第9話:追いニンニクと看葉奈さん

 ある金曜日の二一時半、斗路家の一室で……看葉奈は「うぅん」と声を上げ、椅子に背中をグッと押し付けて身体を伸ばした。


 机の上にはルーズリーフが五〇枚近く積まれ、その全てに細かな文字が、時折賀留多のイラストが描かれていた。表紙代わりの一枚には『我が国における賀留多の伝来とその歴史について』と題されている。


 時は流れ、移ろい、数多の苦難と葛藤を乗り越えて《筆頭目付役》に成った看葉奈は、今後も続くであろう花ヶ岡の賀留多文化が一層盛り上がるように、自ら初級者用の「教本」を執筆していた。


 チラリとカレンダーを見やる看葉奈。初稿を広報部に持って行く期日には、充分な余裕があった。続いて花柄の壁掛け時計を確認する、執筆開始から丁度二時間経っていた。


「……今日はここまでかなぁ」


 もう一度、「うぅん」と胸を反らせる。知らぬ間に全身に力が入っていたようだった。それはきっと――「登用試験へ向けて奮闘する日々」を思い出していたからに違い無い。


 傍らには写真立てが置かれている。見慣れた花ヶ岡の校門前で、看葉奈と柊子、二人に挟まれて笑う目代が映っていた。敬愛する目代は、しかしカメラを前にすると子供っぽく笑うのが癖だった。


 数ヶ月も経てば――目代は花ヶ岡高校を卒業していく。卒業式の後は急ぐように入学式が始まり、また《金花会》は彼らの入会手続き、初心者向け講習会で多忙を極めるだろう。


 夏期休業期間が迫る頃には次の《筆頭目付役》を誰にするか、孤独に悩む日々が来るだろうし、志望する大学の推薦枠が取れるよう、一層種々の努力が欠かせなくなる。


 何もかもが……目まぐるしく変化し、矢のように過ぎ去って行くのが看葉奈は切なかった。




 もう少し、もう少しだけ、「こんなに楽しい毎日」が続けば良いのに。




 なるべく吐かぬようにしていた溜息が、一人でに彼女の口から飛び出した。ルーズリーフがヒラヒラと動いた。


 それでも、看葉奈は残る高校生活が、恐らくはになると確信していた。ポジティブ思考の塊じみた親友、柊子がいつの日か発言した内容が、ネガティブな彼女の希望に花を添えていた。




 いけないわ、みーちゃん。悲観的になって溜息ばかり吐いていて、それで物事が好転した事あるぅ? 無いわよねぇ? 大好きな先輩の卒業や、最後の学校祭、可愛い後輩達への訓戒……色んなが、今後私達を待ち受けているのよぉ。


 初めてを思いっ切り楽しむ事。それが嬉しい事でも辛い事でもね。たった一つ、人生の秘訣なのよぉ――。




 同い年とは思えない程に達観した柊子は、確かに毎日が楽しそうだった。些細な事でも実に面白そうに話し(実際、柊子の話はユニークとウィットが共存していた)、何か得られるものは無いかと無意識に探っているようだった。


 私も、目付役をやる事で……何か発見出来ただろうか?


 答えは分からない。分からないが――心の奥底、無形の何かが温みを以て此方に手を振っている気がした。


「……まぁ、その内ですね」


 立ち上がる看葉奈はそのまま部屋を出て行った。醤油豚骨味のカップラーメンを携えて戻って来たのは、それから一〇分後の事であった。


 薬缶の下部で再接着した蓋を剥がすと、次第次第に中身が湯気を伴って現れる。蓋を剥がし切った時、看葉奈の笑顔は最高潮に達する。


「あはぁ……やっぱり、これだけは止められないですねぇ」


 小さな鼻をスンスンと鳴らし、芳しい豚骨の香りを脳髄に染み渡らせる看葉奈。明日は土曜日、珍しく誰かと会う予定も無い為……。キッチンで生ニンニクを「追加」して来たのである。


「臭い、今日は部屋から出て来ないでね」と母親からキツい言葉を掛けられつつも、は止められなかった。


「それではぁ……いっただきまぁーす!」




 人生とは、時に残酷なものである。


 看葉奈がラーメンを完食、完飲した直後にスマートフォンが振動し、電話の着信を報せた。相手は同学年のであった。


『もしもし? ごめんね夜遅くに……ううん、違うの。あのね、明日。暇かなぁって。ほら、斗路さんが見たがっていた映画! そのチケットがあるの! 龍一郎が商店街の籤引きで当てたんだけど、私と斗路さんの二人で行ったら良いですよって。斗路さん、これは行くしか無いよね!』

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