第3話



「ほらよ」


 アフォガートは(一応確認しておくと)、バニラアイスと温かいコーヒーから構成されるイタリアのデザートだ。

「……」

「なんだよ、だから、そういう目で俺を見るんじゃないよ。これだろ? アフォガート」

 目の前に差し出されたのは、帆船の絵のついたチョコレート菓子の青い箱。

「わざわざ売店で買ってきたんだぞ。ほれ、食いなされ」

 ほら、これだ、と私は思う。

 耳が聞こえてようが、聞こえていまいが、結局人間は他人の話を聞かない。音としては聞こえているはずなのに、ちゃんと聞こうとはしないのだ。

「……」

 受け取り拒否、という手振りをしてみせる。彼は肩をすくめた。

「さいですか。まあ、話聞いてもらえないのには、慣れてるさ。俺の話なんて、誰も聞きたがらない。いつものことだ」

 中庭の壁にもたれて、彼は勝手に箱を開け、チョコレート菓子を食べ始めた。

「どうせ聞こえてないだろうから、言うけどさ。患者なんか、勝手なもんさ。善良な人もいるが、今じゃ横暴なのが大多数。『なんでできないんですか』。『なんでそんな態度なんですか』。なんで。なんで。そればっか。科学者かよ。『科学は疑問を持つことから始まる!』的なやつなの? くっだらね。どうせ理解しようとなんかしないくせにさ……自分に都合の良い答えが聞けるまでなんでなんでってごねてたいだけだよ、この手の奴らは。ったく、あの人……たかだか肺がんだろうがよ。そんなに肺がんになりたくないんなら、はじめっからタバコなんか吸ってんじゃないよ。しかも日に5箱って。バカかよ。頭がないのか。脳味噌の代わりに、絹ごし豆腐でも詰まってんのか。頭だけユニクロのマネキンとすげ替えたのかよ」

 人の喋り声で鼓膜が揺れるのはやはり不快だったが、ほんの少し興味を引かれたのは、彼の話す内容に、だった。私は横目で彼を見る。

「説明しても説明しても、わかろうともしないクソババアとクソオヤジ共にも、いい加減うんざりだわな。まず話を聞けっての。脳味噌のどっかにアドブロック機能でもインストールしてんのかよ。ったく。『でも……』じゃねえんだよ。こっちが懇切丁寧に説明してんのに、全く大前提の話からわかってねぇんだから頭来るわ。『自然に治ることはないんですか?』だ? 寝惚けてんのか? そんな夢物語あるわけねーだろ。あんたの息子は鬱と過労で階段から落ちて救急搬送されてんだぞ。薬と手術なしで勝手に治るかよ。そんなのはネズミ映画の中だけだっつの。真実の愛のキスなんか現実じゃ目薬にもなんねぇよ。てかよ、あんたがお友達と遊びほうけて自分の親に青臭い反抗してたような時期から、こっちは黙って死ぬほど勉強して医者になってんだってーの。その俺より賢いつもりかよ、あんたは。身の程弁えろボケ老人」

「……」

 どうしてだろう、と私は思う。

 どうして、そんなに身勝手なことをされて、まだまともに生きていられるんだろう。己の聴力を破壊することなく。

 愚痴を言い終えて立ち去ろうとする彼の、白衣の袖を掴む。

「え? 何。やっぱりチョコ食べたかったです、とかやめてくれよ? もう全部食べちゃったんだから」

「……なんで?」

「え?」

「なんで、そんなに……元気でいられるの?」

 彼は頭を掻き、「ま、どうせ聞こえないだろうけどね」と前置きをしてから、こう答えた。

「確かにみんな、俺の話を聞きたがらない。医者の話なんか、大概の奴には耳が痛いもんだからしょーがない。でも、言わなきゃいけないだろ。いつかは、誰かが。だから俺が言うんだよ。それが仕事だから。それだけ。胸焼けするような甘言振りまいてる奴なんざ、今の世の中腐るほどいる。けど、胸焼けや虫歯を治せるのはほんの一握りの奴だけだ。だからやんなきゃいけないの。良薬、口に苦し、ですよ。患者ちゃん」

 頭をぽんと叩くように撫ぜられる。

 そして彼は風のように白衣を翻して、目の前からいなくなる。私の耳には、徐々に世界の音が蘇りつつあった。中庭を吹きわたる風の音。廊下を駆ける忙しない足音。どこかから渡ってきた鳥の声。そして無数の、人の、声。


「……」


 そこら中で蟲のようにひしめき合う、やはり世界のノイズとしか思えないそれらに、思わずめまいがする。たぶん気のせいでなく、聞こえる言葉の質は、数年前にも増して酷くなっている。

 けれど。


「……ああ」


 私は、間違っていたわけではなかった。

 私の感覚だけがおかしいわけでは、なかったんだ。

 それを思うと、不思議とそれらの声は、世界の他の音たちと溶けあっていくように思われた。鳥のさえずりや風の音、雨音や雷鳴と同じ、ただの音。意味など、初めからなかったのだ。人の言葉だからといって、必ずしもそのすべてが、意味あるものというわけではない。雨が家屋をしとしとと濡らすように、風が木の葉をざわざわと揺らすように、彼らは生きているだけで、自らの音を――声を出さずにはいられないのだ。それだけのことだったのだ。

 私は生まれ変わったような心地で、中庭から見える四角い空を仰いだ。雲雀の声。穏やかな春が、もうすぐ来る。




 

 


 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

アフォガートと、誰も聞きたくない彼の話 名取 @sweepblack3

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ