後編
そして日が開け、大会の幕が上がる。ポケットにお守りを入れてフィールドに立った俺は、観客席に目を向け莉子の姿を探した。
……見つけた。健太、祐一、稔、千夏、そして俺の姉も一緒である。男子小学生・高橋たかしとしてとはいえ、あの姉が俺の応援に来ているというのは不思議な気分だ。
対戦校はここまで勝ち上がってきたチームとはいえ第一シードの白亜学園が苦戦するほどの相手ではなく、大幅な点差で難なく勝利した。
その後も俺達は次々と勝ち進み、見事全国への切符を手にした。俺は試合の度に、観客席にいる莉子を探すのが癖になっていた。毎回たかしこと俺の姉も一緒にいるのが少々不愉快だが、莉子が応援してくれていると思うと、不思議といつも以上の力を出せる気がした。
今の俺ならば全国制覇まで行ける。そう、思っていたのだ。
満を持してやってきた全国大会。地元を遠く離れた会場で、日本各地から集められた選りすぐりの猛者達との激闘。サッカー少年としては心踊らないはずがないこの舞台に、今俺は立っていた。
白亜学園はシード校であるため、二回戦からの出場になる。対戦校は今年初めて全国出場となる無名校。事前の調査でも、俺達の全国制覇への障害にはなり得ないという評価だった。
俺は今回もいつものように観客席の莉子を探したが、流石にこれだけ大きな会場では見つける難易度も半端じゃなく、とうとう見つけられないまま試合開始のホイッスルが鳴ってしまった。
まずは開始早々大門先輩が一点先取。このまま一気に攻めていこうとするも相手のディフェンスが粘り、一点止まりのまま前半終了。それでもこのまま勝てると、誰もが思っていた。
だが後半、相手チームはど根性でパスを繋げ、一点を取り返す。試合は同点に戻され、俺達に焦りが生まれた。
今はとにかく、再び点差をつけなければならない。エースストライカーたる俺に課せられた責任は重い。
ポケットの中のお守りを握り締め、俺には自分を奮い立たせる。己の責務を果たすため、俺は全力で走った。
ゴール前、俺にボールが渡される。今だとばかりに、俺は渾身のボレーシュートを放つ。
だが、相手のキーパーは捨て身のキャッチでゴールを死守。俺のシュートは得点にはならなかった。
そして試合終了間際、相手の放ったシュートが俺達のゴールに突き刺さり……俺達の全国大会は、一度も勝利することなく終わりを告げた。
観客席の莉子を見つけられなかったからだとか、姉に散々付き合わされて練習時間がとれなかったからだとか言い訳を考えればいくらでもできる。だが、俺がこの試合で点取り屋としての職務を十分に果たせなかったというのは確かな事実であった。
悔しさと失意を胸に、俺は故郷に帰ってきた。自宅の扉を開けた時、玄関で待っていたのは姉だった。
「おかえり紀之。残念だったわね」
姉はそれだけ言って、俺の返事も待たず自室へ戻っていった。
いっそのこと初戦敗退だ何だと思いっきり馬鹿にしてくれた方がまだ気が楽だったのだが、こんな微妙な反応をされてはあの姉に同情されているようで気持ちが悪い。
明日河川敷で、莉子や俺を尊敬する小学生達にどう報告すればよいのか。考えただけで胃が痛い。
そんなこんなで、翌日の午後が来てしまったのである。
例によって男装した姉と二人で、俺は河川敷にやってきた。
「おーい紀之さーん」
手を振る小学生達に、俺は小さく手を振り返す。莉子のお弁当を食べた日以来、久々の河川敷である。
「全国大会テレビで見たよ。惜しかったなー紀之さん」
早速、健太からその話を切り出された。
「いや、結局勝てなかったのは俺の力不足が原因だ。惜しかったなんて話で片付けられることじゃないよ」
「あの、紀之様……」
莉子が、おどおどしながら話しかけてくる。
「私、全国大会は会場が遠いから見に行っちゃ駄目って言われて……でも、テレビの前で一生懸命応援してました」
「そっか、応援ありがとな」
俺は莉子の頭をそっと撫でる。そりゃあ探しても見つからないわけである。
「ねえ、紀之さん結構落ち込んでるみたいだし、この話題はやめにしておいた方がよくない?」
稔が莉子に言う。
「ご、ごめんなさい紀之様! 私、紀之様の気持ちも考えず……」
「い、いや、別にいいよ。そんなに気にすることないから」
涙目になる莉子に、俺は精一杯のフォローを返した。
「最初に話題振ったの俺だし……ごめん紀之さん」
健太までも謝ってくる。小学生に同情されるというのは、なかなか辛いものである。
「あ、ところで紀之さん、聞いてくれよ!」
祐一が話題を変えようと思ったのか、急に別の話を始める。
「実は俺、好きな人できたんだ!」
「へー、そうなんだ」
心底どうでもいい話だったので、俺は適当に答える。
「あっ紀之様、お茶飲みますか」
莉子が気を遣って、俺にお茶を渡してくる。そのお茶を口に含んだ瞬間。
「なんとそれがー、紀之さんのお姉さんなんだ!」
俺は盛大にお茶を吹き出した。直後、姉の方を見る。
「いやー、僕も驚いたよ。まさか祐一が志穂さんに惚れちゃうなんてね」
白々しく言う姉の手を引き、俺はトイレ裏へと走った。
「おいどういうことだ。どうして祐一が俺の姉のことを知っている? 俺がいない間に一体何があった!?」
「あー、実はたまたま女の姿の時に町で彼ら三人に会っちゃって、たかしに似てるって言われたから仕方なく紀之の姉だって説明したんだよ。ほら、僕達従兄弟って設定なわけだから、似てることにも納得してもらえるだろ? あまりにも志穂さんが美人すぎたばかりに、祐一はすっかり惚れてしまったみたいだけど……」
怒涛の剣幕で捲し立てる俺に、姉はすらすらと答えた。
「話は大体わかった。それで、お前は一体どうするつもりなんだ、この状況」
「どうもしやしないよ。美人で年上のお姉さんにベタ惚れな男子小学生とか凄く可愛いし、このまま暫く観察してるさ」
姉の返した実にらしい答えに、俺は呆れた。
「二人とも何話してるの?」
俺達の行動を不審に思ったのか、稔がやってきた。
「あー、いや、何でもないんだ、はは……」
流石にこれ以上こっちにいては怪しまれると、俺達は莉子達のところへ戻る。
「なあなあ紀之さん、今度お姉さん紹介してくれよ! 本当いいよなーあのお姉さん。美人だし髪サラサラだし、いかにも清楚でお淑やかって感じでさ」
俺は眉をひくつかせながら、姉の方を見る。姉はニヤニヤ笑っていた。こいつの一体どこが清楚でお淑やかなのか。
祐一も俺の学校のファン達同様、姉の見た目にすっかり騙されているようである。理想と現実のギャップを知った時、果たして彼はどれほど失望するだろうか。
「笹原なんかが相手にされるわけないでしょー、相手高校生よ」
千夏が祐一を馬鹿にする。
「天野だって高校生の彼氏作ってんじゃねーか。どうして天野はよくて俺は駄目なんだよー」
「莉子は可愛いからいいの。笹原はエロくてキモいから駄目」
「なんだとー! なあなあ紀之さん、こいつ見返してやりたいからお姉さん紹介してくれよ、頼む!」
「いやー、俺もお前じゃ難しいと思うぞ、多分。というかあいつ、胸ペッタンコだぞ。いいのか?」
俺は莉子に聞こえないよう、祐一の耳元で言う。
「別にいいよ、俺巨乳も貧乳も好きだから」
あんな貧乳どころか無乳のどこがいいのか、俺には全く理解できなかった。
ふと姉の方を見ると、こっちを睨んできている。これは帰ったら殴られるな。大会も終わったし、容赦はしてもらえないだろう。
「……というかお前ら、いい加減サッカーの練習始めるぞ」
この話を終わりにしたいので、俺は強引に切り上げる。
久々に男子三人組や姉とやるサッカーは、なんとも気楽で楽しかった。俺がいない間にもかなり練習していたようで、皆なかなか上達していた。特に姉は、大会で当たった下手な弱小校の選手よりずっと上手いと感じたほどである。
そういえば俺は小さかった頃、よく姉と二人でサッカーをしていた。それは厳密に言えばサッカーとは言えないようなただボールを蹴ってるだけの遊びであったが、今こうして再び姉とサッカーをしているというのは何とも不思議な感覚である。
たかしという男は、友達としては案外悪くない奴なのだ。気さくで友達思いで、あの姉と同一人物とはとても思えない。尤もそれは姉がそういう人物を演じているだけで、本当の性格はどうしようもない屑だということはわかっている。
だがそれでも、あれが姉だということをつい忘れてしまいそうになるほど、俺はたかしとやるサッカーを楽しく感じていたのだ。
休憩時間、俺は莉子と二人でベンチに腰掛けていた。莉子は上目遣いでこちらを見てくる。とても可愛い。
「紀之様、今日もかっこよかったです」
「ああ、どうも」
莉子からお茶を受け取って俺は一息つく。莉子は鞄から可愛くラッピングされた小さな袋を取り出した。
「今日はクッキーを焼いてきたんです。よかったらどうぞ」
俺は袋を開けて、ハートや星に型抜きされたクッキーを美味しく頂く。流石莉子、お菓子を作らせても一級品だ。
彼女とは本当によいものである。試合に敗れ傷ついた心を癒してくれる。硬派ぶって彼女なんかいらねーと息巻いていたあの頃の俺を殴りたい。
それにしても……俺は莉子のことで、初めて会った時からずっと気になっていたことがあった。
「なあ、ところで莉子」
「何ですか紀之様」
「ずっと気になってたんだけど……どうして俺のこと様付けするんだ?」
「えっと……紀之様は、私にとって王子様みたいな人ですから」
聞いてみて帰ってきた答えは、なんともメルヘンチックなものだった。そういう風に教育されてるお嬢様なのか? 等と考えていたのだが、まさかそんな理由だったとは。
「お、おう……何か、その、正直恥ずかしいからやめてほしいなーと思うんだが……」
「そ、そうですか? じゃあ……紀之さん」
「うん、それでいいんだ。ありがとう」
すんなりとやめてくれたようでよかった。女子小学生に様付けさせてる男と見られるのは流石に辛いのである。
「なあ莉子、せっかくだし、近いうちに二人でどこかに行かないか。付き合い始めてからすぐに大会が始まっちゃったし、まだちゃんとしたデートとか一度もしてないだろ?」
「は、はい! 行きます、絶対行きます!」
大喜びする莉子に、俺もほっこり。
「どこか行きたいところはあるか?」
「あ、いえ、紀之様……あっ、紀之さんの行きたいところでいいです」
「そうか? じゃあ、プールとかどうだろう」
夏だしプールでいいだろと思い適当に答えた後、俺ははっと気がつく。どうやら俺は、無意識のうちにスケベ心を働かせしまっていたようである。プールといえば当然、莉子が水着になるということではないか。エロい男だと思われやしないかと、不安になってくる。いや、実際俺はエロい男なのだが。
「プールですね、わかりました。楽しみにしてます!」
危惧していたような反応はされず、俺はほっとした。純粋な子でよかった。
「日程はどうする? 俺は暫く部活は無いから、いつでも空いてるが」
「えっと、明日……いえ、明後日がいいです」
「そうか、明後日だな。丁度天気も晴れるみたいだ」
俺は携帯を取り出し、天気予報をチェックしながら言った。
「あ、そうだ。莉子の連絡先を教えてくれないか。そういえばまだ聞いてなかったからさ」
「あの……すみません。私、携帯持っていなくて……」
「そうなのか?」
意外な事実に、俺は驚いた。男子三人組は皆持っているし、今時小六にもなって携帯を持っていないというのはなかなか珍しいのではないだろうか。
「あの……私の家はあまりお金が無いので……買ってもらえないんです」
「そっか。ごめんな、悪いこと聞いちゃって」
「いえそんな、紀之さんが謝るようなことじゃないです」
なんとなくお嬢様かななんて思っていたが、むしろその逆だったようである。ダブルデートの時に莉子から五百円も貰ってしまったことが凄く悪い気がした。
「んと、それじゃあ、明後日の午後一時にこの河川敷で待ち合わせってことでいいかな」
「あ、えっと……もう一時間早くできませんか。私、お弁当作ってきますから……」
「え? いや、悪いよ俺の分まで作ってもらっちゃって。ちゃんと自分で食べてくるから、気にしなくてもいいよ」
そう言った途端、突然後ろから脳天にチョップを喰らわされた。振り返ってみると、攻撃の主は例によって姉であった。
「わかってないなあ紀之。天野さんは一緒に食べたがってるんだよ。そういうとこも含めてデートなんだよ」
「流石たかし君! 乙女心がわかってるぅ」
持ち上げ要員の千夏を引き連れて、姉はわざわざ俺に説教しに来たのである。
というか俺は莉子の経済事情を考慮してお断りしたのだが。
「ああわかったよ、十二時だな」
姉に言われては仕方が無いので、俺は莉子の頼みに応じることにした。
休憩を終えてまたサッカーをした後、解散の時間。だが突然、俺は健太から呼び出しを受けた。
「紀之さん、ちょっと相談に乗って欲しいんだけど……いいかな?」
「どうした健太、受験のことか?」
健太に連れられて、俺は川辺に腰掛ける。
「いや、それじゃなくて……実は俺、その……好きな人ができたんだ」
祐一に続いてお前もか。正直他人の恋路とか興味無いのだが。
「俺さ、最近、佐々木とたかしが仲良くしてるとこ見てると、急に胸が苦しくなってきて……」
なるほど相手は佐々木千夏か。以前あんなにディスっていたのに、何という掌返しだろうか。おっと、これは俺も莉子に似たようなことをしているから言わないでおこう。
「それで俺、気付いたんだ。俺……たかしのことが好きなんだって」
何も口に入れていないにも関わらず、俺は全力で吹き出した。
「は? え? たかし?」
俺は咽ながら聞き返す。この流れでまさかそっちだとは、予想できるはずが無かった。
「うん、ほら、たかしって何かちょっと女っぽい顔してるだろ? それが何故だかすげー可愛く見えてきて……気付いたら、好きになってたんだ。どうしよう、俺ってホモかもしれないって、思っちゃって……」
衝撃的過ぎるカミングアウトに、俺は言葉を失った。
「でも佐々木もたかしを好きみたいだし……やっぱりたかしも、ホモなんかより女子の方がいいに決まってるよな? それに俺、どうして自分がホモになったのか全然わからないんだ。今までは普通に女子のことが好きだったはずだし、たかし以外の男を見ても全然エロいとか恋愛的に好きだとか感じないし。俺もう自分がどうしたらいいかわからなくなって……」
確かにそれは辛い悩みだろう。たかしは女っぽい顔どころか実は女なのだが、果たしてここで彼にそのことを伝えてよいものか。
「なあ健太、お前はたかしに告白する気はあるのか?」
「あるわけないだろ! 振られるのはわかってるし、ホモだってバレたら気持ち悪がられる! たかしだけじゃなく、祐一や稔まで友達をやめちゃうかもしれない……俺、そんなの絶対嫌だ!」
必死に訴える健太であったが、正直俺にはその解決策が全く浮かばない。たかしが女であることを教えてやれば自分がホモかもしれないという悩みからは解放されるだろう。だがそうすれば俺が姉に何をされるかわからないし、彼の恐れている「今ある友情や関係性が壊れる」という点に関しては何も解決していない。はっきし言って、俺にはもうお手上げなのである。
「健太……まあ、なんとかなるさ。とりあえず告白する気がないのなら、現状維持でいいだろ。これまで通り友達として接してればいい」
明らかな逃げの一手であったが、今はこう言うしかなかった。
自宅に帰ると、案の定ペッタンコ呼ばわりを理由に姉に殴られた。
「おい姉貴、お前健太のあの件……気付いてるのか?」
とりあえず聞いておくべきだと判断し、姉に尋ねる。
「ああ、健太がたかしのこと好きって話? 勿論気付いてるわよ。チラチラこっち見てくるもの。これも祐一のと一緒で、可愛いからほっといてるわ」
「それでいいのかお前」
「いいに決まってるでしょ。あんたの意見なんて聞く気は無いんだから、余計なことしないでくれる?」
姉にきついことを言われ、俺はすっこむ。
祐一は俺の姉・志穂を好きで、健太はたかしを好きで自分をホモだと思っている。そして千夏はたかしが女だと知らずに好きでいる。俺の姉は学校内にあれだけファンを抱えているにも関わらず、小学生に対してもその無駄なカリスマを発揮させモテまくっている。一体何なんだろうこの女は。これで性格さえよければ本当に完璧だというのに。
さて、こいつのことはもうどうでもいい。そんなことより莉子とのプールデートである。莉子が一体どんな水着を着てくるのか、楽しみで仕方が無い。今夜も明日の夜も、悶々として眠れなさそうである。
そして待望の明後日が来た。天気は快晴。絶好のプール日和である。
俺は十二時少し前に河川敷に到着。莉子は既に来て待っていた。
木陰のベンチで、俺達は莉子の持ってきた弁当を広げる。今回もなかなか豪華な弁当を作ってきてくれたようで、嬉しい反面俺が彼女の家の貴重な食料を貪っているのではないかと不安になってくる。
「あの……お口に合いませんでしたか?」
俺の不安そうな顔を見て、莉子が尋ねる。
「あ、いや、別にそういうことじゃないんだ。美味しいよ」
莉子を心配させてはならないと、俺は笑ってみせた。
「なあ、莉子は普段から料理をしてるのか? 小学生にしては随分と上手いけど」
「あ、はい。うちは家族が皆お仕事で家にいないことが多いので、平日の夕食は大抵自分で作ってるんです」
「そうだったのか。一人でいるのは寂しくないのか?」
「大丈夫です。そういう時は紀之さんのことを考えてますから」
「そ、そうか」
自信満々に言う莉子に、俺は苦笑い。
「あの、紀之さんの好きな食べ物って、何ですか?」
弁当を完食したところで、莉子が俺に尋ねてきた。
「んー、ハンバーグかな」
「わかりました、今度作ってきます」
「ああ、ありがとう」
しまった、と思った。この状況で好きな食べ物と言われたら、当然作ってきて欲しいものを聞かれているわけである。おにぎりとでも答えておくべきだったかと、少し後悔した。勿論莉子の作ったハンバーグを食べてみたいとは思うのだが。
昼食を終えると、俺達はプールへと向かった。
俺は先に着替えを済ませ、更衣室を出たところで待つ。いよいよ莉子の水着が見られると思うと、今から胸が高鳴る。
あのおっぱいに似合う水着といったら、やはりビキニだろうか。だが莉子は小学生である。まだビキニは早いとも感じる。それにあの性格を考えると、少々残念であるが露出度は控えめな方がそれっぽいか。
小学生らしい水着といったらやはりスクール水着だろう。家庭の事情を考えるとそれしか水着を持っていない可能性も十分に考えられる。
今か今かと待ち望む中、いよいよ莉子がもじもじと恥ずかしそうにしながら更衣室から出てきた。
その格好はといえば……ファスナーをしっかり閉めてパーカーを着ていた。ちょっと肩透かしを喰らったが、勿論その下にはちゃんとした水着を着ているのだろう。
パーカーの下から股の部分が僅かに覗かせており、その色はピンクである。少なくともスクール水着ではなさそうだ。スカートやパレオの類は着用していないようである。
さあ、早くパーカーを脱いで全身を見せてくれと、俺は手に汗を握る。
莉子は俺の目線が股の辺りにきていることに気付いたのか、パーカーの裾を引っ張ってそれを隠してしまう。
「ほらほら莉子、恥ずかしがってないでパーカー脱がなきゃ」
俺の意見を代弁するかの如く、千夏が莉子に催促する。
「でも、でも……」
「紀之さんに見せるんでしょ」
千夏に言われて観念した莉子は、ファスナーに手をかけた。
いよいよ来る。期待が膨らみ自然と鼻の下も伸びるが、莉子の前であまり不細工な顔は見せられないと必死で我慢する。
ゆっくりとファスナーが下ろされると共に、少しずつ見えてくる白い肌。ファスナーが魅惑の谷間に差し掛かった瞬間、俺の理性は弾け飛びそうになる。忘れるな、相手は小学生だ。
おっぱい、おへそとだんだん姿を現していき、遂にファスナーが外される。莉子は一旦大きく深呼吸をすると、慎ましやかにパーカーを脱いだ。その瞬間に揺れた胸を、俺は見逃さない。
莉子の水着は、やや露出度多めの大胆なビキニだった。照りつける太陽の下、淡いピンク色の布地と白い肌が眩しい。
「どう、紀之さん。感想は?」
「ああ……うん。凄く似合ってる。最高だよ」
千夏の質問に対し、俺は感動のあまり親指を立てて正直な感想を言った。
少ない布に支えられて豊かなおっぱいがしっかりと目立っており、いつまでも見ていたいとさえ感じる。だがあえて胸から目線を下に移してみれば、きゅっとくびれたウエストの曲線が実に美しい。
俺にじろじろ見られるのを恥ずかしがって後ろを向けば、今度は柔らかそうな安産型のお尻がお目見え。おっぱいもでかいがお尻もそれに負けじとでかいのだ。細身なのに出るところはしっかりと出ており、まったくどこをとってもけしからん身体である。この子は本当に小学生なのか。
「よかったねー莉子、紀之さんすっかり見惚れちゃってるよー」
千夏にからかわれても文句一つ言えないほど、俺は莉子の水着姿に悩殺されていたのである。
「ほらほら莉子、前向いて」
千夏に両腕を掴まれて、莉子はこちらを向く。見事なおっぱいが、再び俺の目に映った。
「あ、あの、紀之さん……」
もじもじとする莉子は自然と両方の二の腕でおっぱいを挟む姿勢になり、尚更俺のハートを刺激した。
「実は昨日……千夏ちゃんと二人で水着を買いに行ってたんです。私、スクール水着しか持ってませんでしたから……」
「その水着、あたしが薦めたの。莉子はスタイルいいから絶対ビキニが似合うって思ってね」
「本当はすっごく恥ずかしいですけど……紀之さんに喜んで頂きたくて頑張って着てみました!」
莉子はプルプル震え、顔を火が出そうなほど真っ赤にさせながら叫んだ。
普段はウザい千夏だが、今回に限っては心からグッジョブと言いたい。
グラマラスな身体と地味な水着のギャップが素晴らしいスクール水着もそれはそれで魅力的だが、やはり巨乳にはビキニである。
ん、ちょっと待て。さっきから当たり前のように会話に混ざっているが、何故千夏がここにいる?
そう思った矢先、男子更衣室からぞろぞろと群れを成して現れる、見知った顔の四人組。男子三人組と、姉であった。
当たり前のように男子更衣室から出てきた姉は、例によって男物の海パン一枚。勿論上半身は丸出しである。男湯の時よりも更に多くの、不特定多数の男女から胸を見られているにも関わらず、全く動じることなく涼しい顔をしているのが不気味だ。莉子の恥じらいを少しは見習って欲しい。
「お前ら……どうしてここに……」
「そりゃあ一昨日の河川敷で話を聞いてたからさ。こんな面白そうなことほっとくわけないだろ」
姉の開き直った発言に俺はイラッとする。
「天野のヤツ、すげー水着着てるな」
エロガキの祐一が、莉子の方を見て言った。当然、俺はキレる。
「おいてめえら! 莉子のこと見てんじゃねえ!」
俺に凄まれて祐一は慌てて目を逸らす。
「天野さんは紀之の彼女なんだから、僕達はできるだけ見ないようにしてあげようよ。ここには他にも水着の女の子は沢山いるんだし。ほら、あそこのお姉さんとか結構胸大きいよ」
姉がそうやって男子達に莉子を見ないようにしてくれた。こいつもたまにはいいことをするが、大方「たかし君」としてのキャラ付けのためだろう。つい俺も姉の指差したお姉さんを見てしまったのは秘密だ。
「紀之さん酷い! 莉子という彼女がいるのに!」
そして千夏にそのことがバレており、案の定どやされる。まったく間が悪いものである。
莉子の方を見てみれば、ショックを受けて涙目になっていた。
「あ、いや、これは……その……」
「やっぱり紀之さんも、子供より大人のお姉さんがいいんですか……?」
「うっ……いや、まあ……そうじゃないと言ったら嘘になるが……あっでも、大人になった莉子はあのお姉さんよりずっと魅力的になると思うぞ! いやあ、莉子が大人になった時が楽しみだなぁ」
半泣きになりながらの莉子の問いに対し、世間体も考えて俺は正直に答える。だが勿論フォローも欠かさない。
「本当ですか?」
「本当だとも」
大人になった莉子、想像しただけで涎が出そうだ。
「つーかさあ、何だよ佐々木のその水着。全然水着っぽくねえじゃん。もっとエロいの着て来いよなー」
巨乳の水着美女を鑑賞していた祐一が、千夏の方に目線を移して言う。
千夏が着ているのは、上がタンクトップで下がショートパンツという普段着と殆ど変わらないようなデザインの水着である。女性にとっては肌の露出を抑えられて嬉しいのだろうが、男性にとっては全く嬉しくないガッカリ水着の代表であった。昨年俺が家族で海に行った際に、姉が着ていたのもこのタイプである。
「あんたみたいなのに見られたくないからこういうの着てんの。でもたかし君と二人きりで来るなら、ビキニとか着てきてもいいんだけどなー」
千夏はたかしに色目を使ってアピールするが、全く相手にされていない。ここまで脈が無いというのも不憫である。
「あれー? 杉浦弟じゃん」
突如、後ろから聞き覚えのある声が聞こえた。サッカー部の元キャプテン、大門先輩だ。ちなみに姉のクラスメイトでもある。
「あっ、大門先輩、どうも」
俺はとりあえず頭を下げておく。こんな状況で知り合いに遭うのは、なんとも気まずい。
「何だお前、こんなに沢山ガキ引き連れて」
スルーしてくれれば有難かったのだが、そういうわけにもいかず、案の定突っ込まれた。
「これはその……実は俺、わけあって彼らにサッカー教えてるんですよ。それで今日は一緒にプールに来ることになりまして……」
「へー、つまり杉浦弟の弟子ってか」
とりあえずは無難な答えでお茶を濁す。これ以上追及される前にさっさと逃げたい。
「違うでしょ紀之さん。ここには莉子とデートで来てんの。あたし達はその付き添いっていうかー。あ、莉子は紀之さんの彼女なんだよ」
千夏てめえええええ! と、思わずブチ切れそうになった。空気読まないにも程がある。
千夏に押されて、莉子は先輩の前に出る。
「あの……えっと……」
急にこんなことをされて、莉子は目を回しているようだ。
「はっ、初めまして先輩さん! 私、天野莉子といいます! 小学六年生です! 紀之様とは、お付き合いさせて頂いておりますっ!」
莉子も莉子でご丁寧に自己紹介。テンパって様付けに戻っており、説明して欲しくないことまで目を回しながらしっかりと説明している。
「お……おう」
先輩はドン引きしていた。俺の人生終了のお知らせ。
「杉浦弟……ちょっとこっち来い」
先輩に手招きされ、俺は少し離れたところに連れていかれる。炎天下の気温を感じなくなるくらい冷や汗が流れた。
「まさかお前が、巨乳は巨乳でもロリ巨乳派だったとはなあ……」
「い、いや別にそういうわけじゃないんですが……これには事情がありまして……」
俺は完全に挙動不審になっていた。
「まあ、俺も他人の女の趣味に口出しするほど野暮じゃねえよ。ただ、不祥事起こして大会出場停止だけは勘弁してくれよ」
「当たり前じゃないですか!」
先輩が理解のある人でよかった。流石我らのキャプテンは違う。
「本当に大丈夫なんだな? 次のキャプテンはお前なんだからな。絶対に小学生相手に妙な気起こすんじゃないぞ」
「だからそんなことしないって言ってるじゃないですか!」
そうである。俺は次のキャプテンに指名されていたのである。責任重大である。
「それならいいんだが……」
先輩は若干不安そうである。サッカー部の将来を憂う者としては当然の反応だろう。
「あの、先輩、このことはくれぐれも内密に……絶対に誰にも話さないでくださいよ」
「わかってるよ。少しでも口を漏らせばサッカー部が潰れるかもしれないからな。お前もちゃんと彼女に教育しとけよ、このことを他人に話さないようにって」
「はい……すみません」
先輩にお叱りを受けて、俺は莉子達のところに戻ってきた。
「何の話してたんだい?」
「いやまあ、色々と……」
姉の尋ねに、げんなりした顔で俺が答える。
「白亜学園キャプテンの大門さんですよね! 試合、見てました!」
やはり健太がそこに食いつき、大門先輩に話しかける。
「おっ、俺のこと知ってるのか? いやー俺も有名人になったもんだ。もっと持て囃してくれていいぞ」
先輩はご満悦。まったく調子のいい人である。
「ん、お前……」
たかしの方を見た先輩が、首を傾げた。これは不味い。同じクラスである大門先輩は、当然姉の顔をよく知っている。もしかしたらバレるのではないかと、俺は危惧した。
おや、姉の様子がおかしい。
よく見知った同級生から丸出しの胸をじっと見られるのには流石の姉も堪えたのか、両腕をクロスさせて胸の前に持っていき、掌で胸を隠したのだ。
「なあ杉浦弟、こいつ……」
不味い、気付かれた。俺に緊張が走る。勿論、姉にも。
「お前の親戚か?」
「え? あ、ああ。従兄弟なんだ」
「何だやっぱりそうだったのか。杉浦姉とあまりにも似てたもんでな。一瞬本人かと思っちまったよ」
「な、何言ってんですか。大体こいつ男ですよ」
「だよなー」
危ない危ない。いくら似ていたとしても、流石にこうも堂々と胸を丸出しにしている人を女だと思うことはそうそう無いのだろう。
なんとかバレずに済んで、姉もほっとしている。俺の秘密はバレてしまったのに姉の秘密はバレなかったのは少々理不尽ではあるが。
「ところで先輩、何しにここに来てるんですか? 見たところ一人みたいですけど」
「え? そりゃあ決まってるだろ。ナンパだよナンパ」
俺の問いに対し、先輩は予想外の答えを飛ばしてきた。
「先輩受験生ですよね?」
「うるせえ! 大学行くまでに彼女作りてえんだよ! 大学で童貞だったら馬鹿にされんだろうが!」
「小学生の前で童貞とか言わないでくださいよ!」
「何何? エロい話?」
案の定エロガキ祐一が食いついた。別にエロい話じゃないので関わらないでくれ。
「まあそういうわけだ。彼女と仲良くな、杉浦弟」
先輩は遠目に美女を見つけると、俺にそう伝えてさっさとナンパに行ってしまった。
「よし、話はこのくらいにして、俺達も泳ぎにいこうぜ」
俺はそう言って振り返る。おや、健太の姿が見えない。
かと思いきや、少し離れたところで俺達に背を向け体育座りしていた。
「どうした健太。具合でも悪いのか?」
俺は不安に思って話しかける。健太は一瞬ビクリとすると、恐る恐る振り返った。
「紀之さん……」
そう言って俺以外の人が近くにいないことを確認すると、健太は話し始める。
「実はその……急に勃ってきちゃって……」
「お、おう」
あまり知りたくない理由だったので、俺の顔は引き攣った。
「まさかお前、莉子の水着を見て……」
「ち、違うよ! ほら、さっき、たかしが急に胸隠したりしただろ? あれを見たら、自分でも何でかわかんないけど突然……おかしいよな、男が胸隠しただけなのに……やっぱ俺、ホモだったんだな……」
俺は悩む健太に、何とも声をかけることができなかった。
「どうかしたのか、健太」
丁度悪いタイミングで、姉がこっちに来る。健太の目線が姉の胸に行き、直後顔を赤らめながら慌てて目を逸らした。
「別に何でもないよ。健太のことは俺が見とくから、お前らは向こうで遊んでてくれ」
「そうか? んー、まあ、紀之がそう言うなら」
姉は首を傾げつつも、言われた通り俺と健太から離れていった。
とりあえず健太のそれが治まった後、俺と健太もプールに入る。
姉はヒャッハーとアホみたいな声を上げ、稔の持ってきた空気で膨らますシャチ型ボートに跨って拳を上げてはしゃいでいた。動力は無くとも流れるプールなので自動で動くのである。
健太は俺の姉と一緒にいるのが気まずいのか、祐一と稔を連れて少し遠い場所で遊んでいた。
「せっかくだからさ、天野さんも乗ってみなよ」
「えっ、私ですか?」
姉が莉子に、シャチボートに乗ることを勧めてきた。
「ああ、楽しいよ」
「そ、それでは……」
莉子はお言葉に甘え、姉の降りたシャチボートに跨った。
ほう、これは……なかなかエロいな。不安定なシャチボートから振り落とされまいと必死に掴まる姿を見ていると、何故だか妙な気が刺激されてくる。前から谷間を鑑賞するのも凄くいいが、脚を開いた後ろからのアングルも実に素晴らしい。姉もたまにはいいことをするもんである。
莉子の後ろに回った俺は、ふとあることに気がついた。莉子はこういう水着を着るのに不慣れであるためか、トップスの紐が緩んでいるのである。このままではいかん。あってはならないことが起こってしまう。
俺は慌ててそれを直しにいこうと動く。だがそれが水面に波を起こさせた。莉子はバランスを崩し、シャチボートは横転。水飛沫と共に莉子は水中へ投げ出された。
「莉子!」
俺が手を伸ばすも、莉子は自力で水中から顔を出す。
「り、莉子、水着が……」
一番莉子の近くにいた千夏が、震える声で言った。水中から覗かせる莉子の首筋に、水着の紐が無いのが見えた。
「きゃああああああっ!」
莉子は恐る恐る下を向き、自分の置かれている状況を理解。頭が沸騰したように赤くなり、絶叫と共に慌てて両手で胸を隠した。
なんということだ。恐れていたことが起こってしまった。どこぞのアホ姉が自分の意思で絶壁を晒すのとはわけが違う。莉子のおっぱいが、衆目に晒されてしまったのだ。
「おい千夏! 早く水着を探せ!」
「う、うん!」
俺が指示を出すと、ぽかんとしていた千夏ははっとして潜り水着を探し始める。
ここは流れるプール。もしかしたら既に流されてしまったかもしれない。
莉子のたわわな胸は、当然小さな手で隠しきれるサイズではない。千夏が水着を見つけてくるまでの間、莉子はこの格好で恥ずかしい思いをし続けるのである。
いてもたってもいられなくなった俺は、莉子の身体を覆い隠すように両腕を広げ、ぎゅっと抱きしめた。俺自身に多少の錯乱はあったのかもしれない。だがこれこそが、莉子を守る上で最適な行動だと本能で思ったのだ。
俺が抱きしめてやると莉子は何を思ったか、胸の前に置いていた腕を解いた。そして何と、その腕で俺を抱き返してきたのである。
当然、それは莉子のおっぱいが俺の肌に押し付けられる形になる。俺は今、上半身裸である。莉子の生おっぱいが、俺の生肌と直接触れ合っているのだ。体温も、鼓動も、突起の感触も、全てがその身に直接伝わってくる。
俺の全身を血液が駆け巡った。一体何が起きている!? 莉子は恥ずかしさのあまり正常な判断ができなくなっているのか……何にせよラッキー、いやこれは辛い状況である。こんな密着した状態で俺のそれが反応してしまえば、莉子の身体に当たってしまう可能性がある。俺は全神経を集中させ、男の本能を押さえ込んだ。千夏よ早く戻ってこいと、心の中で念じた。
少しして、ようやく千夏が戻ってきた。
「ごめん莉子! 水着見つからなかった!」
この役立たず! と罵りたくなったが、一瞬でも集中を乱せばアウトなので俺は声が出せない。というかどうしてそこで諦めるのか。もっと粘れよ親友のピンチだろ。
そう思った瞬間、突如俺の目に一つの影が映った。それは流れるプールを凄い勢いのクロールで逆流しこちらに向かってくる。
「水着、見つかったよ!」
俺達の目の前で停止したそれは、俺の姉であった。その手にはしっかりと脱げてしまった莉子の水着が握られている。
「佐々木さん、早く着せてあげて」
「う、うん」
千夏は俺の姉から水着を受け取ると、急いで莉子にそれを着せた。
「ほら莉子、もう大丈夫だよ」
水着がちゃんと着れたのを確認すると、千夏はそう言う。
落ち着いた莉子は、ずっと瞑っていた目を開けて俺の顔を見上げた。
「ひっ、ひあああああああ!」
またしても悲鳴を上げ、莉子は俺から離れる。
「大丈夫だった? 莉子」
千夏が尋ねるも、莉子に返事は無い。どうにも放心している様子だった。
一方でようやく莉子から解放された俺は、安心して前屈みになったのであった。
「おーい、どうしたー?」
祐一の声だった。
「天野の悲鳴が聞こえたけど、何かあったのか?」
悲鳴を聞きつけ、遠くで遊んでいた男子三人組が駆けつけてきたようである。健太は一瞬姉の方を見て、はっと目を逸らす。
「い、いや、何でもない。気にするな」
俺は前屈みのまま誤魔化した。彼らがやってきたのが水着が見つかってからで本当によかった。あらゆる意味で。
それから今日はずっと気まずく、俺は莉子に話しかけることができなかった。莉子は千夏と、俺は姉や男子三人組と一緒に、それぞれが完全に別々のグループであるかのように遊んでいた。本来これは莉子と二人きりのデートだったはずなのだが……結局あれから一度も会話が無いまま、帰りの時間がきて俺達は更衣室に戻ったのである。
言うまでもなく、姉は男子更衣室に入ってきた。
狙っていたのか、姉と男子三人組は俺とすぐ近くのロッカーに陣取っていた。まあ、姉の正体バレを防ぐためには都合がいいのだが。
姉は腰にタオルを巻くと、海パンを下ろす。今、あのタオルの下はすっぽんぽんである。
その時、俺は気がついた。健太の手が、姉のタオルに伸びているのだ。俺は健太の手首を掴み、その凶行を止めた。
「やめとけ」
健太ははっと我に帰ったような表情を見せ、俺の顔を見てくる。
なんとか危機を未然に防ぎ、その隙に姉は下着を履いた。
俺も着替えを済ませて、更衣室から出る。
外の自販機でジュースを買い、それを飲みながら待っていると莉子と千夏が出てきた。莉子は俺を見るなり、顔を赤らめて目を逸らす。
どうにも話しかけ辛く俺が何もせずにいると、莉子は自販機の前に立ち止まった。千夏がさっさと自分の飲み物を買う一方、莉子は迷っている。水筒のお茶は俺の分と共用だったこともあり、お弁当の時に全部飲み干してしまったのである。
暫く見ていると、莉子が迷っていることがどの飲み物を買うかではなく、飲み物を買うべきか否かそのものに悩んでいるのだと気付いた。百円玉を入れようとする手が、行ったり来たりしているのである。
俺は今が話しかけるチャンスだと、莉子の側に寄った。
「ジュース、奢ってやろうか」
「きゃっ!」
莉子は全身に電流が走ったかのように驚いた。
「好きなの選べよ」
俺は五百円玉を一つ入れながら言う。
「あの……えっと……はい」
莉子はぶどうジュースのボタンを押す。
「あの、紀之さん……」
ぶどうジュースの缶を両手で持った莉子が、恐る恐る俺に話しかける。
「どうした?」
「さっき……私のこと、抱きしめてくれましたよね……」
俺はビクリとした。そうだとは思っていたが、やはりその話か。
「あー、いや、あれは、その……」
「わかってます。紀之さんは、その、私の……は、裸を、隠してくださったんですよね」
「あ、ああ」
「私あの時、急に体が熱くなって、気付いたらあんなことしてて……変なことしてしまって、本当にすみません」
「いやそんな……全然謝ることじゃないよ」
むしろありがとうと言いたい。
「私ドジばっかりで、紀之さんに何度も助けて頂いて……すごく申し訳ないです」
「いやいや、気にするなよ。あー、でも、莉子にあの水着はまだちょっと早いかな。次来る時は、スクール水着で構わないよ」
「は、はい!」
俺はさりげなく次の約束をした。今日できなかった分、次のプールデートが楽しみである。勿論、莉子のスク水姿も。
「あの、何かお礼ができませんか? いつも紀之さんに助けて頂いてばかりですから」
「いや本当、気にしなくていいから」
正直、先程のおっぱいの感触が何よりのお礼と言っていいのである。
だが俺は一つ、妙案を思いついた。
「そうだ、実は俺、これから少し健太と話をするんだけど、あまり他人に聞かれたくない話なんだ。もしよかったら、その間俺と健太に他の人が近寄らないようにしてくれないか」
「は、はい! 紀之さんのお役に立てるなら何だってします!」
そうして莉子の助けを借り、俺と健太は人気の少ないプールの建物裏に来ていた。説教など趣味ではないが、これだけは言い聞かせておかねばならない。
「なあ健太、さっきの更衣室でのことだが……」
俺はゆっくりと、諭すように話し始める。健太は何も言わず、黙って俯いている。
「友達同士で男子小学生同士なら、確かにああいうことをしても許されるってのはあると思う。俺だって昔は友達にやったりやられたりしたさ。でも、好きな人を相手にエロい気持ちでそういうことをやるってのは、少し違うんじゃないか。お前のやろうとしたことは、痴漢と一緒なんだぞ」
「ごめん紀之さん、俺……」
健太はぎゅっと目を瞑る。
「たかしがあの胸を隠す仕草を見せてから……急にたかしの胸が膨らんでるように見えてきて……」
俺はぎょっとした。確かに実際、あれでも一応ごく僅かに膨らんではいるのである。男物の海パンを履いた上であそこまで堂々と胸を晒しているが故に誰もそれが膨らんでいるとは気付かないのであり、一度意識してしまえば確かに膨らんでいるのだ。
「確かめたかったんだ。もしかしたら、たかしは女なんじゃないかってことを。バカだよな、そんなはずあるわけないってのに。俺……自分がホモかもしれないってのを否定したいばっかりにあんなことしちゃったんだ……」
健太は深く反省している様子で、がっくりとうなだれた。
それにしても……まさかたかしの正体が女であることに気付きかけていたとは。これはなかなか不味いことになった。
「まあ、反省してるならそれでいいさ。誰だって間違いは起こすんだ。でももう、二度と変なことするんじゃないぞ」
健太にそう言い聞かせ、俺はその場を去る。
莉子は角を曲がったところで待っていた。俺は莉子の頭を撫でる。
「人払いありがとな、莉子」
「は、はい、紀之さんのお役に立てて光栄です!」
「次のプールデートは、何時にしようか」
「明日でも構いません」
「そうか。じゃあ、また明日河川敷で待ち合わせだな」
「はい、ハンバーグ作って待ってますね」
莉子とそう約束し、俺は姉と帰宅した。
帰って早々、俺は姉を部屋に呼びつけた。
「あんたがあたしを部屋に呼ぶなんて珍しいじゃない。デートの邪魔したことそんなに怒ってんの?」
「いや、別にそういうつもりで呼び出したわけじゃないんだが」
「そう。それにしても、今日はあんた思わぬラッキースケベに遭遇したわね。今夜はお楽しみかしら?」
「うるせえな、その話はいいだろ。それよりもだ、単刀直入に言うぞ。健太はお前が女だということに気付きかけている。そろそろこの遊びも潮時なんじゃないのか」
俺の話を聞いた姉は、きょとんとしていた。
「で、だから?」
「もうやめろと言っているんだ。たかしは引っ越したとでも適当に言って、あいつらとはお別れにするんだ。今ならまだそれができる」
そう言い終えるや否や、俺の腹に拳が刺さった。
「あんたの命令なんて聞く気は無いわ。大体、あんたの役目はあたしの正体がバレないようにすることでしょ。彼女ができたことに浮かれてその役目忘れてたんじゃないの?」
俺はお前の正体を隠すために必死こいてやっているというのに、あまりにも理不尽すぎる言い草である。これだからこいつは嫌いだ。
「もういい、勝手にしろ」
腹を押さえ、咳き込みながら俺は言った。
「ええ、言われた通り勝手にさせてもらうわ」
姉はそう言って部屋を出て行く。
俺はベッドに寝転がり、チッと舌打ちをした。
翌日。今日も快晴。先日と同様十二時に河川敷に行き、莉子のお弁当を食べた。
約束通り作ってきてくれたハンバーグは、とても美味しかった。
わざわざリベンジに付き合わせてしまったこともあり、今日はプールの入場料も俺が出してやった。
莉子のスク水姿は、想像以上に素晴らしいものだった。
身体のラインがぴっちりと出るスク水は、莉子のような子が着るととんでもない破壊力を醸し出す。しかもサイズがやや小さいようで、胸も尻もきつそうであった。本人にとっては辛そうだが、見る側としてはそそられる点である。
世の中にはスク水は貧乳が着てこそ、巨乳が着るのは邪道などと抜かす輩もいるが、俺は断じてそうは思わない。巨乳はあらゆる衣装に対応するのだ!
学校の授業でこれを見られると思うと、莉子と同じクラスの男子に深い嫉妬を覚えた。今度のサッカー教室で男子三人組にスパルタしてやろうかなどと、大人気ないことを考えてしまう。
「莉子、今日は二人で沢山楽しもうな」
「は、はい!」
今日は姉も千夏も男子三人組もいない。お蔭で俺と莉子は、昨日できなかった分を取り戻さんと存分にプールデートを満喫したのである。
それからも俺は、毎日のように河川敷に通った。男子三人組や姉とサッカーをしたり、莉子とデートをしたり。祐一とエロ本談義に花を咲かせたり、稔の持ってきた心霊写真で盛り上がったりもした。夏祭りの日には莉子の浴衣姿を堪能した。祐一と千夏が夏休みの宿題をやって欲しいと泣きついてきたこともあったが、当然追い返した。姉と健太は特に変なことをするわけでもなく、これまで同様に普通の友達として接していた。
気がつけば今年の夏は、その殆どを小学生と過ごしていた。だが不思議と、これまでのどの夏よりも充実しているような気がしたのである。
そうしてやがて、夏の終わりが近づいてきた。
新学期が始まれば、俺はサッカー部の新キャプテンとして忙しくなる。そうなる前に、やっておかねばならないことがある。
サッカー教室の終わりに、俺は祐一に声をかけた。
「なあ祐一、お前、俺の姉貴を好きだって言ってたよな。よかったら明日ここに連れてきてやろうか」
祐一は二つ返事で喜んだ。
これが作戦の始まりであった。
家に帰って、俺は早速姉にこのことを話した。ただし俺から持ちかけたのではなく、祐一が会いたがっていたからそれに俺が承諾したという形にした。
「まあ、そういうわけだ。頼むよ姉貴、もう約束しちまったんだ」
「しょうがないわね……言っとくけど、あんたのためじゃなくて祐一のためよ」
かかった、と思った。
翌日、俺は姉と共に河川敷へと向かった。普段は姉が着替えに使っている公園を素通りし、女の格好をしたままの姉と共に。
河川敷では、いつものように莉子と千夏と男子三人組が待っていた。
「うおーっ、マジでお姉さん連れてきたーっ!」
祐一は興奮して鼻息を荒くする。
姉は艶やかな黒髪とひらひらのスカートをたなびかせながら、いかにも憧れのお姉さんがやってきましたよと言わんばかりのすまし顔を見せた。
「お姉さん! 俺、お姉さんのことが好きです! 付き合ってください!」
そしていきなり告白である。
「えーっと……」
姉はどう反応するべきか迷っているようだ。
そこで俺は、莉子に合図の目線を送る。
「あ、あれー? 紀之さん、今日はたかし君と一緒じゃないんですかー?」
酷い棒読みで、莉子は言った。
実は昨日、俺は莉子に合図をしたらこう言うよう頼んでおいたのだ。ただしこの発言の意図がどういうものかは伝えていない。莉子は何もわからずにこれを言っているため、棒読みなのも仕方が無いのだ。
「そういえば……たかし君どうしたの?」
千夏が尋ねる。俺が河川敷に来るようになってから、大抵俺とたかしは一緒に来ているのである。俺がたかしを連れずにここに来るのは、それだけで不自然なことなのだ。
「たかし? 何言ってんだ、たかしならここにいるだろ」
俺の言葉の意味を理解できず皆がきょとんとする中、俺は姉の髪を掴む。そして勢いよく引っ張った。
皆があっと驚く中、ヅラが剥がされ露になる短髪。先程まで「お姉さん」のいた場所には、女の格好をした「たかし」がいた。
「な、なーっ!?」
最初に声を上げたのは、当の姉本人である。
「嘘……だろ……お姉さんの正体が……たかしの女装……?」
衝撃のあまり、祐一の顔が歪む。
「つまりアレか? お姉さんの存在自体が、紀之さんとたかしの仕組んだドッキリってことか?」
錯乱する祐一。とりあえずその解釈は間違っているので、俺は真実を話す。
「いや、その逆だ。たかしなんて男は元から存在しなかった。こいつの本名は杉浦志穂。高校三年生で、性別は女。俺の姉というのも本当だ。たかしの女装がこいつなんじゃない、こいつの男装がたかしなんだ」
「たかし君が……女……」
次に衝撃を受けたのは、千夏であった。
「こいつは男子小学生が好きな変態でな、男子小学生と遊びたいという犯罪染みた欲望を満たすために、男子小学生のふりをしてお前達に近づいたんだよ」
俺は更に畳み掛ける。
「の、の、の、紀之、ちょっとこっち来なさい!」
俺は姉に腕を引っ張られ、トイレ裏に連れていかれた。
「これは一体どういうこと!? こんなことして、どうなるかわかってるの!?」
「わかってるさ、俺と莉子の関係を全校生徒にバラすんだろ。そうしたけりゃ勝手にすればいい。そうなったら俺もお前の秘密を全校生徒にバラすだけだ。男装して小学生と遊んでいたことは勿論、男子トイレや男湯に潜入したこと、ついでに俺への仕打ちもな。場合によっちゃ受験にも響くぞ。これでお前が医大に行けなくなったら、親父は大層ガッカリするだろうな」
ブチ切れる姉に対し、俺は姉を黙らせるべく考えた言葉を、すらすらと言い放つ。
俺は夏を満喫しながらも、姉のこの遊びをどうやってやめさせるかをずっと考えていた。
だが結局は、直球にこうするのが一番だと結論付けたのだ。
「これでお前はもう男子小学生として彼らと友達でいることはできない。もういい加減終わりにしよう」
姉は黙ることしかできなくなり、俺は勝ったと確信した。だが。
「そうね。あたしもいい加減潮時だと思ってたの。いつかはやめなきゃならないことはわかってたけど、やめるタイミングを見失ってしまっていた。あんたのお蔭でようやく終わりにできるわ。ありがとう紀之」
まさか姉の口からありがとうなどという言葉を聞く日が来るとは思ってもいなかった。それは本心か、あるいは負け惜しみか。どっちにしろ何とも釈然としない回答と共に、姉はすんなりと再び小学生達のところへ戻る。俺はその後をついていった。
「あ、戻ってきた」
稔が言う。
「みんな……今まで騙していてごめんなさい。私は本当は女子高生なの。あなた達と友達になりたかったばっかりに、ずっと嘘をついていたの」
らしくもなく謝る姉。流石のこいつも男子小学生相手ではしおらしくなるのか。
小学生達は、どう反応すればいいのか困っている。
「あの!」
突如声を上げたのは、健太であった。
「俺も……志穂さんが好きだ!」
数歩前に出て祐一と並び、健太は大胆に愛の告白をした。謝罪に対してはスルーである。
「俺はたかしのことが好きだった。自分はホモなんじゃないかって悩んだりもした。でもたかしが……志穂さんが女だとわかったのなら、この想いを隠す必要なんてない! 志穂さん、俺と付き合って欲しい!」
このタイミングでまさかの告白に姉はたじろぐ。祐一と健太、ダブル告白の形になったため尚更である。
「……で、どっちと付き合うんだ?」
俺は姉をより追い詰めようと、返事を急かした。
「千夏は告白しなくもていいのか?」
「えっ? あ、あたしはいいよ。だって、女の人なんでしょ……」
ここでトリプル告白にしてより盛り上げてやろうと思ったが、千夏はあっさりと諦めた。やはり性別の問題は大きかったか。
「俺はもう、いいよ」
その時、祐一が健太の肩に手を置き言った。
「俺の好きだったお姉さんは、サラサラのロングヘアで、清楚でお淑やかなお姉さんだったんだ。男装したりするような変な人じゃない……志穂さんはお前に譲るよ、健太」
理想と現実のギャップに冷め、祐一は自ら身を引いた。さて、残るは健太である。
「志穂さん俺、志穂さんが女だって知ってますます好きになりました。たかしとしてでなく志穂さんとして、改めて一目惚れしました! 元々ボーイッシュ系が好きで……そのベリーショートの髪も凄く似合ってます。ボーイッシュな感じなのに、ひらひらしたスカートを穿いてるのもギャップがあって可愛いと思います。歳の差は離れてるけど……それでも絶対、志穂さんのことを幸せにしてみせます!」
お前こんな情熱的なキャラだったのかと、思わずツッコミたくなるくらいに健太は捲し立てる。
「えっと……その……あたしは……」
学校じゃ散々男子を振りまくってきたくせに、いざ男子小学生から告白されたら姉はなかなか返事を出せずにうろたえている。
「付き合っちまえよ姉貴。丁度お前の好みにぴったりじゃないか」
かつて姉に言われたことをそのまま返すように、俺は言った。
「え、えと、その……よろしくお願いします」
姉は真っ赤になりながら、ペコリとお辞儀をする。
こんな姉の姿は初めてだった。俺は思わず拍手をする。それにつられて、莉子も拍手を始める。そこから稔、祐一、千夏と続き、河川敷は祝福のムードに包まれた。
「こちらこそ、こんな年下の彼氏ですが、よろしくお願いします」
何はともあれ、健太の悩みが無事解決されたようでよかった。
姉が小学生と男女交際を始めるというのには引っかかるが、これに関しては俺が強く言うわけにはいかないのでスルーする。騙して友達やってるという状況でなくなっただけよかったと見るべきか。
一通り拍手を終えると、祐一は地面に腰を下ろした。
「あーあ、俺の恋がこんな形で終わっちまうなんてなー」
「あんたはまだマシでしょ。あたしなんて好きな人が女で一体どうしたらいいか……」
失恋した祐一と千夏。二人には気の毒だが、これが現実である以上仕方があるまい。
「あ……でも、よくよく考えたら俺、銭湯やプールの時はずっと普通に志穂さんのおっぱい見てたってことだよな……うおお、そう考えたら興奮してきた!」
落ち込むかと思ったら、エロパワーで復活。前向きな男である。
とりあえず祐一は大丈夫そうなので、俺は莉子の方に目をやる。
「ごめんな莉子、こんなことに巻き込んじゃって」
「いえ……でもびっくりしました。たかし君が紀之さんのお姉さんで、加藤君と恋人になって……私、頭の整理が追いつかないです」
莉子には悪いことをしてしまったと、少し反省した。だがあれが俺の姉である以上、交際を続ける限りいつかは明かさねばならないことなのだ。
「僕は、前々からたかし君が女の人だって気付いてたよ」
突然そんなことを言い出す稔に、俺と莉子はびっくりした。
「ど、どういうことだ?」
「えっと、女子の前でするのはちょっと恥ずかしい話だから……」
「あ、じゃあ私、向こうに行ってますね」
莉子は気を遣ってその場を離れ、千夏のところに行く。本当にいい子である。
「で、どうなんだ。どこで気付いた」
俺が問い詰めると稔は語り始める。
「最初にその疑惑を立てたのは、銭湯の時だね。たかし君ってほら、お尻がちょっと大きめで丸っこかったし……よくよく見たら胸も少し膨らんでるように見えて。うちに中学生の姉がいるんだけど、丁度体型が似てたんだ。それでもしかしてと思って」
……なんと、銭湯の時に俺が懸念していた姉の尻の件で稔は気付いていた。誰にも言わなかったのは幸いというべきか。
それと、あの姉と似た体型と聞いて稔の姉を少し気の毒に思った。中学生ならまだ成長の余地があるのは救いか。
「声変わりしてないのに股間の毛が沢山生えてるってのも少し不自然だったし、それからずっと女子じゃないかって疑ってたんだ。その後たまたま町で紀之さんのお姉さんと出会った時、疑惑は確信に変わったよ。あ、この人たかし君だって。顔も声も背丈もそっくりだったし。健太君と祐一君は気付いてなかったみたいだけど……」
このメガネ、影が薄いばかりだと思っていたが実は鋭いのだろうか。
「それで、どうして誰にも言わなかったんだ?」
「それは……女だってバレてるの知らずに平気で胸とか見せてくれるのがね……それに、僕だけ気付いてる優越感とか……」
やはりこいつも男であった。俺からしたらあんな洗濯板見たって男の胸を見るのと同じようにしか感じないが、小学生にとってはあれでも十分興奮できるのだろう。
「何だよ稔ぅー、お前もなかなかのエロスじゃねえかー」
エロい話に対してはやたらの耳がいい祐一がやってきて、稔を肘でつっついた。
「つーか稔、お前姉ちゃんと風呂入ってるだろ」
「は、入ってないよ、何だよ急に」
「姉ちゃんの体型知ってるってことは、そういうことじゃねえか」
「そ、そんなの服の上からでもわかるよ!」
「嘘だぁー、つかお前の姉ちゃん結構美人だったよな? 俺に紹介しろよ!」
「や、やだよ」
「ところでお前の姉ちゃん、アソコに毛生えてんの?」
「うん生えてる……あっ」
「やっぱ一緒に入ってんじゃねーかー! 羨ましいなーちくしょう俺と代われ!」
どうやら祐一は、新たな恋を見つけることで立ち直ろうとしているようだ。一方で千夏は、まだまだ立ち直るまで時間がかかりそうである。
「うえええええん、莉子ぉーっ」
千夏は莉子に抱きつき、おっぱいに顔を埋めて号泣していた。羨ましいなーちくしょう俺と代われ。
「大丈夫。千夏ちゃんにもきっといい人が見つかるよ」
千夏の慰める莉子は本当に天使である。俺も泣けばおっぱいに顔埋めさせてくれるだろうか。全国大会初戦敗退の時にやっとけばよかったかな……おっといかんいかん、小学生相手になんて不埒なことを考えているんだ俺は。
「おい姉貴、これでお前はもう綺麗さっぱり男装はやめるんだよな」
「ええ、男装はもうやめにするわ」
「そうか、そいつはよかった。それでお前、この遊びも当然やめるんだよな?」
「そうね……健太はどうしたいの?」
俺の尋ねに対し、姉は健太に意見を求める。
「俺? 俺はえっと……これまで通り友達みたいに……祐一や稔も一緒に遊べたらいいかなって思う。俺にとっての理想の彼女ってそんな感じだし。あ、勿論二人きりでのデートもしたいけど」
「健太はそう言ってるけど、祐一と稔はどう? まだあたしと遊びたい?」
「俺は別に構わないぜ。おっぱい見せてくれたんだ、騙してたことだって許すさ。これからも友達でいようぜ」
「僕も祐一君と同意見だよ」
スケベな男共はおっぱいで同調する。俺はあれをおっぱいとは認めていないが。
「ありがとう……それじゃあこれからは、たかしとしてじゃなく志穂として、あなた達の友達になるわ。これからも一緒に遊びましょう。勿論、紀之も一緒にね」
「ちょっと待て。どうして俺も」
元はといえば俺がこの遊びから解放されたいがために仕組んだことである。にも関わらずどうしてそうなるのか。
「あたし達とサッカーやるの、楽しいと思ってるんじゃないの?」
正直、否定はできなかった。
「……この河川敷は莉子との待ち合わせ場所としても使いたいからな。そのついでとしてなら遊んでやる」
「おお、ツンデレだ」
祐一に茶化される。自分でも言っててそう思った。
「そうね、今後カップル二組でダブルデートするのも楽しそうね」
俺は御免である。莉子との楽しい時間をお前に邪魔されたくない。
「莉子ちゃんと千夏ちゃんも、これからは女の子同士仲良くしましょう」
「は、はい。私も志穂さんと仲良くしたいです!」
「あたしは……まだショックが抜けなくて……」
彼氏の姉という今後度々関わることになるであろう人間である。莉子が仲良くなりたがるのも仕方が無い。だが俺にしてみれば好きな人と嫌いな人が仲良くなるというのは複雑な気分である。
結局、姉の正体をバラすことには成功し、健太の悩みを解決することにも成功したものの、俺が姉の遊びから解放されるという最大の目的は叶わなかった。
そして俺達は、何事も無かったかのようにサッカーをした。姉はスカートを穿いて女言葉のまま、たかしを名乗っていた頃と何も変わらないように遊んでいた。ボールを蹴る際にパンツが見えたりしたが、俺にとっては何一つ嬉しくなんかない。
「志穂さん、俺、志穂さんのこと絶対幸せにします!」
帰り際、健太は俺の姉に対しそう言った。付き合った初日でテンション上がっているのだろう。莉子がさりげなくこちらを見ているが、流石に姉の前でそこまでクサい台詞を言えるだけの勇気は俺には無い。期待に副えなくて本当にすまないと思っている。
家に帰ると、俺は姉の部屋に呼び出された。
「本当にやってくれたわね、紀之」
「何だ、暴力でも振るう気か?」
「いいえ、感謝してるの。河川敷であんたに言ったことは全部あたしの本心よ。あんたのお蔭でやめ時を見失っていた男装もやめられたし、あんな可愛い彼氏もできた。心から感謝してるわ」
「お、おう……」
正直、姉からここまで感謝されるのは気持ち悪くて仕方が無く、鳥肌が立った。何か俺を嵌めようとしているのかとさえ思った。
「ただあの時、莉子ちゃんの期待を無視したのはよくないわね」
「お前や他の連中が見てる前で言えるかあんな台詞! もういいだろ、俺は部屋に戻る」
「まあいいわ。今後もよろしく頼むわね。あたしもあんたと遊ぶの、結構楽しんでるから」
何の冗談だと思いながら、俺は姉の部屋を去った。
新学期が始まり、俺はサッカー部の新キャプテンに就いた。
それでも日曜日になると、俺は必ず河川敷に通っていた。自主錬を午前中に済ませ、午後からは莉子と過ごす、それが俺の休日のスタイルになった。
何度もデートを繰り返すうち、莉子は少しずつ俺と緊張せずに話せるようになっていった。会話も弾むようになり、俺はますます莉子のことが好きになった。
部活と彼女の両立は難しかったが、それでも莉子の応援のお蔭でやっていけた。
九月半ばには莉子の誕生日があり、俺は莉子に似合いそうな髪飾りのセットを贈った。当日は平日だったので実際に渡せたのはその週の日曜日なのであるが。莉子は大層喜んでその場で付けてみせてくれた。
また、莉子は両親に頼んで誕生日プレゼントとして携帯電話を買ってもらったという。俺達は早速アドレスを交換した。これでいつでも連絡がとれる。
その日家に帰って、莉子から最初に来たメールは「りこです」の四文字だった。使い慣れていない様子が実に可愛らしい。俺はとりあえず「紀之です」と返信をした。すると返ってきたのが「のりゆきさんだいすき」。俺は悶え、枕に顔を突っ伏した。
それから暫くしてだんだん携帯を使い慣れてきた莉子は、よくカメラで俺の写真を撮っていた。結構不意打ち気味に撮られるので、いつぞやのアホ面プリクラのトラウマがある俺は不細工に写ってやいないかと多少心配になった。
そうやって莉子との幸せな日々を過ごす一方で、どうしてもやらなきゃいけないのが姉との付き合いである。約束通り、俺は時々姉や男子三人組とサッカーや色々な遊びをした。渋々ながらダブルデートもした。
不思議なことに、俺は男子三人組と一緒の時は姉と普通に遊べていたのである。
その姉はといえば、生徒会長の任期を終えてもなお学校での完璧超人ぶりは変わらなかった。ただ一つ変わったのは、ヅラをとってベリーショートのまま学校に通うようになったことである。それも、彼氏の趣味だと公言しながら。
これにファンの男子達が阿鼻叫喚したのは言うまでもない。なお、女子の反応は概ね好評である。健太との仲も順調のようだ。
あれから姉は、俺を虐げる回数が減ったように思う。彼氏ができて丸くなったのか、あの気持ち悪い感謝がまだ続いているのか、あるいは暴力的な本性が健太にバレるのを恐れているのか。
何にせよ、俺は健太に姉の本性をバラすつもりは無い。健太と付き合い始めたお蔭で俺は楽になれたのだから、わざわざそれを壊しに行く理由は無いのだ。
かといって姉と健太の仲を応援しているというわけでもなく、勝手に本性がバレて勝手に破局しようが別に知ったことではない。そうなったらそうなったでざまあみろとほくそ笑んでやるだけである。後が怖いが。
祐一は稔の姉に猛アタックを始め、千夏は暫く悩んだ後男装女子フェチに目覚め、大門先輩はナンパこそ成功しなかったものの同級生のサッカー部元マネージャーに告白され付き合いだした。
そんなある、秋の日のことであった。
自主錬で走っている途中、莉子から電話がかかってきた。
「紀之さん、今日の予定なんですけど……もしよろしければ、私に勉強を教えて頂けませんか? できれば、紀之さんのおうちで……」
莉子が俺の家に来る。そのことが俺の頭の中を駆け巡った。
「ああ、勿論オッケーだよ。是非うちにおいでよ」
勿論やましいことをするつもりはない。だが彼女が家に来るというシチュエーションが、俺の心を湧き上がらせるのだ。
おっと、来る理由は勉強だったな。莉子も成績が気になる時期なのだろう。あるいは携帯電話を買ってもらう条件に成績が絡んでいたのか。理由が何であれ俺を頼ってくれるのは凄く嬉しい。ここは俺が手取り足取り教えてやらねば。
帰宅後俺は、徹底的に部屋を片付け掃除した。特にエロ本に関しては、絶対に見つけられないよう念入りに隠した。
そうして、その日の昼過ぎが来た。
河川敷で待ち合わせをし、二人で俺の家に向かう。
姉は男子三人組と楽しそうに河川敷で遊んでいるし、邪魔される心配は無い。
さあ、いよいよ莉子を我が家にお招きする時が来た。
「わあ、綺麗なおうちですね」
家を見上げ、莉子が言う。
「このお庭でサッカーをされてたんですか?」
「ああ、小さい頃はな。流石に今はもうできないよ」
俺達は門から庭を抜ける。
「お邪魔します」
玄関に入ると、莉子は頭を下げた。
俺は自分の部屋に莉子を案内する。
「ここが紀之さんのお部屋なんですね……」
俺の部屋を眺め、莉子は言う。
「そこ、座っていいぞ」
俺は学習机に備え付けられた椅子を指差して言った。
「は、はい。あっ、これは……きゃっ!」
急に莉子が悲鳴を上げたので、どうしたのかと俺はそちらに行く。
莉子は真っ赤になって両手で顔を覆っていた。猛烈に嫌な予感をさせながら机の上を見ると……俺の秘蔵のエロ本の一冊「おっぱい祭りだイェイ! 巨乳美少女大特集」がとてつもない存在感を放っていた。
どういうことだ。出かける前にエロ本は全て念入りに隠したはず。
というか、莉子にエロ本を見られた。この致命的な状況に、俺はどう対処すべきなのか。
まずはとにかく、急いでエロ本を片付ける。さて、次は何と言い訳すべきか。
「え、えっと……莉子? これは、その……」
だがこんな時に限って頭がこんがらがり、莉子を納得させられる言葉が出ない。
「あ、その、紀之さん……」
莉子は恐る恐る、顔を覆っていた両手を退けて俺の方を見た。
「その……紀之さんも男の人ですから、エッチな本くらい読みますよね……その、ショックじゃないって言ったら嘘になりますけど……私、そういうところも受け入れていきますから……」
目を潤ませて、俯き気味に莉子は言う。これは幻滅させてしまったか。
こんなことをする奴は、一人しかいない。だがその犯人は今、河川敷で遊んでいるのだ。俺と姉は一緒に家を出たはずなのだから、姉にこれができるはずがない。
だが事実、隠したはずのエロ本が机に置かれていたのだ。
「ごめん莉子、ちょっとここで待っててくれるか」
俺は莉子にそう言うと、部屋を出て姉の部屋に走った。
「おい姉貴、てめえいるんだろ!?」
姉の部屋の扉を勢いよく開け、俺は叫ぶ。
「ちょっと紀之、あたしの部屋開けるなって何度も言ったでしょ!」
案の定、姉はそこにいた。ベッドに腰掛け、すまし顔で本を読んでいる。
「てめえどういうことだ。河川敷で遊んでるんじゃなかったのか?」
「ああ、それならあんたが莉子ちゃんと楽しそうに話しながら帰ってる間に先回りしたのよ。あんた随分と気合入れて部屋片付けてたからこれは何かあるなーと思って、河川敷で会話盗み聞きしたら案の定莉子ちゃんがうちに来る、と。こんな面白いことほっとくわけにはいかないから、健太達との遊びを早めに切り上げて帰ってきたの」
暫く嫌がらせが無くなっていたと思った矢先のこれであった。少しはマシになったかと思ったが、やはりこいつは屑だ。
「てめえ、よりにもよって莉子にエロ本見せやがって!」
「エロ本っていってもあれ十八歳未満でも普通に買えるマイルドなやつでしょ。モノホンの十八禁のやつ出さなかっただけマシだと思いなさいよ。そもそも高校生のあんたが十八禁持ってるのがおかしいんだけど」
「そんなことはどうだっていいだろ! どうしてあんなことをした! 言え!」
彼女にエロ本を見られるというのは、男としての一大事なのである。学校では散々巨乳好きとかエロい男アピールやって女子に引かれてる俺だが、莉子にだけは知られまいと思っていた。だがそれをまさかこんな形でバラされる破目になるとは。
「言っとくけど、あたし親切でやってあげたのよ。あれでいい雰囲気になるかと思って」
「なるわけないだろ! 莉子は小学生だぞ! というか小学生じゃなくても彼氏の家にエロ本があって喜ぶ女はいねえよ!」
「あたしは健太の部屋でちょっとエッチな漫画見つけてすっごいニヤニヤしたけどなあ。必死に隠そうとしてるのがまた可愛くって……」
「てめえと莉子を一緒にしてんじゃねえ!」
「大丈夫よ、莉子ちゃんはあの程度で人を嫌いになるような子じゃないわ」
「てかお前、もう健太の家にまで行くようになったのか」
「ええ、こう見えてもあっちのご両親公認の仲よ。いい嫁さんができたって大好評なの。家庭教師もタダでやってあげてるしね」
いつの間にか姉と健太がそこまで進んでいたとは。こいつが健太の両親を前に猫被りまくっている姿が容易に浮かぶ。
「せっかくだし、莉子ちゃんの勉強もあたしが見てあげようかしら。健太で慣れてるからあんたよりは教えるの上手いし」
「おいやめろ」
勝手に俺の部屋に行こうとする姉を俺は止めるが、聞く気配は無い。いつもの如く勝手に俺の部屋の扉を開け、莉子に話しかけた。
「こんにちはー莉子ちゃん」
「あっ、こんにちは志穂さん。お邪魔してます」
莉子はペコリとお辞儀をした。
「どうよー? 初めて彼氏の部屋に来た感想は」
姉は馴れ馴れしく莉子の肩に手を回す。
「え、えっと、その……素敵なお部屋だと思います」
「せっかく彼氏の部屋に来たんだから、ベッドに寝転がって匂い嗅いだりゴミ箱の中漁ったりとかしてもいいのよ」
「いいわけないだろ馬鹿」
というかこいつは健太の部屋でそんなことしてるのか。
「わ、私そんなことしませんから!」
「でもー、本当は気になってるんでしょー? 部屋全体から漂ってくる紀之の匂いとか」
姉がそう言うと、莉子は顔を真っ赤にして縮こまる。
「いい加減にしろよお前。莉子、こんな奴ほっといて勉強するぞ勉強」
「は、はい!」
莉子はビクリとして姿勢を正し、鞄から教科書とノートを取り出した。
そうして俺は、不本意ながら姉と二人で莉子に勉強を教え始めた。本当は二人きりでイチャイチャしながらやりたかったのだが……本当にこの姉は俺に対する嫌がらせに全力である。
莉子は元々学校の成績はいい方らしく、姉の教えたことをすらすらと覚えていった。
姉は健太にも勉強を教えているだけあって、プロの家庭教師かと言わんばかりのわかり易い教え方でつい俺も感心してしまった。俺も小六当事受験のために家庭教師を雇っていたが、その家庭教師より教え方が上手いような気さえする。
一方の俺はといえば、殆ど何もすることがなくただ見ているだけであった。俺も決して成績は悪くないのだが、常に学年トップが当たり前の姉と比べたら月とスッポン。こういう場面となっては俺に出番は無いのである。これだから姉に来て欲しくなかったのだ。
「ちょっと紀之ー、あんた何ぼさっとしてんの。莉子ちゃんはあんたに教えて貰いたがってるんでしょ? そのあんたが何もせず黙ってるってどうなの」
「お前が勝手に進めるからだろうが……」
なんと理不尽な物言いだろうか。まったくもって憤慨である。
「そういえば莉子ちゃんは、どうして急に勉強教えてもらおうと思ったの? この感じじゃ学校の成績も特に問題なさそうだし」
「えっと……実は私、白亜学園に入りたいんです」
姉の尋ねによって明かされた、莉子が俺に勉強を教えてもらいたがった理由。なんとそれは受験のためであった。
「白亜って結構学費高いぞ。大丈夫なのか?」
そう、私立校といえば切っても切れないその問題である。特に莉子の家はあまり金が無いというから、そこがどうなのか不安である。
「特待生になれば学費を免除してもらえると聞いたので……それで今、勉強を凄く頑張ってるんです」
「なるほど、そういうことだったのか」
ちなみに俺の姉も特待生である。一般入試からぶっちぎりのトップで合格し、中一の時から目立ちまくっていたという。俺が入学した頃には、最早校内で知らない人はいないという程になっていた。
「それなら丁度いいわ。あたしが健太のために作った白亜の入試対策問題集、莉子ちゃんの分もコピーしといてあげる」
姉はそう言うと、すたこらと部屋を出て行った。
姉がいなくなって、暫くの間沈黙が流れる。
「悪いな莉子、本当は俺が教えたかったんだが、やっぱあいつの方が教え方は上手いからな……」
「あ、いえ、気にしないでください。紀之さんのお部屋に来られただけで、私は幸せですから……」
「そうか、ありがとな。そうだ、今度勉強教える時は、俺が莉子の家に行ってもいいかな?」
俺はそんな話を持ちかけてみる。姉が健太の家に遊びに行っていると聞き、つい対抗心が燃えてしまった。
「わ、私の家ですか? その、それは……あまり綺麗なとこではないですし……すみません」
莉子は頭を下げて謝り、俺の提案を断った。貧乏すぎて、とても彼氏には見せられないような家なのだろうか。
そうして話していたところで、姉がプリントの束を手に戻ってきた。
「はいこれ、入試対策問題集ねー。あたし謹製だから」
俺の机にドサッとそれを置き、姉はどや顔で言う。莉子もその量に驚いている様子だった。
「す、凄いですね……」
正直、俺からしたら見ただけで気が滅入る量である。これをやらされていると思うと健太のことが少し気の毒に思えた。強豪サッカー部に入るためには、サッカーだけやってればいいというわけではないのだ。
「なあ、そろそろ休憩にしないか。莉子も疲れてきただろ」
ふと、俺はそう提案してみた。
「別に構わないわよ」
「はい、紀之さんがそう言うなら。あっ、私カップケーキ作ってきたんです。よかったら、志穂さんもどうぞ」
「えっいいの? やったラッキー、莉子ちゃんの勉強見てあげてよかったー」
莉子は鞄からタッパーを取り出すと、俺と姉にカップケーキを配った。姉は一度台所に行き、お茶とカップを持ってくる。そうして姉の淹れた紅茶と莉子のカップケーキでお茶会がスタートした。
「んーっ、おいしい! さっすが莉子ちゃん」
「ありがとうございます」
「あたしも今度これ健太に作ってあげよっかなー」
「志穂さんもお料理されるんですか?」
「もっちろん。特にスイーツ作りは大得意よ」
俺そっちのけで、女子トークに花を咲かせる二人。
姉はこう見えて無駄に女子力が高く、たまに台所でやたらと美味そうなスイーツを作っている姿が見られる。尤もそれはあくまで自分用(健太と付き合いだしてから健太にもやるようになった)であり、俺に食わせてくれたことは一度たりとも無い。
「そうねー、せっかくだから今度一緒に作らない? 材料はうちで用意するわよ」
「いいんですか? ありがとうございます」
「もうほんと莉子ちゃん可愛い。あたしのこと本当のお姉さんだと思ってくれていいのよー」
「あの、えっと……本当のお姉ちゃんは別にいるので……ごめんなさい」
俺は振られた姉を心の中でほくそ笑んだ。
それはともかく、莉子にお姉さんがいたことは初耳だった。今まであまり家族の話をしたことがなかったので知らなかったのである。小六の莉子のお姉さんだし、中学生くらいだろうか。
「それにしても、莉子が白亜に来たがってたとは驚いたよ」
とりあえず何か話をしようと、俺はそんなことを口に出した。
「はい、紀之さんと一緒の学校に行きたいんです。中等部と高等部は校舎も別ですし、一年間しか一緒にいられないんですけど……それでも、学校でも紀之さんと一緒に過ごしたいんです」
そこまで俺と一緒にいたがっているということに、俺は感動を覚えた。
だが一方で、先程まで笑顔だった姉の表情が、急に固まる。
「莉子ちゃん、それはちょっと……どうかと思うけどな」
姉が急に声を低くしたので、俺の部屋は静まり返る。姉は食べかけのカップケーキを置き、紅茶を一口飲むと話を始めた。
「健太の場合はさ、強豪サッカー部でプレーするっていう、中高六年間白亜に通う理由がちゃんとあるわけよ。でも莉子ちゃんの場合、ただ紀之と学校でも過ごしたいってだけでしょ? それだったら莉子ちゃんの白亜でやりたいことは、中一の一年間で全部終わっちゃうわけ。特に莉子ちゃんの場合は特待生でなきゃ白亜にいられないっていう経済事情もあるわけで。紀之がいる間はいいけど、紀之が卒業したら途端にモチベーションが下がって成績爆落ち、特待生を外されるかもって考えなかった?」
「おい、何言ってんだ姉貴」
俺の静止を聞かず、姉は続ける。
「成績落ちて特待生外されたから学費払えなくなって公立に転校。これがどれだけ恥ずかしいかわかってるわよね? こんなの絶対転校先でいじめられるわよ。その覚悟あるの? あなた」
俺の姉に散々言われ、莉子の瞳は潤んでいた。
俺は言い返したい気持ちだったが、できなかった。ムカつくことに変わりはないが、普段俺をいじめている時とは明らかに違う姉の態度がそうさせなかったのである。そして何より、姉の言っていることは紛れも無い正論であった。
「あ、あの、私……」
莉子の目から、ぽろぽろと涙が落ちた。相手が泣こうとお構いなしに、姉は淡々と話を続ける。
「本当に白亜を受けるべきか、ちゃんと考えなさい。まあ、勉強はするに越したことはないから、この問題集はそのままあげるわ。紀之、ここからはあんたが見てあげなさい。あたしは部屋に戻ってるから」
そこまで言うと、姉は自分のカップケーキとティーカップを持って部屋を出ていった。
残された俺達は、何も言うことができなかった。
空気が悪くなったまま、俺と莉子は休憩を終えて勉強に戻る。
「紀之さん、私……やっぱり白亜に行きたいです。でも、ちゃんと最後まで特待生でいられる自信が無いです。やっぱり、諦めた方がいいのでしょうか」
こんなに悲しそうな莉子を見るのは、河川敷で告白された日、俺に振られそうになっていた時以来だった。
俺の願望を言うならば、白亜に来て欲しい。だが莉子のためを思うなら、白亜を諦め公立に行くべきなのかもしれない。俺には答えを出すことができなかった。
「それは莉子が自分で考えるんだ。まだ入試までは時間があるんだから」
またしても逃げの一手。健太に相談を持ち掛けられた時と同じであった。頼りない彼氏ですまないと、心の中で謝った。
四時頃、勉強を終えると、俺は莉子を家まで送るために一緒に家を出る。
「あの、河川敷まででいいです。そこに父が車で迎えに来ることになっているので」
「そうか? 俺が家まで送ってあげても別に構わないんだが……そんなに遠いわけじゃないんだろ? お父さんには携帯で連絡すればいいわけだし」
既に健太の家に遊びに行き、両親公認の仲になっている姉への対抗心が燃え出したのか、俺は莉子の家に行きたいと思っていた。
「すみません、お気持ちはとても嬉しいですけど、河川敷まででお願いします」
だが、莉子は丁寧にお断りしてくる。口ぶりから察するに、どうも何か事情がある様子だった。
「俺と付き合ってること、親には言ってないのか?」
「はい……」
当てずっぽうで言ってみたところ、図星であった。
「そっか。やっぱこんな年上の彼氏とか、親には言い辛いよな。わかったよ、河川敷までにしておく」
莉子を河川敷まで送った俺は、ふと莉子の父親がどんな人か気になり、河川敷を去る振りをして物陰に隠れた。
暫くして、古びた軽自動車が一台、莉子の前に停まった。莉子はその車の助手席に乗る。
そんなことを考えながら、俺は自宅に帰った。玄関で姉が出迎えてきた。
運転席に見えた顔は、白髪交じりの頭で眼鏡をかけた五十代後半ほどの男性。小学生の子を持つ親としては、少々老けているように見える。莉子は年をとってからできた子供だったのだろうか。
「莉子ちゃんの進学の件、どうなった?」
「まだ何も。これからじっくり考えさせるよ」
俺はそう言って自室に戻る。かつては玄関で姉が出迎える時といえば、大抵何かしら嫌がらせをしてくるものだと相場が決まっていたが、最近はそういうわけでもない。
俺はベッドに寝転がり、天井をじっと見つめた。
姉が莉子に対してきつく言ったのは、決して普段俺にやっているような嫌がらせ目的ではない。莉子の将来を本気で案じて言ったものだ。
健太に対しても受験のためにあれだけ分厚い問題集を作ってやったりと、随分と気をかけているようである。
本来、俺の中で姉という存在はろくでなしの腐れ外道で悪鬼羅刹のはずだった。
あの姉が生徒会長として数え切れないほど学校に尽くしてきたことは知っているが、それはあくまで内申や皆にちやほやされるためだと認識していた。
カリスマ生徒会長も、爽やか美少年も、世話焼きの彼女も、全部自分をよく見せるためのキャラ作り。俺に対してだけ見せる極悪の顔が、姉の本性だと思っていた。
だがここ最近の姉の言動を見ていると、どうしてもその大前提が崩れてゆくのだ。
悪人の象徴にして絶対悪でなければならないはずの姉が、何故だか善人に見えてきたのである。
それ自体が、俺に対して姉が仕掛けてきた策謀であるのかもしれない。だが事実、俺はどちらが姉の本当の姿なのかに混乱しているのだ。
もしも姉の本性が善人だとしたら、どうして俺に対してだけはあそこまで非道になれるのか。俺は姉に対して、よほど悪いことをしたのだろうか。
こんなこと考えていても仕方が無い。どうせ答えが出ないのなら、考えない方がよいのだ。そう思って、俺はそのことを暫く忘れることにした。
あれからまた一週間が経った。姉から嫌がらせを受けることも特に無く、依然として平和な日々が続いていた。
午前中、俺はいつものように市内をランニングしていた。午後からは莉子とのデートである。
丁度河川敷に差し掛かったところで、ふと俺は目の前の道に立っている人影を見た。
その人はスーツ姿の女性で、見た目は二十代半ばといったところ。ちなみに胸は大きかった。いや、これは相当大きい。Gくらいは余裕であるだろうか。顔もかなりの美人だ。
つい男の本能でそちらを見てしまったが、今日はデートがあるのに他の女性に見惚れているのはよくないと思い直し、俺は目を逸らす。
「あなた、ちょっといいかしら」
彼女の側を横切ろうとしたその瞬間、突如として俺は呼び止められた。
「何か、御用でしょうか」
俺は立ち止まり、彼女の方を向く。近くで見ると、これがまた本当に見惚れるくらい美人でそして巨乳であった。こころなしか莉子に似ていると思ったのは、浮気を否定したい心境によるものだろうか。
「あなた、杉浦紀之君よね?」
いきなり俺の名前を言われ、ぎょっとした。これは即ちただ道行く人に声をかけたわけではなく、俺という個人を狙って声をかけたということを意味する。
彼女は俺を知っている。そして俺がランニングでこの河川敷を通ることも。これは一体どういうことか。Jリーグのスカウトだったりしたら嬉しいが、流石にそれは無いだろう。
「えっと、どちら様でしょうか」
正直怪しいと思ったので、自分が紀之だとは名乗らず相手の自己紹介を促す。
「そうね、こちらの自己紹介がまだだったわね。私は
俺の心がざわめく。この女性の正体は、なんと先週話で聞いていた莉子のお姉さんであった。小学生の莉子とは干支一周分ほど年が離れているように見えるが、なるほど二十代の娘がいるとあれば莉子の父親が老けているのにも納得がいく。
そしてこんな巨乳のお姉さんがいるとあれば、莉子が小学生なのにあれだけ胸が大きいことにも納得がいくのだ。いやあ、これは本当に将来が楽しみである。
「それはどうも……いつも妹さんとは仲良くさせて頂いております」
「その反応を見たところ、あなたが紀之君ということで間違いは無さそうね。それじゃあ単刀直入に言うわ。莉子と別れて頂戴」
はあ? 何を言ってるんだこの人は。突然そんなことを言われ、俺は困惑する。
「えっと……どういうことでしょうか。言ってる意味がよくわからないのですが。というかあなたはどうして俺のことを……」
「莉子の携帯の待ち受けがあなたの写真だったから、この男は誰かと聞いたら白状したのよ。思えば夏ごろからずっと様子がおかしかったのよね。昼食べた後に弁当作って出かけていったり、露出度の高い水着を買ってきたり、携帯を欲しがったり、挙句の果てに私立中学行きたいとか言い出したり……それで調べてみたら、案の定だったわ。それもまさかこんな年上の男だったとはね」
静香さんは、俺と接触するに至った経緯を事細やかに説明してくれた。
「莉子はまだ小学生なのよ? 私はあなたと莉子の交際を絶対に認めないわ。今すぐに別れて頂戴」
「そう言われましても……莉子さんとの年の差に関しては十分理解していますし、健全な交際を心がけていますから」
彼女の横暴な態度に俺は怒りを覚えるが、ここは感情的にならず冷静に、かつ丁寧に切り返す。
「口なら何とでも言えるわ。正直、私はあなたみたいな爽やかスポーツマンタイプが一番信用できないの。紳士ぶってる裏で一体どんなおぞましいことを考えているやら」
「それは偏見では……」
「あなたの言い訳を聞く気は無いから、とにかく莉子とは別れてもらうわ。これは命令よ」
どうもこの人は俺の話を聞く気が無いらしい。最早怒りを通り越して呆れてくる。せっかく美人で巨乳なのに中身は残念でならない。まるで俺の姉のようだ。どこの家庭も、姉という人間はこういうものなのだろうか。
だが俺も、そこで素直にはいと言うほど薄情な男ではない。
「お言葉ですが、俺は莉子さんのことを真剣に愛しています。あなたに何と言われようと、彼女と別れるつもりはありませんので」
静香さんの目を見て、はっきりと言い放つ。
「そう、だったら仕方が無いわね」
納得してくれたか、と俺は一息つく。
「私があなたと莉子の交際に反対する本当の理由、教えてあげるわ」
そう思ったのも束の間。まだ続くのかと、俺はうんざりした。
「さっき私は莉子の姉だと名乗ったわね。実はそれ、嘘なの。私は本当は、莉子の母親」
「えっ、それは……随分とお若いんですね」
俺は素直にびっくりした。彼女の容姿は二十代にしか見えず、とても来年中学生になる娘がいるとは思えないのだ。
「それはどうもありがとう。私、いくつに見えるかしら?」
藪から棒にそんなことを聞かれ、俺は戸惑う。
「えっと、三十くらい……ですかね?」
とりあえず小六の娘がいてもおかしくない年齢かつ、ギリギリ見た目に違和感が無いくらいの年齢をチョイスする。
「さっきは若いって言ったのに、随分とおばさんに見られてるのね」
「えっ」
「正解は二十六よ」
「は、はあ……って、二十六!? 莉子は十二歳だから、それじゃ年齢が」
「ええ、莉子は私が十四の時に産んだ子なの」
衝撃の事実に、俺は絶句した。
「それだけ言えばもう察してると思うけど、あえて経緯をしっかりと説明してあげるわね。当時中学生だった私に、初めて彼氏ができた。彼は三つ年上の高校生で、あなたと同じスポーツマンだった。優しくて紳士的で、私は彼を心から愛していたの。ある日、私は彼から身体を求められた。拒否はしなかったわ、だって彼を愛していたもの。でもそれが運の尽き。その一回で私は妊娠してしまった。しかも気付くのが遅れて、妊娠したと知った頃にはもう堕ろせない段階まできていた。そうして私は、十四歳で母になったの。世間体を考えて、表向きには莉子は私の妹ということにした。莉子の父親になるはずだった彼は、私の妊娠を知った途端に家族もろとも失踪。慰謝料も養育費も払わないまま姿をくらましたわ。お蔭でうちの家計は火の車、私も中卒で働く破目になったわ。これでわかったでしょう、私があなたと莉子の交際に反対する理由。莉子は馬鹿な私と違って出来のいい子だから、ちゃんとした人生を歩ませてあげたいの。あなたみたいな男に、娘の人生を壊されたくないのよ」
そこまで言い切ると、彼女は俺の目を見た。俺は、思わず目を逸らしてしまった。
まさか莉子がそんな壮絶な生まれであったとは。そんなことを言われてしまうと、俺の心も揺らぎかける。
「あの……莉子はそのことを知っているんですか?」
俺は回答を先延ばしにするかのように、関係の無い質問をする。
「いいえ、知らないわ。あの子は私を本当の姉だと思っているし、私の両親、つまりあの子にとっての祖父母を本当の両親だと思ってる」
「そうですか」
「それで、いい加減諦めて莉子と別れることを決心してくれたかしら」
「あなたの気持ちはわかります。でも俺は、莉子が高校を卒業するまで手を出すつもりはありませんから……」
「へぇ、そう。莉子が高校を卒業する時、あなたはいくつになっているのかしら?」
「二十三、ですが」
頭の中で少し計算した後、俺は答える。
「それはつまり、あなたは二十三歳まで童貞でいると宣言してることだって、わかってるわよね?」
美女の口から童貞という言葉が出てきて、俺は不意にむせた。
「やりたい盛りの高校大学時代、周りの友達が誰とやっただ何だと盛り上がってる中、あなたは彼女がいるにも関わらず一切手を出すことなく我慢し続けるってことよ。あなたにその覚悟がある?」
「それは……」
「あの子は私に似て発育がいいし、駄目とわかっていてもついうっかり手を出してしまうなんてこともあるんじゃないかしら」
俺は何も言い返せなかった。正直、そうなりかけたことへの心当たりがありすぎた。
「それとも何かしら、彼女がやらせてくれないから他の女にやらせてもらうーとか舐め腐ったこと考えてるわけ?」
「そんなことはしない! 俺は莉子を愛している!」
「どうだか。男なんて所詮猿よ。愛してるだ何だ言って、頭の中はやることしか考えてないわ。手を出しちゃいけないとわかっていても平気で手を出すし、餌をちらつかせたらホイホイ他の女についていく。こんなもの信用しろと言う方が無理よ。とにかく、あなたに拒否権は無いわ。何が何でも莉子と別れてもらう。今日の午後から莉子と会うんでしょう? その時にきちんと責任を持って別れ話をしなさい。いいわね」
静香さんは俺に一切の反論をさせまいと捲し立て、そこまで言い切ると後ろを向いて早足でその場を立ち去ろうとした。
「待ってください!」
「まだ何か言うつもり?」
俺が呼び止めると、いい加減うんざりしたというような顔で静香さんが振り返った。
「もうこれ以上無駄話をする気は無いわ。それとも警察に通報するという形で交際を終わりにしてもらうのが望みなら、別にそうしてあげても構わないんだけど?」
軽蔑の眼差しと共に、静香さんは言い放つ。そこまで言われては、もう何も言葉が出なかった。静香さんの背中を見送りながら、俺はただ立ち尽くすことしかできなかったのである。
家に帰って、俺はベッドに突っ伏した。辛いやら悲しいやら恨めしいやらで、感情がしっちゃかめっちゃかになっていた。
そういえば前にもこんなことがあった。俺の姉の策略によって、莉子と付き合うことになった日である。あの日は小学生と恋人にはなりたくないと酷く絶望したが、結果として今では俺も莉子のことを好きになり、仲睦まじく交際を続けられている。
それが今回は逆に、莉子の姉の手によって無理矢理別れさせられることが嫌で絶望することになった。実際好きになってからは大して気にするほどのことでもないように感じられた、莉子が小学生であるという事実が今ここで重石となって圧し掛かった。
はっきし言って、俺はスケベな男である。莉子のことは女として見ており、性的な目で見ているのだ。静香さんの手前ああは言ったが、絶対に手を出さないという保障は万が一にもできない。あの人の言うとおり、まったくもって信用できない男なのだ。
俺の願望を言うならば、絶対に別れたくはない。だが莉子のためを思うなら……
俺は一つの決意を胸にした。涙を飲んで、ベッドから起き上がった。
昼過ぎ。俺は最後のデートに臨むため、河川敷へと来た。
「こんにちは紀之さん、今日もいい天気ですね」
俺から貰った髪飾りとお気に入りのピンクのワンピースを身に着けて、莉子は俺を待っていた。この優しい笑顔を見るのが、今日はとても辛く感じる。
この様子だと莉子はお姉さんから何も聞いていないのだろうか。あの女は自分が嫌われ者になることなく、俺一人に悪役を押し付けるつもりだったか。不服であるが仕方があるまい。警察に通報するとまで言われた以上、もう諦めるしかないのだ。
「紀之さん、進学の件なんですけど……私、やっぱり白亜学園に行きたいです」
「そうか……」
俺はそう答えることしかできなかった。俺と別れることになれば、自然と白亜に行きたいという気持ちも消えるだろう。莉子と別れてしまえばこの問題も解決する。
「なあ莉子、今日はお前の好きなところに連れていってやるよ。どこか行きたい場所はあるか?」
どうせ最後だからと、俺は莉子にそう尋ねる。
「紀之さんと一緒なら、どこでも」
こういう回答をされるのは、正直困る。
とりあえずはデートの定番、映画館に行くことにした。これから別れる女性に払わせるわけにはいかないので、入場料は全額俺持ちである。
「どれでもいいぞ、好きなの選べよ」
沢山貼られた上映中の映画のポスターの中から、見たいものを莉子に選ばせる。
莉子は最初可愛らしいキャラクターの子供向けアニメ映画に目を向けたが、少し考え直して実写の恋愛映画を指差した。俺のクラスの女子の間でも話題になっていた、泣けると評判の作品である。
大方本当に見たかったのはアニメの方なのだろうが、これがデートであることや、高校生の俺と一緒に見ることを考えてこちらを選んだのだろう。俺としてはどちらもさほど興味を引かれるものではないので、別にどっちでもいいのだが。
映画の内容は、親に結婚を反対された男女が駆け落ちしてどうたらこうたらという、まあ古典的といえるであろうごくありふれた話であった。だがこの手のものを滅多に見ない俺でもそれなりに面白いと思うくらいには良作であり、莉子に至っては号泣していた。
ただ一つ問題があるとすれば、映画のヒーローとヒロインの置かれる状況が今の俺と莉子に若干重なって見える点である。
「いい映画でした……お二人が幸せになれてよかったです」
映画館を出てからも、莉子はまだ目に涙を浮かべていた。
映画の二人は紆余曲折あってハッピーエンドを迎えることができたが、俺と莉子は……
こんな映画を見た後に別れ話をさせられるとは、一体何の罰ゲームだろうか。こうなるくらいなら「本当に見たいのはこっちなんだろ」とでも言ってアニメの方を選んでおけばよかったと、少し後悔した。
映画館を出た後は町を散策し、いつもの河川敷に戻ってきた。さあ、ここからが本番である。
「なあ莉子、一つ話があるんだが……」
そう言った後、暫しの沈黙が流れた。いざ話す段階になると、急に尻込みしてしまう。俺だって本当は別れたくないのだ。
それでも、言うしかない。
「莉子は以前に俺のことを、王子だとか何とか言っていたよな。言っておくが俺は、莉子が思っているような男じゃない」
まず俺は、そのような言葉から切り出した。莉子は急にそんなことを言われてきょとんとしている。
「お前は小さかった頃に俺に助けてもらったことで、俺に対してやたらと格好いい理想を持ってしまったようだが、現実の俺はそんな立派な男じゃないんだ。先週俺の部屋に置いてあったエロ本……莉子はあれを見て、酷く俺に幻滅したと思う。本当は俺は、ああいう本が大好きな変態なんだ。お前と付き合うことにしたのだって、お前の胸を見て決めたようなものだ。これから付き合い続けていても、俺は理想と現実とのギャップでずっとお前を幻滅させ続けるだろう」
短い時間で必死に考えた、莉子と別れるための言葉を俺は話す。
姉のキャラ作りを非難しながらも、俺自身莉子の前ではキャラ作りしている面があった。エロ本の一件でそれが崩れた今、それを利用しない理由は無いのだ。
莉子が俺に対して想っている感情は、物語の中の王子に恋しているようなものなのだ。それは現実を見ていなく、本当の恋愛感情というわけではない。そういう方向性で、莉子を説得することにしたのだ。
莉子は夢見がちな子だ。現実を知り、一度幻滅してしまえばもうそれっきりだろう。
俺が莉子に振られるという形になれば、莉子を傷つけることなく別れられる。そういう考えだった。
「紀之さん、私にエッチな本を見られたこと、そんなに気にされてるんですか?」
莉子はそんなことを尋ねてきた。
「いや、別にそういうわけじゃ……」
思っていたのと違う反応に戸惑いつつも別れ話を続けようとする俺を遮るように、莉子は言葉を続ける。
「私は、紀之さんに幻滅したりなんてしません。だからそんなに、自分のことを悪く言わないでください。昔の私は、紀之さんにアイドルだとか王子様だとか、そんなイメージを持っていたりしましたけど……でも、今はそうじゃないってちゃんとわかってます。お姉さんとよくケンカすることも、プレッシャーに弱いことも、意外とネガティブで落ち込みやすいことも、エッチな本と胸の大きい人が好きなことも、私のことをよくエッチな目で見ていることも……ちゃんと全部知ってます。付き合う前に抱いていた幻想と違うところがあっても、そんなことで紀之さんを嫌いになったりしません。むしろそうやって、本当の紀之さんをもっと知っていきたいって思ってます。紀之さんが辛い時は、私が支えになります。私……紀之さんのお嫁さんになりたいんです!」
だんだんと声が高くなっていき、最後には裏返った声で莉子は言い切った。
一陣の風が吹く。えーと、これは、プロポーズ……なのだろうか。
莉子自信爆弾発言を自覚しているのか、真っ赤になってプルプル震えている。
感動の恋愛映画を見た後でテンション上がってるのだろうか。うん、多分そうなのだろう。
だが、莉子がそこまで現実の俺を見ていたことには驚いた。完全に物語の王子に憧れる子供の感情で俺を見ていたことを前提に話していたこともあって、俺は後に言葉が続かなかった。
莉子は俺の言葉を別れ話とは理解しておらず、エロ本を見られて落ち込む俺への励ましのつもりでそう言ったのだろう。
俺が落ち込みやすいことを知った上で、そうやってフォローしてくれたのだ。なんと優しく、そして俺のことを理解してくれる子だろうか。
そこまで想ってくれている子からお嫁さんになりたいとまで言われて、とても別れようとは言えなかった。
「ありがとうな、莉子」
俺はそう言って、そっと莉子を抱きしめた。さりげなく胸の感触を堪能する。
そうして俺は莉子に「またな」と告げて解散した。
静香さんから別れろときつく言われたにも関わらず、結局別れることはできなかった。
帰った俺は、またしてもベッドに突っ伏した。冷静になって考えてみれば、俺は取り返しのつかないことをしてしまったのかもしれない。
俺と莉子が別れていないことに気付けば、静香さんがまた何かしてくることは間違いないだろう。最悪の場合、警察に通報されるという可能性もある。俺と莉子はあくまで健全な交際をしているわけだから、罪になるようなことは何も無いはずなのだが……それでも、サッカー部の新キャプテンとなった俺が警察の世話になれば、それだけで部の皆に大きな迷惑がかかることは確かである。
たとえ莉子を泣かせようと、きちんと別れておくべきだった。急に後悔が胸の奥から溢れ出してきた。
俺は莉子を愛している。だがそれは許されない愛なのだ。
責任はとらねばならない。たとえ彼女にどんな反応をされようとも、とにかく今から別れ話をしなければ。
自暴自棄に近い状態で、なりふり構わず俺は携帯を取り出した。電話帳から莉子の番号を開いた時、タイミングを見計らったかの如く莉子からのメールを受信した。
『お姉ちゃんが紀之さんと別れなさいって言います。別れたくないです』
俺の中の感情が爆発した。俺はどこまで、屑でネガティブな男なのだろう。
家に帰った莉子は、きっと嬉しそうな顔をしていたのだろう。当然静香さんには、それで別れていないことがバレる。静香さんは自分が悪者になるのにも構わず、強硬手段に出たのだ。
この短いメールの文面から、莉子の悲痛な思いが伝わってくる。
俺は一体どうしたらいい。莉子のことは好きだ。だが別れなくちゃいけない。
ますます自暴自棄になった。俺は映画のヒーローではないのだ。苦渋の決断に接した時、ただ頭を抱えることしかできない。
そしてとことんまで追い詰められた俺は、藁にも縋る思いで普段なら絶対にやらないことに及んだ。
「聞いてくれ姉貴、相談があるんだ……頼む」
姉の部屋の扉をノックし、俺は言う。
「あんたがあたしに相談?」
何の冗談だと言わんばかりの口調でそう言いながら、姉は扉を開けた。だがその後で俺の顔を見上げると、何も言わず部屋に通した。俺は、よっぽど切羽詰った顔をしていたのだろうか。
床に腰を下ろした俺は、今日のことを包み隠さず全て話した。大嫌いな姉に悩みを打ち明けるなんて、以前の俺は考えもしないことだった。こいつも俺のことを大嫌いなのだから、まともに悩みを聞いてくれるはずがない。そういう思いがありながらも、何故かこの姉ならば親身になって聞いてくれるのではないかと、明らかに矛盾した二つの思いが重なっていた。
「へぇ、要するにあんたは、やらせてくれないから莉子ちゃんと別れると」
「何言ってんだ! さっきの話聞いてどうしてそういうことになるんだよ!」
「だってそうとしか聞こえなかったんだもの。さっすがエロ本大好きマンは頭が下半身に直結してるわねー。やだやだ」
こいつに相談したことを、本気で後悔した。所詮こいつは人を人とも思わぬ悪魔。一瞬でもこいつを信用した俺がバカだったのだ。
俺はそんな自分を恨みながら、姉の部屋を出ていこうとする。
「自分から相談ふっかけといて、何途中で逃げ出してんのよ」
姉が俺を呼び止めた。
「それともまさか、本気でやらせてくれないから別れるつもりだったわけ?」
「それは違う!」
俺は振り返り、大声で反論する。
「それなら何で別れようと思ったのよ。人に言われたから? バッカじゃないの? あんた莉子ちゃんのこと好きなんでしょ?」
「当たり前だ! だからこそ俺は……」
「だからこそ何? あんたの莉子ちゃんへの愛は、他人から別れろと言われて『はいわかりました』って言える程度のもんだったわけ? 呆れた。前々からクソみたいな弟だと思ってたけど、まさかそこまでどうしようもない奴だったなんてね」
「何だよお前さっきから……俺は真剣に相談してるんだぞ! それをいつものいじめと同じ感覚で馬鹿にしやがって……」
「ふーん。あんたにはこれがただの悪口に聞こえるんだ」
興奮してブチ切れる俺に対し、姉はまるで動じぬ冷静な態度で言った。
「結局あんた、莉子ちゃんと別れたいの? 別れたくないの?」
「別れたくないに決まってるだろ! それなのに別れなきゃいけないから悩んでるんだ!」
「あんたは莉子ちゃんのことが好きなんでしょ? うだうだ小難しいこと考えてないで、好きなら好きでそれでいいじゃないの。大体年の差が何だっていうの。うちの両親だって八歳差よ」
うちの両親が付き合いだしたのは社会人になってからなので、その理屈はおかしい。
「お前は自分のとこが上手くいってるからそんなことが言えるんだ。俺はお前みたいに欲望に忠実に生きられるほど単純じゃないんだよ。俺一人の願望で決められるんならとっくに決めてるさ! 莉子のことを本当に大切に思ってるから悩んでるんだ! 小学生の頃からこんな年上の男と付き合って、莉子が幸せになれると思うか!? 俺の存在が、莉子を不幸にするかもしれないんだぞ!」
「あんたさっきから聞いてれば……あたしが上手くいってる? ええそうよ、あたしと健太は絶賛ラブラブ中。あんたがしょうもないことで悩んでる間にも、どんどん仲を進展させてってるわ。でもね、そういうあたしにだって悩みが無いわけじゃないのよ。健太ね、最近あたしの身長超えたのよ」
「はあ? 何言い出すんだ」
いきなり姉が健太とのことを語り出したので、俺は首を傾げる。
「そもそもあたしが健太と付き合ったのは、あたしがショタコンで、男子小学生が好きだからだった。でも健太は、いつまでも可愛い男子小学生でいるわけじゃない。これからどんどん背が伸びて、声変わりして、髭とかも生えてくる。そうなった健太をあたしは愛し続けられるのかって、結構悩んだのよ」
一体何が言いたいんだこいつは。というか俺が相談をしにきたはずが、どうして逆にこいつの悩みを聞かなければばならないのか。
「でもね、付き合いを続けていくうちにわかったの。あたしは健太が好きなんだって。始めはショタだから付き合ってた。でも、だんだん健太という男に惚れていったの。こんな年上のあたしにもちゃんと彼氏してくれて、守るって言ってくれて、そういう男らしさがたまらなく好き。だからたとえ健太が大人になっても、おじさんやお爺さんになっても、あたしは変わらず愛し続けられる……そう思ったの」
「だから何だって言うんだ。お前ののろけ話なんかどうだっていいんだよ」
「それに彼氏とショタは別腹。全国のロリコンさんショタコンさんもそういった趣味とは別にちゃんとした大人の恋人や配偶者がいるわけでしょ。健太と愛し合いつつ、ショタを愛でる、それがあたしの理想の将来よ。小児科医になればいくらでも可愛い男の子と合法的に触れ合えるわけだしね。あ、もちろん女の子もちゃんと診るわよ」
急に口調がおどけた感じになり、俺はずっこけそうになった。
「……で、結局何が言いたいんだ。結論だけ教えてくれ」
「あんたは深く考えすぎなのよ。好きなんだから一緒にいたいのは当たり前。相手の幸せを思うなら? 馬鹿言ってんじゃないわよ。大好きな人としょうもない理由で別れさせられてどこが幸せよ。本当に莉子ちゃんに幸せになって欲しいなら、あんたがその手で幸せにしてやりなさい。あたしが言いたいのはそれだけよ」
姉に説教されて、俺は沈黙する。
「何にせよ最後に決めるのはあんた自身よ。ここまで言われてそれでも別れる方が正しいと思うのなら、もう好きにしなさい」
俺は何も言わず、自分の部屋に戻った。ベッドに寝転がり、俺は考える。
果たして俺に、莉子を幸せにしてやることができるのだろうか。
俺は携帯をチェックするが、新しいメールは来ていない。莉子はまだ、俺の返事を待ち続けているのだ。
先程のメールを開き、別れたくないですという文面をじっと見つめる。
莉子は、俺に助けを求めている。ここで行ってやれなくて、何が彼氏か。
俺は立ち上がる。そして一つの番号に電話をかけた。
「千夏、俺だ。いきなりで悪いんだが、莉子の家への行き方を教えてくれ。河川敷からの道筋で構わない」
「紀之さん!? もしかして、莉子のお姉さんに別れろって言われた話?」
「知ってるのか?」
「うん、あたしのとこにもメール来たから」
「行って莉子のお姉さんを説得したいんだ。頼む」
「オッケー、莉子のためならお安い御用よ」
俺はメモ用紙に千夏から教わった道筋を書き込む。
「恩に着るよ、ありがとう」
「頑張ってね紀之さん」
電話を切ると、俺は着ている服を脱いだ。着替えを終えて部屋を出ると、玄関前で姉が待ち構えていた。
「ぷっ……何その格好」
出てきて早々の嘲笑。そんなに俺が黒のスーツでバッチリ決めてるのが可笑しいか。
「で、結論は出たの?」
「ああ、俺は莉子と交際を続ける」
「そう。そこそこ似合ってるわよ、そのスーツ」
とんだ掌返しである。
「それで、説得の言葉はちゃんとできてんの?」
「ああ、それなりには」
「まあ、いざとなったらうちの父親が医者だって言っとけばなんとかなるわよ。莉子ちゃんちお金無いっていうし」
「それは流石に……」
事実、うちはなかなかに裕福な家庭である。だがそれを説得に使えば、金で娘を買っているようであまりいい気分ではない。
「莉子ちゃんちの場所はわかってんの?」
「さっき千夏に電話で聞いた。これにメモしてある」
俺がポケットからメモを取り出すと、姉はそれを取り上げた。
「ふーん」
少し眺めてすぐ俺に返すと、何故か姉は玄関から出ていく。
不思議に思いながら俺も出ると、車庫の方からフルフェイスのヘルメットを被った姉がバイクに乗ってやってきた。
「こっから歩いていくのは面倒でしょ? 後ろ乗ってきなさい」
予備のヘルメットを俺に投げ渡し、姉は言った。
姉がいつになく優しい。それだけで妙な気色悪さを感じるが、今はそんな場合ではない。
俺が躊躇わず姉の後ろに乗ると、姉は勢いよくエンジンを噴かした。
「しっかり掴まってなさいよ」
莉子の家に向かう間、俺は頭の中で説得の言葉を復唱した。
そして気がつけば、あっという間に目的地に着いていたのである。
小ぢんまりとした二階建ての家。天野の表札が掛けられているし、車庫にある車は河川敷で見たものと同じである。ここが莉子の家であることは間違いない。
「それじゃ、しっかり誠意見せてきなさいよ」
姉は俺からヘルメットを取り上げると、すぐさまUターンして帰ってしまう。
俺は風で乱れたスーツを整えると、震える手でチャイムを押した。
家から出てきたのは、莉子であった。
「紀之さん……? きゃああっ!」
莉子は俺の姿を見た途端、黄色い声を上げる。
「そっ、そのスーツ姿、凄くかっこいいです……」
「ありがとう、家に上げてもらえるか」
「もっ、もちろんです!」
うっとりとした顔で俺を見てくる莉子を、俺はそっと撫でてやる。
俺が玄関から上がろうとすると、莉子の悲鳴を聞きつけたのか静香さんが出てきた。俺の姿を見て、凄く嫌そうな顔をする。姉にいじめられている時の俺と同じ顔だ。
「あなた……当然、別れの挨拶と莉子を誑かしたことへの謝罪に来たのよね?」
「いえ、交際を認めてもらいに来ました」
俺は静香さんの目を見て、徹底抗戦を訴える。静香さんは何も言わない。
莉子の案内で、俺は和室に通された。
屋内を見ると窮屈さこそ感じるものの割と一般的な家庭といった印象を受け、特別極端な貧乏というわけではなさそうだった。ずっと懸念していたことが一つ晴れ、ひとまずほっとする。
どうやら夕食時に来てしまったようで、美味しそうな匂いが漂ってきた。
俺は畳に正座し、静香さんと向かい合う。
莉子は俺が来たことを話して、和室に両親(血の繋がりで言えば祖父母)を連れてきた。父親は河川敷で見かけた五十代後半ほどで眼鏡の男。母親は四十代後半ほどで、例によって胸は大きかった。
「紀之さん、お茶をどうぞ」
莉子はさりげなく俺の横に湯飲みを置く。
不機嫌そうな顔をする静香さんと、不穏な表情の両親。俺が歓迎されていないことは明白であった。
「こんな時間に来てしまって申し訳ありません。自分は杉浦紀之と申します。白亜学園高等部二年生です。莉子さんとは、結婚を前提にお付き合いさせて頂いております」
俺の大胆な発言を受けて、一瞬その場が静まり返る。直後、莉子がぶわっと泣き出した。
「ちょっと、莉子が泣いてるじゃない! 本当は莉子も嫌がってるのよ! いい加減にしなさいよこのロリコン犯罪者!」
鬼の首を獲ったように静香さんが騒ぎ出す。俺は先走りすぎたかと焦った。
「違うんです……紀之さんにそう言ってもらえたことが、嬉しくて……」
だが莉子は、そんな俺を庇ってくれた。涙を拭うと、俺の隣に正座する。
「お父さん、お母さん、お姉ちゃん、私からもお願いします。紀之さんはとても優しくて、本当にいい人です。だから、交際を認めてください」
両親と姉に深々と頭を下げ、莉子は言った。
「莉子、あなた騙されてるのよ! そんな奴と付き合うのはやめなさい!」
ヒステリーに叫ぶ静香さんだが、そこで莉子の母親が動いた。
「ねえ、もしかしてあなた、あの紀之君?」
あの、というのが何を指しているのか俺は一瞬迷ったが、俺が答える前に莉子が口を開いた。
「そうです。一年生の時に助けて頂いた、私の恩人です」
「やっぱりそうだったの。あの時は娘を助けて頂いて、本当にありがとうございます」
どうやら母親は、俺のことを知っている様子だった。
「いえいえそんな」
「紀之さんはサッカーが上手くて、よくみんなの相談に乗ってくれて、私も何度も助けて頂いてるんです」
莉子は両親に俺のことを一生懸命アピールしてくれている。
「あなたの話は莉子からよく聞いていたわ。莉子に彼氏ができたことは静香から聞かされたけど、まさかそれが紀之君だったなんて。ずっと好きだった人と恋人になれてよかったわね、莉子」
母に言われて、莉子は照れながら微笑む。
「急に白亜学園に行きたいなんて言い出したのはそれが理由だったんだな。見たところなかなかの好青年じゃないか」
父親も穏やかな口調で言う。どうも莉子の両親は、俺に対して好意的な様子だった。少し希望が見えてきた。
「何言ってるのお父さん! こういう奴こそ裏で何考えてるかわからないんじゃない。こんなこと言って本当は莉子に酷いことする気満々なのよ!」
静香さんは根拠の無い悪口を飛ばしてくるが、俺は動じない。
「自分は莉子さんのことを真剣に愛し、年齢差を十分に理解して健全な交際を心がけています。莉子さんを不幸にするようなことは、決して致しません」
「今朝も言ったでしょう、口では何とでも言えるって。あなたの言葉なんて何一つ信用できないわ。私はあなたを絶対に認めない」
俺が何を言ってもこの人は聞いてくれない。それは想定内である。だが今ここには莉子と、莉子の両親がいる。俺一人で戦っているわけではないのだ。
「私はいいと思ってるわよ?」
莉子の母親が言う。
「ちょっとお母さん! どうしてそっちの味方するのよ!」
母親からは事実上のOKを貰い、俺は父親の方を見る。
「そうだな……性格もよさそうだし、白亜学園といったら結構偏差値の高いとこだろう。将来有望じゃないか。それになかなか上等なスーツを着ているようだし、実は結構いいとこのお坊ちゃんだったりするんじゃないか」
「まあ、多少は……」
若干はぐらかすくらいに肯定する。
「莉子も随分と君に惚れ込んでいるようだし、認めてやってもいいんじゃないか」
父親からもよい返事を貰え、俺は内心ガッツポーズをした。だがまだ、最後の障害が残っているのである。
「莉子はまだ小学生よ! 男と付き合うなんて早すぎるわ! お父さんとお母さんももっと警戒してよ! いくら莉子が可愛いからって、二人は甘やかしすぎなのよ! 私が莉子に携帯を与えなかったのだって、本当は悪い男と出会わないようにするためだったのに、勝手に買い与えちゃうし。甘やかして交際を認めたばっかりに莉子が苦しむことになったらどうするつもりなのよ!」
「静香、あなたが年上の男の人と付き合って辛い思いをしたことはちゃんとわかってるわ。でも紀之君は、私達にこうして話し合いに来てくれたじゃない。それだけ決意が固いということよ。あなたが言うような酷い事をするとは思えないわ。いい加減彼のことを認めてあげてもいいんじゃないかしら」
「馬鹿言わないで。五歳も年上なのよ!」
「ごめんなさいね紀之君、上の子がうるさくて」
「いえ、お姉さんが反対する気持ちもわかりますから」
母親は静香さんの言い分を無視するかのような素振りで俺に謝ってきた。
「実を言うとね、うちの家系はみーんな年上の男の人を好きになっちゃうのよ。私も、私の母や妹もみんなそう。うちの旦那なんて十歳も上よ、それと比べたら五歳差くらいねえ」
「僕らが交際を始めた時、僕は社会人で妻は高校生だったからなあ。年の差に関しては文句をつける筋合が無いというか……」
ご夫婦は昔を思い出しているかのように頬を染めながら語る。うちの両親よりも年齢差は大きく、若干の犯罪臭を感じた。
「静香だって今、十五も年上の上司にお熱なのよ」
「それは今関係ないでしょ! ていうか何で知ってるの!」
母親のペースに飲まれ、静香さんは焦っていた。というか十五も年上って、それはそれで色々と心配である。
「まあ何はともあれだ。紀之君、莉子のことをよろしく頼む」
父親がそう言うと、ご夫婦は揃って俺に頭を下げた。
「ありがとうございます。こちらこそ、よろしくお願いします。莉子さんのことは、絶対に幸せにしてみせます」
俺は二人への感謝を籠め、深々と頭を下げた。
こうして俺は、正式に莉子の両親公認となったのである。ただ一人、本当の母親だけは不服な様子であったが。
莉子は感極まってまた泣き出していた。
「そうだ紀之君、丁度これから夕食にするんだが、一緒にどうだい」
「いえそんな、ご馳走になるなんて悪いですよ」
父親から誘われるも、俺は遠慮する。アポ無しで急遽訪問した挙句家族の分の食事を分けてもらうのは流石に気が引けた。
「遠慮しなくていい。せっかくだからもう少し君と話がしたいんだ」
「そういうことでしたら……ご馳走させて頂きます」
「あの、紀之さんの分、私が作ってもいいですか?」
莉子が母親に尋ねた。
「ええ、構わないわ」
「ありがとうございます」
莉子はそう言うと、嬉しそうに台所に走っていった。
「いい子だろう、莉子は」
父親が、莉子の背中を見送りながら言う。
「素直で家庭的で気配りができて、成績もよく我侭も言わない、本当によくできた娘だ」
「はい、莉子さんと付き合っていて、そのことは凄く実感しました」
「上の子は散々手を焼かせたもんだから、あれだけ素直に育ってくれたことには本当に感謝しているよ」
話を聞いていた静香さんは、罰の悪そうな顔をしていた。
「その、実は莉子さんの出生について、今朝お姉さんから聞かされていまして……」
莉子が席を外したことを期に、俺はその話を切り出した。
「静香、話したのか?」
「あ、うん……そう言ったら莉子のこと諦めてくれるかと思って……」
「そうか……まあ、知っているならそれはそれで有難い」
「莉子さんは、そのことを知らないと聞いていますが……いずれ話すつもりはあるのですか?」
俺が父親に尋ねたところで、母親が口を挟んだ。
「それがね、あの子、本当は知ってるのよ。私達には黙っているだけで」
それを聞いた静香さんが、目を見開いて母親の方を見た。
「何それ!? 私そんな話聞いてない!」
「静香が本当の母親だということまで知ってるかはわからないけど……少なくとも、あの子は自分が私達夫婦の子じゃないってことは知ってるの。ほらあの子、家族に対しても敬語でしょ? 保育園の頃は全然そんなじゃなかっのに、小学校に上がった辺りから急にそうなりだしたのよ。最初は小学生になったからって大人ぶってるんだと思ってたんだけどね。元々行儀のいい子ではあったのだけど、私達に対しても他人行儀になって、明らかにそれまでと変わってしまったの。性格も少し暗くなって、閉じこもりがちになった。きっと私達が話しているのを不意に聞いてしまったのね。私達に心配をかけさせたくないから知らない振りをしているようだけど……」
「莉子は今でも僕達に遠慮してるようなところがあってな。聞き分けがいいのはよいのだが、苦労をかけさせてしまって申し訳なく思っているよ」
「そうだったんですか。でも、今の莉子さんは割と明るくて、塞ぎこんでいるような印象は感じませんでしたが」
「そうね、ずっと塞ぎこんでいた莉子だけど、ある日を境にまた明るさを取り戻したの。それはあなたとの出会い。あなたに助けられた日、あの子は好きな人ができたって凄く嬉しそうに話してくれたの。それで完全に元に戻ったわけではないけど、それからはまた家族としてちゃんと話せるようになって。だからあなたは、私達にとっても恩人なのよ」
母親の話を、俺は黙って聞いていた。正直なところ、俺は莉子を助けた時のことを禄に覚えていないのである。その時俺はただ普通にサッカーをしていただけで、たまたまボールの飛んできた先に莉子が居合わせただけなのかもしれない。
だが、俺の起こした行動が結果としてこの一家を救うこととなったのであれば、それはそれで誇らしいと思えた。
「莉子は本当によくあなたのことを話してくれたわ。それに普段は殆ど我侭なんて言わない子なんだけどね、あなたの応援に行きたいってことだけは、しつこくお願いしてきたの。高学年になってからは、親に好きな人の話をするのが恥ずかしくなったのかしてくれなくなっちゃったけど、それでもあなたの応援だけは欠かさず行っていたみたい。それが今度は彼氏としてうちに連れてくるようになるなんて……女の子の成長は早いわねえ」
ほっこりとする母親の姿に、こちらも和んだ。
だが静香さんだけは、この話を好意的に見ていない様子だった。
「ちょっと待ってよ、あたしそんな話知らない! こいつのことだって、この前初めて知ったくらいよ!」
「それはあなたがいつも仕事仕事で全然莉子に構ってあげないからでしょ。その癖こんな時だけ母親面して……」
手痛い指摘をされて、静香さんの表情がより曇った。
「だって……しょうがないじゃない! あんな歳で母親になって、自分の子供とどう接したらいいのかなんてわかるわけないじゃない! 私にできることなんて、あの子のために金を稼いでくることしか無かったのよ! 莉子が小さかった頃には、あのクズの子供だからってつい辛く当たっちゃったりもしたし……あの子今でも私に苦手意識持ってるのよ! あんなに嫌われてるのに……今更どう接したらいいってのよ!」
甲高い声を上げて、静香さんは嘆いた。
「お言葉ですが……莉子さんは、お姉さんのことを嫌ってはいないと思いますよ」
俺は相手をなだめるように、落ち着いた声で反論する。
「どうしてそんなことが言えるのよ!」
「実は、うちの姉が莉子さんに自分のことを『本当の姉だと思っていい』というようなことを言っていたのですが、莉子さんは『本当の姉は別にいるので』と返していました。ちゃんとお姉さんのことを、家族として大切に思っている証拠ですよ」
俺の話を聞く静香さんの拳が、プルプルと震える。その後、急に両手で顔を覆って俺達に背を向けた。
「ごめん……ちょっと、コンタクトがずれちゃって……」
静香さんの心情を察し、俺達は何も言わなかった。
暫しの沈黙が続く中、襖を軽く叩く音がした。莉子が襖を開く。
「夕食ができました。あっ……お姉ちゃん、どうしたんですか? どこか痛いんですか?」
姉の異変を心配した莉子が、静香さんに駆け寄る。
「ううん、何でもないわ。心配しないで」
静香さんは気丈に振る舞い、何事も無かったかのように笑って見せた。
食卓に通された俺は、普段莉子が座っているであろう椅子に座らされた。莉子は、どこかから持ってきた丸椅子に腰掛けた。
「ごめんな莉子、椅子借りちゃって」
「いえ、紀之さんはお客様ですから」
莉子が俺に作ってくれたものは、莉子の好物らしいオムライス。ご丁寧にケチャップでハートが描かれている。
「あらまあこの子ったら大胆ねえ」
それを見た母親が微笑み、莉子は赤くなる。
「あまり時間が無かったので……こんな簡単なものですみません」
「いや、莉子の作ってくれたものなら何だって嬉しいよ」
俺達は手を合わせ、夕食を始めた。
「ところで、莉子さんの進学の件についてなんですが……」
食事をしつつ、俺はその話を切り出した。
「ああ、莉子は紀之君と同じ白亜学園に行きたいんだったな」
「はい、特待生になれば学費を免除してもらえるそうですから。お願いしますお父さん、私、どうしても白亜学園に行きたいんです」
「自分としても、莉子さんには是非白亜学園に来て欲しいと思っています。白亜は設備もいいですし、莉子さんにとって良い学習環境になることは間違いないでしょう」
「私、紀之さんと同じ制服を着て、同じ学校を卒業したいんです。お願いします!」
「そうだな……確かに、莉子の成績ならば特待生に選ばれることも不可能ではないだろうが……」
「そうね、行かせてあげたいとは思うのだけど……うちの経済状況を考えると、特待生を維持できなくなったら転校を余儀なくされることが不安なのよねえ」
ご両親とも、このことに関しては手放しに肯定できない様子だった。
「私は……別に行かせてあげてもいいと思う」
思わぬ場所から飛んできた援護射撃。それはまさかの、静香さんであった。
「珍しいですね、お姉さんが味方してくれるのは」
「別に……私は高校行けなかったから、莉子には行きたい学校行かせてあげたいだけよ。それに、莉子が珍しく我侭言ってるんだから、それだけ受験に本気ってことでしょ? 意地でも特待生でい続ける覚悟があるってことよ」
静香さんは仄かに頬を染め、莉子と目を合わせないようそっぽを向きながら言った。
「お姉ちゃん……私、頑張ります。きちんと卒業まで特待生でいて、家に迷惑はかけません」
莉子の決意を受けて、両親は目を見合わせると頷いた。
「わかった、白亜学園の受験を許そう。そこまで言ったんだ、自分の発言に責任を持ち、きちんと成し遂げるんだよ」
「はい!」
父親の目を見て、莉子ははっきりと返事をした。
「よかったな、莉子」
俺の笑顔に、莉子も笑顔で返した。
本当によかった。これでたった一年間ではあるが、莉子と学校でも一緒に過ごせる。来年の春が凄く楽しみになってきた。
その後も俺は、食事をしながら莉子やその家族と会話を楽しんだ。
「ところでお姉さん、ずっと気になっていたのですが、十五歳も年上の男性とご恋愛されているようで……」
「はあ!? ここでその話!? あなたには関係無いでしょ!」
自分の方に話を振られ、静香さんは動揺した。
「いえその、色々と気になってしまったもので。お相手がその年齢だと、奥さんとかいらっしゃったりするのではないかなーとか、お姉さんの過去のことは知ってるのかなーとか……」
「別に……心配してくれなくて結構よ。その人独身だし、過去のことももう話したから」
「それならいいのですが」
「お姉ちゃんの彼氏さんって、どんな人なんですか?」
莉子が話題に乗ってきて、ドキリとした静香さんは箸を落とした。
「べ、別に普通のオジサンよ。何だっていいでしょ、そんなこと」
静香さんは拾った箸をティッシュで拭きつつ、照れ臭そうに言う。肝心の本人がその話を広げようとしないので、その場が静まり返った。
「……お父さん、お母さん!」
沈黙に耐えかねたのか、静香さんが机を叩く。
「今度その人うちに連れてくるから……私をお嫁に出してもいい人かどうか、今日みたいに見極めて頂戴」
娘の思わぬ発言に両親はまた顔を見合わせ、こくりと頷く。
「ああ、任せてくれ」
「楽しみにしてるわね」
そうして夕食を終えた俺は、そろそろ帰らねばと支度を始めた。
「何だ、もう帰ってしまうのか」
「家ですることがありますから」
「あの、よろしければ私の部屋に来ませんか? 紀之さんと二人でお話したいことがありますので」
莉子に引き止められ、俺は支度をやめた。
ここでまさかの、莉子のお部屋ご招待である。莉子の家に来たとはいえ、あくまでそれはご家族に交際を認めてもらうため。莉子の部屋に入るなどということは、全く想定していなかったのだ。
彼女の部屋に入るというのは、男にとって一大イベントなのだ。それをまさかこんな形で、ご両親の見ている前で達成してしまうとは。
「それじゃあ、お言葉に甘えて……」
俺は莉子に連れられて、二階にある莉子の部屋に来た。
心臓が高鳴る。決して妙な下心があるわけではない。莉子が高校を卒業するまで手を出さないと約束したのだから、そんなものがあってはならないのだ。
ただ、彼女の部屋に入るというシチュエーションに嬉しさを感じているのである。
扉を開けてみると、そこは素朴ながらも女の子らしさを感じさせる可愛らしい部屋だった。
ふと俺の目に入ったのは、窓際に部屋干しされていた一対の下着である。
「きゃああああっ!」
そのことに気付いた莉子は、悲鳴を上げながら慌てて下着を片付けた。
「ごっ、ごめんなさい紀之さん!」
莉子はペコペコと頭を下げて謝りだした。一体何を謝ることがあるのだろう、むしろ俺は嬉しかったというのに。
ちなみに色は小学生らしい純白である。ブラジャーのタグに、一瞬Eの文字が見えた。そうか小六でEか。これは本当に将来有望である。
「あっ、あの、紀之さん……」
莉子は俺の前に立ったまま、なかなか次の言葉を言わず、初めて会った頃のようにもじもじしていた。
「あ、いや、こちらこそごめん。さっき見たことは、すぐに忘れるから」
口ではそう言ったが、恐らく一生忘れられないだろう。
「いえ、そのことではなくて……そ、その、スーツ姿……一枚撮らせて頂いてもよろしいですかっ!」
莉子は携帯を手にし、真っ赤になって言った。
「あー……何だ、そんなことか。別に構わないよ」
そういえば莉子は、最初玄関から出てきた時も俺のスーツ姿に喜んでいた。俺は適当にポーズをとり、快く撮らせてあげた。
「ありがとうございます。この写真、一生大事にします」
莉子は携帯の画面を見つめてうっとりしていた。
ふと部屋の中を見回すと、机の上には写真立てが三つありいずれも俺の写真が入れられている。壁に掛けられたコルクボードには俺の写真が沢山貼られており、ベッドの枕元にも俺の写真が一枚。
先程は下着に注目してしまったために気付かなかったが、この部屋には随分と沢山の俺がいたのである。
「えっと、これは……」
少々顔を引き攣らせながら、俺は恐る恐る莉子に尋ねた。
「私が撮った紀之さんの写真の中で、特にお気に入りのものを部屋に飾っているんです」
莉子はナチュラルにそう言う。まあそれだけ愛されているのだから特に攻めることはないのだが、若干引いてしまったのは事実である。
コルクボードに目をやると、その中の一枚はいつぞやのアホ面プリクラであった。
「あれ、これは……」
「それは、私と紀之さんが初めて一緒に撮った写真なので」
俺が今まで撮られた中で一番不細工に写っている写真なので、正直やめてほしかった。だが俺にはトラウマでしかなくても莉子にとっては大切な思い出なのだろうし、とてもそうは言えなかった。
もう一つ異彩を放っていたのが、明らかに他とは紙質が違うカラーコピーの写真である。懐かしの小学校グラウンド、サッカーボールを右足で踏み、笑顔でピースをした小六の俺。確か小学校の卒業アルバムに全く同じものが載っていたはずだ。
「これは、私が初めて会った頃の紀之さんです。友達のお姉さんの卒業アルバムからコピーさせて頂きました」
勉強机の方に行くと、丁度一番目に付く場所に俺のあげたうさぎのぬいぐるみが置かれていた。その隣には、ぶどうジュースの空き缶。
「空き缶?」
俺は不思議に思って尋ねる。
「あ、それはプールの日に紀之さんに奢って頂いたジュースの缶です」
プールの日と聞いて、俺の肌にあの生おっぱいの感触が蘇ってきた。いかんいかん、こんなところでムラムラしてはならない。
「えっと、俺に奢ってもらえたこと、そんなに嬉しかった?」
「いえ、これは……紀之さんに、初めて抱きしめて頂いた日のものなので」
口元に手を当て、頬を紅潮させながら莉子はいじらしく言う。
思わず心を撃たれた俺は、己の興奮を必死になって抑えた。
さて、他に机の上で目に付く物はといえば、姉が作った問題集である。ぱらぱらとめくると、受験に向けて一生懸命頑張っているのが目に浮かんだ。ふと、その隣にある一冊のノートが目に入った。「紀之さん日記 23」……少々不安げなタイトルに、俺は恐る恐る手を伸ばす。
「あっ、それは駄目です!」
莉子はばっとノートを机から取り去った。
「こ、このノートは……たとえ紀之さんでも見せられません。とっても恥ずかしいので……」
「そ、そうか。具体的にはどんなことが書いてあるんだ? 話したくないなら無理に教えてくれとは言わないが」
「えっと……これは、私と紀之さんとの幸せな日々を綴った日記です」
何と乙女チックな。
「それで、23ってのは」
「二十三冊目です」
「二十三冊!」
俺は驚愕した。
「はい。こ、これが一冊目です」
莉子は棚から一冊のノートを取り出して持ってくる。拍子には拙い字で「のりゆきさまにっき 1ねん 1くみ あまの りこ」と書かれていた。
「俺のことだけでよく二十三冊も続くな……」
「あっ、いえ、別に紀之さんのことだけを書いているわけではなくてですね、日記を書こうと思ったきっかけが紀之さんだったからこういう名前にしているだけで、中身はごくごく普通の日記ですよ。あっでも紀之さんを見かけた日や紀之さんの応援に行った日はちゃんと紀之さんのことを書いてましたから」
「そ、そうか」
「それと……時々、私が紀之さんのお嫁さんになるお話や、紀之さんが王子様で私がお姫様のお話とかを妄想で書いてました。ごめんなさい」
「い、いや、別に謝るほどのことじゃ……」
あまり聞かされて嬉しい話ではないことを理解しているのか、莉子は素直に謝ってきた。
やれやれまったく、俺はこの子から一体どれだけ愛されているのか。浮気の一つでもしようものなら後ろから刺されそうである。勿論浮気などする気は一切無いのだが。
気が抜けた俺は、カーペットに腰を下ろした。
ふと床を見てみれば、俺の手元に縮れた黒い毛が一本落ちていた。
脳内がざわめく。これは明らかに……アレである。
大人顔負けに発育がよいのだから、当然アソコも大人並であることは想像に難くない。
俺の男の本能が、ついそれを拾ってしまった。
「どうされたんですか、紀之さん」
莉子に感付かれ、俺は慌ててそれをポケットにしまう。帰ってからじっくり眺めよう。
それにしても……彼女の部屋というものは想像以上に破壊力が強い。俺の興奮を誘発するものが其処彼処にある。ずっとここにいれば、いつ不意に男の本能が炸裂してしまうかわからない。
「なあ莉子、それで話があるってのは、結局スーツの写真撮りたかっただけなのか?」
俺は立ち上がり、煩悩を忘れようと本題に話を進める。
「いえ、これからそのお話をしますね」
莉子はノートを片付けると、俺の前に立つ。
「紀之さん!」
姿勢を正して顔を上げ、俺の目をはっきりと見る。莉子の緊張が伝わってきて、俺まで緊張してきた。
「私はずっと、遠くから紀之さんを見ていることしかできませんでした。でも、あの日勇気を出して紀之さんに告白して、恋人同士になって……これは夢かもしれないって、何度も思いました。でも、今現実に紀之さんは私の部屋にいるんです。ずっと憧れていた人の、お側にいられることがたまらなく嬉しいんです」
面と面で向かって、己の想いをはっきりと言葉にする莉子。俺は何も言わず、ただ莉子を見つめていた。そして、莉子は言う。
「私、紀之さんに相応しい立派なお嫁さんになってみせますから……これからもずっと、ずっと、よろしくお願いします!」
大きく頭を下げる莉子。
「こちらこそ、莉子を幸せにできるいい夫になってみせるから……ずっと、ずっと、よろしくお願いします」
俺もそう返した。
莉子が言いたかったことはこれだったか。父親が言った、自分の発言に責任を持つということ。莉子はあえて「立派なお嫁さんになる」と口に出して言うことで、責任を伴う決意の強さを俺に見せた。ならば俺も、その決意に応えるのは当然であった。
「あの、それともう一つ」
どうやら、まだ話したいことはあるらしい。
「その……紀之さんは、胸の大きい人がお好きなんですよね」
意識か無意識か、両腕で胸を隠すような体勢をとりながら莉子は言う。
ここでまさかのその話に、俺は血の気が引いた。
「ま、まあな。そう自分でバラしちゃったわけだし……」
「紀之さん、いつも私の胸、見てますよね……」
ああ、見ている。凄く見ている。流石の莉子もそれはやめてほしいと思っていたか。これは男の本能で自然と目が行ってしまうのだ。聞いてやりたいのはやまやまだが、どうにもそればっかりは俺には難しい話である。
「あの、私、ずっと胸が大きいこと、恥ずかしいと思ってたんですけど……紀之さんが好きだと言ってくれるなら、胸が大きくてよかったと思います!」
何と莉子は喜んでいた。まさかまさかの展開に俺の表情が強張る。
「あ、あの……本当はとっても恥ずかしいですけど……紀之さんになら、その、見られたり、さ、触られたりされても全然構いませんから……」
莉子は顔を真っ赤にしながら両腕を胸から退けると、両脇を締めて身体を反らせ、胸の大きさを強調するようなポーズをとった。
何だこの子は。本当に何なんだこの子は。俺と親公認になり事実上の婚約といえる関係になり、部屋にまで呼んだことで色々と箍が外れちゃったのか。
無論、こんなことを言われてムラムラしない男などいないはずがなかった。
俺は触りたい欲求に駆られながら、理性と本能を脳内で殺し合わせていた。
莉子が高校を卒業するまで手を出さない。莉子を不幸にするようなことは決してしない。自分の発言に責任を持ち、きっちりやり遂げねばならない。
「駄目だよ莉子、お前にそういうのはまだ早い。もう少し大人になってから、な」
精一杯の理性が本能を撃ち殺し、俺は笑顔でそう言った。
「ごめんなさい紀之さん。でも私、不意に紀之さんに見られたり触られたりした時でも、絶対怒ったりしませんから」
「ありがとな、莉子。それじゃあ俺は、そろそろ家に帰るよ。また来週な」
「はい。どうかお元気で」
俺は逃げるように、莉子の部屋を出た。これからも、生殺される日々は続きそうである。
改めて帰りの支度をし、莉子とその家族に見送られながら俺は莉子の家を発つ。
行きは姉のバイクで送ってもらったが、帰りは徒歩である。だが、ゆっくり歩きながら気持ちの整理や今後のことを考えるために、むしろ都合がいいのかもしれない。
何はともあれ、無事親公認の仲になれて一件落着であった。次は莉子を俺の両親に紹介する番か。
莉子の方からああも積極的に迫ってきたのは予想外だったが、それでも俺は決して手を出しはしない。歳の離れた女性と付き合う男としての、責任であるからだ。
俺にはエロ本だってあるのだ、莉子には存分に生殺されてやろうではないか。
さて、家に帰ったら姉にどう話そうか。
俺の相談を親身になって聞いてくれ、叱咤してくれ、莉子の家まで送ってくれた姉。
静香さんは自分が莉子に嫌われていると思っていた。だが本当は決して嫌われてなどいなかった。俺も、自分が姉に嫌われていると思っている。本当は姉は、俺のことをどう思っているのだろうか。
自宅に着くと、例によって姉が待ち構えていた。
「遅かったじゃない。で、結果はどうだったの」
「親公認になれたよ」
簡潔にそう伝え、俺は姉の横を通り過ぎる。
「そう、それはよかったわ。せっかく用意したお祝いの品が滑らずに済んで」
俺は思わず振り返った。お祝いの品。まさか姉が俺にそんなものを用意していたとは。というか、姉が俺に物をくれるということ自体がありえないことなのである。本当に今日の姉は一体どうしたというのか。
自室に入り灯かりを点けると、部屋の真中にダンボール箱が置かれていた。
それも気になるのだが、まずはスーツを脱ぎ私服に着替える。と、その前に俺はポケットから莉子の部屋で拾った例の毛を取り出し、小さなビニール袋に入れて保管した。
今後の使い道は、特に決めていない。俺にはエロ本だってあるし、莉子をそういうことに使うのは少々気が引けるのだ。だがたまには、眺めて妄想に耽るのも悪くはないだろう。
着替えを終えると、いよいよダンボール箱の開封である。
あの姉が一体どんなお祝いの品を贈ってきたのか。期待二割不安八割で、恐る恐る箱を開ける。
中から出てきたものは……玩具に漫画に文房具、時計にCDに、更には現金。姉が俺を嫌うようになってから、借りパクや恐喝されたものばかりであった。俺が殆ど覚えていないようなものも中にはある。
だが正直、今更返してもらってもしょうがないようなものも多いし、何よりゼロがマイナスになっただけなのだ。こんなもので許してやるほど、俺は甘い男ではない。
所詮姉のくれたものだと、落胆しながら俺は箱の中身を一つ一つ確認していく。
そんな中、箱の中に一つの便箋を見つけた。それは明らかに若い女子の使うようなデザインであり、俺が持っていたものとはとても思えなかった。不審に思い、俺はそれを開く。中には一枚の手紙が入っていた。
書かれていたのは姉の字。姉から俺に宛てられた手紙であった。
『紀之へ。今までいじめてごめんなさい。あなたが私の身長を超えた時、可愛かった弟が可愛くなくなっちゃったと、つい意地悪してしまったの。本当はやめたかったのだけど、急にやめるのが照れ臭くて、やめ時を見失ったままいつまでも意地悪な姉を演じ続けた。このことには本当に反省しているわ。ごめんなさい。お詫びにこれまであなたから奪った物を全て返却します』
途中まで読んで、俺は怒りを覚える。無論、こんなもの返してもらったところで姉を許すつもりは一切無い。
嫌な思いをしながら、俺は手紙の続きを読む。
『本当は、あなたとずっと仲直りしたかった。でもそのきっかけが無いまま長い年月が経ったある日、私は男装して男子小学生と遊ぶという趣味があなたにバレた。初めはショックだったけど、それをきっかけに、私はあなたと友達のような関係で遊べるようになった。あなたにとっては不本意だろうけど、私はそれがとても楽しかった。気がつけば、健太達だけでなくあなたと遊ぶことも、私の目的になっていた。普段は悪態ついてばかりでも、「たかし」としてなら普通に話し友達でいることができた。あなたに私の正体をバラさせない役目を押し付けたのも、莉子ちゃんとくっつけたのも、全部この遊びをやめたがっているあなたを引き止めるため。私の身勝手に付き合わせてしまって、本当にごめんなさい。私が自分のためにあなたとくっつけた莉子ちゃんだけど、こうしてあなたと幸せに恋人関係をやれているのを見るのはとても嬉しかった。散々酷い事をしてきた私が、あなたに可愛い彼女を作ってあげられたことが、せめてものお詫びになった気がした。紀之、莉子ちゃんの親に認めてもらえて、本当におめでとう。お詫びの品の中に、お祝いの品を一つ混ぜておいたの。もしよければ使って頂戴。志穂より』
ずっと姉が胸中に秘めていた複雑な想いが、そこには綴られていた。
姉にとってあの変態染みた遊びは、仲違いした弟と普通に接することができる唯一の場だった。
実のところ俺も、男装した姉と遊ぶのは割と楽しかった。大嫌いな姉と、普通に接することができたことに俺自身も驚いていたのだ。
姉が俺と莉子の仲を心から応援してくれていたのは嬉しかった。
さて、この手紙によれば、これまで奪ってきたものの返却はお詫びであり、それとは別にちゃんとしたお祝いの品があるという。使って……という文脈から察するに、大方エロ本だろうか。姉の選んだエロ本というのには正直期待はできない。
俺はとりあえずそれを探そうと、箱の中を漁る。すると、箱の一番奥の奥にそれはあった。
なかなか高価なブランド品の、サッカー用スパイク。姉からのプレゼントだとは信じられないような、貰って嬉しい物であった。
姉が自室にいないようなので探してみると、玄関に姉の靴が無い。俺が外に出ると、姉は庭で夜空を見上げていた。
「おう」
俺は照れ臭さを感じながら、姉に声をかけた。俺の足には、先程姉から貰ったスパイク。まったく俺もちょろい男である。
「久々に二人でサッカーでもやらないか」
俺はそう言って、姉の足下にボールを転がす。
「一体どういう風の吹き回し?」
姉はにやけた顔でこちらを見てくる。相変わらず憎たらしい顔だ。
「新品のスパイクの使い心地を試したいだけだ」
蹴り返されたボールを、俺は再び姉にパスする。
「ふーん、そう」
この小さな庭で、俺と姉は幼き日のようにパスを出し合って遊んだ。
「ありがとな、姉貴。莉子と出会えたのも、親公認になれたのもお前のお蔭だ」
姉にありがとうなどという言葉を使う日が来るとは、思ったこともなかった。
「もっと感謝していいのよ」
あんなしおらしい手紙を書いたにも関わらず、顔を合わせて話してみればまるでそんな様子を感じさせないいつもの姉であった。
だがむしろその方が、俺の調子が狂わなくてよいのかもしれない。
「紀之、せっかくあたしが手伝ってやったんだから、ちゃんと莉子ちゃんと幸せになりなさいよ」
かと思いきや、発言の中にさりげない優しさを交えてくる。やめ時を見失うことで暴走してしまうこともあるが、決して姉が人間の屑ではないということが、ここ最近の件でわかった。
「お前こそ、健太と幸せにな」
ずっといがみ合っていた俺と姉だが、これからは少しは仲良くやれそうだ……そんな気がしたのだ。
ただし俺は、エロ本を捨てられたことだけはまだ許していないのである。
姉は男子小学生 平良野アロウ @watakamo
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