭にはあの笹之介達の口づけの場面が繰り返し訪れていた。しかし、三人の側小姓達はそうは取らなかった。しかし今の取り乱した市三郎にはそのような思い至りは出来ず、ただ、願望を無意識に言ってしまった自分の弱さを後悔するだけだった。

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