姉は男子小学生

平良野アロウ

前編

「おーす紀之のりゆき、持ってきたぜー例のアレ」

 初夏の朝。登校して早々、友人から例のアレが俺に手渡された。本来ならば十八歳未満は読んでいけない本、俗に言うエロ本である。本のタイトルは「巨乳天国」。巨乳とはよいものだ。男のロマンが詰まっている。

 教室で平然とエロ本の貸し借りを行う男子生徒に女子の目は冷たいが、そんなこと俺には知ったことじゃない。

「お前本当巨乳好きだよなー。よくもまあこう毎日毎日おっぱいおっぱい言ってられるもんだと、ある意味感心するぜ」

「しょうがないだろ、うちの姉貴があんななんだから。巨乳好きになるのは必然みたいなもんだろ」

「お前のそこ、理解できねえんだよなあ。確かに胸は無えけどよ、あんないい姉ちゃんそうそうそういねえだろ」

 友人の言葉に俺は不愉快な顔を見せるが、友人はまるで気にしない。

「おっ、噂をすれば」

 教室の扉が開いた。見覚えのあるシルエットをした三年生の女子生徒が一人、俺のいる二年三組の教室に入る。教室内がざわついた。例の姉である。

 杉浦すぎうら志穂しほ、十七歳。才色兼備のクールビューティーにして、誰からも慕われるカリスマ生徒会長。腰まであるストレートの黒髪に、校内屈指の美しい顔立ち。頭脳明晰成績優秀で、その小柄な身体のどこにそんなパワーが宿ってるのかわからないほどの運動神経。凛とした雰囲気は男女共に支持を集める。それはまさしく非の打ち所が無いような完璧超人(ただし胸は無い)。そんな素敵な先輩が教室に入ってきたとなれば、下級生がこうなるのも無理はない。

「紀之、忘れ物よ」

 姉は俺の机の前に来ると、そう言って弁当箱を手渡した。思わず鞄を確認すると、確かに弁当が入っていない。ずっと見たかったエロ本を友人に貸してもらえることに浮かれ、注意力が散漫になっていたようだ。

 直後、姉の目線が机の上の「巨乳天国」に向けられた。姉は背筋が凍るような軽蔑の眼差しを俺に向けた後、何も言わず教室を出ていった。

 教室の誰もがうっとりと惚ける中、俺は一人顔を歪めて溜息を吐いた。隣にいる友人も、アホ面晒しているうちの一人である。

「本当いいよなー志穂さん。あんな人と一緒に暮らしてるなんて、羨ましすぎてハゲそうだぜ」

「どこがだよ。あんなのと暮らしてたってストレスしか感じねえぞ。逆にストレスでハゲるっつの」

 友人の言葉に、俺は心底うんざりして言った。

「それってアレか? 姉がハイスペックすぎていつも比べられるっていう」

「別にそういうわけじゃないんだが……」

「だよなあ。志穂さんの影に隠れて目立たないけど、お前もお前で割とおかしいスペックしてるもんな。俺の場合は元からモテないからいいけどよ、お前はせっかく黙ってりゃモテそうなのに、おっぱいおっぱい言ったりこんなエロ本にかまけてたり、勿体無いと思わねえのか?」

「別にいいんだよ。性癖公表してれば興味の無い女子から言い寄られることもないからな」

「それじゃあもし巨乳の可愛い子に告白されたらどうすんだよ」

「告白なら何度かされたけど全部断ってんだよ」

「うわあ自慢かよウゼェ」

「そもそも今は部活が一番大事で、彼女作ろうとか全く考えてねえんだよ。彼女なんかいたらデートだ何だで無駄なことに時間使わなきゃならないしよ。おっぱい分はエロ本で補給すりゃいいんだし、彼女作るメリットなんて皆無だろ。エロ本とサッカーがあれば生きていけるね、俺は」

「あーはいはい。イケメンスポーツマンの余裕クソウゼェな。そういや志穂さんも告白してきた男子振りまくってるんだってな。彼氏はいないらしいけど……一体どんな男ならあの人のハートを射止められるんだろうなあ」

「知るかよんなこと」

 まるで自分が姉と同じであるかのようなことを言われて、俺は苦い顔をした。


 部活の時間。俺のいる白亜はくあ学園サッカー部は、全国大会常連の強豪チームである。二年生ながらレギュラーの座を勝ち取った俺は、全国制覇に向けて仲間と共に日々精進している。ちなみにポジションはフォワードだ。

 黙々と練習をする俺に、突如一人の後輩が近づいてきた。

「サーセン杉浦先輩、ちょっといいスか」

「何だ」

 普段あまり話したことがない後輩から急に声をかけられたことに、俺は早速嫌な予感がした。

「杉浦先輩って、あの杉浦志穂生徒会等の弟なんスよね、もしよかったら俺にお姉さん紹介してくれないスか?」

 俺はついカチンときて後輩の頭にチョップをかました。

「部活の時くらいあいつのことは忘れさせろ!」

 姉のファンは一年生から三年生、さらには教師まで多岐に渡る。脈絡も無く俺に話しかけてくる男など、大抵は姉との仲を取り持ってもらうことが目的なのだ。

 せっかく楽しく練習しているのに、そこで姉の顔が浮かぶのは不愉快以外の何物でもない。

「相変わらず大変だなあ杉浦弟」

 キャプテンで姉のクラスメイトである大門先輩が言った。俺は愛想笑いで返すが、正直笑い事ではない。


 部活を終えて帰宅すると、早速姉が出迎えてきた。

「やっと帰ってきたわね紀之。さっさと金を出しなさい」

 帰ってきて早々これか、と俺は気が滅入った。

「どうして俺がお前に金を払わなきゃならないのかわからないんだが……」

「当然でしょ、あたしに弁当運ばせたんだから。早く出しなさい」

 あまりにも理不尽な恐喝である。イラッときた俺は財布から適当に百円玉を取り出した後、姉の掌の上に放り投げる。直後、投げ返された百円玉が俺の額にぶち当たった。

「姉のあたしに弁当運ばせといて百円で足りると思ってんの? 千円出しなさい千円」

 この女は一体何を言っているのか。こんな馬鹿げたことに小遣いを使いたくはないのだが、払わなければより理不尽な酷い目に遭うので俺は素直に千円札を出した。

 もう用は済んだろと、俺はさっさと姉の横を通り過ぎる。だがその直後、姉は振り返ると同時に脚を上げ、俺の尻に蹴りを入れた。

「あたし生徒会の仕事で疲れてるの。肩揉んでちょうだい」

 そう言って姉は、俺の部屋に勝手に入っていく。俺も部活で疲れていることはガン無視である。俺は慌てて姉の後を追った。

 部屋に入った姉は、当然のように俺のベッドに腰掛ける。この女に遠慮というものは無いのだろうか。俺は床に鞄を置くと、姉の後ろに回った。

「胸とか触ったりしたら殺すから」

「お前に触るほどの胸なんか無えだろ」

 肘打ちが俺の腹を抉る。姉にそんな皮肉を言えば暴力を振るわれるのはわかっていたが、巨乳好きとしてそう言わずにはいられなかったのだ。

「ぼさっとしてないでさっさと肩揉みなさいよ」

 悶え苦しむ俺を背に、姉は平然と言い放つ。この女に慈悲は無いのだ。俺はベッドに膝をつき、姉の肩を揉み始める。

「家に弁当忘れてくなんて、そんなにエロ本貸してもらえるのが嬉しかったわけ?」

 弁当を忘れた理由を見透かされていたことに悔しさを覚えるが、俺は黙々と肩を揉み続ける。

 だが姉は途中で飽きたのか急に立ち上がると、俺の鞄を漁り始めた。

「おい待て、何する気だ」

 姉は鞄からエロ本を取り出すと、パラパラとめくり始めた。

「ふーん、あんた本当に巨乳好きねえ。今夜はこれでお楽しみってわけ」

「おい返せよ、友達から借りたもんだぞ! 間違っても破ったりするなよ!」

「返すわよ。あたしこんなものに興味無いし」

 ゴミのように放り投げられたエロ本を、俺は慌ててキャッチした。一通り俺をいじめてすっきりしたのか、姉は礼の一つも言わず部屋を出ていく。ようやく嵐が去った。

 ……そう、これが麗しの生徒会長様の本性である。弟を人とも思わぬその暴虐。俺はこの人間の屑が、ゴキブリよりも嫌いなのだ。

 幼い頃は気持ち悪いまでのブラコンで、俺のことを異常に可愛がっていた。やたらと抱きつくわ撫でくり回すわ、風呂には一緒でないと入らないわで鬱陶しいことこの上なかった。だが俺の身長が姉を超えた頃、急に姉は俺を可愛がるのをやめた。ようやく解放されたとほっとしたのも束の間、今度は俺を邪険に扱いだし逆のベクトルでウザくなった。パシリに恐喝、理不尽な暴力は当たり前。俺の部屋に勝手に入っては物をパクっていくのも茶飯事である。隠していた秘蔵のエロ本を全部両親に公開した挙句古紙回収に出した件は今でも怨んでいる。

 思えば俺が彼女を作る気が起きないのは、最も身近な同年代の女性がこれであるせいで女というものに幻想を抱けなくなったからなのかもしれない。

 日曜の午後。姉は昼食の後すぐにどこかへ出かけていった。最近は休日の度にこれである。俺は土曜は部活があるのでよく知らないが、両親に聞いた話では土曜もこのようにして出かけているという。

 あいつが一体何をしに行っているのか若干気になるところだが、少しでもあいつが家からいなくなってくれるのは自分にとってはよいことなので特に詮索はしない。

 俺は自主錬のランニングに行く前に用を足しておこうと、トイレの戸を開けた。直後、俺は和室へと走った。

「おい親父! 便器から小便はみ出させるなって何度言ったらわかるんだ!」

 トイレの惨状にブチ切れた俺は、和室で寝転がって新聞を読む父に文句をつけた。最近は家のトイレが度々こうなっているのである。不潔で不愉快で入る度に気分が悪くなる。

「俺は知らんって言ってるだろう」

 父は背中を向けたまま言う。だが少なくとも俺はやっていないし、母と姉はやりようがない。犯人は父しかあり得ないのだ。これまでにも何度か叱っているのだが、本人は容疑を否定するばかりで反省がないのだ。

 姉は姉で屑だが、父も相当だらしがない。これで内科を経営する開業医だというのだから不思議である。

 父がやらないので、俺は結局自分で掃除をするしかなかった。


 一悶着あったが、何はともあれランニング開始である。体を鈍らせぬよう、部活が無い日でも自主錬は欠かさないようにしている。

 普段走るコースは決まっているのだが、今日はたまたまいつもの道が工事中で通れなくなっていたので別の方向に行くことにした。たまには普段とは違う景色を楽しむのも悪くはない。

 ランニングの途中、俺は河川敷の横を通りがかった。河川敷では高学年くらいの男子小学生が四人、ボールを蹴って遊んでいるのが目に入った。

 彼らよりももっと小さい頃であったが、自分にもあんな頃があったなと懐かしさを覚えた俺は、ランニングを止めて近くで見に行くことにした。

 彼らのうち三人は決して上手いわけではなかった。ごく普通の小学生レベルである。だが一人異彩を放っていたのが、青いキャップを被った少年であった。彼だけはやたらと上手く、小学生離れしたプレーと運動神経に俺は目を奪われた。

 彼は一度俺の方を見ると、顔を俯かせキャップの被りを深くした。

 暫く見ていると、四人の中の一人が俺の存在に気付いてこちらに向かってきた。

「あのー、お兄さんもしかして……」

「あー、いや、すまん。俺もサッカーやってるもんで、つい……」

 見ず知らずの小学生をじっとを見ていたとあれば下手したら通報ものである。俺は決して不審者ではないことを弁明しようとした。

「白亜学園のサッカー部の人ですか?」

「ん、ああ、そうだけど……」

 サッカー関連のことで声をかけられたことに、俺はひとまずほっとした。

「やっぱりそうだ! 俺、去年の大会見てました! 杉浦さんですよね、凄いシュートを打つ一年生って話題になってた!」

「えっ、ああ、それはどうも」

 サッカー好きの子供であれば地元の強豪校の試合くらいは見ていてもおかしくはないだろうが、まさか俺の名前まで覚えてもらっていたことには驚愕した。

「おーい、凄い人が来てるぞ! お前らもこっち来いよ!」

 俺のところに来た少年の呼びかけで、特に上手くない少年二人はこちらに走ってきた。だが、一人だけ上手かった帽子の少年だけは何故かこちらに来ようとしない。

「たかしも来いよー」

 たかしと呼ばれた少年は、目を隠すようにキャップをより深く被りながら、渋々という態度でこちらへと歩みを進める。

「この人杉浦紀之さんっていって、白亜学園サッカー部の選手なんだぜ」

「へえー、白亜学園ってサッカー強いとこだろ? すげーじゃん」

「ああ、どうも」

 たかだか高校サッカーでそこそこ強い程度の選手でも、地元の小学生からしたらヒーローなのだろうか。とりあえず悪い気はしないので、俺は暫く彼らと話すことにした。

 最初に俺のところに来た少年は、加藤かとう健太けんた。四人の中で一番背の高い茶髪の少年は、笹原ささはら祐一ゆういち。一番背の低い眼鏡をかけた少年は山本やまもとみのるといった。彼らは皆同じ小学校の同級生で、サッカー部に所属しているのだという。キャップの少年は高橋たかはしたかしといい、彼だけは違う学校だとのことである。学年は四人とも六年生だ。

 健太達三人は、昔俺と姉の通っていた小学校の後輩だった。俺の五歳下なので、俺と彼らは一年間だけ一緒の学校に通っていたことになる。

「あの、もしよかったら俺達にサッカー教えてくれませんか」

「え? ああ、別に構わないが」

 他人に教えることによって何かしら新たに見えてくるものもあるだろうと、軽い気持ちで俺はその頼みを引き受けた。

 俺はこれまでに培ってきた技術を色々と見せつつ、できる限りわかりやすく彼らに教えた。健太達三人はなかなか上手くいかない様子だったが、やはりたかし君だけは覚えが早かった。つい一人だけ君付けで呼んでしまうほど、俺は彼の実力に光るものを感じたのである。

 教えてもらっている間もまるで愛想が無く、殆ど言葉を発しない点は若干気がかりであるが。

 健太達とはサッカーの話題ですぐに打ち解け、互いにタメ口で話せる仲となったが、たかし君だけはどこか近寄り難いオーラを漂わせていた。

 クールで無口でミステリアス、それでいて四人の中では群を抜いて上手いという、さながらスポーツ漫画のライバルキャラクターのような人物。本当にこんな小学生がいるのかと疑いたくなるくらいである。尤も、それ以上にありえないような完璧超人(ただし胸は無くて性格は最悪)が俺のごく身近にいたりはするのだが。

「どうしたんだろう、たかしの奴」

 ふと、健太がそんなことを口にした。

「たかし君がどうかしたのか?」

「たかしの奴、さっきから急に喋らなくなったんだ」

「どういうことだ? 彼は普段からああいうクールな性格なんじゃないのか?」

「違うよ。いつもはもっと元気でよく喋るんだ」

 たかし君の動きは健康的であることこの上なく、健太の話はいささか信じ難いものであった。だが少し不安になった俺は、一人黙々とリフティングをしているたかし君に声をかけた。

「大丈夫か、たかし君。どこか悪いのか?」

 たかし君は答えない。

「もしかして熱中症じゃないのか? 顔を見せてみろ」

 そう言って俺が近づくと、たかし君はボールを落として後ずさり。しかも汗が滝のように流れ出した。彼の体調を案じた俺はとにかく顔色を見ようと、キャップを無理矢理掴んで奪い取った。

「わっ、ちょっ」

 珍しくたかし君が慌てた声を出す。その声は俺のよく知る誰かに似ているような気がした。

 ……俺は、思わず絶句した。帽子をとったたかし君の素顔が、俺のよく知るその人物にあまりにも似ていたからだ。

 顔立ち、背丈、声、おまけにその卓越した運動神経。その全てが、俺の姉に瓜二つだったのである。唯一違うところがあるとすれば、腰まであったロングヘアがいかにもスポーツ少年らしい短髪に変わっていることくらいだ。

 俺はポケットから携帯を取り出し、姉の番号に電話をかけた。たかし君のポケットから、姉がいつもセットしている着信音が鳴った。たかし君は恐る恐る携帯を手に取る。姉と同じ機種だ。携帯の向こうにいるはずの姉に、偶然であって欲しいと願いながら俺は言う。

「お前……こんなところで何してんだ」

 たかし君の携帯から、俺の言葉が繰り返された。たかし君の顔が、リトマス試験紙の如く真っ青に染まっていった。

「ごめんみんな! 僕用事ができたから帰る!」

 今日俺が聞いた中で一番長い台詞を放つと、たかし君は戸惑う友達を背に無理矢理俺の手を掴んで走り出した。途中ベンチに置いた自分の荷物をかっぱらうように持っていくと、後は逃げるように河川敷から走り去った。

 俺は頭の整理が追いつかず、引っ張られるがままで「たかし君」に連れられていった。


 暫く走って河川敷が見えないところまで来ると、「たかし君」と俺は足を止めた。

「おい姉貴……なのか? これは一体どういうことなのか、ちゃんと説明してもらおうか」

「……家に帰ったら話す」

 少なくとも彼……いや彼女が俺の姉であることは確かなようだった。

 短く切り揃えた髪に加えて、普段は女性らしいファッションを好む姉としては珍しいキャップとTシャツとハーフパンツといった服装。今の姉の姿は、どこからどう見ても男子小学生そのものであった。胸が全く無いといえるほど小さいこともあって、まさか「彼」を見て女かもしれないと思う人はそう多くはないだろう。

 姉が「家に帰ったら話す」と言うので、俺はとりあえずそれに従って一緒に帰ることにした。姉と二人で外を歩くなんて、一体何年ぶりだろうか。

 途中、小さな公園を通りがかった。

「ちょっと待ってて」

 姉はそう言うと、公園のトイレへと駆け出した。

「ちっ、便所かよ」

 姉がトイレに行っている間、俺は公園の外で待ちながら頭の整理をつけることにした。

 たまたま出会った小学生達にサッカーを教えることになり、その中で一番上手かったのがたかし君だった。小学生離れした才能を持つ彼には驚かされたが、まさかその正体が姉だったとは。一体どうして姉はあんなことをしていたのか。休日の度に出かけていたのはこのためだったのか。そもそもあの髪はどうしたのか。何から何までわからないことだらけだ。早く家に帰って問い詰めたい。

 それにしても、姉がトイレに行ってから随分と経つのに戻ってこない。大きい方かよ……と思った矢先、ふと嫌な予感が頭をよぎった。姉はトイレに行くふりをして、俺から逃げ出したのではないか。

 不安になった俺は、慌ててトイレの方へと走った。丁度その時、姉がトイレから出てきたところだった。

 そう、出てきたのは「姉」であった。「たかし君」ではなく。

 艶めく黒のロングヘアとひらひらのスカートを風になびかせて、本性を知らない男なら思わず見惚れそうな姿で、姉は公園のトイレから姿を現したのである。

「ここ女子トイレなんだけど何? 覗き?」

「誰がお前のクソなんか覗くかよ」

 顔面に裏拳を喰らって、俺は呻き声を上げる。

「着替えてただけよ。ほら、こんなところでボサっとしてないでさっさと帰るわよ」

 姉はそう言って、無理矢理俺の手を引いた。口調も男言葉から女言葉に戻っている。

 わざわざ公園のトイレなんかで変装を解く必要があるということは、「たかし君」の姿は家では見せられないものであるということなのだろう。ますます姉のやっていることに怪しさを感じながら、俺は家への帰路を歩く。


 家に着いて、俺達の帰りを母が出迎えた。

「おかえりなさい。あら、珍しいわね二人が一緒なんて」

「別に好きでこいつといるわけじゃねえよ」

 姉はすたすたと俺の前を歩いていき、自分の部屋に入る。

「紀之、あたしの部屋に来なさい」

 普段絶対に言わないようなことを姉が言うもんだから、母は俺と姉を不思議そうに見た。俺の部屋には勝手に入るくせに、自分の部屋には絶対俺を入れさせないのがこの姉なのだ。

 数年ぶりに姉の部屋に入った俺は、カーペット敷きの床に胡坐をかいて腰掛ける。

「で、いい加減どういうことなのか教えてもらおうか」

「そうね……まずは何から話せばいいのか……」

 姉は椅子に腰掛けて脚を組み、俺を見下ろす。

「まあ単刀直入に言うなら、あたしショタコンなのよ」

「はあ?」

「あたしは昔から小さい男の子が好きでね、どうしても男子小学生と遊びたかったの」

 唐突に妙なことを言い出した姉に、俺は目を丸くすることしかできなかった。

「でもいきなりこんな美人の女子高生が一緒に遊ぼうって言ったって戸惑うじゃない? だからあたし、男子小学生になることにしたの」

 一体こいつは何を言っているんだ。俺にはさっぱり理解できない。

 姉は鞄を開けると、「たかし君」になるために使っていた服と帽子を取り出して俺に見せた。更に続けて、自らの髪を掴むとそれを剥ぎ取ったのである。

驚愕する俺の目の前で。ロングヘアの下からたかし君の短髪が姿を現した。

「お前……髪切ったのか!? あんなにずっと伸ばしてきたのに!」

「ロングのまま男装しようなんて甘い考えは持っちゃいないわ。野望のためには必要な犠牲よ」

 俺はあまりの衝撃に、開いた口が暫く塞がらなかった。

ショートを通り越してベリーショートである。一緒にいた男子小学生三人と比較しても、一番短いくらいだ。姉が髪を大切にしていたことを知っていただけに、ここまで短く切ってしまったことは信じ難かった。男子小学生と遊ぶという野望は姉にとってそこまでする価値のあるものなのだろうか。

「というかお前、いつからヅラだった?」

「春休みからよ」

「そんな前から!?」

 ずっと一緒に暮らしてきたのに全く気がつかなかった。ここまで違和感無くヅラを被る方法、日本史の斉藤先生にも教えてやりたいものである。

「これでも維持するの結構大変なのよ。あたし顔可愛いから少しでも伸びたら女だってバレそうだし」

 自意識過剰な発言に俺は顔が引き攣るが、こいつの場合そう言えるだけの顔を実際に持っているのである。バレないのは大方、壊滅的なまでに無い胸のお蔭だろう。

「男装して外に出て、たまたま見つけた男子小学生に話しかけたらすぐに友達になれたわ。それで今は毎週休日の度に彼らと遊んでるの。これでわかったでしょ。あたしが男装してる理由は話したんだから、もうこのことには関わらないでくれるかしら。さあ、早く部屋から出てって」

 姉はヅラを被ると、俺を両手で押して無理矢理部屋から追い出そうとする。

「あ、それと……このこと誰かに話したら二度と大好きなサッカーのできない体にしてやるから」

 最後の最後であんまりにもあんまりな脅迫を残し、姉は俺を廊下に突き飛ばした。

 嗚呼、俺が一体何をしたというのか。家族の知りたくない秘密を知ってしまったばかりか、うっかり口を漏らせば俺の選手生命が死ぬ。これまでも姉が俺にしたいじめを誰かに話したら酷いことをすると脅されていたが、こうも具体的にどんなことをされるか言われたのは初めてだった。姉にとってこのことはそこまで秘密にしたいことなのだろう。

 翌日、姉は何事も無かったかのように猫とヅラを被って学校生活を送り、完璧生徒会長を演じていた。

 冷静になってこれまで共に過ごしてきた姉の姿を思い出してみる。思えば姉が幼き日の俺を異常に可愛がっていたことや、同年代の男子から告白されても全く相手にしなかったこと、将来は女医になって父の医院に小児科を新設するという夢を語っていたこと等が、どれもあの馬鹿げた性癖に由来するものだったのだと思うとぞっとした。

 姉は相変わらずファンに囲まれているが、彼らが姉の隠された趣味を知ったら卒倒することだろう。無論、俺は姉の秘密を誰かに暴露するつもりは無い。姉のためではなく、自分を理不尽な暴力から守るためである。


 あんなことがあってから、俺は暫く練習にも熱が入らなかった。だが一週間もすれば次第に心の中で風化していき、それほど気にするほどのことでもないと思えるようになっていった。

 そんな土曜日の、夕方のことだった。部活から帰ってきた俺は、家の玄関で姉に出迎えられた。

「紀之、ちょっと話があるの」

 俺は嫌な予感をさせながら姉についていく。姉が自分の部屋ではなく俺の部屋の扉を開けたことに、俺はゲンナリしてしまった。

「で、何の用だよ」

 露骨に嫌そうな顔を見せてアピールしながら、俺は尋ねる。

「この前あたしの休日のアレについてもう関わるなって言ったけど……明日もう一度河川敷に来て欲しいの」

「はあ? 何でまた俺が」

「あの子達にあたしがあんたと知り合いだって話したら、また連れてこいって言われたのよ。もう連れてくるって約束しちゃったし、来てもらわないと困るの」

 俺は大きく溜息を吐いた。

「どうせ行かなかったらまた酷い嫌がらせするんだろ。わかったよ行ってやる」

 やる気はまるでしなかったが、自衛のためである。

 翌日の昼食後、俺は姉と一緒に河川敷へと向かった。途中の公園で、姉は「たかし君」へと姿を変えた。

 河川敷では、先週出会った三人の男子小学生が待っていた。

 俺は先週と同じように、彼らと姉にサッカーを教えた。姉は俺に正体を隠すために口数を減らしていた先週と違って、いかにも元気な男子小学生を演じていた。

「なあ、たかしとはどういう経緯で出会ったんだ?」

 休憩時間。俺はベンチでジュースを飲みながら、健太と稔に尋ねた。ちなみに、もうたかしを君付けで呼ぶ気は無い。

「あいつは、俺達がここで遊んでたら急に現れたんだ。突然知らない奴から話しかけられてびっくりしたけどさ、サッカー上手いし明るくて面白い奴だからすぐに友達になったんだよ」

「あいつ頭がよくて気が利くし、凄く頼りになるやつなんだぜ」

「でもたかし君って不思議な人だよね。あの運動神経とか小学生とは思えないし。それにどこの学校に行ってるのかとかどこに住んでるのかとか、全然話してくれないんだ。僕は案外幽霊や宇宙人なんじゃないかって疑ってるんだけど……」

 稔はどうやらそういったオカルト染みたことに興味があるらしい。当たらずとも遠からず、奴は幽霊や宇宙人の如く恐ろしい女子高生である。

「そういえば、紀之さんとたかし君って従兄弟なんだよね」

「えっ? あ、ああ」

 まさかの従兄弟設定にされていたことが明かされ、俺は戸惑った。

「先週初めて会った時から、なんとなく二人が似てるなって思ってたんだ。紀之さんの従兄弟なら、幽霊や宇宙人じゃなくたってあれだけ凄くてもおかしくないかも……」

 なんだか俺は彼らの間で随分と凄いもののように扱われているようである。

「ところで紀之さん」

「ん、どうした健太」

「実は俺、白亜の中等部受けるつもりなんだけど、入試問題って難しかった?」

「まあ、それなりにな」

 ちなみに俺も小六の時、姉に同じことを尋ねた。姉は当たり前のように「簡単だった」と言い放った。尤も姉が難しいと言うような学校に俺が入れるはずもないので、それでよかったのだが。

「おーい、あっちで凄い物見つけたぞー!」

 遠くの方から、祐一の声が聞こえた。俺の姉と一緒にこちらに走ってくる祐一の手に、一冊の本が握られていた。

「見ろよ、あっちの茂みでエロ本見つけた!」

 祐一が持っていたのは、見覚えのあるエロ本だった。俺ははっとする。昨晩姉が俺の部屋を出ていった後、俺のコレクションが丁度一冊無くなっていた。そして祐一が手にしているそれは、その無くなったエロ本「素晴らしき世界のおっぱい」なのである。

 間違いない。姉は男子小学生の反応を楽しむために、俺の部屋からエロ本を盗みこの河川敷に仕込んだのだ。

「なあ、みんなで見ようぜ!」

 祐一は鼻の下を伸ばし、鼻息を荒くしている。

「お、俺はいいよ……」

「ぼ、僕も……」

 健太と稔は顔を赤くし、拒否の姿勢を見せる。もう少し大人になれば全力で見たがるものだが、小学生の反応といったらそんなところだろう。逆に言えば祐一はマセせている。

「僕は興味があるなあ。せっかくだから皆で一緒に見ようよ」

 姉は白々しくそう言って、皆にエロ本を見ることを促した。

 健太と稔は一度顔を見合わせると、ゴクリと唾を飲んで立ち上がる。何だかんだでこいつらも男子なのだ。エロ本に興味があるのは仕方が無い。

 俺は大事なエロ本を汚されないようにするため、そして取り戻すために、彼らと一緒にエロ本を見に行く。

「紀之もエロ本に興味あるんだ」

「……当たり前だ」

 白々しく言う姉に、俺は声を低くして言った。

 祐一は、心臓の音を高鳴らせながらエロ本のページをめくる。

「うおおすげー! おっぱいでけー!」

 大興奮で叫ぶ祐一。そりゃあ俺のコレクションなのだから、当然おっぱいはでかい。

 健太は顔を手で覆いつつ、指の隙間からエロ本を覗いている。稔は顔を真っ赤にしつつもガン見である。姉は、そんな彼らの反応を見ながらニヤニヤしていた。

 祐一は、恐る恐る次のページをめくる。

「はいここで没収ー!」

 俺は今がチャンスとばかりに、エロ本を取り上げた。

「あーっ、何すんだよー!」

「お前らにこれはまだ早い。俺が預かっておく」

「そんなこと言って紀之さんが独り占めしたいだけじゃんかー。それに紀之さんだって高校生だろ? 高校生だってエロ本読んじゃいけないのは一緒じゃないか!」

「うるせーとにかくこいつは俺のもんだ!」

 俺はエロ本を持って逃亡。何てったってこれは元々本当に俺の物なのだ。このくらいやって当然である。

突如、姉の蹴ったサッカーボールが俺の後頭部にぶち当たった。その拍子に俺はエロ本を落とす。

「今だ、拾いにいこうぜ!」

 小学生達が走り出す。俺も慌ててエロ本を拾おうとするが、その時急に突風が吹いた。風はエロ本を車道へと飛ばし、タイミング悪くやってきた大型トラックの群れがエロ本を引き潰した。

 俺のエロ本は、バラバラになってもう読めなくなっていた。さらば俺の宝物。俺の目から、一粒の涙が落ちた。

「あーあエロ本破れちゃったよ。紀之さんのせいだぞー」

「うるせー! サッカーの続きやるぞ!」

 俺はヤケクソになって叫ぶ。ここからの練習は若干スパルタと化した。普段の恨みを晴らさんとばかりに姉にスパルタできたのは割と楽しかった。

「ごめん僕ちょっとトイレー」

 厳しい練習の中、姉はそう言って河川敷に備え付けられたトイレへと走った。

「あっ、じゃあ俺も」

「俺も」

「僕も」

 すると男子小学生達は、次々とトイレに向かった。こいつら逃げたなと思いながら見ていると、なんと姉は男子トイレに入っていくではないか。

 俺はついそれが気になり、自分もトイレへと走った。小学生三人を追い抜き、姉の直後に俺は男子トイレに入る。

 なんと姉は、小便器の前に立っていた。流石に個室に入るだろうと思っていただけに、俺はぎょっとする。尤も、男子小学生の前でトイレの個室に入るというのはからかってくださいと言ってるようなものなので、それはそれで勇気のいる行為なのだが。

「紀之さんすげーダッシュだったな。よっぽど我慢してたのかな」

 後から来た小学生達には妙な誤解をされてしまったようだ。

 さて、このトイレには小便器が二つしかない。俺と姉がまず便器に立ち、小学生三人は後ろに並ぶ。

 果たして姉は、この状況でどうやって用を足すつもりなのか。

 俺がじっと凝視する中、姉はハーフパンツのホックを外してファスナーを下ろすと、ハーフパンツの前を大きく開いた。その後ぐっと腰を前に突き出して体を限界まで小便器に押し付けた後に下着を下ろし、用を足し始めた。

 女性が男性用立ち小便器を利用し、尚且つ大事なものがついてないことを他の者に見られることなく用を足すその姿勢。姉の器用さには、俺もびっくりである。

 用を足し終えて手洗い場に向かう際、姉は俺の方を一睨みした。

「たかしの立ちションの仕方って、なんか変だよなー」

 祐一が言う。確かに直接股間を見られることはないだろうが、流石に不自然さは隠せないだろう。

 俺がトイレから出たところで、姉は俺の手を引き走り出した。トイレの中に俺達の声が聞こえなくなるくらいのところまで来ると、姉は足を止める。

「お前……何僕のトイレ覗いてんだよ」

 小学生達に聞こえないところでも、男口調は徹底している、

「いや……だって気になるだろ、別にエロい意味とかじゃなくて。よくあんなことできるなってある意味感心するよ」

「まあ、家のトイレで散々練習したからね」

 姉の言葉を聞き、俺の頭の中に家のトイレの惨状が思い浮かんだ。

「って、あれお前の仕業か! ちゃんと自分で掃除しろよ!」

 思わずブチ切れて、姉に怒鳴りつけた。とりあえず、帰ったら父に謝っておこうと思った。

「何話してるんだ?」

 トイレから戻ってきた健太が、俺達に話しかけてきた。

「まあ……サッカーの話だよ、うん」

 なんとかトイレの危機を乗り越え、俺のサッカー教室は続いた。そして夕方。

「よーし、ここまでだ。子供は家に帰る時間だぞー」

 本日のサッカー教室はこれにて閉幕。大事なエロ本をダメにされたことに腹を立てて少々スパルタになってしまったが、悪ガキどもにはいいお灸になっただろう。

「俺がここに来るのは今日で最後だが、お前らならきっと将来いい選手になれると思う。これからも誠心誠意頑張るんだぞ」

 俺は適当にそれっぽい挨拶で締めた。もうお前らにサッカーは教えないぞという意思表示も籠めて。彼らには悪いが、これ以上俺の休日をこんなことに潰されるわけにはいかないのだ。

「ええー、もう来ないのー? せっかく仲良くなれたのに」

「またエロ本拾ったら見せてあげるからさー、これからもサッカー教えてくれよ」

 予想はしていたが、小学生達は俺を引き止める。俺は姉に目線を送った。姉にとっても俺同伴で男子小学生と遊ぶのは不本意だろうから、彼らを説得してくれると思っての行動である。だが。

「酷いよ紀之。毎週日曜の度にここに来てくれたっていいじゃないか」

 何故そこで弟いじめの方を優先してしまうのかこの姉は。お前にとっても俺がいない方が都合がいいのではないのか。

 四人は執拗にやめないでとせがんでくる。中でも姉は「やめたらどうなるかわかってるんだろうな」とでも言いたいかの如く眼を細めて凄みを利かせていた。

「ああもう、わかった……これからも日曜の度に来よう……」

 俺はとうとう心が折れ、そんな約束をしてしまったのである。

 家に帰った後、俺はこのことを姉に問い詰めた。

「今日のトイレの件で思いついたのよ。これからもあんたにはあたしの趣味に付き合ってもらって、あたしの正体がバレるのを阻止してもらおうと思って」

 一体何を言ってるんだろうこいつは。

「あたしの正体がバレそうになったら、あんたが庇うのよ。わかる? もしやらなかったらどうなるかわかってるわね」

 俺は眩暈がした。サッカーを教えるだけならまだしも、こんな馬鹿げたことに付き合わされるとは。

 俺の休日の過ごし方といったら、自主錬に励んだ後部屋でじっくりエロ本を楽しむというのが基本だった。その日常が壊されることに、たまらない不快感を覚えた。

「ああ……わかった。ただし土曜日は部活があるから行けないぞ」

 姉の脅しには屈するしかなく、俺は仕方が無くそれを聞き入れたのである。

 そして俺は、毎週毎週日曜の度、雨の日以外は必ず河川敷に行き小学生にサッカーを教える羽目になった。

 何度も通っているうち、姉はこちらでも小学生達のリーダー格であることがわかった。唯一の他校生であるにも関わらずである。たとえ男装していても無駄なカリスマを発揮することに変わりは無いのだろう。


 梅雨明け頃のある日のことだった。

 すっかり季節は夏になり、炎天下の河川敷でサッカーをやれば皆汗でぐっしょりになっていた。

 そんな中、姉がある提案をした。

「汗かいたし……みんなで銭湯に行かないか?」

 小学生達は戸惑っていたが、それはそれで楽しそうだと結局皆で行くことになってしまったのである。

 普段ならば俺がここで猛反対するところだが、既に家を出る前に姉からこの話を聞かされ協力するよう脅されていたため、素直に従うしかなかった。

 そうして俺達は、町内にある小さな銭湯へと来てしまったのである。

 姉は当然、俺達と一緒に男湯に入ってきた。銭湯には、俺達以外にも数人の客が来ていた。

 脱衣所にて、俺達は早速服を脱ぎだす。勿論、姉も。

 Tシャツの下はノーブラだった。女の格好をしている時にもブラジャーなんていらないんじゃないかというのは別として。

 姉の胸は、俺と一緒に風呂に入っていた頃から殆ど変わっていなかった。

 ハーフパンツの下に履いていた下着は、男物のボクサーブリーフだった。銭湯に行くからと男物の下着を購入したのか、或いは以前から男装する時はこれを履いていたのかはわからない。

 姉は腰にタオルを巻くと下着を脱ぎ、これにて銭湯スタイル完成である。

 花も恥らう女子高生が、上半身裸に下半身はタオル一枚という格好で男湯にいる。一体何のAVだと言わんばかりの状況だが、周りの客達は誰一人これをおかしいとは思っていない様子。裸であるにも関わらず、姉の男装は完璧なのだ。

 家を出る前、姉は言っていた。

『大丈夫よ、あたし胸無いから。下さえ隠しとけば絶対バレないわ』

 まさにその言葉通りであった。

 ちなみに俺はその言葉に対し「それ自分で言ってて悲しくならねえ?」と返したが、当然の如く殴られている。

 俺達は皆タオル一枚に着替え、浴室へと入る。

 不特定多数の男達から胸を見られているにも関わらず、姉は堂々としていた。自分は男なのだから、胸を見られたって平気という理屈だろうか。

 この姿を見た後では少々信じ難いが、普段の姉は露出に対するガードが固い。友人達から「姉や妹が裸や下着姿のまま平気で家の中を闊歩している」という話をたまに聞くが、うちの姉に関してはそんなことは全く無い。今俺が姉の裸はおろか下着姿を見たことさえ、最後に一緒に風呂に入った日以来のことなのである。尤も俺はあの絶壁姉の裸など見たところで何一つ嬉しくはないのだが。

 髪をバッサリ切ったことといい、姉は目的を果たすためなら己の身を削ることに躊躇しない人間なのだろうか。長年一緒に暮らしてきたが「性悪完璧超人」くらいにしか認識していなかった姉の性格に、意外な一面が見えたような気がした。

 俺達は体を洗うため、シャワー前の椅子に腰掛ける。

 ふと姉の方を見てみると、姉は小学生達の裸を鑑賞することに夢中でガードが甘くなっていた。

「おい、脚開きすぎだ。見られたらどうする」

 俺は慌てて隣にいる姉に耳打ちをした。姉はそっと脚を閉じる。

 完璧超人な姉のらしくないミス。男子小学生の裸という欲望を前にしたことでこうもダメになるのか。

 俺がここに来ているのは、姉の正体がバレることを防ぐためにである。この銭湯には俺達以外の客も複数来ており、もし姉の正体がバレれば大きな騒ぎになることは避けられない。普段はあまりやる気のしない仕事だが、今回限りは全力を賭して姉が股間を晒すことを防がなくてはならない。

「おい稔ー、湯船入る時はタオル取らなきゃ駄目なんだぞー」

 タオルを巻いたまま湯船に入ろうとした稔に、既に入っていた健太が言った。稔は言われた通りにタオルを取って湯船に浸かる。

「なあなあ、どこかに女湯覗ける穴とか無いかな?」

 祐一は相変わらずのエロガキぶりである。そんな彼も、まさかこの男湯に女がいるとは思っていないだろう。

 俺は一通り体を洗い終えると、タオルを取って湯船へと向かった。

「スゲエ……」

「大人だ……」

 ガキどもが俺の方を見てそんなことを言う。

「見てんじゃねえよお前ら」

 俺はそう言って湯船に浸かると、また姉の監視を続けた。

 男子小学生の裸を楽しんでいたところに俺の裸が混ざったことで、姉は嫌そうな顔をしていた。

 姉は念入りに体を洗った後、こちらに来ようと立ち上がる。

「たかし君、タオル巻いたまま入っちゃ駄目だよ」

 腰にタオルを巻いたまま歩く俺の姉に対し、稔が先程自分がされたのと同じように注意した。

 俺は慌てて風呂から上がり、姉のところに行く。

「おい、どうするつもりだ。流石にここでタオルを取るのはマズいだろ。適当に理由つけて湯船に入るのはやめた方がいいんじゃないか」

「丸出しのまま近寄ってくるなよ、気持ち悪い」

 心配して言ってやったのに、よりにもよってこの返しである。俺はさっと手で股間を隠す。

 丁度その時だった。祐一が上がり、こちらに近づいてきた。姉の視線は祐一の股間に注がれ、顔はニヤケ始める。俺の時とは随分と違う反応である。

 次の瞬間、祐一の手がたかしのタオルを掴んだ。

 俺ははっとした。姉に呆れていて気付くのが遅れたのだ。

「ウェーイ」

 祐一はふざけた掛け声と共に、たかしのタオルをずり下ろす。俺は慌てて止めようとするも、間に合わなかった。

 だが姉の手は、完全にずり落ちる前にタオルを掴み、ギリギリのところで食い止めた。流石の反射神経に、俺はほっとする。

「……マジかよ」

 祐一の口から、そんな言葉が漏れた。

「おいヤベーぞ! さっき一瞬見えたんだけどさ……」

 助かったかと思いきや急転。なんと祐一は見ていた。俺の顔から、血の気が引く。

 姉の方を見ると、そちらも顔を青くしていた。

 祐一は健太と稔に向かって、見たことを暴露する。当然その言葉は、他の客達にも聞かれていた。

「たかしの奴……ボーボーだった!」

 周囲の客から、吹き出す声や笑い声が聞こえた。

「えっマジ?」

「声変わりもまだなのに?」

「うんマジ! 俺見たもん! すっげー生えてた!」

 ……俺と姉は、改めてほっと一息吐き直した。どうやら毛が生えてることに注目してくれたお蔭で、竿が生えてないことには気付かれなかったようだ。

「祐一お前いたずらもいい加減にしとけよ!」

 俺が叱ると、祐一は湯船に飛び込む。

「で、結局どうするんだ」

 一つ危機を乗り越えて、改めて姉に尋ねる。

「そうだな……もしかしたらさっきのを利用できるかも。それと、お前の気持ち悪い裸とか見たくないから僕の視界に入らないようにしろ」

 いちいち俺の悪口を言わないと気が済まないのかこいつは。とはいえ俺も姉に裸を見られるのは気分が悪いので、さっさと湯船に戻った。

 さて、姉はどういう手でこの危機を乗り切るつもりなのか。天才と呼ばれる姉の頭脳から導き出される答えに、俺は少し期待してしまう。

 俺が見守る中、姉は俺達に尻を向けた。片手で股間を隠したまま、もう片方の手でタオルを投げ捨てる。そして両手で股間を隠した状態で振り返り、こちらに歩いてきたのである。

 姉の天才的頭脳が導き出した答えは、まさかの直球であった。

 確かに股間さえ見られなければバレることはないのだ。こうするのが一番確実というわけか。

「たかしの奴、ボーボーなの見られたくなくて必死で隠してるぜ」

 祐一がからかうように言う。

 なるほど、姉の言っていた「さっきのを利用できる」とはこういうことか。他の三人が生えてないのに自分だけ生えてるのが恥ずかしいから隠してる、と受け取ってもらえれば、徹底して股間を隠し続けることにも理由ができる。これならば女であることを疑われる可能性も減らせるというものだ。

 姉はその状態を維持したまま湯船に浸かり、脚をぴったり閉じて股間をガードした。

「なあたかしー、もっかいボーボー見せてくれよー」

 祐一がたかしの隣に来て、肘でつんつん突きながら股間を見せることを催促する。

「おいやめろ祐一。恥ずかしがってるだろ」

 俺も姉の作戦に乗る形で、祐一の行為を止める。

「ちぇー。あーあ、俺も早く生えねえかなー」

 祐一は本当に性的なことへの興味が強いようだ。

 ところで、今回の危機も乗り越えたはいいが俺には一つ気がかりなことがあった。

 それは先程姉が見せた尻である。股間さえ隠していれば裸でも男だと思われるくらいの幼児体形である姉だが、その尻は意外にも丸みを帯びた女の尻をしていた。下手したらこれでバレるのではないか……そんな不安が頭をよぎったのである。

 姉が立ち上がろうとすると、俺は急いで姉の後ろに回り一緒に立ち上がった。

「何?」

 俺の不審な行動に、姉は戸惑いを見せる。

「何だっていいだろ、早くタオル取りにいくぞ」

 俺は姉の後ろにくっついたまま、姉と一緒にタオルを取りにいった。姉が腰にタオルを巻いて、まずは一安心。

「何だよさっきの」

「いや、お前のケツを隠してやろうと……」

「ふーん。理由はわかった。でもお前のそれが僕の真後ろにあるってのが気分悪いんだけど」

 姉は俺の股間を指差して言う。俺はカチンと頭にきながら、自分もタオルを巻いた。

「ほらお前ら、もう帰るぞ。支度しろ」

 姉が下着を履いたのを確認すると、俺はお湯をかけ合ったりして遊んでいる小学生三人に声をかける。

 こうして俺は、ミッションをコンプリートしたのである。姉の犯罪じみた欲望を満たす手助けをさせられたのは心外だが、なんとかやりきったことには心底ほっとした。正直、サッカーの練習よりも多く汗をかいた気がした。

 銭湯を出た後一旦河川敷に戻り、俺達は解散となった。

 いつものように、姉は公園のトイレで女の格好に着替えてから家に帰る。

「いやー最高だった。今日はいいもん見たわー」

 家に帰って、早速姉は満点の笑みでそんなことを言い出す。俺からすれば最低でしかない。ただでさえストレスが溜まることをやらされているのに加え、この姉に全裸を見られてしまうとは。

「まあ、余計なもんまで見ちゃったけどさ」

 俺の方を見て、姉は言う。俺だって見せたくて見せたわけではない。俺が苦労して正体がバレるのを防いでやったというのに、まったくこの姉はどこまで俺の神経を逆撫ですれば気が済むのだろうか。


 翌週の日曜が来た。俺はこの一週間、ずっと考えていた。

 もうすぐ夏休みが始まる。夏休みになれば、姉は毎日のように男装して彼らと遊びに行くことだろう。

 姉の変態的行動はとうとう男湯潜入までエスカレートした。いい加減止めなければ、今度は何をやらかすかわからない。

 それに夏休みは、俺にとっての一大イベントである夏の大会がある。少しでも練習時間を作って大会に備えたいし、姉や小学生達に付き合うなどという無駄な時間を過ごしたくはないのだ。

 休日にもサッカーができると言えば聞こえはいいし、小学生達が俺の指導でだんだん上手くなっていくのを見るのも、それはそれで楽しかった。だが所詮相手は小学生である。俺の練習相手としては力不足もいいとこであり、はっきし言って彼らから俺の得られる物は何も無かった。

 もう、やめるしかない。

 俺は決心した。今日、男子小学生三人に「たかし君」の正体をばらすということを。

 当然、姉には暴力を振るわれることだろう。大会を前にして選手生命を奪われたら元も子もない。だが俺は、せめてもの姉の良心に賭けることにした。これまで姉は俺に対し散々暴力を振るってきたが、入院したり後に傷が残ったりするほど酷いことはしてこなかった。脅しのために口では恐ろしいことを言っているが、実際に二度とサッカーができなくなるほどの怪我をさせることは流石に無い……そう信じようと思った。

「紀之ー、河川敷行くわよー」

 自分の部屋でそんなことを考えていたら、姉が扉を開けて声をかけてきた。

「おい、まだ午前中だぞ。河川敷行くのは昼飯食ってからだろ」

「今日は特別なのよ。いいから来なさい」

 一体何が特別なのか。午前中からこいつに付き合わされるのは勘弁願いたいのだが。

 まあ、こいつの正体バレが早まったと考えれば問題ない。どっちにしろ正体がバレてしまえばちびっこサッカー教室も無くなるのだ。

 早速俺は河川敷に行く準備をする。

「あなた達最近仲いいわねえ。ここのところずっとお休みの度に二人でどこか出かけてるじゃない。昔に戻ったみたいでお母さん嬉しいわ」

 玄関から出て行こうとする俺と姉に、母がそんな言葉をかける。残念ながら、俺と姉が一緒に出かけるのは今日が最後である。

 先を行く姉の背中に、「今日でお前の変態遊戯もお終いだ」と無言で語りかけながら、俺は河川敷への道を歩いた。

 後ろから見た姉の顔は、どこかにやけているような気がした。

 いつものように姉が公園で着替えを済ませてから、俺達は河川敷に行く。

「おーいたかしー、紀之さーん」

 健太がこっちに手を振る。彼らと会うのも今日が最後だと思うと、少し寂しくなる。だがそれでいいのだ。彼らは姉の被害者であり、もうこんなことに関わるべきではないのだ。

「お待たせー。この子達が、昨日言ってた子?」

 姉は走って彼らのところに行く。

 「この子達」とは誰のことかと思って見てみると、今日は少し人数が多い。いつもの三人に加え、小学生が更に二人いるのだ。しかもそれは、女子であった。

 一人は俺の姉と同じくらいの背丈で、ピンクのワンピースを着た黒髪のポニーテール。もう一人はそれより少し背が低く、Tシャツとショートパンツを着た茶髪のツーサイドアップ。

 どうやら姉は昨日の時点で、彼女達がここに来ることを聞かされていたようである。俺が午前中から連れ出されたのもその関係なのだろうか。

「ほらほら来たよ、莉子の王子様」

 茶髪の子が黒髪の子に言う。

「えっと……この子達は一体……」

 小学生達のところに来た俺は、早速健太に尋ねた。

「ああ、こいつら俺らのクラスメイトなんだ。この前教室で紀之さんのこと話してたら、一緒に来たいって言い出してさ、仕方なく連れてきたんだよ」

 よりにもよって、こんな日に余計な来客であった。

「あっ、あの、私、天野あまの莉子りこっていいます……」

 黒髪の方の子が、もじもじしながら自己紹介。

「あたしは付き添いで来た佐々木ささき千夏ちなつでーす」

 続いて茶髪の子も元気よく自己紹介する。

「あっ、あの……杉浦紀之様……ですよね」

「様!?」

 黒髪の方の子、莉子から急に様付けされ、俺は戸惑った。

 一体何の話かと待ってみるも、彼女はもじもじしっぱなしでなかなか次の言葉が出てこない。

「ほらっ、がんばれ莉子!」

 千夏からの応援を受けて、莉子は一歩前に出る。

「あっ、あの、その……好きです! わ、私と……お、お付き合いしていただけませんかっ」

 顔を真っ赤にし、俯いて目を瞑ったまま莉子は言った。それは紛れも無く、愛の告白。

「イエーイ」

「ヒューヒュー」

 男子どもの茶化す声が、河川敷に響く。

 俺の額から、冷や汗が流れた。

「いや、悪いんだが……俺はそういうのはお断りしてるんだ」

 莉子の目に涙が浮かぶが、俺は見ない振りをする。今まで女を振ってきたことなどいくらでもあるのだから、このくらいで心を痛めてたらやってられないのだ。

「ほらもうこの話は終わりだ。お前らもいつまでもヒューヒュー言ってんじゃねえ。そんなことより、今日は俺からも話があってだな……」

 さっさと姉の秘密を明かして終わりにしたいと、俺は強引に話を切り替える。

 その時だった。

「ひどーい! 何でそんなこと言うの!?」

 急に声を上げたのは、佐々木千夏であった。

 俺の頭の中で、小学生時代の嫌な思い出が蘇る。気の弱い女子が勝手に泣き出し、気の強い女子がそれをチャンスとばかりに男子を攻め立てる。女子小学生が男子を陥れるための常套手段だ。

「莉子はこんなに可愛いんだよ! それなのに断ったりするなんて信じらんない!」

 確かに顔は可愛い。学校では大層モテていることだろう。だが俺はどこかの姉と違って子供を性的に見る趣味など無いし、第一今は大会が近づいていて少しでも練習に時間を使いたいのだ。彼女なんて作ってる場合じゃないし、ましてやそれが小学生なんて以ての外である。どんなに頼まれてもその誘いに乗ってやる義理は無い。

 俺は彼らなら同情して味方してくれるだろうと思って、男子三人に目を向けた。

「紀之さん、天野泣かせてるぜ」

「ちょっとくらい付き合ってあげたっていいのにね」

「俺らのことなら別にいいよ、サッカー教えてもらうのはいつでもできるし」

 彼らも俺の敵だった。後ろにいる姉は目で無言のプレッシャーを送ってくるし、ここに俺の味方は一人もいないのである。

「莉子は優しくて気が利くし、お料理やお裁縫だって上手だし」

 千夏は聞いてもいない莉子の長所を俺に教えてくる。そんなことを聞かされたって俺の考えは変わらないというのに。

「それに、胸だって大きいんだよ!」

 俺の耳が、ピクリと反応した。

 ふと目線を下にやってみれば……なるほど確かに小学生にしてはよいものをお持ちだ。D……いや体の細さを考えるとEはあるか。この歳でこれだけのおっぱいを有するとは、なかなか将来が楽しみな一品である。

 ……おっと危ない危ない。一瞬揺らぎかけたが、あくまで俺の意思は変わらない。改めてもう一度はっきりとお断りの言葉をかけようと、俺は口を開く。

「だったらこういうのはどうかな」

 俺が話す前に、後ろにいた姉が声を出した。

「要するに紀之は見ず知らずの人から告白されて戸惑ってるんだろう? だったら一度デートでもして彼女のことを知ってみればいいんだよ。何なら僕と佐々木さんを加えてダブルデートという形にしてもいいよ。二人きりじゃ恥ずかしいだろう?」

 そう提案した姉は、にっこり微笑んで俺の方を見た。俺は決してそんなつもりで断ったわけではないのだが、姉はいかにも「そうだろ、そうだと言え」とでも言わんばかりの顔をしていた。

「……わかった、それでいい」

 俺はひとまず姉の作戦に乗ることにした。傍から見れば高校生が小学生を泣かせているようにしか見えないこの状況を、早く切り抜けたかったのだ。

「やったね莉子、紀之さんデートしてくれるって!」

 千夏に言われ、莉子は顔を上げる。

 彼女には悪いが、とりあえずデートすると約束だけして彼女達を帰し、あとは適当な手段で有耶無耶にしてしまえばいい。さっさとこんな話は終わりにして、姉の秘密を男子三人に明かさなくては。

「よし、それじゃあ早速今から行こうか」

「はあ!? 今から!?」

 まさかの展開に、俺はつい大声を上げる。

「そう、せっかく時間があるんだからね。佐々木さんと天野さんもそれでいいよね」

「オッケー」

「は、はい」

 ……俺は絶句した。姉は元から、俺とこの子をデートさせるつもりでここに来ていたのだ。何もかもが姉の掌の上で踊らされている気がして、俺は頭が痛くなった。


 そうして俺と莉子、姉と千夏のダブルデートが始まった。姉の提案により、河川敷から歩いて移動し近所のショッピングモールにやってきた。この付近ではデートスポットとして定番の場所だと友人らの話で聞いたことがある。

「今日はよろしくねーたかし君」

「こちらこそよろしく、佐々木さん」

 姉は俺に対して見せる邪悪な笑みとは対照的な営業スマイルで、千夏に笑いかける。千夏の方も中性的な美少年然とした「たかし君」からデートに誘われたことはまんざらでもないらしく、その顔は嬉しそうだ。

「たかしの奴も趣味悪いよなー、佐々木なんかとデートしようなんて」

「学校違うし、佐々木がどんな奴か知らないんじゃね?」

「紀之さんと天野さんをデートさせるために汚れ役を買って出ただけだと思うよ」

 それにしても佐々木千夏、男子三人組から酷い言われようである。彼女も顔は可愛い方だと思うのだが、男子からこうも嫌われるのはやはり性格が原因か。俺を攻め立てる姿はいかにもなウザい女子の典型であるし。

 ちなみに男子三人組は、全員帽子にグラサンにマスクというバレバレの変装で俺達を尾行している。

 俺は隣にいる莉子へと顔を向けた。彼女はさっきからずっと俯いてもじもじしており、たまに俺の顔を見ては頬を染めて目を逸らすばかりである。

 女子と交際した経験の無い俺はただでさえこういう時どう接すればいいのかがわからないのに、ましてやこんな子が相手では一体どうしたらいいのやら。

 もうこんなことはさっさと切り上げて帰りたい。俺はそればかり考えていた。

「さあ、行くよ紀之」

 ぼさっとしていた俺を急かすように、姉が言う。

「じゃあ、行こうか。その……莉子ちゃん」

 どう呼んだらいいのかわからないので、とりあえずちゃん付けしておいた。俺に名を呼ばれて、莉子の顔が火を噴くように赤くなった。せっかくクーラーの効いた室内に入ったというのに彼女の周りだけやたらと気温が高く感じた。

「あの……呼び捨てで構わないです」

「そうか? じゃあ……莉子」

「ひゃ、ひゃいっ!」

 莉子は急に奇声を上げ、全身をプルプル震わせながら幸せを噛み締めるように両頬を手で覆う。呼び捨てにされたことがそんなにも嬉しかったのだろうか。

 俺達はショッピングモールの中をとりあえず散策した。普段の俺だったら真っ先にスポーツショップに行ってるところだが、今日はそういうわけにもいかない。

 行く当ても無くぶらぶらしている間にも、イケメン男子小学生を演じる姉は千夏相手に紳士的なエスコートをしていた。一方で俺と莉子は、互いに無言の気まずい状態が続いている。

 別に彼女と仲良くなりたいというわけではない、むしろあまり親密になってしまっては別れが辛いのでそうなるのは避けたいところなのだが……やはりこうも会話が無いというのはどうにも落ち着かない。

「なあ、莉子」

「ひあっ!?」

 急に話しかけられた莉子は、驚いてビクッとなる。

「どこか行きたい店とかあるか?」

「いっいえ、そんな……」

 曖昧な答えのまま、莉子はまたすぐに縮こまってしまう。俺はほとほと困り果てた。

 それにしても、この子は本当にいいおっぱいをしている。小学生とは思えぬ豊かで柔らかそうな乳である。しかも今は夏真っ盛り。自然と服装が薄着になり、上から見下ろせば谷間もはっきりと見える。こんな子を同じクラスに持つ男子は色々と羨まいや大変だろう。

「紀之ー、早く行くよー」

 おっぱいのことを考えていたら急に姉に呼ばれ、我に帰った俺は足を進める。

 連れられて来たのは、ゲームセンターだった。子供が喜びそうな場所としては妥当だろう。

「よっしゃー遊ぶぜー!」

 男子三人組は尾行のことなどすっかり忘れ、ゲームに夢中になる。

 姉と千夏はデートらしくプリクラを撮っているようだ。

「莉子、何かやりたいゲームとかあるか?」

「あっいえ、私は……」

 莉子は相変わらずなので、とりあえず俺は姉達が変なことをしないか監視するためベンチに腰掛ける。莉子もそれについてきて、俺の隣にちょこんと座った。

 彼女も俺を無視して他の小学生五人(一人は高校生だが)みたいにはしゃいでくれれば楽なのだが、一応デートという形式上そうもいかないらしい。

 さて、一体何を話すべきか。

「あの……」

 突然莉子の方から声をかけてきて、俺はびっくりした。

「すみません紀之様。一度断られたのに、無理に付き合わせてしまって……」

 莉子は小さな声で、俺の方を見ようとせず言った。

「あの、やっぱり紀之様にとっては、私なんかと一緒にいたって楽しくないですよね……ご迷惑をおかけして本当にすみません……」

 どうやら彼女は俺が楽しくなさそうにしているのが気になったらしい。事実、これが楽しいかと言われると間違いなく楽しくないのだが。こう今にも泣きそうな声で言われると、なんだか俺がいじめているようで悪い気になってくる。

「ああ、そんなことで悩んでたのか。だったらもう別にいいよ。来ちゃったものは仕方が無いんだし、俺のことは気にせず莉子は莉子で好きなことしてこればいいよ」

「あっ、あの、それなら……ここにいさせてください」

「え? いや……俺といてもつまらなくないか?」

「私は紀之様と一緒にいられるだけで幸せですから……」

「そ、そうか」

 よくよく考えたら俺のことを好きだと言ってるのだからそうなるのも当然である。

 ずっと隣で熱を放たれるのは少々気になるが、とりあえず監視の邪魔にはならないので俺はこのまま置いてやることにした。

 ……さて、姉達は特におかしなことをするわけでもなく、真っ当にゲーセンで遊んでいる。

 ふと俺は莉子の方を見た。相も変わらずもじもじしている。

 そういえば、彼女はどういう経緯で俺のことを好きになったのだろうか。

 俺は彼女の姿に、なんとなく見覚えがあるような気がした。確かにこんな顔の子をどこかで見ていたのだが、それが思い出せない。きっと以前どこかで会っていて、その時に惚れられたのだろう。

 尤も俺は莉子と交際するつもりは一切無いので、そんなことはどうでもよいのだが。

「おーい紀之ー」

 莉子のことを考え姉から目を離していたら、急に姉が手を振って俺を呼び始めた。

 さて、次は何をさせられるのか。俺はうんざりしながら立ち上がり、姉のところに行く。莉子はひよこの如く俺の後をついてきた。

「で、何の用だ」

「紀之と天野さんもせっかく来たんだからさ、プリクラの一枚でも撮っていきなよ」

 姉に提案され、俺は莉子の方を見る。莉子は恥ずかしがりつつも凄く嬉しそうな顔をしている。俺は心底めんどくさいと思ったが、仕方が無いので撮ってやることにした。

 俺はやり方がわからないので、莉子が機械を操作しているのを黙って見ていた。機械の説明音声に流されるままに、とりあえず撮る。

 出てきた写真を見て、俺は絶句した。風邪を引いているんじゃないかというくらい顔を赤くして、前髪で目が隠れるくらい俯いている莉子と、どうしていいかわからず目がおかしな方向を向いているアホ面の俺。こんなものを渡されてどうしろというのか。

 幕を上げて撮影機の外に出ると、早速姉にプリクラをぶんどられた。

「何だこれ! 紀之どこ向いてるんだよ!」

 案の定爆笑され、俺は怒りが沸く。

「しょうがないだろ、こういうのよく知らねえんだから」

「でもこのアホ面はないわー」

 姉をぶん殴りたくなったが、我慢する。どうせこのデートが終われば逆襲できるのだ。

「そろそろお腹空いてきたな。ご飯にしないか」

 そういえばもう昼である。姉に完全に仕切られる形で、俺達はゲーセンを出た。

「おい、あいつら飯食いに行くみたいだぞ!」

「えっ、今いいところなのに」

 ゲームに夢中の稔を引っ張り、男子三人組も尾行を再開する。さっきまで当然のように俺達の前に姿を見せていたのに、また隠密行動を始めることに意味はあるのだろうか。

 俺達が連れてこられたのは、モール内のファミレスだった。

「食事代は全額紀之が奢ってくれるってさ」

「はあ!? そんなこと俺は一言も言ってないぞ!」

「別にいいじゃないか。この中で最年長かつ唯一の高校生なんだから」

 一体どの口がそんなふざけたことを言うのか。あまりにも理不尽な発言に俺は頭がおかしくなりそうだった。

「ああ……わかったよ。あんまり高いもんばっか食うなよ」

 だが俺はそれ以上抵抗することなく素直に従っておいた。今は我慢の時である。

「あっ、あの……私、できるだけ安いものにしますね……」

「そうしてくれると助かるよ」

 俺は莉子の頭をそっと撫でると、ファミレスへと入る。莉子の体温が急激に上昇したような気がしたが、多分気のせいだろう。

 一応財布を確認してみると、幸運か不幸か四人全員食べさせるには十分な金額が入っていた。

「奢ってくれるってよ」

「やったな!」

「ご馳走になります紀之さん」

「お前らみたいな怪しい連中は知らん。自分で払え」

 変装も解かずにのこのこと出てきた男子三人組を俺は一喝、以降無視することにした。

 店員に案内された席で、俺達はメニューをぱらぱらとめくる。

「じゃあ僕は、塩ラーメンにしようかな」

「あたしカルボナーラ」

「俺はハンバーグセットで」

 やってきた店員に俺達は注文するが、莉子だけが何も言わない。

「どうしたんだ莉子、まだ決まってないのか?」

「あの、えっと……」

 莉子はメニューのオムライスをじっと見ていた。

「オムライス食べたいのか?」

「あっ、で、でも少しお高いですよ……」

「別に構わないよ。好きなもん食え」

「じゃ、じゃあ、オムライスで……」

 どうやら俺に遠慮していたようである。彼女の優しさに思わずほっこり。

「俺ビーフカレー」

「俺はカツ丼で」

「僕はきつねうどん」

 横のテーブルから図々しくもこちらと同じ店員に注文する男子三人組。わざわざ俺達の隣に来るとは、俺に払ってもらう気満々である。

「お前らのは払わないって言ったろ! あ、店員さん、彼らとは別会計でお願いします」

 俺は男子三人組に怒鳴りつけた。まったくどういう教育受けてるんだこいつら。

 やがて料理が運ばれてきて、俺達は食事を始める。

「たかし君って本当かっこいいよねー。イケメンだし紳士的だし、うちの学校の男子とは大違い。たかし君うちの学校に転校してきてよー」

 千夏は相当たかしを気に入ったようで、同じ学校の男子達が見ている前で彼らをディスりつつ、たかしのことを褒め殺している。果たしてこいつの本性と性別を知った時、彼女は何を思うか。何にせよここまで深く関わってしまった以上、この後で彼女にもそのことを明かさねばならないことは確かである。

「健太達をあまり悪く言わないでほしいな。彼らは僕の友達なんだから」

「あ、え、えっと、別にそういうつもり言ったんじゃ……ごめん」

 たかしが少し嫌そうな顔をしたのを見て、千夏は墓穴を掘ったと気付いて狼狽える。

「流石たかし君だね」

「佐々木のヤツに一泡吹かせてやったぜ」

 一方、姉にとっての本命であろう男子達の好感度は上昇していた。そのことに姉はご満悦。だがこの後待っている俺のネタばらしで、彼らの好感度も地の底まで落ちるのだ。その瞬間のためだけに俺は今日、このつまらないデートに耐えているのだ。

「た、たかし君……千夏ちゃんは本当は優しくていい子だから……嫌いにならないであげてください……」

 莉子が精一杯にフォローする。俺は特に何か言うわけでもなく、黙々と食べ続ける。

 皆が食べ終わった頃、食器を片付けに店員が来た。

「お客様、デザートはいかがでしょうか」

 おい余計なこと聞いてんじゃねえ、と俺は心の中で店員に怒りをぶつける。

「それじゃあクリームあんみつで」

「あたしチョコパフェ」

「俺は……別にいいや。莉子はどうする?」

「あ、わ、私もいいです……」

 相変わらず遠慮しない姉と千夏に対し、莉子は謙虚である。やはり胸の大きい子は心も広いのだろう。

「小学生が遠慮すんなよ。好きなもん食えって言ったろ」

 姉達にだけ食わせて莉子には食べさせてあげないのは可哀想に思い、俺はそう言う。

「じゃあ……いちごアイス」

 莉子は比較的安めのものを選んで、店員に伝えた。

 運ばれてきたいちごアイスを美味しそうに食べる莉子を見て、俺は思わず頬が緩んだ。胸の大きい子は何をしていても絵になる。

 一通り食事を終えて、俺は会計に立つ。勿論男子三人組の分を払う気は一切無い。

 その時だった。

「あ、ヤベエ、金足りねえ」

 祐一の声だった。俺は顔を顰める。

「うわーゲーセンで使いすぎたーどうしよー」

 俺に聞こえるように、わざとらしく言ってくる。

 祐一のところに歩いていった俺は、彼の財布を取り上げた。中を見てみると、入っていたのはたったの百二円。

「本っ当にこれだけしか持ってないんだな? 本当にだな?」

 俺は祐一を睨みつけながら再三確認する。祐一はこくこくと頷く。

「はぁ……わかった、お前の分も払っといてやるよ。健太と稔は自分で払えよ」

「うわーありがとう紀之さん!」

 俺は大きな溜息を吐いた。我ながら甘いことこの上ない。

 改めてレジに向かおうとすると、莉子がその前に立ちはだかった。

「ん、どうしたんだ莉子」

「の、紀之様……よかったらこれ……使ってください!」

 莉子はそう言って、自分の食べた分だけの代金を両掌に乗せて俺に差し出してきた。

「あ、いや、別にそこまでしてもらわなくても……一応俺が全部奢るって話になってたわけだし……」

「いえ、紀之様にご迷惑はかけられません! 使ってください!」

 一度俺の奢りと決めてしまった上で小学生に気を遣われて、情けなくなった俺は断っておく。だが、莉子が引く気配は無い。

 仕方が無いので、俺は莉子の手から五百円玉一枚だけを手に取った。

「じゃあ、これだけ使わせてもらうよ。気遣いありがとな、莉子」

 俺は莉子に感謝の念を籠めて頭をポンポンと撫でてやる。また莉子の体温が急上昇した。

 ファミレスでの会計を済ませた俺は、店の外で千夏や男子三人組と話している姉のところへ行く。

「おいたかし、飯も食ったんだし、そろそろ帰らないか。午後からはいつも通りサッカーの練習しようぜ」

 サッカー教室を理由に、俺は帰ることを提案する。

「どうする? 天野さん、佐々木さん」

「わ、私は紀之様がそうしたいなら……」

 流石は莉子、この子はいつも俺の味方である。俺の中でのこの子の好感度はつい上がってしまうから困る。

「莉子がそう言うならあたしもそれでいいけど……あっ、その前に一つ行きたい店があるんだけど、いいかな」

「……わかった、本当にそれが最後だぞ」

 せっかく莉子が俺に同調してくれたにも関わらず、千夏が空気の読めないことを言う。俺はそれが最後だと念を押した上で、仕方なくそれを認めた。

 千夏の提案で最後にやってきたのは、キャラクターショップだった。可愛らしいキャラクターのグッズが目白押しであり、いかにも女子小学生が好きそうな場所だ。莉子も目を輝かせている。

 何を買おうかと店内を物色する莉子と千夏を、俺は店の出入り口付近から見ていた。

「あたしこれ気に入ったかもー」

 千夏は一つの小さなぬいぐるみを手に取り、俺の姉に見せる。

「だったら僕が買ってあげるよ」

「えー悪いよー」

「いや、今日は楽しませてもらったお礼にさ」

 紳士的な笑顔で、姉は千夏に言う。その後、一瞬俺の方を見た。俺に一体何をしろというのか。

「莉子はどれにするー?」

 千夏が莉子に話しかける。莉子はまだ迷っている様子だった。

「あっ、莉子この子好きだったよね、これにしたらどう?」

 千夏はうさぎのぬいぐるみを指差して莉子に言う。

「で、でも私のお小遣いじゃ買えないし……文房具とかでいいよ」

「いいじゃん紀之さんに買ってもらえば。どうせならこっちのもうちょっと大きいやつにしてさ」

 おい千夏何を言っている。姉の近くにいたせいで俺に対する鬼畜がうつったのか。

 姉もこっちを見ている。俺に買えとでもいうのか。まったくこいつらどうかしている。

 俺は仕方なく莉子のところに行き、少し大きめのうさぎのぬいぐるみを手に取った。

「これが欲しいんだろ。俺が買ってやるよ」

「そ、そんな、紀之様にそこまでして頂くなんて恐れ多くて……」

「遠慮なんかしなくていいよ。俺からのプレゼントだ」

 俺はそう言ってぬいぐるみをレジに持っていった。会計を済ませると、莉子にぬいぐるみを渡す。

 相手が莉子だからそうしてやったのだ。姉や千夏相手にはそこまでできない。俺が姉に虐げられている時も味方してくれたことへのお礼である。それに、彼女は俺のことを好きなのだ。俺とこうしてデートをすることはもう二度と無いだろうが、最後に好きな人に買ってもらえたものとしていい思い出になるだろう。

 帰り道。ぬいぐるみを抱く莉子はずっと笑顔であった。喜んでもらえたようで幸いである。

 さて、河川敷に着けばいよいよ姉の秘密を明かす瞬間が来る。俺は今から心臓が高鳴った。早く河川敷に行きたいと、自然と足が速まった。

 気を引き締めなければならない。姉にしっかりととどめを刺し、このくだらない茶番を終わりにするのだ。真実を知った小学生達はショックを受けるだろうが、いつまでも姉に騙され続ける方がよっぽど可哀想というものだ。

 可哀想といえば莉子もだが……こればっかりは仕方が無い。いくら巨乳で可愛くて性格がよくても、今の俺にとってはサッカーが恋人でエロ本が愛人なのだ。彼女などを作ってそれにかまけている暇は無いのである。

 そう思いながら莉子の方を見ていると、莉子は嬉しさのあまり心ここにあらずといった具合だった。当然、周囲に対する警戒は薄くなっている。

 そんな莉子の足元に、丁度アスファルトの窪みが来ていた。

 あっと思ったのも束の間。案の定莉子は窪みに足をとられて躓いた。

 俺は思わず、莉子を助けに手が動いた。前方に倒れる彼女の身体を、俺は両腕でしっかりと支える。

 莉子が転んで怪我をするのを無事阻止し、ほっとした俺であったが、ふと右手の妙な感触に気付いた。

 柔らかい。そして暖かい。ぬいぐるみかな? いや、明らかに違う。

 右手を通して伝わってくる鼓動が、速さを増してゆく。

 俺は全身から冷や汗が流れた。姉と千夏、男子三人組が、皆こっちを見ている。

 これは幸運、不幸、どっちと採るべきなのだろうか。

 俺は……莉子のおっぱいを鷲掴みにしていたのである。

「いつまで触ってんだよ紀之」

 姉の言葉で我に返った俺は、慌てて莉子を立たせ手を離す。

「ごっ、ごめん、わざとじゃないんだ! 本当にごめん!」

 まさかの出来事に動揺した俺は、完全に挙動不審と化していた。

 エロ本を読んで妄想していたようなシチュエーションが、今現実にこの場で起きていたのである。

 校内屈指の巨乳好きとして知られる俺だが、何を隠そう本物に触れるのはこれが初めてだ。十七年生きてきて触れたことのある女性の乳房は、母親と姉の貧乳だけなのだ。

 初めて触れた巨乳はマシュマロのように柔らかく、一生揉み続けていたいと感じるほどの気持ちよさだった。こんな状況でなければ、幸せのあまり昇天していたかもしれない。

 とりあえず今夜のオカズは決まったようなものである。流石に小学生の莉子でやるのは不味いので、エロ本を読みながら脳内でAV女優さんに置き換えつつ、先程の感触を思い出すという形でいこうか。

「スゲエな紀之さん、おっぱい揉んでたぜ」

 後ろからついてくる祐一が、ぼそっと言った。

「うわぁ……」

「あれって痴漢じゃないの?」

 健太と稔も口々に言う。そうだ、今は今夜のオカズのことなど考えている場合ではない。

 莉子の方を見ると、高熱のあまり目を回して放心していた。

「り、莉子大丈夫!?」

 千夏が慌てて莉子に駆け寄る。千夏に体を揺すられ、莉子ははっと目を覚ました。

「あれ? え? わ、私……」

 莉子は胸を押さえながら、涙目で俺の方を見る。俺は最悪の事態を想像した。

「わ、わざとじゃない! これは事故だ! だから通報とかは……」

「はっ、はい、紀之様は私を助けてくださったんですよね!」

 莉子はいつになく大声で、声を裏返しながら言う。だがその後、さっきまではあんなにべったりくっついていたにも関わらず、露骨に俺から離れて千夏のところへ逃げて行った。

 年頃の女の子が胸を触られたとあればば当たり前の反応であるが、俺は少しショックを受けた。嫌ってもらえれば後腐れなく別れられるのだからそれでよいのだが、何だかんだで人から嫌われるというのは気分のいいものではない。それが先程まで自分に強い好意を向けていた相手とあれば尚更である。

 まあいい。どうせこれから姉もこれと同じ悲しみを背負うのだ。大好きな男子小学生に嫌われて絶望するがいい。


 そんなことを考えているうち、俺達は河川敷に到着した。

 さあ、いよいよである。今こそ「たかし君」最後の日。

「えーと、実は、お前らに話があってだな……」

 俺は咳払いをし、早速話を切り出す。

「の、紀之様!」

 と、それを遮るかの如く莉子が声を上げた。

「あ、あの、一度断られた身ですけど……改めて言わせてください! 好きですっ!」

 ここでまさかの再告白である。おい待てさっき俺のことを嫌いになったんじゃないのか。

 莉子は目を瞑ったまま、俺が返事をするのを待っている。

 だが俺はこれからとても大事な話があって、とてもそんなことに構っている場合ではないのだ。可哀想だが、早いとこ断ってしまわねば。

「えーと、さっきも言ったと思うけど俺は……」

「紀之様、覚えていますかっ!」

 お断りの言葉を聞きたくないと言わんばかりに、またしても莉子が言葉を遮る。

「わ、私、一年生の時に紀之様に助けて頂いたんです。校庭で遊んでたら急にボールが飛んできて、六年生の紀之様がそれから私を庇ってくれたんです。それ以来私、ずっと紀之様のことが好きなんです!」

 莉子の口から語られる、俺のことを好きになった理由。小学生時代のことなので俺は殆ど覚えていないが、なんとなくそんなことがあったような気はする。俺にとってはその程度のことでも、彼女にとっては忘れられない思い出なのだろう。

「私、紀之様の出るサッカーの試合は全部見てます。応援してます!」

「そ、それはどうも……」

 俺が莉子の姿に見覚えがあると感じたのは、どうやらそれが原因のようである。そういえば昔から試合会場の観客席にこんな顔をした子がよく来ていた。てっきり同じチームの誰かの妹か何かだとばかり思っていたが、まさか俺を目当てに来ていたとは。

 こんな可愛い子から応援されるというのは、やはりスポーツを嗜む者として嬉しさを感じる。だが、それとこれとは話が別である。俺は小学生の彼女を作る気など断じて無いのだ。

「あー、応援してくれるのは嬉しいんだけど、そこから恋人になるってのはまた別の話であってだな……」

「紀之、まさか断るつもりかい? あんなことまでしておいて……」

 口を挟んだのは、たかしこと俺の姉である。あんなこととは言うまでもなく、先程のおっぱい鷲掴み事件のことだろう。

「待て、あれは事故だと言っただろ! 不可抗力だ!」

「それでも女の子の胸に触るなんて一大事だよ」

「そうそうたかし君の言うとおり! 莉子がかわいそうだよ!」

 グイグイ押してくる姉と千夏に、俺は苛立った。

 俺はダメ元で男子三人組に目線を向けるが。

「一年生の頃からずっと片思いしてて、これで振られたら悲惨だよなー」

「引っ込み思案の天野さんが殆ど話したことない僕達に話しかけてまで掴んだ告白のチャンスだしね」

「これで振ったりしたら男じゃねえよな紀之さん」

 案の定、彼らも莉子の味方であった。どうしてどいつもこいつも俺とこの子をくっつけたがるのか。八方塞の四面楚歌。どこにボールを蹴っても敵に捕られる最悪の事態。

「天野さん、見た目も凄く紀之の好みだと思うんだけどなあ」

 姉の言葉に触発されて、俺の視線はつい莉子の胸に行く。

 まったく冗談ではない。こんな可愛くて優しくて胸がでかくて胸がでかい女子小学生と恋人になるなど……

「ああ、わかったよ莉子。今日から君は俺の彼女だ……」

 プレッシャーとおっぱいを前に完全敗北を喫した俺は、莉子と付き合うことを承諾した。

 先程から既に瞳を潤ませていた莉子は、信じられないと言わんばかりに口をぱくぱくさせ、やがて口元を手で押さえ泣き出した。

「紀之様……ありがとうございます……私なんかを……」

 涙声でお礼を言う莉子。俺は取り返しのつかないことを言ってしまったことを今更実感し、これまでかいたことのない汗が全身から噴き出た。

「あー……悪いなお前ら。今日は疲れたからサッカー教室は無しだ。俺は家帰るわ」

 何もかもどうでもよくなった俺は、男子三人組にそう告げて河川敷を去った。一度振り返ると、莉子はまだ泣いていた。


 家に帰って、俺はベッドに突っ伏した。

 小学生と男女交際である。犯罪者である。一体どうしてこうなった。

 結局姉の秘密を明かすこともできず、俺は一体何をしにあそこに行ったのか。

 いっそこのまま灰になって消えてしまいたいとさえ思った。

 動く気すら起きず、ただ時間だけが過ぎていった。

 いつの間にか帰ってきていた姉が、俺の部屋の扉を勢いよく開けた。

「やっほー紀之、彼女ができたんだって? おめでとー」

 その瞬間をその場で見ていたにも関わらず、さも人から聞いた話であるかのように姉は言う。

 イラッときた俺は、ぐったりしていた体を持ち上げ、姉の前に立った。

「どういうつもりだよてめえ。一体俺に何をさせてえんだ」

「どういうつもりも何も、あたしはただ一人の少女の恋を手伝ってあげただけよ」

「ふざけんなよ! こっちがどれだけ迷惑してると思ってんだ!」

「別にいいじゃない、おっぱい大きいんだし。顔だって相当上物よ。まあ、あたしには及ばないけど」

「そういう問題じゃねえ! 大体俺は彼女なんかいらねえんだよ!」

「あーはいはい、そういう硬派アピールいいから。まあ何はともあれ、これであんたとあたしは同じ穴の狢ってこと。年下好きの世界へようこそ、ロ・リ・コ・ン・君」

 俺の背筋が、ぞっと凍りついた。

「てめえ、嵌めやがったな!」

「ええそうよ。あんたがあたしの秘密を健太達にバラそうとしてたのはとっくに気付いてたわ。もしもあんたがあたしの秘密をバラしたら、今度はあたしがあんたの秘密、つまり女子小学生と付き合ってることを全校生徒にバラす。そのためにあたしはあんたと莉子ちゃんをくっつけたの」

 何ということか。そんなことをされれば、俺は社会的に死ぬ。この悪魔は自分の抱える爆弾を爆発させないために、俺に核爆弾を抱えさせやがったのだ。あまりにも卑劣な作戦に、俺の身は震えた。

「くそっ、あの莉子って子もお前が仕向けたんだな! 金で雇ったのか!?」

「それは違うわ、莉子ちゃんの恋心は本物よ。あんたがあたしの秘密バラそうとしてるのにどう対処しようか考えてた時、丁度健太達からあんたのことを好きな女子がいるって話を聞いてね、こりゃ使えるわーって思ったの。まさかそれがあんた好みのおっぱいちゃんだとまでは思わなかったけどね。上手くいき過ぎて逆に怖いわー」

 姉はそこまで言うと、俺に背中を向ける。

「大事にしたげなさいよ。あんないい彼女、そうそういないんだから」

 そう言って部屋を出ていく姉を、俺はただ呆然と見ているだけだった。

 そして扉が閉まった瞬間、俺はかつてない敗北感に打ちひしがれ、全身の力が抜けて床に膝をついた。どんなに大事な試合に負けた時でさえ、これほど落ち込むことはなかった。


 どんなに気分の時でも、次の日は来る。一晩寝たくらいで心の傷が癒えるはずもなく、失意の最中で俺は学校に行くしかなかった。

 教室に入って、早速友人が声をかけてきた。

「おっす紀之、またいいエロ本見つけたから持ってきたぞ。読むか?」

「あ、いや……俺はいいや」

 俺がそう言うと、友人は何の冗談だと言わんばかりに目を丸くした。

「どうした紀之、熱でもあるのか」

 友人が尋ねてくるが、俺は聞こえないふりをする。今は大好きなエロ本を読む気さえ起きなかったのである。

 授業内容も碌に耳に入らぬ中、俺は昼休みに一年生の女子生徒から校舎裏に呼び出されていた。

「杉浦先輩、好きです! 私と付き合ってください!」

 二日続けて告白されるとは奇遇なこともあったものである。尤も校舎裏に呼び出される用事なんて告白か恐喝かリンチくらいなものなので、それなりに予想はついていたが。

 巨乳とエロ本が大好きな変態と評判が広まっていても、告白してくる女子というのはいるものである。これだからサッカー部のエースは辛い。

「あー悪い、俺彼女作る気は……いや、彼女いるんだわ、俺」

 めんどくさいんで適当に振って、俺は教室に戻る。

 そう、俺には彼女がいるのである。彼女がいないなら付き合っていたかと言われると決してそうではないのだが、単純に振る理由として彼女がいることを自分の口から出してしまったことで、改めてそのことを認識させられたのである。

 部活の時間になっても、俺の気が立ち直ることはなかった。

「どうした杉浦弟、やる気が無いのか?」

 ボールが近くに来ても動かずぼーっとしている俺に、遠くから大門先輩が言う。

「ああ、すいません」

「大丈夫か、何かあったのか?」

 ただ事ではない様子の俺を大門先輩は不審に思ったのか、こちらに駆け寄ってきて尋ねた。

「いや、特に何も……すみません」

 俺は余計な心配をかけさせぬよう、そうとだけ言って走り出す。

 このままではいけない。大会も近づいているというのに、腑抜けてはいられないのだ。

「うおああああああっ!」

 ヤケクソになって絶叫しながら、俺はストレスをボールにぶつける。

 俺の放った渾身のシュートは、ゴールポストに弾き返された。

 それから暫く、俺の不調は続いた。日を跨ぐ毎に少しずつ立ち直りつつはあったのだが、日曜日が近づくにつれ再び気持ちは落ち込んでいった。

 河川敷に行きたくない。莉子に会いたくない。でも行かなきゃならない。

 金曜日に終業式を向かえ、夏休み突入である。俺達サッカー部は全国制覇を目指し一日中練習に励むのだが、エースストライカーの俺がすっかり腑抜けてしまいチームの士気は下がる一方であった。

 来週からは大会が始まる。負ければ当然俺の責任になるだろう。それだけで胃が痛くなり、食事も喉を通らなくなった。

 翌日、俺は嫌々ながらいつものように姉と共に河川敷に来た。男子三人組に加えて、今日もまた女子二人が来ている。

「あっ、紀之様」

 俺の方を見た莉子が、ペコリと頭を下げる。

 嗚呼、この子さえいなければ今頃俺はこのくだらないサッカー教室から解放され、自分の練習に時間をとれて、こんなに気分が落ち込むこともなかっただろうに。

 諸悪の根源は間違いなく姉なのだが、この子にもつい怒りが向いてしまう。

 何かもう色々とどうでもよくなり、いっそのこと俺のせいで初戦敗退とかしても別にいいやとか思い始めた。

 とりあえず俺は、適当にサッカー教室を始める。やる気が無いので、本当に適当である。

 莉子と千夏は、そんな俺達をベンチから見学している。

「ねえねえ莉子ー、あたし、たかし君のこと好きになっちゃったかもー」

 千夏は隣に座る莉子にそんなことを話していた。

「たかし君ってさ、中性的な美少年って感じで超好み。笹原辺りと交換でうちの学校来ればいいのにねー」

 千夏はすっかり俺の姉に惚れ込んでしまったようである。中性的どころか本当の性別は女、しかもショタコンの変態でいつも弟をいじめている人間の屑だということを今すぐにバラしたい衝動に俺は駆られる。後が怖いのでバラさないが。

「ねえ莉子ー、あんたこんなところで見てないでさあ、紀之さんにサッカー教えてもらいにいったらどうなの?」

「え?」

「だって今日まだ一回も紀之さんと会話してないじゃない。あんた紀之さんの彼女なんでしょ、もっとアピールしないと」

「う、うん……私、行ってくる」

 莉子は立ち上がると、小走りでこちらにやってきた。

「あ、あの、紀之様……私にもサッカー、教えてくださいっ」

 正直、あっちのベンチで見学してもらえた方が楽なのだが。頼まれたら仕方が無いので、俺は莉子にもサッカーを教えることにする。やる気が無いので当然適当であるが。

 莉子はあまり運動が得意ではないようで、ただでさえ面倒なのにこんな教えるだけ無駄としか思えない子に教えるのは苦痛でしかなかった。

 だが、それでも頑張ってサッカーに挑もうとする莉子を見ていると、不思議と心が和むのである。具体的に言えば、彼女が動く度に揺れるおっぱいを見ていると。

 うむ、本当に小学生とは思えないおっぱいだ。莉子のおっぱいを見ているとここ最近の悩みが全部吹っ切れるような気がする。

「すげー揺れてるな、アレ」

 エロガキ祐一が莉子を指差して言う。

「見てんじゃねーよてめえ!」

 俺はつい祐一に怒鳴ってしまった。別に莉子のことなんて微塵も愛しちゃいないが、一応自分の彼女ということになっている女性が他の男にエロい目で見られるのは何だかんだで不愉快なものなのである。

 ……怒鳴ったら一気に疲れがきた。

「悪い……俺疲れたから休んでくるわ」

 そう言って俺は、ベンチへと向かう。

「あっ紀之様、お茶飲みますか?」

 莉子は俺の世話を焼きたがるのか、わざわざ自分の水筒を取り出しお茶を注いでくる。暑いし喉も渇いているので、一応俺は貰っておいた。

「あの、私、紀之様のためにお弁当作ってきたんです」

 そう言って莉子は、今度は鞄から弁当箱を取り出した。

「お弁当って……さっき昼食べたばっかでしょ」

 千夏の冷静なツッコミに、莉子ははっとする。そして涙目になってはうはう言い出した。

「ああ、大丈夫。丁度お腹空いてたから……」

 俺はそう言って弁当箱を受け取る。無理な運動で疲れた俺は、とりあえず何か食べたいと思ったのだ。

 実を言うと今日は河川敷に行かなければならないストレスが原因で、朝昼共に殆ど食べていないのである。こんな状態で運動をすればすぐに体力が無くなるのも当然であった。

 弁当箱を開けると、そこにはいかにも女子小学生といった彩り豊かな可愛らしい盛り付けがされていた。俺に食べさせるために作ったからか、ご飯の上には海苔でサッカーボールの形がデコレーションされている。

 正直あまり期待はしていなかったのだが、綺麗な見た目に食欲が膨らんだ。

「美味しそうじゃないか。ありがたく頂くよ」

 俺は莉子に微笑んでそう言うと、卵焼きを一つ箸で取り口に入れた。

 その瞬間だった。半開きだった俺の目が、パッチリと覚めた。

 美味い。美味しいのである。タコさんウインナーも、ポテトサラダも次々と口に運び、気がつけば完食。

「ごちそうさま、美味しかったよ。これ、莉子が作ったのか?」

 さっきまでめんどくせえだのこいつさえいなければだの思っていたにも関わらず、不思議と俺の莉子への態度も柔らかくなった。

「は、はい。紀之様に食べて頂きたくて……がんばって作りました!」

「そうか、ありがとな」

 俺は感謝の気持ちを籠めて、莉子の頭を優しく撫でた。莉子の顔がぼっと赤くなる。

「莉子はいいお嫁さんになるよー紀之さん」

 千夏がニマニマ笑いながら煽ってきた。

「あの……お口に合うかどうか不安だったんですけど……喜んで頂けたようで嬉しいです」

 ほっとして見せた莉子の笑顔に、俺は思わずときめいた。

 照れを隠すかのように、俺はすっと立ち上がる。

「お前らー、勝負するぞ。四対一だ!」

 俺は向こうで練習してる男子三人組と姉に声をかけた。

 突然湧き始めたやる気に俺自身戸惑っていたが、空腹に美味しいものを放り込めばこうなるのも致し方あるまい。我ながら単純である。

 河川敷の地面に木の棒で線を描いて仕切った簡易コートで、俺一人と小学生四人(うち一人は高校生だが)が対峙する。

「行くぞ!」

 俺は掛け声と同時に、ドリブルでフィールドを駆けた。

 健太、祐一、稔の三人が一斉にボールを奪いにくる。小学生如きが俺の相手になるはずもなく、俺は一瞬で彼らの隙間を抜き去った。

 後ろに待ち構えるのは、姉である。元々運動神経抜群の姉だが、俺が教えてやったお蔭で随分とサッカーも上達した。普段馬鹿にしている弟からご教授されるなんてあいつのプライドが許さないだろうが、男子小学生と遊ぶためならばそんなプライドは平気で捨て去るのが俺の姉である。正直俺は、この姉とサッカーで真剣勝負できることが密かに楽しみでいた。

「来いよ紀之、僕がボールを奪ってやる」

 余裕の表情で挑発する姉。まさか俺に勝つ自信があるとでもいうのか。だが俺は怯むことなく突っ込み、姉のディフェンスを潜り抜けた。

 そしてポールを二本地面に挿しただけの簡易ゴールに、そのままの勢いでシュートを叩き込む。

 見事なゴールを決めて、俺はガッツポーズ。俺はあの姉に勝利したのだ。得意分野で小学生や女子に勝ったくらいで喜ぶのも滑稽なことこの上ないが、スランプを脱したことが純粋に嬉しかったのだ。

 今までくだらないことで悩んでいたのが馬鹿らしく感じてきた。彼女くらいいたっていいじゃないか。年の差が何だというのだ。あれだけ美味しい料理を作ってくれる彼女なら大歓迎である。

 俺は思わず、莉子の方へと走り出した。

「莉子!」

「の、紀之様! か、かっこよかったです!」

 莉子は俺のゴールを見て目を輝かせていた。

 俺は笑顔で莉子の頭を撫でる。

「ありがとう、莉子のお蔭で悩みから吹っ切れることができたよ」

「はっ、はい、紀之様のお役に立てて光栄です」

 莉子の可愛らしさに、つい頬が緩む。

 まさか弁当一つで落とされるとは、俺も随分とちょろい男である。

「やるじゃないか紀之。まさか僕が抜かれるとは思っていなかったよ」

 薔薇色の空気を壊しにきたかの如く、姉が話しかけてきた。

「紀之と天野さんもすっかりラブラブだなあ。僕も手伝ってやった甲斐があったよ」

「ヒューヒュー」

 男子三人組も便乗して茶化しに来る。

「お前らなあ……」

 今更になって恥ずかしくなり、俺は顔を背けた。

「ねえねえ、ところでたかし君って、どんな子が好みなの?」

 突然、千夏がそんな話題を切り出した。

「えっ僕? そうだな……僕は元気のいい子が好みかな」

「やった、あたし元気いいよ」

 律儀に答える姉。喜んでアピールする千夏だが、残念ながら姉が言っているのは元気な男子のことであり、女子の千夏は対象外である。哀れ。

「へー、たかしってそんな女子が好みなのか。俺はやっぱり髪長くて清楚なお姉様系だなー」

 祐一は聞いてもいないのに自分の好みを語り始めた。

「せっかくだから健太と稔も教えろよー」

「えっ……お、俺は、いいよ……」

「ぼ、僕も……」

 口に出して言うには少々恥ずかしい話題を振られ、健太と稔はどもる。

「僕も知りたいな、健太と稔の好みのタイプ」

 二人の恥ずかしがる顔に興奮しながら、姉が食いついた。

「ほらほら言っちまえよー。別に好きな子の名前言うわけじゃないんだからさ」

「わ、わかったよ。実は俺……ボーイッシュ系が好きなんだ。祐一とは逆に髪短くて、ちょっと男っぽい感じの」

「僕はやっぱり、趣味の合う子かな……」

「へぇー……」

 男子三人組の好みのタイプを知れて姉はご満悦。

「紀之さんはやっぱりアレだよなー、巨にゅ……」

 俺は慌てて祐一の口を手で塞いだ。実は以前、サッカー教室の休憩中にうっかり巨乳好きであることをバラしてしまっていたのだ。これを莉子に聞かれるわけにはいかない。

「笹原君、紀之様の好みがどんな子か知ってるんですか!?」

 だが、ここで莉子が食いついた。

「い、いや、こいつがいい加減なこと言ってるだけだ。莉子は気にしなくていい」

 俺はそう言って、もがく祐一を睨みつける。祐一はこくこくと繰り返し頷いた。

 さて、くだらない話はこのくらいにしよう。

 丁度今はベンチ近くに全員が集まっている。あのことを話すならば今しかない。

「あ、そうだ。来週からは大会が始まるからな、今日を最後に暫くここには来られなくなる。いいよな、お前ら」

 話を切り替えがてらに俺はそう言って、男子三人組に同意を求めた。

「そっか、もうそんな時期か。勿論いいぜ」

「当たり前だろ」

「紀之さんの活躍、期待してるよ」

 サッカー好きの彼らは、当然受け入れてくれる。

「たかしも、いいよな」

 今度は俺が同調圧力を利用する番だと、ここぞとばかりに姉に尋ねた。

「ああ、別に構わないよ。大会があるんじゃ仕方が無いからね」

 流石にここで無様な姿は見せず、姉はすんなりと受け入れた。

「莉子も、暫く会えなくなるけど……」

「大丈夫です! 私、試合は全部見に行きますから! 紀之様が勝てるよう、一生懸命応援します!」

「そうか、ありがとな」

 莉子に応援してもらえれば、いつも以上の力が出せそうな気がした。

 ここに来る前はもう莉子に会いたくないなどと思っていたのに、今は暫く会えないことがとても寂しく感じた。我ながら何と見事な掌返しだろうか。

 その日家に帰って、俺は姉に改めて言った。

「そういうわけだ、今日河川敷で言った通り、暫くはお前の変態染みた遊びに付き合ってやれなくなる。あっちではそれで構わないって言ったんだから、ちゃんと約束守れよ」

 姉に対して強気な発言をするが、内心は結構ビクついていた。

「そこまで空気読めない女じゃないわよ。あんたあたしを何だと思ってんの」

「俺の天敵」

 本当はもっと罵りたかったが、大会前に怪我したくないので最大限言葉を選んだ。

「ふーん、まあいいわ。大会前に怪我させたら可哀想だから殴らないでおいたげる。それよりあんた、今日は随分とデレデレだったじゃない。前はあんなに嫌がってたのに。すっかりロリコンに目覚めちゃったってわけ」

「ロリコンじゃねえよ。てめえと一緒にするな」

「まあ、あんたの方も莉子ちゃんを好きでいてくれるならそれはそれであたしにとって都合がいいから、別にいいんだけどね。大会、莉子ちゃんの前でかっこ悪いとこ見せないよう精々頑張りなさい」

 姉はそう言うと俺の部屋を出て行く。いちいち一言多いのにイラッときた。


 翌日俺は、腑抜けて練習に真剣でなかったことをチームメイト達に謝り、これまでの遅れを取り戻すべく死ぬ気で練習した。

 全国制覇に向けて、ひたすら特訓を重ねる日々。

 そして大会前日。練習を終えてくたくたになって帰ってきた俺を、姉が玄関で出迎えた。

 疲れた体に姉の顔を見せられるのはたまらないストレスなので、俺はめいっぱいの嫌な顔ををしてみせる。

「なーにぶっさいくな顔してんのよ。別にそんな顔しなくても、あんたに嫌がらせする気は無いわ。今日はあんたにこれを渡すよう頼まれたのよ」

 姉はそう言うと、俺に一つの物を手渡した。何かと思って見てみると、それはフェルトで作られたサッカーボール型のマスコット。

「莉子ちゃんの手作りよ。試合に勝てるお守りだって」

「そうか、莉子が……姉貴、莉子にお礼言っといてくれ」

「あたしへのお礼は?」

「お前はただの運び人だろうが」

 俺は姉の横を通り過ぎ、自室へと戻る。

 莉子の愛情が篭ったお守りを手にすると、不思議と闘志が湧いてきた。目指すは全国制覇、ただ一つ。持てる全ての力を出し切って、その栄冠を掴み取ろう。

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