#3 井高野 弘司 ―発生― ①


 息子である颯太が、衝動的に家を出たことに対し、最も気に病んでいたのは妻である花織かおりであった。

 元々、花織は颯太に対して甘い部分があったが、それを今咎めても仕方がないことだろう。鼻から大きく息を吐いて、弘司こうじは妻の元へと寄り添う。


「しばらくすれば帰ってくる。どうせ、行くアテなどない」

「でも、こんな夜中に出歩くなんて……」

「もう子供じゃないんだ。放っておけばいい。もう寝よう」


 促すようにして、弘司は花織を寝室まで歩かせた。心配性な性格は、子育てにも見事に反映されている。

 未だ、自分の息子が手の掛かる『子供』のように見えているのだろう。


 弘司が息子くらいの齢の時、平気で夜遊びをしていたものだが、親は何一つ心配していなかった。

 何かがあれば、それはもう自己責任であるし、子をいつまでも見守るような真似は恥ずかしい、とさえ思っていたのだろう。男児ならば尚更である。


 従って弘司もその考え方なのだが、妻はそうではない。自分と颯太が口論している時、ずっとそわそわと口を挟みたがっていた。

 事前に『一切口を出すな』と釘を差しておいたおかげで、何も言ってくることは無かったが、それがなければ颯太の味方をしていただろう。


「朝になっても帰ってこなかったら、どうしたらいいの?」

「どうもしない。ほら、電気消すぞ」


 二人の寝室はダブルベッドになっている。先に妻が横になり、電気を消して弘司も身体を休めた。

 明日も仕事がある――颯太のことにばかり気を取られているわけにもいかない。


(昔は――ああではなかったのだが)


 それでも、瞳を閉じれば、浮かぶのは颯太のことばかりであるのは、どういうことなのだろうか。

 頭では処理をしているつもりでも、結局は弘司も感情を抑えられていないのかもしれない。

 まだ喉仏も出ておらず、無邪気に笑う幼い颯太の笑顔が、脳裏からずるりと剥がれ落ちて、瞼の裏側へと張り付く。腕で自分の顔を覆っても、その笑顔は消えない。


「私が、間違ってたのかしら」


 ぼそりと、花織が懺悔するように漏らした。


「……何がだ」

「颯太の……育て方」

「それを、指摘してどうする? 間違ってたから、じゃあお前が責任を取るのか?」

「厳しいのね……」

「お前が、優しすぎるんだ」


 だがそれを、間違っているとは言いたくない。他ならぬその優しさに惹かれたからこそ、今こうして二人は寝室を共にしているのだから。

 それでも、弘司は妻を肯定する言葉が出て来なかった。


 お前が甘やかすから――颯太はああなってしまった。


 そうやって、妻を面罵する想像をした。しかし、それは違うだろうと、弘司の中にある冷静な部分が首を振る。

 子育ては、夫婦で行うものだ。花織一人でやるものではない。


 まだ颯太が幼い頃、弘司は仕事に忙しく、妻に育児を任せっきりだったことはある。だが、颯太が小学校に上がってからくらいは、出来るだけ妻に出来ない部分――叱責や叱咤というものを、自分は担当してきたつもりである。

 ならば颯太が曲がってしまった責任は、どちらかではなく、共に負うべきなのだ――


「……ごめんなさい」

「謝る必要はない」


 どうしてそのような言い方しか出来ないのか。弘司は自身が現在進行系で妻を傷付けていることを理解しながらも、言葉が浮かばなかった。

 もし、己の考えが配偶者へ一切合切伝わるような発明品があれば、迷わず弘司は購入するだろう。考えただけで、便利だ。


 そこから、妻が何かを言うことはなかった。寝息なのかどうか判然としない、か細い呼吸音だけが、寝室の中をたゆたうように舞っている。

 弘司はずっと、颯太のことを考えていた。

 颯太のことを考えるな、ということを考え、そして巡り巡って颯太のことを考えていた。


 ――颯太は聡明な子だった。

 親心も加味した上で、弘司は世間に向けてそう断言出来る。

 物分りが良く、心優しく、何よりも他人のことを考えて行動するような子だった。

 誰かを傷付けるようなことはせず、誰かに寄り添える温もりを持った子であった。

 それがいつからだろうか。考え方が卑屈になり、何に対しても斜に構え、目に映るもの全てを否定してしまうようになったのは。

 親の、家族の言葉すら届かず、誰のものかも分からないインターネットの言葉の方を信じるようになってしまったのは。

 何よりも、実の子に対し、理解が出来ないと思うようになってしまったのは。


 考えても答えは出ない。或いは、出そうと思っていない。

 どれだけ思い悩んだところで、颯太がすぐに変わるわけではない。次に息子に会った時、果たして自分はどのような言葉を投げるべきなのだろうか。

 怒りを露わにするのか、すまなかったと一言謝るべきなのか。


 自身が間違っていると、しかし弘司は思えないのも事実であった。

 主観ではなく、客観で考えても、誰もが弘司ではなく颯太が間違っていると断言するはずである。

 ならば、どうやってその間違いを正せば良いのか。

 言葉が届かないのならば、どうすれば。


 子育てに教科書は無い。あるとするならば、それは己の境遇をなぞることだけだ。

 自分が子供だった時、親はどのような言葉を投げていたのか。どのような表情をしていたのか。どのようなことを考えていたのか。

 あやふやな経験則に頼る以外、参照するものがない。

 子育て本が口やかましく方法論を立て並べるのは、子供が柔らかな、文字通り『子供』の時分のみだ。

 では、その『子供』が高校生になったら? 高校を卒業したら? 成人したら?


 ……何てことはない。そこまで子供が成長したら、後は最早手探りなのだ。

 誰もがそこに、明確な答えなど持っていないのだ。


 子育ては、最終的には結果論だという言葉を、弘司は聞いたことがある。

 どれだけ間違った教育をしようと、その子供が立派に社会人の努めを果たし、国民の義務を果たし、そして命を果たしたのならば、その子育てとは全て肯定される。

 一方で、どれだけ正しいと言われる教育を行ったところで、義務を果たさず、社会に羽ばたけず、誰かに迷惑を掛けてしまうようになってしまえば、その子育ては全て間違っていたのだ。


 この国が結果主義なのは今に始まったことではないが、子育てにもそれが適用されている。

 それに照らし合わせて考えれば――弘司の子育ては今現在まさに間違っており、このままでは望むべく結果など到底に颯太には現れない、ということである。


(だから……どうにかしようと……)


 子に対する親が負う責任。それは、いつまで負うべきものなのだろうか――少しだけまどろみ始めた中で、弘司がぼんやりとそれに身を任せた時、暗い寝室を電子音が切り裂いた。


「電話……?」


 携帯電話ではなく、自宅の固定電話が鳴り響いている。

 こんな夜中にイタズラ電話……とは考え辛い。そもそも、時代は移ろい、固定電話の役目も終わりかけている。

 もっぱら、電話と言えば携帯の方を指すようになった現代で、固定電話が夜中に鳴る意味を弘司は察する。


「……嫌な予感がする」

「誰からかしら……?」


 妻も起きたらしく、不安げな声を出す。弘司はすぐに立ち上がり、部屋の電気を点けた。

 親機はリビングに置いてあるが、寝室には子機が置いてある。

 子機を手に取ると、ナンバーディスプレイには知らない番号が表示されていた。

 ただ、怪しいと思えるような番号ではなく、市外局番がこの辺りのものだったので、息を呑んで通話ボタンを弘司は押した。


「……もしもし」

『あー、夜分遅くに申し訳ありません。井高野さんのお宅で間違いないですかね?』

「そうですが。どちら様ですか」

『すいません、私、丘暮おかくれ警察署の田澤と申します。今お電話されているのは、えー、井高野 颯太さんのご家族さんですか?』


 どくん、と心臓が跳ね上がる。

 警察署からの電話、そして颯太という名前が挙がった。

 弘司の脳裏に、次々と映像が浮かんでは消える。颯太が何かをした――窃盗や器物破損ならばまだいい。暴行や殺人のような、重犯罪ならば。

 罪を犯せるほど、肝の据わった性格ではないとはいえ、あの時の颯太は荒れていた。何をしでかすのかなど分からない。

 ぶわり、と寝巻きを湿らせる程の汗が滲む。電話先の田澤という警察官は、事務的に話を続けている。


『声からすると、お父様ですかね?』

「え……ええ。颯太の父です」

『なるほど分かりました。今お時間大丈夫ですか?』

「はい。颯太が何か……?」

『先程なんですけども、颯太さんの方が交通事故に遭われまして。可能であるのなら、今から家族の方に現場へお越し頂きたいのですが』

「そ、颯太が!?」


 自分の考えが間違っていたと、弘司はすぐに改めることになった。

 そうだ。警察から連絡が来て、颯太が罪を犯したと考えるのは早合点だ。

 颯太が巻き込まれた、という可能性の方が高いに決まっているではないか。

 弘司はやや安堵しながらも、状況は決して良い色をしていない。心配そうな顔をする妻を横目に見つつ、努めて冷静に田澤へと訊ねた。


「その……颯太は無事なのですか? 怪我は? 意識はあるのですか?」

『ええ、その辺りも含めてですね、一旦お父様とお話出来ればと思いまして』

「まさか、颯太は――」

『落ち着いて下さい。息子さんの安否については、今現在確認中です。あまり電話越しで言えることでもないので……』

「ば、場所は! すぐに向かいます!」


 どういうことだ。颯太は、一体どういう状態になっているんだ。

 聞き出したかった弘司であったが、恐らくこの田澤は口を割らないだろう。

 向こうが必要としているのはこちらの情報提供ではなく、事故の被害者の身内を呼び出すことである。その時点で、颯太は今現在口がきけない状態にあることが、何となくだが分かった。


 事故で身内を亡くした、会社の部下の話を弘司は以前聞いたことがある。

 初めてその連絡を警察から受けた時、決して警察は被害者が亡くなったとは言わないそうだ。

 その理由は後々の遺族とのトラブルを避ける為だとも、円滑に処理を進める為だとも言われているが、確かなことなど分からない。

 事故現場の場所を聞いた弘司は、子機を放り投げ、すぐに寝巻きから着替える。


「ねえ! 颯太が、颯太がどうかしたの?」

「交通事故に遭ったそうだ。警察から呼び出しを受けた。すぐに行ってくる」

「そんな……! 颯太はどうなったの!?」

「分からない。意識は、無いのかもしれない」


 不確かな情報で妻を不安にさせるのは憚られた。が、下手な慰めをここで言うよりかは、最悪の状況を妻にも想定して欲しかった。

 弘司の発言から真意を察したのか、花織は言葉を失い、見る見る内に青褪めていく。


「……またすぐ連絡する」


 足早に、弘司は家を発った。

 事故現場は自宅からそう遠くない。最寄りのコンビニ近くとのことである。なるほど、颯太が行きそうなところだった。

 息切れも厭わないような疾走を以って、弘司は真夜中を駆ける――

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