一 市三郎の恋
伊賀の国主の身の回りの世話をする奥小姓の一人に五十嵐市三郎という少年がいた。
情篤く心優しく下のものにも心を配る美しい若者だった。周りがいうには「市三郎殿は竹のように素直なお方」ということだったが、これは惜しいかな、松竹梅の松の下という意味もあった。
その松というのは山脇笹之介という国内一と言われる若衆がいたからだ。その立ち振舞の姿は優雅でいてすきがない。機転の速さも尋常ではなく季節の機微、主の機嫌の良し悪しを的確に捉えるので、何をするにも国主から一番に声を掛けられ寵愛されていた。寵愛と言うと夜の御伽までする話はよくあるが、殿は笹之介と市三郎に手をつける様子はなかった。
藤堂高虎公のお子でもその豪放なところは受け継がれず、もっぱら面倒を避けるご気性だったからだ。
と、いうのは、笹之介が奉公を始めてから一年、市三郎が奉公を始めて少し経ったある日、市三郎が御前会議で粗相をした。そのとき殿と十数人のご老中連がいるにも関わらず、笹之介が市三郎を叱咤し睨みつけたことがあった。その気配ただならぬ激しさで、一年歳下の市三郎は平伏して震えているしかなかった。筆頭家老がまあまあ、市三郎はまだ慣れぬのであろう、退がって良い、というまで座はしんと静まり張り詰めていたものだ。
このときの記憶が殿の脳裏に焼き付いたのだろうか、この二人の因縁を思い出すとどちらを閨に呼んだとしてもそのお気も冷めてしまうのだろう。
それから笹之介の前では緊張して従う市三郎であった。
数ヶ月たち、秋の長雨の季節になる頃、いつしか殿の剣術指南役の補佐を務める伴葉右衛門(ばんのはえもん)という二十歳の藩士に恋をしていた。葉右衛門は若くして諸刃一刀流の目録を得て、武芸百般に通じているともっぱらの噂であった。
市三郎が恋に陥ってしまったのは葉右衛門が師範代を務める城内の一刀流の道場であった。
道場には側小姓のみが稽古をする時間が取られていた。若干、十四、五の前髪立ちの小姓達が揃って居並ぶ姿は誰が見ても、美しい花や鳥を見るような風情だ。腕を振り上げにくい振り袖を襷で括っている者もあり、稽古に熱心なものは丸袖に白くすべやかな両腕を出している者もいる。稽古のときはさすがに袴は馬乗り袴で厚着はしていない。
ある時、稽古を取り仕切っている師範代に呼ばれて、市三郎と笹之介は組太刀をすることとなった。組太刀は先に攻めて相手に勝口(かちくち)を修練させる「打太刀(うちだち)」と、打太刀の攻めを受けて返し勝つ「使太刀(しだち)」に分かれて行う。未熟なうちは使太刀だけを行い、熟練してくれば交代する。
市三郎が使太刀にて笹之介の打ち込みをさばくのだが、少し背が高く腕に自信のある笹之介は、木刀を容赦なく打ってくる。稽古に熱が乗って来て、笹之介が上段から打ってくる木刀をかわすのに一瞬遅れた。木刀が市三郎の頬を軽く打ってしまった。まだ幼い少年の意地の張り合いで、ままあることだ。だが剣術は喧嘩ではない。
「笹之介!馬鹿者!相手を傷つけるとは稽古ではないぞ!」
二人の稽古を見ていた葉右衛門が笹之介に怒鳴った。
「市三郎殿、大丈夫か?」
葉右衛門が心配そうに膝をついて頬を抑える市三郎に歩み寄った。そしてゆっくりとその手をどけた。頬に赤い筋が入り、ひりと痛む。
「いえ・・・大丈夫です」
市三郎はどぎまぎして言った。間近で見る葉右衛門はすでに熟した男となった威厳があった。市三郎よりも一回り大きく、首と顎ががっしりとしていて、その視線が眩しかった。笹之介は憮然とそれを見ている。
「今日はもう上がられよ。だいぶ腕が上がったな!殿の警護は大事なお役目!励まれよ」
葉右衛門は市三郎の肩を抱いて立たせた。市三郎は思わずよろと崩れそうになるが、葉右衛門の腕ががっしりと支えた。
挨拶もとりあえず、市三郎はどくんどくんと高鳴る胸を抑えて足早に支度部屋に退散した。息が苦しい。
市三郎は誰もいない支度部屋に入るとぺたんと崩れた。自分がついに念者を持つ予感がしたのだ。
市三郎は普段着の小袖に着替えると、道場を出て葉右衛門の屋敷に通じる道に早足で入っていった。誰も居ないことを確かめると、屋敷の手前にある松林の地蔵の後ろに隠れ、石組みに腰掛けて待った。
自分が何をしているのか、分からなかった。ただ、ここに隠れ、通る葉右衛門を見たかった。葉右衛門が来たときのことを想像すると、心臓が波打ち、呼吸が激しくなる。ここで葉右衛門様を待ち、来たら駆け出して・・・何を言うのだろう?
殿のお手つきが幸運にもない小姓は、家中(かちゅう)に念者を持っているものが多い。
先代の高虎様は家臣を大切にされるお人で、自分が死んだとき殉死を希望するものに名乗りをあげさせた。七十余人が手をあげ、ご先代はその者達に死んだ気で今の殿に使えよと厳命された。一人の殉死も許さなかった。今の殿は気弱だが、やはり家臣を大切にされている。それに連れて、他の国から聞こえるように、国主が側小姓に片端から手を出すような真似はされない。だから家中での小姓達の念契はこの国では常道を外さない限り、比較的自由なのだ。
葉右衛門の前で何を言って良いのか、市三郎は胸の中で言葉を繰り返していた。
(だから・・・私の・・・『兄』になってください!・・・と・・・)
一種の契約である念者、念友の契(ちぎり)は普通はどちらかの親か家来が仲介になり、お互いの気持をまず確認するのだが、そんなまどろこしいことをするなどごめんだ。直接、自分から告げようという想いに、市三郎の心は乱れきっていた。
するとかわたれ時の松林の白い闇に誰か来る様子。はっと市三郎は地蔵の陰に身を隠した。それは一人の葉右衛門はなく、もうひとりの連れがいたからだ。
一人は大きく葉右衛門に違いない。そして六尺豊かな葉右衛門の目の辺りまでの背丈のもうひとりは・・・高らかな声音、言葉明らかな透き通った声は、笹之介!
笹之介ばかりの声が冗談を言い、葉右衛門の低い笑いがあとに続く。二人は笑いさざめきながら近づいてきた。
笹之介が急に笑いをひそめ、責めるように言う。
「兄様、先程はひどうございます」
葉右衛門は小首を傾げて言った。
「・・・なにがじゃ?」
「道場で私のみ怒られました!」
葉右衛門は低く籠もった声で言葉を数えるように答えた。
「あなたは打太刀にて、使太刀の力を引き出し教導する立場。あなたにはその力がすでにある。あなたが悪いのだ」
「でも市三郎殿にはあのように優しく!」
「当たり前ではないか!あの美しい顔に傷が付けばなんとする」
笹之介は怒りをこめてやり返す。
「では、市三郎殿に鞍替えすればよろしいでしょう!私はもうここでお暇(いとま)します!」
踵を返す笹之介の手を慌てて葉右衛門は握った。
「あ・・・痛」
「す・・・すまん」
笹之介はくるりと軽やかにまわり葉右衛門の胸に入った。紫の振り袖の羽織が舞った。念者を持つ若衆の艶やかな姿であった。
「葉右衛門様・・・優しい方。だから笹之介はいつも心配が耐えません!」
「笹之介!儂の心には常にお前という満開の桜が生えておるのだ!」
「・・・まだ満開ではありません。蕾ですよ・・・」
二人はお互いの口を深くねっとりと吸いあった。
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