第5話:幼き日

「お帰りなさい……って、どうしたのよぉ泣きベソ掻いて……」


 ファッション雑誌から柊子が顔を上げた瞬間、鼻を啜る看葉奈に驚いた。


「本は買えたのねぇ……何かあったの?」


「……ちょっと、怖い先輩が……」


 あらぁ――柊子は俄に立ち上がり、壁掛け時計を見やった。昼休み終了まで五分を切っている。


「……どうしたんですか」


「三分くらいあればわねぇ。ちょっと行って――」


「違う違う、違うんです! 別に虐められたとか、そういうのじゃなくて……」


「じゃあ嬉しくて泣いたのぉ? 違うでしょお?」


 殴り込みを掛けようと躍起になる柊子を宥め、何とか椅子に座らせた看葉奈は「事の顛末」を訥々と語り始めた。


「…………っていう訳なんです。酷いですよね、私の決意を……」


 全くよねぇ――という親友の言葉を待っていた看葉奈は、しかし待てども待てども一向に聞こえて来ない。


 しばらくの間を置き、柊子は期待を裏切るような発言をしたのだった。


「私、その人の伝えたい事が分かる気がする……何となくだけどねぇ」


「そ、そうですか……?」


 つまり――柊子は歌うように自身の解釈を説明した。


「萬代さんは、きっと待っているのよぉ」


「待っている……?」


「そうそう、待っているの。みーちゃんが考え、悩み、『それでも』と立ち上がり、向かって来るのを……」


「でも、あの人は会計部でも目付役でも無いはずです。無理に話を通さなくても……」


 それは悪手よぉ、と柊子が眉をひそめた。


「筋が通らないわぁ。萬代さんは――みーちゃんの恩人なのよぉ?」


 チャイムが鳴った。クラスメイト達は机を元の位置に戻し、次の授業の準備を始めた。


「恩人……」


「言ったんでしょう? 私の言葉を考えなさい、って。ヒントまでくれるのね、優しい事……」




 その日の晩。看葉奈は物憂げな顔でベッドに寝転び、『週刊賀留多馬鹿』なる雑誌を読むをしていた。「《やっちゃば》必勝三箇条!」という彼女の興味をそそる記事にも、今日ばかりは無味乾燥な株価推移と同じである。


 油を塗ったように……目が文面を勢い良く滑って行く。二行前に戻り、「今度こそは」と読み返すが、幾度繰り返しても必勝の方法は身に付かない。


「…………うぅ」


 看葉奈の脳裏を我が物顔で闊歩する女――萬代百花が、プライベートな時間すらも蹂躙しようと高笑いするようだった。


 お前に目付役は向いていない……。


 この程度で泣くんでは――やはり、目付役など到底無理だ……。


 私の言葉、よくよく考えな……。


 耳の奥から離れようとしない萬代の「叱言」は、時間が経つ毎に不気味な説得力を纏い、反響して看葉奈を小突いて回るようだった。


「はぁ……」


 雑誌を枕元に置き、仰向けになった看葉奈は、胸に触れて心臓の高鳴りを確認した。会計部での事件に比べ物静かであったが、萬代という人物の影響によるものか、未だに緊張を拭えずにいるようだった。




 やっぱり、目付役なんて高望みだったのかしら。




 目頭が――熱くならなかった。これまでの彼女なら目を潤ませて当然のダメージに、しかし看葉奈の涙腺はを始めていた。この反応に驚嘆した看葉奈は、「何故私は泣かないのか」と目頭に触れた。


 幼稚園児の頃から……看葉奈の渾名は「涙」に関するものばかりだった。毛虫を見ただけで目を潤ませ、転べば当たり前のように泣き出し、節分の時には園長扮した鬼を見て泣き喚いた。


 両親は「成長につれて泣かなくなるだろう」と楽観視していたが――娘が小学三年生になる頃、「今後、娘はに暮らしていけるのだろうか」と本気で心配する程だった。


 泣き虫、涙女、弱虫、ベソ掻き看葉奈……泣き濡れる渾名と共に暮らしてきた看葉奈だが、不可思議極まりない、唯一「泣かない」場面があった。


 一〇歳の秋、父親に教えられた《賀留多闘技》、これだけは幾ら負けようと悔しさに歯噛みしようと、涙を流す事は無かった。


 町内会が催す縁日に出向いた際、糸引きで当てた《八八花》が切っ掛けとなる。遊び方も知らない看葉奈の為に、やはりそれまで興味の無かった父親が手順書を買い求め、学び、娘に丁寧に解説した。


 教えられたのは《こいこい》だった。習い憶えた看葉奈は早速父親と打ち、しかしあっさりと負けてしまう。大人げない勝利に微笑んだ父親は、すぐに「不味い事をした」と顔を曇らせる。看葉奈が泣き出してしまうと思ったからだが……。


 意外にも、看葉奈は泣かなかった。唯悔しそうに、眉をひそめるだけだった。


「泣かないのか」と問うた父親に、看葉奈は黙したまま、再び札を集めて切り混ぜる。驚く父親を無視して……再び手八場八に札を撒いた。


「泣かないのか」


 もう一度問うた父親を、泣き虫の看葉奈はキッと睨め付け、震えた声で言い放った。


「泣いたら勝てない気がする」


 その後、親子は一二ヶ月、所謂「一年戦」を三度戦い、三度目に看葉奈が二〇文差を付けて勝利した。父親が手心を加えた訳でも無く、看葉奈が純粋に《こいこい》の立ち回り方を会得した故の結果であった。


 それから――親子は毎日座布団を囲むようになる。相変わらず看葉奈は意地悪な男子に泣かされたり、飛び込んで来た蛾に怯えたものの、しかし賀留多闘技の場では、手酷い敗北を喫しても、決して泣き出す事は無かった。


 看葉奈にとって、賀留多闘技の敗北は「泣いていられない程」に悔しく、腹立たしく、血気を増幅する特殊装置であった。


 やがて《こいこい》以外にも技法を次々に習得、その度に父親を大負けさせて「もう看葉奈とやっても面白くない」と彼がふて腐れた頃……。


 看葉奈は打ち場でのみ、自身を「泣き虫の自分」とを切り離す事に成功したのである。


「……駄目です、こんな事では」


 ベッドから起き上がる看葉奈。髪を結わえる事もせず、椅子に座って目を閉じ……思考を開始した。

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